篠原貴行

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篠原 貴行
横浜DeNAベイスターズ #34
Takayuki Shinohara, pitcher of the Yokohama BayStars, at Yokohama Stadium.JPG
2011年4月29日 横浜スタジアム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県福岡市東区
生年月日 1976年9月7日(35歳)
身長
体重
178cm
80kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1997年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 1998年4月8日
年俸 1,200万円(2012年)
経歴(括弧内は在籍年)

篠原 貴行(しのはら たかゆき、1976年9月7日 - )は、横浜DeNAベイスターズに所属するプロ野球選手投手)。

目次

[編集] 来歴・人物

[編集] プロ入り前

広島県広島市生まれ、福岡県福岡市育ち。幼少期よりぜんそくに悩まされ、小学4年生時より体力をつけるためにと両親が勧めた野球を始める。高校での甲子園出場経験は無く、社会人でも都市対抗野球や全日本選手権など全国大会へ出場する機会が無かった[1]。しかし速球が知られ、地元のダイエー(現ソフトバンク)を逆指名し、1997年ドラフト2位で入団[1]

[編集] ダイエー・ソフトバンク時代

ホークス時代の篠原(2009年)

細身の身体ながら、キレのある速球一本で打者を抑え込む投球で1年目から頭角を現し51試合登板した。

2年目の1999年にはセットアッパーとして活躍。キレの良い速球は「わかっていても打てない」と言われた。また勝利投手の権利を先発から取ってしまうことが多く、同僚の工藤公康からは『死神』とあだ名をつけられた。また篠原が投げると負けないことから「不敗神話」と話題にもなった[1]9月25日、リーグ優勝を決めた対日本ハム戦で中継ぎ登板のみでの14連勝を記録した。同年ルーキーの松坂大輔と最多勝を争っていたが、消化試合の近鉄山本和範の現役最終打席に決勝本塁打を打たれて敗戦投手になり、勝利数では松坂に及ばなかった。シーズン60試合に登板し防御率1.25、14勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得。ダイエー初のリーグ優勝、日本一に貢献した[1]

2000年にもセットアッパーとして活躍、9勝を挙げてチームのリーグ連覇に貢献した。ただし、後半戦から勤続疲労の影響が見られるようになり、打ち込まれる場面が多くなる。この年のオールスターには監督推薦での出場が確実視されていたが、王貞治監督による疲労への気遣いから推薦されなかった。同年オフに先発転向に挑戦。同オフに開いた結婚披露宴では、王監督から「今年の9勝と同じ数字を来年は先発であげて欲しい」と激励を受けた。その後チェンジアップフォークボールの習得に励むが、投球フォームを崩す。以降、怪我で苦しむことになり、公式戦では一度も先発していない。2002年怪我の回復とともに、左膝が地面すれすれになるほど重心を低くした新しいフォームに改造。しかし防御率0点台を記録するが一軍登板は19試合にとどまり[1]、このフォームが原因で腰に故障を抱える。

2003年シーズン前半は腰の故障で棒に振るものの、後半に一軍昇格。オールスター出場を果たす。その後ストッパーとしてチームのリーグ優勝、日本シリーズ制覇に貢献した[1]。かつての速球で押す投球からスライダーなど変化球を駆使し[1]、防御率2.32、10Sと安定した投球を見せた。9月30日ロッテ戦(千葉マリン)で胴上げ投手になっている[1]。この年は腰の痛みを和らげるためのブロック注射を打ちながら登板を重ね、翌年以降の不振につながった。

2004年2005年は左肩故障などでほとんど登板できなかったが[1]2006年からは再び中継ぎ投手として活躍したが、三瀬幸司馬原孝浩の台頭もあり徐々に登板機会が減った[1]。2006年7月5日西武戦(ヤフードーム)では延長12回裏2死の場面でフリオ・ズレータの代走として出場(控えの野手を全て使い切ったため)。またこれが王監督休養前の最後の采配となった。2008年はシーズン中盤あたりに一軍登録され主に対左のワンポイントリリーフとして登板したが、制球が悪く、四球でランナーを出して降板するなど安定しなかった。

2009年は左肘を故障し[1]一軍登板なし。同年10月3日戦力外通告を受けた[1][2]。手術から十分に回復していなかったためトライアウトにも参加できなかったが[1]11月27日にかつてダイエー投手コーチを務めた尾花高夫が監督に就任した横浜ベイスターズに入団することが決まり年俸1200万円+出来高の1年契約[3]

[編集] 横浜時代

2010年は左の中継ぎとして期待されたが、打ちこまれることも多く結局20試合登板、2勝0敗、防御率はプロ最低の11.70という結果であった[1]2011年は、リーグ記録にあと1試合と迫る37試合連続無失点を記録するなどシーズン通して好調で、左のセットアッパーとして自己最多の67試合に登板し、先発投手が手薄なチームに貢献した[1]。オフにFA権を取得し、行使した上での残留を表明した。

[編集] プレースタイル

若手の頃はキレのある速球中心の豪快な投球であったが、故障により一度フォームを崩してからは、スライダーを主体に変化球で打ち取る技巧派へ転身している。ストレートの球速は平均140km/h前半、スライダーの他にカットボールチェンジアップなどを投げ分ける。
左のワンポイントリリーフで起用されることが多い。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績





















































W
H
I
P
1998 ダイエー
ソフトバンク
51 0 0 0 0 2 4 3 -- .333 240 55.2 51 2 31 2 1 47 2 0 28 28 4.53 1.47
1999 60 0 0 0 0 14 1 0 -- .933 301 79.1 46 5 25 4 1 80 3 0 11 11 1.25 0.89
2000 57 0 0 0 0 9 3 2 -- .750 308 76.1 64 11 18 2 2 43 2 0 28 27 3.18 1.07
2001 33 0 0 0 0 3 0 0 -- 1.000 192 41.2 52 4 17 0 0 28 3 0 31 29 6.26 1.66
2002 19 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 82 21.2 10 0 7 1 0 20 2 0 2 2 0.83 0.78
2003 30 0 0 0 0 1 4 10 -- .200 159 42.2 30 3 5 2 1 40 0 0 12 11 2.32 0.82
2005 1 0 0 0 0 0 0 0 1 ---- 1 0.1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0.00 0.00
2006 50 0 0 0 0 0 1 0 12 .000 152 34.1 38 3 13 1 0 32 0 0 13 13 3.41 1.49
2007 37 0 0 0 0 0 3 2 6 .000 110 26.2 22 3 9 2 0 18 0 0 12 11 3.71 1.16
2008 21 0 0 0 0 0 0 0 7 ---- 63 14.0 16 0 5 0 0 11 1 0 5 5 3.21 1.50
2010 横浜 20 0 0 0 0 2 0 0 2 1.000 54 10.0 20 2 4 0 1 5 2 0 13 13 11.70 2.40
2011 67 0 0 0 0 1 0 0 17 1.000 175 44.0 37 2 12 0 1 35 0 0 10 9 1.84 1.11
通算:12年 446 0 0 0 0 32 16 17 45 .667 1837 446.2 386 35 146 14 7 360 15 0 165 159 3.20 1.19
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

[編集] タイトル

[編集] 表彰

  • 月間MVP:2回 (1999年9月、2000年5月)

[編集] 記録

[編集] 背番号

  • 16 (1998年 - 2009年)
  • 34 (2010年 - )

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 野球浪漫 篠原貴行『週刊ベースボール』2011年11月28日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-11/28, 48-51頁。
  2. ^ ソフトBが篠原、本間、的場に戦力外通告
  3. ^ 篠原「投げまくりたい」=横浜移籍で記者会見-プロ野球

[編集] 関連項目

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