小林一三
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| こばやし いちぞう 小林一三 |
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| 生年月日 | 1873年1月3日 |
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| 没年月日 | 1957年1月25日(満84歳没) |
| 出生地 | 山梨県 |
| 職業 | 実業家、プロデューサー |
| 主な作品 | |
| 「青い真珠」 「生きる」 「港へ来た男」 「太平洋の鷲」 「さらばラバウル」 「七人の侍」 「潮騒」 「ゴジラ」 「恋化粧」 「ゴジラの逆襲」 「獣人雪男」 「生きものの記録」 「空の大怪獣ラドン」 「蜘蛛巣城」 |
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小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3日 - 1957年(昭和32年)1月25日)は日本の実業家。阪急電鉄・阪急百貨店・阪急東宝グループの創業者。山梨県出身。慶應義塾卒。阪急ブレーブス、宝塚歌劇団の創始者としても知られる。
鉄道に加えて「乗客は電車が創造する」という言葉を残し、鉄道沿線の住宅地開発・百貨店経営など幅広く関連事業を経営し、沿線地域を発展させながら鉄道事業との相乗効果を上げる、今日の私鉄経営のビジネスモデルの原型を作った一人である。
明治期には若尾逸平、根津嘉一郎ら山梨県出身の実業家が郷土意識に基づく緩やかな資本提携により経済界や東京府政に影響力を持ち甲州財閥と呼ばれているが、小林一三は関西を中心に活動した地方財閥と見なされているため、甲州財閥とは区別されている。
目次 |
[編集] 来歴・人物
山梨県巨摩郡河原部村(現在の韮崎市)の商家に生まれた。生まれてすぐ母が死去、父とも生き別れたため、おじ夫婦に引き取られた。
高等小学校から成器舎を経て後に上京し、1888年(明治21年)2月福澤諭吉が学長の慶應義塾に入る。在学中には山梨日日新聞において小説「練絲痕」を連載している。そして卒業後の1892年(明治25年)には三井銀行(三井住友銀行の前身)に勤務。34歳まで勤め、東京本店調査課主任にまで昇進した。日露戦争終結後、三井物産の大物である飯田義一や、かつての上司で北浜銀行(三菱東京UFJ銀行の前身のひとつ)を設立した岩下清周に誘われ、大阪で岩下が設立を計画する証券会社の支配人になるために1907年(明治40年)、大阪へ赴任。しかし恐慌に見舞われ証券会社設立の話は立ち消えてしまい、妻子を抱えて早速失業することになった。その頃に小林は箕面有馬電気鉄道の話を聞き、電鉄事業の同社には有望性があるとして岩下を説得し北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功。1907年(明治40年)6月に箕面有馬電気軌道と社名を改めて同年10月に設立されると、小林は同社の専務となる。もともと阪急電鉄の前身となる箕面有馬電気鉄道は、鉄道国有法によって国有化された阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)の関係者が福知山線に並行する電気鉄道路線を敷設し、大阪の梅田から箕面・宝塚・有馬方面へ頻発運転を行うことを目的として設立されようとしていたが、おりしも恐慌に見舞われて、全株式の半分も引き受け手が無いといった苦境に追い込まれていた。
しかし社長は不在であったため、小林が経営の実権を握ることになった。そして1910年(明治43年)に開業しているが、有馬までの開業ではなく、現在の宝塚線・箕面線に相当する区間にとどまっている[1]。これに先立って線路通過予定地の沿線土地を買収し、郊外に宅地造成開発を行うことで付加価値を高めようとし、1910年(明治43年)に分譲を開始した。小林には、この時すでに「大衆向け」住宅の発想があったのか、サラリーマンでも購入できるよう、当時はまだ珍しかった月賦方式による分譲販売を行い成功を収めた。
同年11月には箕面に動物園、翌年には宝塚に大浴場「宝塚新温泉」(宝塚温泉の武庫川対岸であったことからの命名)、そして1914年(大正3年)4月には、当時人気を得ていた三越の少年音楽隊を模して宝塚唱歌隊、後の宝塚歌劇団を創り上げ、沿線を阪急グループの聖地といわせるほどに発展させていく。沿線開発はそのまま乗客の増加につながり、続いて神戸方面への路線開業に動き出すのを機に会社名を阪神急行電鉄と改め(「阪急」の略称はこの時より始まる)、神戸本線などを建設し、大阪・神戸間の輸送客の増加とスピードアップを図った。これらの経営が現在の阪急を創り上げる支えとなる。1927年(昭和2年)に小林は社長に就任した。
また1920年(大正9年)には日本ではじめてのターミナル・デパートを設ける計画をすすめる。路線の起点となる梅田駅にビルを建設し、1階に東京から白木屋を誘致し開店、2階に阪急直営食堂を入れた。次いで「阪急マーケット」と称した日用品販売店を2・3階に入れ、1929年(昭和4年)3月にはついに「阪急百貨店」という直営百貨店を新ターミナルビルの竣工に合わせて開店させた。鉄道会社が直営で百貨店を経営するなどといった事例は海外にも無く、その前途に疑問を持つものも少なくなかったが、小林は「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」、「便利な場所なら、暖簾が無くとも乗客は集まるはず」などと言って事業を推し進め、世界恐慌のさなか多くの客を集めることに成功する。さらに、客のことを考えた事業姿勢には定評があったといわれ、阪急百貨店における「ソーライス」の逸話などが、現在にも伝わっている。なお、阪急百貨店は1947年に分離独立し直営ではなくなったが、以後も文化的なつながりを保ち、ブランドとも言える「阪急」のイメージを確立し続けている。
この百貨店事業の成功は、1932年(昭和7年)の東京宝塚劇場、1937年(昭和12年)の東宝映画の設立(1943年に両者は合併し、現在の「東宝」となる。)といった興業・娯楽事業、1929年(昭和4年)に六甲山ホテルの、1938年(昭和13年)の第一ホテルの建設・開業といったホテル事業など派生事業の拡充にも更なる弾みを付ける契機となり、阪急グループの規模は年々拡大の一途を辿った。
その一方で、日本で3番目のプロ野球球団である宝塚運動協会(1929年解散)のように、先進が過ぎて失敗した事業もある。しかし小林の野球への情熱は深く、1934年(昭和9年)に大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)が、翌1935年(昭和10年)に大阪タイガースが、1936年(昭和11年)に名古屋軍が結成されるなど企業による球団設立が相次ぐと、小林は同じ年に「大阪阪急野球協会」を設立した。これが阪急職業野球団、のちの阪急ブレーブスである[2]。小林が遺した娯楽事業は数多くあるが、小林は「私が死んでもタカラヅカとブレーブスだけは売るな」と言い残したと言われている[3]。
これらの施策は多くの私鉄に影響を与え、その中でも目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)の総帥五島慶太、伊豆箱根鉄道・西武多摩湖線・近江鉄道の堤康次郎は、小林の影響を強く受けている。
阪急社長を1934年(昭和9年)に辞任後、同社グループの会長に就任し(1936年辞任)、さらに東京電燈に招かれて副社長・社長を歴任。電力戦で設備が余剰気味になり放漫経営に陥っていた東電(東京電燈)の経営を立て直し、昭和肥料(現在の昭和電工)の設立にも関わった。
小林は近衛文麿に接近し、第二次近衛内閣で商工大臣となる。近衛は当初岸信介を商工大臣に考えていたが、岸は財界の人間を大臣として自らは次官にとどまることを希望したため小林が大臣となった。しかし統制経済もしくは計画経済論者の革新官僚の代表格である岸と資本主義的財界人である小林は強く対立し、小林は岸をアカであると批判した。企画院事件で企画院の革新官僚ら数人が共産主義者として逮捕されると岸は辞職せざるをえなくなる。しかし岸は軍部と結託し、小林が軍事機密を漏洩したとして反撃、小林も辞職、雑誌に『大臣落第記』を寄稿した。
終戦後は幣原内閣で国務大臣を務めたが、第二次近衛内閣で商工相だったことで公職追放となった。1951年(昭和26年)に追放解除となった後は東宝の社長になるが、1957年(昭和32年)1月25日、池田市の自宅にて急性心臓性喘息で死去した。
私鉄主導による沿線開発を提言した小林であったが、当時から経営の自主性の不在など問題点が指摘されていた国鉄に関しても、すでにこの段階で「民営にすれば開発事業も可能で、資金調達も自由に行なえ、創意と責任のもと積極的な経営ができる」と民営化すべきとの発言を行うなど、生涯、論客としても知られた。
実業界屈指の美術蒐集家、また茶人としても知られ、集めた美術品の数々は、彼の雅号をとって「逸翁(いつおう)コレクション」と呼ばれている。これらを集めた「逸翁美術館」が、彼の旧邸・雅俗山荘があった大阪府池田市にある。近代日本料理の創始者とも言われる湯木貞一と親交が深く、彼が開いた料亭吉兆の初期の頃からの客であった。上客でもあったため、当時の料亭内では小林を「神様」と呼んでいた。
[編集] 「われ関せず」
親友で同じ慶應出身者であり、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門によると、小林の性格は「腹が決まってからのことには、何事も動じない」というものだった。また、自分に直接関知しないことには無関心であったとも言われている。
1930年代、福澤諭吉が作った時事新報が経営危機に陥った際、慶應卒業生の有力者が挙って時事新報を救うために出資や負債の引き受けなどを行った。鐘紡元社長の武藤山治や松永もその一人であり、松永は小林に時事新報救済のための協力を要請したところ、小林は「慶應と縁があっても私と縁のない時事新報にわざわざ金を出すのか?」とばかりに拒絶。松永こそ苦笑で済ませたものの、他の慶應OBから批判が殺到した。小林は時事新報の先行きがどう転んでも好転しないことを見通していたと言われ、先行きのない企業に投資は出来ないと言うことで拒絶したのであったが、そうと理解する慶應OBは少なかった。事実、時事新報は1936年に東京日日新聞と合同した。
また、1938年に五島慶太が私怨で当時、幹部が慶應閥で占められていた三越株を買占めしようとした際、小林は三井銀行・三菱銀行の幹部に会って五島を兵糧攻めにする作戦を進言。買占めに躍起になっていた五島は、慶應閥に顔が利き己が崇拝している小林に「外堀」を埋めてもらおうと小林に会ったが、逆に「蛙が蛇を飲み込むより無理ではないか?」と突き放され、資金調達すら行き詰った五島は結局、小林・三越・三井・三菱の「慶應連合軍」に降参した。
時事新報のときと同様、先行きのないことには賛同しない姿勢が出たものであったが、一方で、当時企業買収に夢中になっていた五島の頭を冷やす目的で、敢えて突き放したとも言われている。五島は後に京浜電気鉄道、東京地下鉄道の買収に成功し、後者のやはり甲州閥であり、また小林を模範としていた早川徳次を悶死に追い込んでいるが、小林はこの件には9割9分タッチしていない。唯一関わったことは、早川からの調停の依頼とそれに対する拒絶の返事だった(拒絶された早川は、次に根津嘉一郎(初代)に調停を依頼したが、根津が急逝して東京地下鉄道は五島の東京高速鉄道に屈した)。
[編集] 家族・一族
- 長男・冨佐雄
- 次男・辰郎
- 三男・米三
- 次女・春子
- 親戚
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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