ジョー・スタンカ

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ジョー・スタンカ
Joe Stanka
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オクラホマ州ハーモン郡
生年月日 1931年7月23日(82歳)
身長
体重
196 cm
96 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1950年
初出場 MLB / 1959年9月2日
NPB / 1960年4月13日
最終出場 MLB / 1959年9月5日
NPB / 1966年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ジョー・スタンカJoe Donald Stanka, 1931年7月23日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州出身の元プロ野球選手投手)。

来歴・人物[編集]

オクラホマ州生まれ。オクラホマ農工大学を経て、1950年ブルックリン・ドジャースと契約。長いマイナーリーグ生活を経て、1959年9月2日にシカゴ・ホワイトソックスMLB初登板を果たし、その3日後の9月5日にも登板し、MLB通算2試合で1勝を挙げた。この頃、当時副大統領リチャード・ニクソンはホワイトソックスの選手一同を招き、夕食を共にしたが、その時にスタンカを目ざとく見付け、「ハロー、ジョー。君が先週ホワイトソックスに上がったスタンカ君だね」とニコニコしながら語り掛け、当時の監督も「ニクソン氏ほど(野球に)詳しい人は珍しい」と知人に語ったほどで、スタンカも喜びの色を隠せなかったという逸話が残っている[1]

1960年前年の日本シリーズ読売ジャイアンツを4連勝で破り日本一に輝いた監督の鶴岡一人が、連覇に向けエース杉浦忠の負担を軽くするために、第2の投手の柱を熱望して、南海ホークスに入団。[2]。日本のプロ球団に3Aクラスの外国人投手が加入したのはスタンカが初で、当時の日本野球の技術レベルならば即20勝前後の働きが可能と判断しての獲得だった。 来日して記者会見を開いたとき、記者達は一様にその巨体に「大きい」と感嘆の声を挙げた。それを聞いたスタンカは、オクラホマ人を指す「オーキー」というスラングと勘違いし、「日本でも自分がオクラホマ出身だということはそんなに有名なのか」と錯覚したという[3]

来日1年目から先発で活躍し、「赤鬼」の異名を取った。 1961年の日本シリーズ第4戦で、1点リードの9回裏に杉浦忠をリリーフして登板。2死までこぎ着けたが、その後一塁の寺田陽介がフライを落球、三塁の小池兼司がゴロをファンブルするというエラーが重なり、満塁となる。ここで打席に入った宮本敏雄をカウント2ストライク1ボールと追いつめ、自信を持って投げ込んだ投球を円城寺満球審は「ボール」と判定した[4]。受けていた野村克也によると、セ・リーグの審判である円城寺がスタンカの投球を見慣れていなかったことと、自分が「終わった」と思って少し早めに腰を浮かせたことがその原因ではないかという。スタンカは円城寺に詰め寄って抗議したが判定は変わらず、次の球を宮本に痛打されてサヨナラ負けを喫する。この時、スタンカはバックアップに入ると見せかけて円城寺に体当たりを食らわせた。この敗戦が影響して(ただし、第5戦は勝利)、南海は日本シリーズに敗れる。この試合を見ていた商社マンが「円城寺 あれがボールか 秋の空」という川柳を色紙に認め、実業家に転身していたスタンカに贈った。その色紙は後年になってもスタンカの事務所に飾られていたという。また、後年テレビ番組の夫人を伴ったインタビューで、野村が「あれは僕のミスだった。スタンカは悪くない」と擁護するコメントを見た際には「彼とバッテリーを組んでいたことを誇り思う」と賛辞を送っている。

1964年には26勝を挙げてシーズンMVPに輝き、阪神タイガースとの日本シリーズでは第1・6・7戦で先発し3完封の離れ業をやってのけ、南海の日本一に大きく貢献。日本シリーズMVPも受賞した。阪神の監督藤本定義は「スタンカに3度もひねられたのが敗因」と語った[5]。翌1965年も先発投手として活躍したが、長男が自宅風呂場でガス事故死し不幸を断ち切りたいと帰国を決意し、南海を退団した。この年のスタンカ以降、ホークスの外国人投手の2桁勝利は長らく達成されず、D.J.ホールトンの登場まで44年を待たねばならなかった。

1966年大洋ホエールズで1年間プレーした。打撃も得意で、代打での出場もあり通算7本塁打放っている[6]

プレースタイル[編集]

2メートル近い長身から投げおろす重い速球が武器で、打者に威圧感を与えた。右打者への胸元へのシュートが威力があったとされ、チェンジアップ、スライダーを武器にしたが、反面シュートのかけ損ないをよく本塁打されていた。立ちあがりに難があり、左打者にもよく打たれていた。その名前から「スカタン」と野次られていた[7]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1959 CHW 2 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 22 5.1 2 1 4 1 0 3 0 0 2 2 3.38 1.13
1960 南海 38 35 11 4 1 17 12 -- -- .586 982 240.0 186 13 95 2 8 174 3 0 84 66 2.48 1.17
1961 41 39 9 2 0 15 11 -- -- .577 945 231.1 208 11 74 2 7 176 12 0 93 85 3.31 1.22
1962 38 35 5 0 1 8 10 -- -- .444 864 206.1 186 16 72 0 8 131 6 0 93 83 3.62 1.25
1963 34 29 7 4 1 14 7 -- -- .667 756 186.1 154 13 60 1 7 89 4 0 63 53 2.56 1.15
1964 47 43 15 6 3 26 7 -- -- .788 1117 277.2 221 28 80 0 3 172 8 0 93 74 2.40 1.08
1965 34 28 4 2 0 14 12 -- -- .538 723 172.2 172 19 57 2 4 76 0 1 69 63 3.28 1.33
1966 大洋 32 23 4 0 0 6 13 -- -- .316 616 144.2 153 14 44 4 6 69 1 0 75 67 4.17 1.36
MLB:1年 2 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 22 5.1 2 1 4 1 0 3 0 0 2 2 3.38 1.13
NPB:7年 264 232 55 18 6 100 72 -- -- .581 6003 1459.0 1280 114 482 11 43 887 34 1 570 491 3.03 1.21
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

NPB

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB

背番号[編集]

  • 36 (1959年)
  • 6 (1960年 - 1966年)

脚注[編集]

  1. ^ 伊東一雄. メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事. サンケイスポーツ. p. 143-144. 
  2. ^ スピードはこんなもん? “青い目の日本人”スタンカ、実は…
  3. ^ 出典:池井優『ハロー、スタンカ、元気かい――プロ野球外人選手列伝』(創隆社、1983年)
  4. ^ 最高の外角低目が…スタンカ激高! 宮本敏男、サヨナラ安打
  5. ^ 『週刊プロ野球データファイル』2012年48号、ベースボール・マガジン社、P32
  6. ^ 野球小僧remix プロ野球[外国人選手]大事典、白夜書房、2011年、P22
  7. ^ 南海ホークス刊『南海ホークス四十年史』290ページ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]