稲尾和久

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稲尾 和久
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県別府市
生年月日 1937年6月10日
没年月日 2007年11月13日(満70歳没)
身長
体重
180cm
80kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1956年
初出場 1956年3月21日
最終出場 1969年10月19日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
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選出年 1993年
選出方法 競技者表彰

稲尾 和久(いなお かずひさ、1937年6月10日 - 2007年11月13日)は、大分県別府市出身のプロ野球選手投手)・監督野球解説者評論家。通称「鉄腕」。愛称は「サイちゃん」。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

1937年、7人兄弟の末っ子に生まれる。漁師を継がせたいと考えていた父親の意向で、幼い頃からを仕込まれ、に出されていた。稲尾は当時について、「薄い板一枚隔てて、下は海。いつ命を落とすか分からない小舟に乗る毎日だったが、おかげでマウンドでも動じない度胸がついた」と後年に語っている。また、強靭な下半身はこの漁の手伝いによって培われたものと言われているが、稲尾本人は「バランス感覚は養われたかも知れないけど、下半身のトレーニングにはあまりなっていないよ」と否定している。

都市対抗野球大会で全国制覇した別府星野組に憧れて野球を始めた。星野組は西本幸雄が監督兼選手として率いた実業団チームであり、優勝後にオープンカーで別府市内をパレードをした。その観衆の中には少年時代の稲尾がいた。稲尾は「星野組はスターだった」と回顧している。中部中学時代のポジションは捕手で、同校の生徒会長を務めたこともあった。

[編集] 西鉄ライオンズ入団

1956年に大分県立別府緑丘高等学校(現:大分県立芸術緑丘高等学校)から西鉄ライオンズに入団した。高校時代の先輩に河村久文、同期入団に畑隆幸がいる。

高校時代は全く無名の選手で、南海ホークスが獲得に動いていると知って初めて西鉄も獲得に乗り出したという。この時南海とは一旦契約寸前まで話が進んだが、父・久作の「大阪に行くよりも、何かあればすぐに戻って来られる九州の方がいい」という言葉や、西鉄に高校の先輩河村がいたこともあり、西鉄入団を決意した。河村が西鉄経営陣に稲尾獲得を進言したとも言われている[1]

入団当初は注目された選手ではなく、監督の三原脩も「稲尾はバッティング投手(打撃投手)として獲得した」と公言していた。実際、島原キャンプでは中西太豊田泰光高倉照幸ら主力打者相手の打撃投手を務めており、口の悪い豊田からは「手動式練習機」とも呼ばれていた。この時、稲尾は各打者の打撃練習中に4球に1球ボール球を投げるように指示された(ストライクを投げ続けていると打者が打ち疲れてしまうため)。この4球のうちの1球をストライクゾーンのコーナーギリギリを狙って投げる練習をし、制球力を磨いた。キャンプ後半になると、投手として成長した稲尾の前に逆に打者が打ち取られる場面が増えたため、中西と豊田が三原に「稲尾を使ってみてほしい」と進言したという[2]

稲尾はオープン戦に登板したものの、スコアボードに「稲生」と間違って表示されるなど、未だ無名であった。しかしここで結果を残して開幕を一軍で迎え、開幕戦(対大映スターズ戦)で11-0と西鉄が大量リードで迎えた6回表から、河村の後を継いで2番手としてプロ初登板し4回を無失点に抑えた。その後もしばらくは敗戦処理などで登板していたが、投手陣の故障などから登板機会が増え、最終的には1年目から21勝6敗、パ・リーグ記録の防御率1.06という成績を残し最優秀防御率新人王のタイトルを獲得した[3]

日本シリーズでは、51年後の吉川光夫と共にシリーズ史上2人しかいない「パ・リーグ高卒新人投手として先発登板」を記録(セ・リーグ高卒新人では堀内恒夫石井一久)。

[編集] 神様、仏様、稲尾様

1957年にプロ野球記録となるシーズン20連勝を記録するなど35勝を挙げ、史上最年少でのリーグMVPに選出[4]1958年には33勝で史上初の2年連続MVPを獲得した[5]

読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは、第1戦を稲尾で落とし、第2戦も敗戦。平和台球場に移動しての第3戦、稲尾を再び先発に立てるも敗れて3連敗と追い込まれた。しかし翌日が降雨で試合が順延となった第4戦、三原監督は稲尾を先発投手に起用し、シリーズ初勝利。第5戦にも稲尾は4回表からリリーフ登板し、シリーズ史上初となるサヨナラ本塁打を自らのバットで放ち勝利投手となった。そして後楽園球場での第6・7戦では2日連続完投勝利し、逆転日本一を成し遂げた。実に7試合中6試合に登板し、第3戦以降は5連投。うち5試合に先発し4完投。優勝時の地元新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが踊った。三原はこのシリーズで稲尾を使い続けたことについて、「この年は3連敗した時点で負けを覚悟していた。それで誰を投げさせれば選手やファンが納得してくれるかを考えると、稲尾しかいなかった」と告白した。後年、病床に伏していた三原は、見舞いに訪れた稲尾に対し「自分の都合で君に4連投を強いて申し訳ないものだ」と詫びたが、稲尾は「当時は投げられるだけで嬉しかった」と答えている[6]

1959年も30勝を挙げ、史上唯一の3年連続30勝を記録した。中西や豊田、大下弘仰木彬らと共に、3年連続日本一(1956年 - 1958年)を達成するなど、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄黄金時代の中心選手として活躍した。本多猪四郎監督による映画「鉄腕投手 稲尾物語」が製作され、全国上映されている[7]日本シリーズには通算4回出場し、通算8回出場の堀内恒夫と並び日本シリーズ最多タイの通算11勝を挙げている。

1961年は78試合に登板(パ・リーグ記録)し、ヴィクトル・スタルヒンに並び史上最多タイとなるシーズン42勝(阪急11勝1敗、南海11勝2敗、大毎9勝4敗、近鉄6勝1敗、東映5勝6敗)を記録した[8]。なお、1961年当時、現在では42勝となっているスタルヒンの1939年の勝利数は40とされていた。スタルヒンの記録は当初42勝であったが、当時は勝利投手の基準が曖昧で記録員の主観で判定していた部分があり、戦後スコアブックを見直した際に明らかにスタルヒンに勝利を記録することが適当でないと思われる2試合があったため修正を行っていたのである。稲尾が41勝を達成したとき、マスコミも「新記録達成」と大きく報道、本人もチームが優勝争いから脱落していたこともあって勝利数に関しては「もういいだろう」と思っていたという。それでもあと2試合登板したのはシーズン奪三振記録(当時は金田正一の350)の更新に目標を切り替えていたため。この間に1勝を上積みし、シーズン42勝とした。
しかし、稲尾が「新記録」を樹立したことで改めてこの記録の扱いが議論に上り、最終的には「あとから見ておかしなものでも当時の記録員の判断に従うべき」という理由で再びスタルヒンの記録が42勝に変更された。それに伴い稲尾の記録もまた新記録からタイ記録へと変更された。結果的にあと1勝を上積みしたことによって稲尾はタイ記録に名を残すことができたが、稲尾は「それまでの記録が42勝と知っていれば、何が何でも43勝目を狙いに行っていただろう」と述懐している。

1962年8月25日、通算200勝を達成。25歳86日での達成は金田正一に次ぐ年少記録で、プロ入り7年目での達成は史上最速であった[9]

1963年も28勝を挙げて西鉄優勝に貢献。しかしマスコミの論調は28勝は稲尾にしてみれば「並の成績」という扱いだった[10]。同年からMVPはタイトルの日本語名が「最高殊勲選手」から「最優秀選手」に改められ、「優勝チームから選出」という制約が外されていた。この結果、西鉄が優勝し稲尾はその立役者だったにもかかわらず、MVPは当時のプロ野球新記録となる52本塁打を記録した南海の野村克也が選ばれた。

日本シリーズはON砲が開花した巨人に初めて敗北を喫したものの、一本足打法を会得して一気に中心打者に成長した王貞治(このシリーズでもタイ記録となる4本塁打を放った)に関しては、微妙にステップを遅らせるフォームを猛練習することにより11打数1安打とほぼ完璧に抑えている。ただし、王は稲尾については「タイミングをずらすフォームよりも、外角のボールゾーンからストライクゾーンに入ってくる絶妙にコントロールされたスライダーが印象強かった」と語っている。

この年まで、プロ入りから8年連続で20勝以上を挙げ、「鉄腕」の名をほしいままにした。この8年間の平均登板数は66試合、平均の投球回数は345イニングである。

[編集] 現役晩年

しかし、それまでの酷使がたたって肩を故障し、1964年はプロ入り後初めて1勝も挙げられないシーズンとなった。

1966年に肩の故障を機にリリーフに転向し、同年最優秀防御率のタイトルを獲得した[11]。なお、10月4日の対東京オリオンズ戦を75球で完投し、オリオンズの小山正明投手も87球で完投、合計162球の最少投球数試合の記録を作った。1969年限りで現役を引退(実働14年)。稲尾自身は通算300勝を目標としており、リリーフや中継ぎならまだ現役を務められるという意識を持っていた。球団からの監督就任要請後も、黒い霧事件の発覚で投手を失う可能性も出ていたため、選手兼任を望んでいたが、悪化するばかりの状況の中で引退を余儀なくされた[12]。黒い霧事件で主力投手が抜けてしまった頃、引退間もない稲尾は本気で現役復帰を考えたという。稲尾が現役時代に着けていた背番号24は、1972年に西鉄の永久欠番となった。そのため監督時もそのまま背番号24を着用していたが、翌1973年、親会社の身売りにより失効。稲尾もこの年から背番号を81に変更している。

[編集] 引退後

引退翌年から、ライオンズの監督に就任した。32歳での監督就任は専任監督として最年少である。「黒い霧事件」のため次々と主力を失い、球団が西日本鉄道から福岡野球株式会社に売却される(太平洋クラブは、ネーミングライツによる冠スポンサー)という中で指揮をとり、3年連続最下位になるなど低迷した。

ただし後に大投手となる東尾修加藤初を酷使と批判されながらも若手時代に積極的に起用した。1973年には、太平洋球団フロントが話題作りにと画策した「ロッテとの対立を演出する」という営業方針に、ロッテ監督の金田正一からの誘いに応じる形で同意したが、関係者の予想を上回る反応をよび「遺恨試合」とまで呼ばれる事態に至った(ライオンズとオリオンズの遺恨を参照)この演出を画策した当時の球団専務である青木一三は金田にのみアイディアを話したと著書に記している[13]。しかし、1974年に球団がポスターにドン・ビュフォードが金田を乱闘で押し倒した図柄のポスターを作成する(警察の要請を受けて回収)と「何も乱闘まで営業材料にする必要はあるまい」と、球団の経営方針に相容れないものを感じるようになっていたという[14]。同年オフ、青木一三の「東尾か加藤をトレードに出す」という方針に反対したところ、後日「来季の監督は江藤君に決めたから」として解任された[15]

1974年シーズンオフに太平洋クラブライオンズ監督を退任する。1975年からRKB毎日放送の解説者となる。主にRKBラジオでの太平洋クラブ・クラウンライター戦の解説を務めた[16]。他、時折キー局・TBSラジオ制作の全国中継に出演する事もあった。1978年から1980年まで中利夫監督の下で中日ドラゴンズ投手コーチを務め、2年目の1979年には藤沢公也が新人王になっている。

1979年に知人の日本航空パイロットからの誘いで「日本航空棒球隊」総監督になり、何度も中国に赴き中国チームとの親善試合、技術指導をしていた。その縁で、亡くなる直前の2007年9月29日、日本航空羽田上海虹橋線就航セレモニーの特別ゲストとして祝辞を述べていた。1981年、中日コーチを辞任しRKB・TBSに復帰。1982年に大阪に移り、1983年まで朝日放送ABCラジオ)で野球解説者を務めた。

1984年からロッテオリオンズ監督を務める。埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡に移転させる条件で監督要請を受諾したが、移転は行われることなく、1986年限りで退任。この間に肘の手術明けだったエース村田兆治を毎週日曜日に中6日で登板させる起用法をとった。それに応えて開幕から11連勝した村田は以降「サンデー兆治」と呼ばれるようになった。

1987年にロッテオリオンズ監督を退任し、完全にユニフォーム生活から引退した後には日刊スポーツ野球評論家、再び朝日放送の解説者を務め、2000年からは再びRKB毎日放送の専属解説者を務めた。RKBでは、テレビの夕方ワイド番組『今日感テレビ』にもコメンテーターとして出演した。1993年野球殿堂入り。

2001年プロ野球マスターズリーグが発足すると福岡ドンタクズの監督としても活動した。この時に後輩であり愛弟子でもある池永正明を表舞台に久々に登場させ、彼の復権に大きな力を発揮した。2006年に長らく沢村賞選考委員を務めていたが、委員長の藤田元司が亡くなったことを受け、委員長を務めた。

2007年10月2日、故郷の別府市に完成した別府市民球場内に「稲尾記念館」が開館した。記念館には稲尾が現役時代に使用したスパイクやトロフィー、写真などの資料が展示されている他、現役時代の稲尾の姿をかたどった銅像も建立されている。10月14日のクライマックスシリーズ第1ステージ第2戦が最後の解説となった。晩年は体調面の問題もあり、現場第一線から離れつつ『今日感テレビ』にはぎりぎりまで出演を続けていたが、体調不良を理由に10月29日に行われた沢村賞の選考会議に欠席(意見書は書面で提出していた)。

10月30日に手足の痺れを訴え、福岡市内の病院に入院。当初は検査をしても原因が判明しなかったという。11月13日午前1時21分、悪性腫瘍のため死去[17]。70歳没。死去当日の『今日感テレビ』では急遽追悼特番が組まれた。

12月11日に日本政府は多年に亘る稲尾和久の日本野球界への貢献、そして野球ファンに感動と勇気を与えたその功績を称え、死去した11月13日付で稲尾に旭日小綬章を授与することを閣議決定した。12月29日にヤフードームで西鉄ライオンズOBによる追悼試合が行われた。

[編集] プレースタイル

[編集] 投球術

足の裏を全て地面に付けず、爪先で立つように投げるフォームは、漁師であった父の仕事の手伝いで、小船で櫓を漕ぎ続けていたことによって得たものだといわれている。1961年にプロ入りして中日ドラゴンズのエースとして活躍した権藤博は、「稲尾さんのコピーを目指した」という程、稲尾のフォームを手本にしたという。しかし、肩を痛めて以降は腕を強く引くことができず、かかとを上げるだけのゆとりが持てなくなってこのフォームは出来なくなった、と稲尾自身が自分の投球フォームの分析時に語っている。

後年は「ささやき投法」でも知られた。これはマウンド上から「じゃあ次はここではどうかな」「そうか、外角は捨ててるんだな、じゃあ…」などと聞こえるように独り言を言うことで打者の集中力を霍乱するものであった。また細い目は打者にどこを狙っているのかを分からなくさせるのに役立ったという。

同じ投球フォームから直球・変化球を投げ分けることができた。得意の球種はシュート、スライダー。当初稲尾はマスコミに「自分の決め球はスライダーである」と吹聴していたが、実際はスライダーは見せ球で本当の決め球はシュートであった。これを見抜いていたのは野村克也(南海)だけだったという[18]。また、リリースポイントの直前に握りを変え、シュートとスライダーを投げ分けることもできたという。しかし、スライダーも屈指のもので、青田昇も「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは、藤本英雄、稲尾和久、伊藤智仁の三人だけ」と評価している。

この他に、フォークボールも習得していたが、これは榎本喜八を打ち取るためだけに習得したもので、榎本との対戦以外では1球も投げなかった。稲尾は榎本について「対戦した中で最高にして最強のバッター」と評しており、当時20歳前後で打率3割を打ったこともなかった榎本に、打者としての只ならぬ雰囲気を感じ、フォークボールを投げ始めたという。その後、実際に榎本はリーグを代表する打者になった。稲尾は「シュートもスライダーもきれいに打たれてしまうので、榎本さんにだけはフォークを投げた。たったひとりのバッターを抑えるために新しいボールを覚えなければならなかったんです。榎本さんとの勝負だけは野球をやっている感じがしませんでした。スポーツではなく真剣勝負、そう、果たし合いだったような気がします」と語っている[19]。また、フォークボールについては「榎本さん限定で1試合5球だけ」としていたという[20]

現在では一般的な投球術となっている、相手打者を打ち取る球から遡って配球を組み立てる、いわゆる「逆算のピッチング」を編み出したのも稲尾とされている。これを会得したのは、1958年の日本シリーズ第6戦における長嶋茂雄との対決だったという。また、同シリーズで「長嶋は何も考えず、感性で体が投球に反応している」と気づいた稲尾は、自分も長嶋の体の微妙な動きから瞬時に狙い球を読みとり、球種を変更するという作戦で押さえ込むことに成功した[21]

外角のコントロールに優れていたが、特に主審が浜崎忠治の時はボール2、3個外れてもストライクとなった。これを他チームは稲尾-浜崎ラインと呼んで恐れた[22]

ある大学が「プロの投手の集中力と精神力」を調査するため、稲尾を含む西鉄投手陣に、捕手の構えるところに正確に、続けてボールを投げ込むことができるかどうか、という実験を依頼した。稲尾は外角低め、外角高め、内角低め…と、何十球も連続して捕手の構えるところに、少しもミットを動かせることなくボールを投げ込み続けた。この制球力を見て他の投手は「やっていられるか」と呆れ、実験の参加を辞退したという。

マウンド上のマナーが優れていたことで知られる。イニングが終わり相手投手にマウンドを譲るときは必ずロージンバッグを一定の場所に置き、自分の投球で掘れた部分を丁寧にならしていた。対戦した杉浦忠はこれに感銘し、以後真似するように努力したという。その杉浦忠は「しかしどうしても、私はピンチの後などにマウンドのことなど忘れてしまうことがあったのだが、稲尾は一回たりとも荒れた状態のマウンドを渡したことはなかった」と振り返り、マウンドマナーを絶賛している。

[編集] 起用法と記録

当時「エース」と呼ばれる投手は先発・リリーフの双方をこなすことが当たり前で、週2・3回の登板や連投も珍しくなかった。稲尾が42勝を挙げた1961年には登板78試合(パ・リーグ記録)のうち先発で30試合、リリーフで48試合に登板している。当時は中3日で「休養十分」と見なされていたが、この年の稲尾は中3日以上空けて登板した試合はわずか18試合に過ぎなかった。逆に3連投4回を含め連投が26試合ある。

それに加え、三原脩監督が稲尾を重点的に起用する方針を採ったため、米田哲也梶本隆夫阪急ブレーブス)、土橋正幸東映フライヤーズ)といった同世代のエースと比較しても稲尾の登板試合数は極端に多い。米田と土橋は共に63試合が最高で、60試合以上登板したのも共に2シーズンだけであり、梶本は68試合が最高だが60試合以上登板したのはその1シーズンのみである。これに対して稲尾は60試合以上登板したシーズンが6シーズン、そのうち70試合以上登板したシーズンが4シーズンある。

稲尾の重点起用で西鉄が3年連続日本一という結果を出して以降、稲尾や杉浦忠南海ホークス)、権藤博中日ドラゴンズ)など酷使が原因で選手寿命を縮める投手が相次ぎ、これがきっかけで先発ローテーション制を整備する動きが見られるようになった。

[編集] 人物像

幼少時に父の漁を手伝ったときに関西汽船の客船をよく見かけ、「自分も大きくなったら船長になりたい」と思っていたという。その後2007年6月にダイヤモンドフェリーの新造船「さんふらわあごーるど」の名誉船長に就任し、同年7月の同船の進水式にも参加した(ただし『さんふらわあごーるど』は稲尾の故郷である別府航路ではなく大分航路に就航している)。

体はごついが、優しい目をしているサイに似ていたほか、私生活がサイのようにゆったりとしていたことから、親しみを込めて『サイちゃん』[23]と呼ばれていた。

杉浦忠とのエース対決となった、平和台野球場での対南海戦。8回裏に先制の2ラン本塁打を放った稲尾は、ベンチに帰るなり「『鉄腕稲尾のひとり舞台、投げて完封・打って2ラン』。明日の新聞の見出しはこれで決まり!」と口走った。これに中西太が「野球は1人じゃ出来ない」と反発すると、豊田泰光もこれに同調。直後の9回表、先頭打者がサードに転がすと中西が取り損ね、続く打者をショートゴロ併殺打に打ち取ったと思ったら、今度は豊田がトンネルする。稲尾は「わざとエラーをしたんじゃないか」と、中西と豊田に疑いの目を向けるが、2人とも「わざとじゃない」と言うばかりだった。その後は送りバントを自ら捕って二塁ランナーを三塁で封殺、続けて仰木彬へのセカンドゴロ併殺打に打ち取って試合を決め、完封勝利を収めた。後年、稲尾は同エピソードについて「『野球は一人でやるものじゃない』の意味が分かった。これが西鉄の愛の鞭だと思った」と話していたが、この時は中西と豊田のエラーについて疑いが消えなかったため、三原脩監督に事の経緯を報告。中西と豊田は試合後に「誰かからわざとエラーするように指示されたのか?」と三原に怒られたという。

同郷の後輩である大島康徳を「ヤス」と呼んで弟のように可愛がっていた。また、ロッテ監督時代の教え子だった落合博満から、良き理解者として慕われていた(詳しくは落合の項を参照)。

2005年、仰木彬が亡くなり、プロ生活の大半を過ごした関西地方(場所は神戸市)でお別れ会の話が出た時に「福岡(福岡県)は仰木さんの故郷で親類や知人も多い。神戸まで足を運べない人の為にも」と福岡・神戸でのお別れ会同時開催を提案。この心遣いに、遺族や親類・知人からは惜しみない賛辞が贈られた。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績





















































W
H
I
P
1956 西鉄 61 22 6 3 1 21 6 -- -- .778 981 262.1 153 2 73 4 8 182 2 1 47 31 1.06 0.89
1957 68 33 20 5 3 35 6 -- -- .854 1419 373.2 243 14 76 8 7 288 1 2 72 57 1.37 0.87
1958 72 31 19 6 4 33 10 -- -- .767 1432 373.0 269 8 76 9 4 334 2 0 74 59 1.42 0.94
1959 75 30 23 5 2 30 15 -- -- .667 1568 402.1 300 14 82 17 9 321 1 0 86 74 1.66 0.97
1960 39 24 19 3 3 20 7 -- -- .741 973 243.0 211 15 51 4 4 179 0 0 80 70 2.59 1.09
1961 78 30 25 7 6 42 14 -- -- .750 1554 404.0 308 22 72 20 6 353 3 0 93 76 1.69 0.96
1962 57 29 23 6 7 25 18 -- -- .581 1276 320.2 281 27 56 8 4 228 1 0 98 82 2.30 1.06
1963 74 34 24 2 5 28 16 -- -- .636 1558 386.0 358 26 70 9 10 226 1 1 121 109 2.54 1.13
1964 6 2 0 0 0 0 2 -- -- .000 59 11.1 18 2 9 0 0 2 0 0 13 13 10.32 2.38
1965 38 25 13 2 1 13 6 -- -- .684 869 216.0 191 16 50 3 4 101 0 0 71 57 2.38 1.13
1966 54 11 2 2 1 11 10 -- -- .524 711 185.2 134 11 23 1 5 134 0 1 45 37 1.79 0.87
1967 46 9 3 1 0 8 9 -- -- .471 513 129.0 114 11 22 3 5 87 1 0 40 38 2.65 1.09
1968 56 14 2 1 1 9 11 -- -- .450 754 195.0 168 22 32 2 5 93 0 0 68 60 2.77 1.05
1969 32 10 0 0 0 1 7 -- -- .125 399 97.0 92 9 27 2 2 46 0 0 36 30 2.78 1.25
通算:14年 756 304 179 43 34 276 137 -- -- .668 14066 3599.0 2840 199 719 90 73 2574 12 5 944 793 1.98 1.01
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

[編集] 年度別監督成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1970年 西鉄
太平洋
6位 130 43 78 9 .355 34 137 .225 4.12 33歳
1971年 6位 130 38 84 8 .311 43.5 114 .231 4.31 34歳
1972年 6位 130 47 80 3 .370 32.5 110 .242 4.12 35歳
1973年 4位 130 59 64 7 .480 3位・4位 116 .239 3.58 36歳
1974年 4位 130 59 64 7 .480 3位・4位 90 .235 3.46 37歳
1984年 ロッテ 2位 130 64 51 15 .557 8.5 149 .275 4.22 47歳
1985年 2位 130 64 60 6 .516 15 168 .287 4.80 48歳
1986年 4位 130 57 64 9 .471 13 171 .281 4.34 49歳
通算:8年 1040 431 545 64 .442 Aクラス2回、Bクラス6回
  • 西鉄(西鉄ライオンズ)は、1973年に太平洋(太平洋クラブライオンズ)に球団名を変更

[編集] タイトル

  • 最多勝:4回 (1957年、1958年、1961年、1963年) ※パ・リーグ記録
  • 最高勝率:2回 (1957年、1961年)
  • 最優秀防御率:5回 (1956年 - 1958年、1961年、1966年) ※最多記録。3年連続受賞も最長記録。
  • 最多奪三振(当時連盟表彰なし):3回 (1958年、1961年、1963年) ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰

[編集] 表彰

[編集] 記録

プロ野球記録
  • 同一シーズン20連勝(1957年)
  • 20連勝(1957年、松田清とタイ)
  • 月間11勝(1962年8月)
  • シーズン42勝(1961年。ヴィクトル・スタルヒンとタイ)
  • シーズン30勝以上:3年連続含む4度(1957年 - 1959年、1961年。回数、連続回数ともプロ野球記録)
  • シーズン20勝以上:8年連続8度(1956年 - 1963年。8年連続はパ・リーグ記録、デビューからの8年連続はプロ野球記録。8度は米田哲也鈴木啓示と並ぶパ・リーグタイ記録)
  • シーズン20故意四球(1961年)
パ・リーグ記録
  • 通算勝率.668
  • 通算防御率1.98
  • シーズン353奪三振(1961年)
  • シーズン78試合登板(1961年)
  • シーズン防御率1.06(1956年、新人記録)
  • シーズン404投球回数(1961年)
  • シーズン358被安打(1963年)
日本シリーズ記録
  • 通算9完投
  • 通算11勝(タイ記録。他に堀内恒夫
  • シリーズ6試合登板(1956年、1958年、シリーズタイ記録。他に中村大成藤田元司土橋正幸村山実小林繁。2度記録したのは稲尾のみ。1956年はシリーズの全ての試合に登板)
  • シリーズ4完投(1958年、タイ記録。他に杉下茂
  • シリーズ4勝(1958年、タイ記録。他に杉浦忠
  • シリーズ47投球回数(1958年)
  • シリーズ30被安打(1958年)
  • シリーズ32奪三振(1958年)
  • シリーズ26イニング連続無失点(1958年、通算記録としても歴代2位)
  • シリーズ12自責点(1963年、タイ記録。他に山田久志が2度)
オールスターゲーム
  • オールスターゲーム出場:7回 (1957年 - 1959年、1961年 - 1963年、1966年)
  • シリーズ10奪三振(1958年、2試合シリーズ記録)

[編集] 背番号

  • 24 (1956年 - 1972年)
  • 81 (1973年 - 1974年)
  • 63 (1978年 - 1980年)
  • 71 (1984年)
  • 72 (1985年 - 1986年)

[編集] 関連情報

[編集] 著書

[編集] 映画

[編集] 出演番組

[編集] CM

  • キリンビール「キリンシャウト」(1994年) - 架空の球団「シャウト」の監督で出演。エースピッチャー役の原田芳雄に「そろそろ変化球も覚えろよ原田」というセリフを投げかけていた。

[編集] 脚注

  1. ^ 河村の著書『西鉄ライオンズ-伝説の野武士球団』や映画『鉄腕投手 稲尾物語』でも語られている。
  2. ^ 後に豊田泰光は週刊ベースボールの連載コラム(稲尾追悼回)にて「稲尾が打撃投手としてとられたというのは嘘。三原監督は早くから稲尾に注目しており、また投手はまず打撃投手をさせるのが監督のやり方だった」と述べてもいる。当時の日本プロ野球は、専業の打撃投手を置く球団がまだ存在せず、選手の中から事実上の打撃投手をやりくりしていた、という事情もあった。
  3. ^ 年度別成績 1956年 パシフィック・リーグ
  4. ^ 年度別成績 1957年 パシフィック・リーグ
  5. ^ 年度別成績 1958年 パシフィック・リーグ
  6. ^ 鉄腕はヘトヘトに疲れていた…西鉄、奇跡の大逆転V裏話
  7. ^ サイちゃん主演映画「鉄腕投手 稲尾物語」がクランクイン
  8. ^ 年度別成績 1961年 パシフィック・リーグ
  9. ^ 鉄腕稲尾和久、最速達成 たった7年で200勝
  10. ^ この年の西鉄優勝を報じた読売新聞は「『稲尾頼り』から脱皮」というコラムを掲載している。
  11. ^ 年度別成績 1966年 パシフィック・リーグ
  12. ^ 2004年にNHK衛星第1テレビジョンで放送された「スポーツ大陸 よみがえる熱球第7集「二つの引退」」のインタビューで自ら述べている。
  13. ^ 『ここだけの話 プロ野球どいつも、こいつも…』ブックマン社、1989年、P138 - 140。
  14. ^ 稲尾和久『神様、仏様、稲尾様』日本経済新聞社2002年、P227。
  15. ^ 『神様、仏様、稲尾様』P228。
  16. ^ 当時、RKBラジオの野球中継の広告に書かれたタイトルは、『稲尾和久のRKBエキサイトナイター』だった(ただし、解説者は稲尾の他に野口正明もいた)。
  17. ^ 稲尾和久急逝 恩師の死に落合博満は…ライバル野村克也は…
  18. ^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年5月12日号20ページ『「ノムラの教え」に耳を傾けろ』
  19. ^ Number』468号(1999年4月22日号)
  20. ^ 「打撃の神髄 榎本喜八伝」(講談社
  21. ^ 2004年放送のNHK衛星第1テレビジョン「スポーツ大陸 よみがえる熱球第2集「背番号「3」燦々」でのインタビューより。
  22. ^ 大沢啓二談、『サンデーモーニング週刊 御意見番TBS系)、2007年11月18日
  23. ^ この愛称を最初に呼び始めたのは先輩の河村と和田博実である(新貝行生『鉄腕稲尾の遺言』弦書房より)。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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