清原和博

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清原 和博
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基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府岸和田市
生年月日 1967年8月18日(46歳)
身長
体重
188 cm
110 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手
プロ入り 1985年 ドラフト1位
初出場 1986年4月5日
最終出場 2008年10月1日 (引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

清原 和博(きよはら かずひろ、1967年8月18日 - )は、大阪府岸和田市出身の元プロ野球選手内野手)、野球評論家。 現役時代は西武、巨人、オリックスで活躍した。愛称は、「番長」である。

経歴[編集]

小学生~中学生時代[編集]

実家は電器店(東芝ストアー)を経営。父(阪神ファン)以外の家族は巨人ファンであり、その影響で自身も巨人ファンとして育った。1974年に巨人は中日ドラゴンズにV10を阻止され、翌年は広島東洋カープにリーグ優勝をさらわれた。家族が応援する巨人が2年連続で優勝を逃したことが、野球に入っていくひとつのきっかけであった。

1974年、岸和田市立八木南小学校に入学。ここで野球を始め、岸和田リトルリーグの部員募集ポスターを見て入団テストを受け、岸和田リトルリーグに入団。毎日祖父から100円を貰い練習をしていた(この頃に金銭を貰って野球をする感覚を覚えた)。

1977年、6年生ばかりのレギュラーに混じり唯一4年生でレギュラーを獲得。その後投手としても才能を発揮し、6年生の最後の試合ではエースで4番を務め、完全試合を達成した。

その後、岸和田市立久米田中学校に進学すると共に、岸和田シニアリーグに移り、中学2年生にしてキャプテンとして関西シニアで優勝を果たす。3年時には日生球場のネットを揺らす本塁打を放った。

高校時代[編集]

高校は30校近いスカウトの中からPL学園高校を選ぶ。天理高校かPL学園かどちらに行くかで悩んでいたが、両校の練習を見学した際に、毎年100人前後の部員を抱える天理高では3年生が練習をし、1年生が球拾いをしているのに対し、少数精鋭をとるPL学園では学年に関係なく同じメニューの練習ができることが決め手となった。また、清原の母親が奈良県出身で地元の強豪の天理で甲子園に行ってほしいと幼少のころから言われ続けていて、本人もそのつもりでだったが、後にPL学園の在阪スカウトの方から「小学生時代から目をつけていた。ぜひPLの練習を見に来てほしい。」と熱心に勧誘され、心が揺らいだとも語っている。入学当初は投手を希望していたが、同期の桑田真澄の傑出した実力を知り、「 (桑田には)絶対勝てない」と野手を選んだ(新入部員が最初に集まった際に、清原は名の通っていた桑田を探しその姿を発見すると「なんだ、こんな小さい奴か」と思ったが、実際の投球を見て驚嘆し、PL学園で投手になることを断念したと後にコメントしている)。一方桑田はこの時、清原をはじめ自分よりも一回りも二回りも体格のいい選手たちがたくさんいたことで自信をなくし、高校野球では通用しないかもしれないと思っていたという。

当時はバッティング練習の際には飛距離の出ない竹バットを使用していたが、それでもネットを軽々越えて場外に飛ばしていたために、清原用の金網が継ぎ足されたという逸話が残っている。このネットは清原ネットと呼ばれていた。

全国から精鋭の集まるPL学園野球部にあって1年生から4番に座り、エース桑田と共に甲子園に5季連続出場を果たす。1年生のに優勝、2年生のは共に準優勝、3年生のはベスト4、3年生のは2度目の優勝を経験している。

特に清原と桑田はKKコンビと呼ばれ、後には桑田清原世代と呼ばれるようになるこの世代を代表する人物となった。後にプロ入りした松山秀明(元オリックス)、今久留主成幸(元横浜大洋西武)、内匠政博(元近鉄)も、共に活躍した。

個人としても甲子園通算13本塁打を放つなど、高校通算64本塁打を記録。3年夏の決勝戦でこの試合2本目、1大会の新記録となる5号を放った際、アナウンサー植草貞夫は「甲子園は清原のためにあるのか!」と実況した。3年生春の対浜松商戦と同年夏の東海大学山形高等学校戦 (共に大量得点差のついた最終回) では監督に懇願し、投手として登板させてもらった。

豪快な本塁打など、試合での活躍が多くの伝説を生んだが、練習に対する姿勢も真摯であった。そのエピソードとして、3年春のセンバツ準決勝で伊野商渡辺智男に3三振と完璧に抑えられ、チームも3-1で敗れた際は試合後ベンチで涙を流したが(高校三年間で唯一甲子園大会の決勝に進むことができなかった)、その日学校に戻ってからの夜、監督の中村順司が誰もいないはずの室内練習場に明かりがついているの見つけて中をのぞいてみると、上半身裸の清原が、湯気のような汗を流しながら一人で黙々とバッティング練習をしていたという。

西武時代[編集]

子供の頃から熱烈な巨人ファンで甲子園球場での伝統の一戦をいつも楽しみにしていた清原は、読売ジャイアンツあるいは阪神タイガース入りを熱望し、両軍が自身への交渉権逃した場合には社会人野球日本生命硬式野球部へ加入する事を表明していたが、巨人は早稲田大学進学を表明していた桑田をドラフト1位で強行指名。当の清原は南海ホークス日本ハムファイターズ中日ドラゴンズ近鉄バファローズ西武ライオンズ、阪神の6球団から1位指名を受けた(KKドラフト事件)。もし巨人に入団できなければ、同じセントラル・リーグで実家から近い阪神を希望するも、抽選の結果、西武が交渉権を獲得。ドラフト会議直後の記者会見では、失意で涙を溜めた姿が放送された 後に自宅で泣く清原を見て、母親が「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい。男なら見返してやりなさい。泣いてる暇なんてないはずやで!」と言い聞かせ、プロに入り巨人を見返してやるとの思いを強くした。当の清原も著書で、当時の巨人が投手整備が急務だったこと、巨人側が確実に1位指名をすると確約していたわけではなかったことを認めている。ただ、その当時の自分は若く、その事実を認めることができなかったと述懐している。

清原はそのまま西武に入団、背番号は3。ルーキーイヤーの1986年、開幕2戦目の南海ホークス戦の6回表の守備から途中出場すると、第1打席では四球、第2打席には藤本修二からプロ初安打となる初本塁打を打つ。試合は2対4で負けたがなおも大喜びしていたため、「味方の負け試合でそんなに天真爛漫に喜ぶやつがあるか」と怒られてしまったという。打たれた藤本は試合後のインタビューで「ホームランよりもその前の打席で誘い球にも手を出さず、ベテランのようにきっちり四球を選んだことのほうが驚きだった」という内容の言葉を残している。その後はスタメンに定着して打ち続け、後半戦だけで20本塁打をマークし、9月には高卒新人初となる月間MVPを受賞した[1]。10月7日のロッテ戦で初の4番に抜擢され、その試合で1点ビハインドの6回、田子譲治から高卒新人史上最多の31本目の本塁打を放って1959年の桑田武に並ぶ新人本塁打記録の最多タイ記録を達成[1]。桑田は達成時は23歳、清原は19歳であった[1]。同点で迎えた7回には二死二塁の場面でプロ初の敬遠も経験した[1]打率.304及び打点78も同じく高卒新人の歴代最高記録[2]で、新人王に選出された。その年の日本シリーズには8試合全てに4番・一塁で先発出場し、日本一に貢献している。この年流行語大賞を獲った「新人類」の代表のように言われ、工藤公康渡辺久信と表彰式に出席した。

1987年の日本シリーズでは、王貞治監督率いる巨人と対戦。西武3勝と大手をかけていた第6戦では、清原の先制2ランホームランなどで3対1とリードし、9回ツーアウトになった時、ファーストの守備についていた時に涙を流し、試合が一時中断となった。清原は自著の中で「9回、ファーストから、三塁ベンチの巨人の選手、王さんの姿が見え、ドラフトのことを思い出し涙が止まらなくなった」と述べており、セカンドの辻発彦になだめられた。この試合に先発し9回のマウンドに立っていた工藤公康は、試合後のインタビューで「(あと1アウトで胴上げ投手だったので)どんなガッツポーズをしようか考えていたのに、アイツ(清原)が泣きやがってそれどころじゃなくなった」と答えつつも、「あの涙は本当に美しかった」と語っていた。

森祇晶監督在任中の9年間でリーグ優勝8度、日本一6度を成し遂げ名選手を多数輩出した「西武黄金時代」の4番に君臨、3番・秋山幸二とのコンビはAK砲と呼ばれた。88年はタイ・バンバークレオも入って、「AKB砲」となる。89年以降はオレステス・デストラーデが加わりAKD砲となる。森は清原の能力と人柄を非常に高く評価しており、西武監督退任時に、「清原は年々、野球への考えがどんどん進歩してきている」とのべている。清原を一年目から一軍レギュラーで使うことにはコーチ陣や野球評論家でもかなり異論があり、当時評論家だった野村克也は「清原は一年目は一軍では使えない」というほどだった。しかし森はそれらの異論をはねつけてあえて清原を使いつづけ成功した。当時西武の一軍打撃コーチだった土井正博は「今だから何でも言えるけれど、清原を二軍スタートさせようと言い張ったのは森さん自身。ところがオーナーのバックアップがあると知ったら、ガラリと態度を変えて、自分が我慢して使ったと言う。毀誉褒貶の激しい人だった。」と述べている[3]。清原も自分をプロとして育ててくれた森のことをのちの野球人生で出会った長嶋茂雄仰木彬とともに名監督として深く尊敬し、森が2005年に野球殿堂入りしたときは一番に駆けつけて祝辞を述べ、森がハワイに移住後も家族ぐるみの付き合いが続いている。

かつては王貞治を超えるのは清原しかいないとまで言われ、入団4年目の1989年6月4日には史上最年少となる21歳9ヶ月での100号本塁打を達成。3年後の1992年6月26日には同じく史上最年少となる24歳10か月で200号本塁打を達成した。引退後、西武時代は毎年自らの年度ごとの通算本塁打数を王のそれと比較していたと語った。

年に数試合は三塁を守り、日本シリーズのセ・リーグの本拠地での試合でも、普段は指名打者のデストラーデが一塁、清原は三塁を守った。

1989年には優勝争いの真っ只中の9月23日、対ロッテ戦で、4回に平沼定晴から受けた死球に怒り、バットを放り投げ乱闘を起こしたとして初の退場処分を受け、パリーグから即日「厳重戒告・制裁金30万円・2試合出場停止」の処分が下された。[4]このため、前日まで続いていた清原の連続試合出場は490でストップした。[4]

1990年オフ、当時としては史上最年少となる23歳で1億円プレイヤーとなった。

1993年5月3日の対ロッテ戦(西武球場)で、伊良部秀輝との対戦時に当時の日本球界最速の158km/hのストレートを投げられた(最後は157km/hのストレートをセンター前に打ち返し、対戦は清原に軍配が上がった)[5]。清原はこの時の事を度々回想している。

1986年から1988年まで、1990年から1994年までの8度のリーグ優勝、6度の日本一(1986年 - 1988年、1990年 - 1992年)に貢献。日本シリーズでは一度もMVPは獲れなかったが1986年、1988年は優秀選手に、敗戦した1993年、1994年は敢闘賞に選ばれている。

なお、西武入団時は自分に合うサイズのヘルメットがなく困っていたところ、たまたま1980年に同球団で引退した野村克也のヘルメットを発見し、これがピッタリ合ったため着用。その後、引退まで23年間チームが変わる度に色を塗り直しながらこのヘルメットを使い続けた。

巨人時代[編集]

1996年にFA宣言。阪神監督・吉田義男の「(ユニフォームの)縦縞を横縞に変えてでも…」、巨人監督・長嶋茂雄の「僕の胸に飛び込んできなさい」という口説き文句が話題となった。5年契約で念願の巨人に移籍し、背番号は長嶋が自らの永久欠番3を譲る考えも明らかにしたが、「5」に決定(後に契約金は阪神の方が倍近く高かったが長嶋監督の心の広さに感銘した、とTV番組で明かしている、当時阪神で背番号3をつけていた八木裕も清原加入の際は同番号を譲る意思を表明していた)。なお、このことで一塁を守っていた当時43歳の落合博満が出場機会を求め日本ハムに移籍。巨人退団会見で落合は「清原と勝負して負けるとは思わないが、(落合と清原の)どちらを使うかで悩む監督の顔は見たくない」というセリフを残している。3番・松井秀喜とのコンビはMK砲と呼ばれた。後に高橋由伸が加わりMKT砲となる。

1997年は開幕から4番を務め、開幕3試合目に移籍第一号となる本塁打を放って、西武時代の終盤と遜色ない成績を残すものの、シーズンを通じて阪神の4番・桧山進次郎と三振数を争い、当時のリーグ新記録152三振を記録、[6] (桧山は150三振)、求められたものが大きかったためか一時は応援ボイコット(応援歌・コールなし)も受けた。最終的には.249、32本塁打、95打点の成績で、本塁打、打点は前年よりも上回った。しかし、勝負どころで相手チームが松井秀喜を敬遠、清原勝負を選択、清原が凡退した結果敗戦した試合もあるなど、数字以上に、大いに期待外れの印象を残してしまった。巨人はこの年、優勝戦線から早々に離脱し、清原自身プロ入り初のBクラスのシーズンを終えた。

1998年前年の反省から、長年の神主打法からの大幅な打撃フォーム改造を敢行した。セ・リーグの厳しいインコース攻めに対応するため、より最短距離で球を捉えようと、これまで垂直気味に立てていたバットを寝かせ、グリップも一握り余すなどプライドを捨ててまで清原は再起に懸けていた。そうして3番清原、4番松井で始まったシーズン当初、膝の故障もあって不振に苦しむ松井とは対照的に、清原は打撃改造の甲斐あって絶好調。4月は広島の前田智徳を抑え月間首位打者で終えるなど順調なスタートを切り、4番の座を松井から奪い取った。しかし、左太腿肉離れなど故障もあって次第に調子を落としていった。結局、清原はこの年100試合近く4番を打ち.268、23本塁打、80打点の成績を残し、原辰徳の12年連続を上回り、プロ入りから13年連続20本塁打の日本記録を達成したが、この年以降は常に下半身の故障に悩まされることになる。

1999年は開幕から怪我に悩まされ、阪神タイガース藪恵壹からの死球で左手を亀裂骨折。更に6月には広島戦でクロスプレーの際に右足靭帯を負傷。出場試合数は86試合、成績は.236、13本塁打、46打点にとどまり、前年までの「連続20本塁打記録」は13年で途切れてしまった(ただし、右足の負傷は膝側副靭帯断裂という重症であり、手首亀裂骨折とあわせ強行出場を続けさせた球団の姿勢にも疑問が上がった)。いよいよ土俵際となった清原はオフに鹿児島・最福寺にて護摩行を行った後、アメリカに飛び筋力トレーニング(「肉体改造」)に励む(詳細は後述)。

2000年もキャンプ中に肉離れを起こし、プロ入り初の開幕二軍スタートとなった。その際、巨人のオーナーであった渡邉恒雄には「(清原が一軍にいないことで)勝利要因が増えたな」とまで言われた。しかし、7月7日の復帰後初打席で代打3ランを放ち復活をアピール。7月12日の毎年恒例の札幌シリーズ(札幌市円山球場)では先発メンバー入りし、場外本塁打でプロ入り通算400号本塁打を達成[7]。夏場にはレギュラーの座に返り咲き、75試合の出場で.296、16本塁打を記録。この年、モデルの木村亜希と結婚している。また、この頃ようやく禁煙に踏み切った。[8]

2001年は5年契約の最終年であり、これまでの成績から契約更新は絶望的であるといわれていた。しかし、開幕から大きな怪我をすることなく打ち続け、特にチャンスに滅法強く終盤まで打点王争いをするなど、打率.298、29本塁打、121打点と好成績を残し(打点は自己最多)、年俸大幅アップと4年契約を勝ち得た。

2002年も開幕から好調であったが、故障のため戦線離脱。シーズン終盤には復帰し55試合出場に終わるが、.318、12本塁打と一定の成績は残した。この年の開幕第2戦(巨人-阪神: 東京ドーム)で400号本塁打達成時に目標にしていた尊敬する長嶋の現役通算本塁打数「444」本に並ぶ。またそれは試合当日、解説を担当していた長嶋の目の前で放った。故障を押して出場した日本シリーズでは松坂大輔から本塁打を放つなど巨人の日本一に貢献した。8月23日には長男が誕生した。

2003年は前年オフに松井移籍数日後、燦々会の会合で原辰徳監督に早々と4番に指名され、故障に悩まされ続けながらも打率.290、26本塁打を記録。5月18日の対阪神戦で下柳剛安藤優也から本塁打を放ち門田博光を抜いて本塁打を打った投手が185人でトップに立ったりして記録を作ったが、シーズン後半にはロベルト・ペタジーニが4番を打つことが多くなり、(ただ、ペタジーニも規定打席不足)清原は主に5番を打ち114試合、341打数と評価の分かれるシーズンとなる。なお7月5日PLの2年後輩で中日の立浪和義が先輩清原に先んじて通算2000本安打をドームの巨人戦で達成、その際一塁守備に就いていた清原が花束贈呈し、祝福。

2004年はペタジーニとの併用で出場試合数が減少。史上31人目、巨人の選手では落合以来6人目の2000本安打を達成するが、成績は.228、12本塁打と低迷。シーズン終了後には堀内恒夫監督の戦力構想から外れたことが判明し、退団の危機に陥ったが、滝鼻卓雄新オーナーに「編成権は監督にあるのか、フロントにあるのか」と直談判、巨人には契約があと1年残っていたこともあり、なんとか残留を果たす。残留決定の際、「泥水をもすする覚悟で精一杯プレーしたい」とコメントした。この年の秋には、後述するオリックスやセ・リーグのあるチーム(交換相手は投手)から巨人にトレードが打診され、オーナー辞任直後の渡邉恒雄が特に清原放出に積極的だったが、これらは成立しなかった[9]

2005年は400m日本記録保持者、東海大学陸上競技部コーチの高野進から走法の指導を受け、下半身の強化に努めた。また、ダイヤのピアスを両耳に付けて試合に臨んだ。これは一般にメジャーリーガーであり、尊敬してやまないバリー・ボンズにあやかったと受け取られていたが、実際には後に自らの著書「男道」で「巨人軍に契約交渉の席で煮え湯を飲まされ、その悔しさを忘れないために刺青の代わりにつけた」と述べている。このピアスに関しては巨人OBをはじめ、他球団のOBからも評判は悪く、野村克也など苦言を呈す人も多かった。なお、元来巨人は茶髪、ひげ、ピアスなどは禁止であったが、当時の監督堀内もキャンプでは無精ひげを生やし、タブロイドには「お山の大将同士の冷戦」と揶揄された。

それでもこの年開幕4番を任され、4月14日の対阪神戦で福原忍から本塁打を放ち、本塁打を打った投手の人数が200人に到達(史上初)した。4月29日の対広島戦 (広島市民球場) で広池浩司から本塁打を打ち、史上8人目の通算500本塁打を達成。その後もしばらくは本塁打、打点の暫定2冠王で、打率も一時は.269まで上昇、 オールスターゲームにも出場し、本塁打を放った。しかし、チームは相反する様に開幕からなかなか勝てない日々が続き、清原自身も交流戦の対オリックス戦で山口和男から頭部への死球を受け、下半身の故障なども重なって成績は徐々に低迷。結局この年は張本勲に並ぶ入団以来20年連続2桁本塁打、2年ぶりの20本塁打以上を記録するも、打率は自己最低となる.212と清原自身も満足な結果とはならなかった。

ケガから復帰した8月4日の対広島戦では、4回表に本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周した後、ベンチで堀内やコーチ、選手とのハイタッチを拒否した。7番打者で起用されたことに激怒したとされているが、この本塁打が巨人時代最後の本塁打となってしまった。

結局は左膝半月板損傷の怪我と、ハイタッチ拒否事件で自ら孤立したため[10]、シーズン終了を待たずに球団から戦力外通告を受け、12月に正式に自由契約選手として公示された。

清原は巨人からの戦力外通告について引退の翌年に関西テレビで放送された『男の一升瓶』という清原を特集した特別番組で、「視聴率が取れなくなったからという理由で辞めさせられるのは悔しい」とPLの後輩である片岡篤史らに語っており、同番組内にて「巨人は富士山と一緒で、遠くから見れば綺麗だが登ってみるとゴミだらけ」と発言をした。前述のような「視聴率低下は清原のせい」ということを巨人首脳陣が本当に言ったのかどうかについての信憑性は確認されていないものの、これらのような発言をしてしまうほど、巨人時代の清原は様々な心労や苦悩が絶えなかった。清原の巨人時代は否定的な意味で語られることが多く、巨人在籍中にはマスメディアや世論やファンからの様々なバッシングに晒され続けたものの、「巨人に入団して後悔しているか」との質問に対しては「NO」と即答しており、「巨人時代の苦労が自分自身を成長させてくれた」と語っている。また、著書の一つである「反骨心」では「巨人に入って苦労はしたが、人生最高の時だと思えることが何度もあった」と書かれてある。尚、同年監督を辞任した堀内は週刊ポストで「清原は野球に向かない。団体競技である野球に進んだのが間違い」と批判している。

オリックス時代[編集]

巨人から戦力外通告を受けた2005年シーズン終了後、オリックス・バファローズのシニアアドバイザーである仰木彬が「大阪に帰って来い。お前の最後の花道は俺が作ってやる」と何度も説得し、オリックス入団を決意した。仰木は以前から清原を買っていた。仰木が近鉄の監督1年目だった1988年、10.19の死闘の末西武との優勝争いに敗れ、その後清原擁する西武が中日との日本シリーズを制し、清原は日本シリーズ優勝後のインタビューで「これで近鉄の選手の皆さんに顔向けができます。」と語った。これを観た仰木は「なんて男気のある奴なんだ」と心を打たれ、以来、ことあるごとに清原に声を掛けていた。直後に仰木は肺癌による呼吸不全で他界してしまったが、なおも清原は仰木を「野球界で最も尊敬する人物」と語っている。しかし、オリックス入団の決断は仰木の死去後に下されたため、「他球団からのオファーが無かったことを確認してからオリックス入りを決めたのではないか」との批判もなされた。本人は「入団は決意していたが、膝の具合をみて自分が戦力になるかどうか判断したかった」と否定している。仰木は近鉄との球団合併前年のブルーウェーブ時代、2004年オフにも熱心に清原を勧誘し、巨人の球団代表らと直接会ってトレードの交渉をしていた[11]

背番号は巨人時代に引き続き「5」(当初は西武時代の3と巨人時代の5を足した8も用意されたが、8は同年入団の中村紀洋が着けた)。入団会見では「ヒットにせよデッドボールにせよ、塁に出てチームの勝利に貢献したい」と新たな決意を語った。 当時体重は120kgに達していたが、2か月足らずで約20kgの減量をした。また球団が吉本興業と業務提携を結んでいることから、中村らと共によしもと新喜劇にも出演した。

2006年、開幕後しばらくは清原の持ち味であるセンターからライト方向へのヒットや四球が目立った。5月21日の対阪神戦に代打で出場し、満塁で中前適時打を放って史上8人目の通算1500打点を達成。5月26日の対横浜戦で通算517号となる3号ソロ本塁打を三浦大輔から右翼席に放ち、史上12人目の4000塁打を達成。翌5月27日の対横浜戦では、9回裏に4号逆転サヨナラ満塁本塁打をマーク・クルーンから放ってチームを勝利に導いた。なお、このサヨナラ本塁打で野村克也の持つ通算サヨナラ本塁打記録11本に並んだ。7月23日のオールスターゲーム第2戦では8回2死走者なし代打で登場し、藤川球児と対戦、あと1本と迫っていたオールスターゲーム最多本塁打記録を狙ったが、空振り三振に倒れている。8月29日の対西武戦で長田秀一郎から10号サヨナラ本塁打を放つ。この本塁打で21年連続2桁本塁打を達成し、通算サヨナラ本塁打(12本)及び通算サヨナラ安打(20本)でプロ野球歴代単独トップに立った。一方で、死球を受けた後日、死球についてインタビューされた際に「もしそういうことがあれば命をかけてマウンドに走っていき、そいつを倒したいと思う」と報復を宣言したともとれる発言をしたため問題になった。9月2日の対ロッテ戦で初回に清水直行から11号3ラン本塁打を放つが、これが現役最後の本塁打となった。

2007年もキャンプ中に左ひざを痛めて離脱し、2月28日に左膝の軟骨除去手術を行う。交流戦での復帰が報道されたこともあったが回復具合は思わしくなく、7月6日に神戸市内の病院で左膝に移植手術をし、この年はプロ入り以来初めての一軍試合出場なしに終わった。

その後記者会見で、「桑田の、メジャーでの頑張りを見てたらね、桑田がこんなに頑張ってるんだからって思うし、僕も現役を続行したい」と宣言。「普通の選手ならこんな大手術を認めてもらえないのに、球団にはそれを認めてくれた事に感謝している」と語っている。2007年12月10日に契約更改を行い、野球協約による減額制限 (40%)を上回る45%・9000万ダウンの1億1000万円の単年契約でサインした。

2008年7月31日、532日ぶりに一軍に合流。しかし、8月2日に記者会見を開き、「こんな状態なので、来年はグラウンドに立てないと思う」と話し、同年限りでの現役引退を事実上表明した。この1日に、清原関連の球団グッズは5000万円を売り上げた。これはオリックス全選手1年分の売り上げに相当するという。

8月3日の対福岡ソフトバンクホークス戦で7回に代打で695日ぶりに登場したが、大隣憲司の前に空振り三振。翌日の同戦でも再び代打で登場し三瀬幸司のストレートをセンター前に打ち復帰後初のヒットを打った。

8月18日、西武ドームでの対埼玉西武ライオンズ戦終了後、「現役選手として最後の誕生日を、ここ(西武ドーム)で迎えられて嬉しかった」と語り、同年限りでの現役引退を決めていることを明らかにした。

9月29日、プロ入りから11年間を過ごした西武ドームでの西武とのカード最終戦終了後、グラウンドに出てライトスタンドの西武ファンの清原コールに応えた後、オリックスと西武の両軍選手が清原を胴上げするというセレモニーが行われた。西武時代のチームメイトで、合宿所で同部屋だったこともある監督の渡辺久信からも花束を贈呈された。また、西武時代に背番号3番を着けていたので、当時の背番号3番の中島裕之とユニフォームを交換した。

引退試合[編集]

10月1日、京セラドーム大阪でのオリックスのシーズン最終戦、対ソフトバンク戦が清原の引退試合となった。通常、前売り入場券は試合の1か月前、ただしその日が月曜日の場合はその翌日に発売開始されるのが通例だが、オリックスは特例として月曜日の9月1日に発売開始の措置を取った。入場前売り券は発売開始から1時間足らずで完売した。

イチローや同年に引退した桑田真澄らが見守る中[12]、4番・指名打者で先発出場。試合前には対戦相手監督の王貞治から花束贈呈もあり、王は清原に対し「生まれ変わったら、同じチームでホームラン競争しよう」と伝えた。

外野スタンドから西武・巨人・オリックスの在籍時代の応援歌が順に演奏される中、第1打席は2回先頭打者、2ストライクから3球目をライトフライ。第2打席は4回裏1死一塁で4球目を空振り三振。第3打席はオリックスが3-1とリードした6回裏1死一塁で5球目を右中間タイムリー二塁打(打点1)。これが現役最後の安打・打点となった。8回裏1死での最終打席は6球目を空振り三振に終わる。対戦投手の杉内俊哉は4打席18球全て直球を投げた。清原は杉内にヘルメットを脱いで一礼し、空振りしたボールは記念球として、この試合で球審を務めた東利夫から清原に手渡され、清原はこのボールに『杉内へ 最高の球をありがとう 清原和博』とサインし杉内に贈った[13]。試合は4-1でオリックスが勝利した。ウイニングボールは完投勝利を記録した近藤一樹から清原に手渡されたが、近藤がこの試合でプロ入り初の2桁勝利と規定投球回を達成したことを知っていた清原は、このボールにもサインを入れて近藤に贈り返している。

試合終了後の引退セレモニーでは、オリックス選手会長の北川博敏、阪神の金本知憲から花束が贈呈され、シンガーソングライターの長渕剛が清原が巨人時代から入場テーマ曲として使用していた「とんぼ[14]アコースティック・ギターの生演奏で熱唱した。引退挨拶では自分が所属した西武・巨人・オリックス及び各球団ファン、そしてオリックス入団への道を開いた仰木彬に感謝の気持ちを述べ、最後に「今日、引退させて戴きます。全国のプロ野球ファンの皆様、23年間、応援どうも有難うございました」と涙ながらに締めくくった。その後場内を1周し、ホームベース上でオリックスの選手たちによって胴上げが行われた。

翌10月2日、オリックス球団は本人の希望で清原を任意引退選手として申請し、同日パシフィック野球連盟から公示された[1]。オリックスはこの年2位に入りクライマックスシリーズ出場権を獲得したが、清原は出場の辞退を自ら申し入れた。そのクライマックスシリーズ・第1ステージ (対北海道日本ハムファイターズ))では選手の要望で清原のユニフォームがベンチ内に掲げられ、清原本人もゲストルームから声援を送った。

引退後[編集]

2009年1月29日、日刊スポーツ (大阪本社) と専属評論家としての契約を交わす。2009年は評論家として活動していくこととなった。また、同時に「将来的にまず二軍監督となってキャリアを積み、そして最終的には一軍監督として日本一になりたい」とも語っている。併せて、現在は球団経営者を目指している桑田とは、監督同士としてKK対決をやりたい、という希望も語っている。

放送局との専属契約は結んでいないが、2009 ワールド・ベースボール・クラシックTBSテレビにおける実況中継の特別解説者として出演した。体調不良のため2次ラウンド2試合の出演を欠席したが、準決勝、決勝ラウンドには復帰。日本の大会2連覇に際して「日本の皆さん!日本万歳!!」の叫びで豪快に中継を締めくくった。

上記の体調不良に関しては現役時代よりの左膝痛であり、同じ着座姿勢を取り続けられないためと報道されている。その影響は、ラジオ局の文化放送ニッポン放送、TBSラジオ3局からの西武戦などの解説依頼を断っていた時期があった程である。

ただ、2009年4月より、フジテレビジョンすぽると!」で不定期ゲスト解説者としてプロ野球や各種スポーツの解説を担当。2011年のプロ野球シーズンには、「文化放送ライオンズナイター」の30周年イメージキャラクターを兼ねる形で、西武戦のラジオ中継に解説者として出演する。

2010年7月24日、テレビ朝日の当時放送されていた番組松岡修造の情熱チャージ 熱血!ホンキ応援団の企画にて、高校時代に戦った甲西高校の金岡康宏と対決 (ヤフードームにて) 。清原がオリックスの現役時代のユニフォームで、金岡が当時の甲西高校のユニフォームで登場。1度目の対戦結果は「フォアボール」だったが、その後清原の再戦アピールで勝負再開。最終的には「三振」で金岡の勝利となった。

評論家の傍ら、「とんねるずのみなさんのおかげでした」の前略、道の駅よりや「run for money 逃走中」などのバラエティ番組やTVCMにも数多く出演している。

2014年3月、2型糖尿病のため毎日の血糖値測定と一日一回はインシュリン注射が必要なことを明かした。また、同時に違法薬物使用疑惑が週刊文春によって報じられたが、否定しており訴訟する意向を示した。

選手としての特徴・人物[編集]

打撃[編集]

清原は打者の三冠タイトルである首位打者、本塁打王、打点王の獲得経験が無いため、しばしば「無冠の帝王」と呼ばれる(タイトルを獲得していない訳ではなく、連盟の定める表彰対象の一つ「最高出塁率」では90年と92年にタイトルを獲得している。詳細は野球における無冠の帝王を参照)。打率は好調の年でも3割前後で、自己最多本塁打(37本)であった1990年はチームメイトのデストラーデ(42本)がタイトルを獲得して自身はリーグ2位に終わり、自己最多打点(121打点)を記録した2001年はペタジーニ(127打点)に及ばずリーグ2位だった。また、1992年はブーマー・ウェルズに1打点差で打点王を譲ってリーグ2位、本塁打王が28本と少なかった1995年は右肩の脱臼の影響で不振と欠場があり25本に終わった。さらに翌1996年も、トロイ・ニールに1本差で敗れてリーグ2位で本塁打王を逃すなど、タイトルに恵まれなかった。通算525本塁打は、本塁打王を獲得していない選手の中では史上最多である。

現役中10度のリーグ優勝、8度の日本シリーズ優勝を経験しているが、シーズンMVPおよび日本シリーズMVPの獲得経験は無い。シーズンMVP選手を選出する際の得票数では2位に3回つけている(1986年、1位は石毛宏典、1990年、同・野茂英雄、1992年、同・石井丈裕)。特に1990年については清原自身、一時は三冠王を視野にいれるほどの勢いで、走攻守において高いレベルの活躍を見せたが、ルーキーでありながらその剛球と切れ味鋭いフォークボールで奪三振と勝ち星を積み重ねていった野茂英雄の強烈なインパクトの前にMVPをさらわれた。日本シリーズについては、優秀選手賞を3回、敢闘賞を2回獲得している。

2000本安打、500本塁打、1500打点を達成した打者は日本プロ野球史上清原を含めても6人しかおらず (他は王貞治野村克也門田博光張本勲落合博満) 、通算本塁打数は歴代5位、通算打点数は歴代6位に位置している。また、オールスター戦に強く、オールスター戦通算打率1位(100打数以上対象)・通算本塁打2位・通算打点1位・通算塁打1位・通算得点1位という記録を残している。オールスターMVP受賞最多記録(7回)も保持しており、現役時代は「お祭り男」の異名を取った。

故障離脱があった年も多かった中、入団以降2006年まで二桁本塁打を記録した長打力に加え、最多四球を4度記録するなど選球眼が良かった。通算1346四球は王と落合に次いで歴代3位の記録で、通算打率.272に対して通算の出塁率は.389を記録しており、OPSも.909と主砲に相応しい記録を残している。また、サヨナラや満塁の場面に非常に強く、通算サヨナラ本塁打・通算サヨナラ安打・通算サヨナラ満塁本塁打すべての日本記録を保持している。一方で西武時代末期からは三振が非常に多かったほか、死球をよけるのが苦手であった為、1955三振と196死球も日本記録となっている。

守備・走塁[編集]

後年の度重なる故障と加齢により守備、走塁共に劣るように思われがちだが、西武時代は守備が上手く、一塁手でゴールデングラブ賞を5度受賞している。守備力は新庄剛志も認めており、日本シリーズの解説で両名が呼ばれた際に称賛している。また走力に関しても入団当初は期待されており、西武入団時の球団代表であった坂井保之から「四冠王を目指してほしい(打率・本塁打・打点+盗塁)」と期待されていた。清原自身は盗塁に意欲的ではなかったが、シーズン二桁盗塁を二度マークした他、1990年の優勝が決定した試合ではホームスチールを決めている。

肉体改造と怪我との闘い[編集]

クロスプレーで足の靭帯を断裂し後半戦を離脱、初めて規定打席不足に終わった1999年オフ、プロレスファンの清原はプロレスラーの前田日明に紹介してもらったケビン山崎のジムに通いウェイトトレーニングを開始した。この『肉体改造』は30代中盤を迎えようとしていた清原の体重を増加させ、圧倒的なパワーで東京ドームで看板直撃ホームラン弾を連発することもあった。これらの努力によって2001年には、5番打者として自己最高の121打点を記録した。しかし体重が過度に増加した結果、足が遅くなり守備や走塁では衰えが目立った。禁煙こそ成功したものの、酒と豪遊をやめられない清原は、ウェイトトレーニングでは1999年の故障を根本的に克服できず、以後は体重増加により下半身への負担が増え、肉離れや膝半月板の損傷など連鎖的な故障に悩まされる。巨人退団直前には、体重を減量し走法や重心を修正するなど、現在は一般にも知られるような科学的トレーニングも取り入れたが、下半身の故障は既に限界であった。清原の1999年以後の規定打席到達は2001年のみという皮肉な結果に終わってしまった。

ニックネーム[編集]

  • キヨ
  • お祭り男(高校時代は甲子園、プロではオールスター・ゲームや日本シリーズなどの大舞台で活躍し、さらに通算サヨナラ本塁打と通算サヨナラ安打も歴代1位であることなどが付けられた)
  • キヨマー(同時代に活躍した阪急の強打者ブーマー・ウェルズに対抗できる位の活躍を期待された為)
  • 番長(『巨人軍は紳士たれ』のスローガンにそぐわないとして、読売系列の中継や番組等ではこの呼称は避けられていた)
  • だんじりファイター(岸和田十月祭礼の一つである八木だんじり祭より命名。上記の理由から「番長」に代わるものとして日本テレビがよく使用した)
  • お好み焼きソース(中村紀洋とのコンビの表現。中村はマヨネーズである。中村の中日移籍により、この愛称は2006年のみ)

交友関係[編集]

  • 長渕剛との関係は、巨人時代から彼の曲「とんぼ」を入場テーマ曲として使用、不調に陥っていた2000年に始まって以来の付き合いである。清原が引退を最初に伝えたのも長渕であった。お互いを「和博」、「剛さん」と呼び合う仲である。
  • 他スポーツ選手では、元アメリカンフットボールプレーヤーの河口正史やサッカーの三浦知良総合格闘家小川直也と親交がある。また、西武時代には、中嶋悟一貴親子を球場に招待している。
  • 亜希夫人との間に2人の息子がいる。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1986 西武 126 471 404 66 123 18 1 31 236 78 6 3 4 3 49 2 11 109 8 .304 .392 .584 .976
1987 130 536 444 66 115 25 3 29 233 83 11 4 0 2 80 6 10 88 10 .259 .382 .525 .907
1988 130 551 451 97 129 21 0 31 243 77 5 4 0 3 82 7 15 102 10 .286 .410 .539 .949
1989 128 557 445 92 126 22 2 35 257 92 7 2 0 2 94 5 16 60 13 .283 .424 .578 1.001
1990 129 560 436 99 134 19 2 37 268 94 11 5 0 4 105 6 15 85 7 .307 .454 .615 1.068
1991 126 539 448 73 121 20 0 23 210 79 3 3 0 2 80 1 9 77 12 .270 .390 .469 .858
1992 129 556 464 82 134 17 0 36 259 96 5 3 0 3 85 0 4 98 13 .289 .401 .558 .959
1993 128 540 448 66 120 15 1 25 212 75 3 2 0 2 84 1 6 120 9 .268 .389 .473 .862
1994 129 565 455 78 127 29 0 26 234 93 5 1 0 5 100 9 5 117 12 .279 .411 .514 .925
1995 118 505 404 63 99 13 3 25 193 64 2 0 0 2 90 1 9 111 6 .245 .392 .478 .870
1996 130 563 487 67 125 30 0 31 248 84 0 2 0 0 70 0 6 122 14 .257 .357 .509 .866
1997 巨人 130 550 462 65 115 24 0 32 235 95 0 0 0 7 69 3 12 152 7 .249 .356 .509 .865
1998 116 470 384 67 103 14 0 23 186 80 1 0 0 11 67 1 8 76 13 .268 .379 .484 .863
1999 86 323 263 39 62 12 0 13 113 46 0 0 0 4 46 0 10 68 12 .236 .365 .430 .795
2000 75 252 216 41 64 10 0 16 122 54 0 0 0 3 25 0 8 51 6 .296 .385 .565 .950
2001 134 552 467 67 139 29 0 29 255 121 0 1 1 4 65 2 14 140 20 .298 .396 .546 .942
2002 55 174 148 24 47 1 0 12 84 33 0 0 0 1 18 2 7 36 1 .318 .414 .568 .981
2003 114 403 341 47 99 9 0 26 186 68 0 0 0 4 42 0 16 97 9 .290 .390 .545 .935
2004 40 120 101 18 23 2 0 12 61 27 0 0 0 0 15 0 4 41 4 .228 .350 .604 .954
2005 96 375 321 42 68 6 0 22 140 52 0 1 0 3 41 0 10 111 6 .212 .317 .436 .753
2006 オリックス 67 241 203 21 45 7 0 11 85 36 0 0 0 1 36 1 1 83 6 .222 .340 .419 .759
2008 22 25 22 0 4 2 0 0 6 3 0 0 0 0 3 0 0 11 0 .182 .280 .273 .553
通算:22年 2338 9428 7814 1280 2122 345 12 525 4066 1530 59 31 5 66 1346 47 196 1955 198 .272 .389 .520 .909
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1989年6月4日、対福岡ダイエーホークス10回戦(西武ライオンズ球場)、5回裏に原田賢治から右越満塁本塁打 ※史上155人目
  • 150本塁打:1990年8月5日、対近鉄バファローズ18回戦(西武ライオンズ球場)、6回裏に野茂英雄から左越ソロ ※史上92人目
  • 200本塁打:1992年6月26日、対オリックス・ブルーウェーブ11回戦(西武ライオンズ球場)、1回裏に伊藤敦規から左越先制2ラン ※史上62人目
  • 1000試合出場:1993年9月9日、対オリックス・ブルーウェーブ20回戦(グリーンスタジアム神戸)、4番・一塁手として先発出場 ※史上313人目
  • 1000本安打:1993年10月13日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(千葉マリンスタジアム)、1回表に伊良部秀輝から左前安打 ※史上172人目
  • 250本塁打:1994年5月4日、対日本ハムファイターズ5回戦(西武ライオンズ球場)、2回裏に白井康勝から左越ソロ ※史上33人目
  • 300本塁打:1996年4月10日、対日本ハムファイターズ2回戦(西武ライオンズ球場)、1回裏に西崎幸広から右越先制2ラン ※史上23人目
  • 1000三振:1996年5月18日、対近鉄バファローズ6回戦(藤井寺球場)、4回表に高村祐から ※史上23人目
  • 350本塁打:1997年8月21日、対阪神タイガース22回戦(東京ドーム)、3回裏に湯舟敏郎から中越3ラン ※史上17人目
  • 1500試合出場:1997年8月22日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)、4番・一塁手として先発出場 ※史上120人目
  • 1000打点:1997年9月27日、対中日ドラゴンズ25回戦(東京ドーム)、8回裏に中山裕章から左越決勝2ラン ※史上24人目
  • 1500本安打:1998年5月23日、対広島東洋カープ5回戦(東京ドーム)、3回裏に紀藤真琴から左越3ラン ※史上75人目
  • 1000得点:1999年6月5日、対横浜ベイスターズ9回戦(横浜スタジアム)、3回表に村田真一の右犠飛で記録 ※史上29人目
  • 400本塁打:2000年7月11日、対広島東洋カープ15回戦 (札幌市円山球場) 、3回裏に山崎健から左越ソロ ※史上13人目
  • 1500三振:2001年6月17日、対中日ドラゴンズ15回戦(ナゴヤドーム)、1回表に正津英志から ※史上4人目
  • 150死球:2001年5月25日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、6回表に谷中真二から ※史上3人目
  • 300二塁打:2001年6月23日、対横浜ベイスターズ13回戦(東京ドーム)、4回裏にマーク・ホージマーから左越二塁打 ※史上38人目
  • 3500塁打:2001年9月27日、対広島東洋カープ28回戦(東京ドーム)、1回裏に酒井大輔から中前安打を放ち達成 ※史上20人目
  • 450本塁打:2002年7月3日、対中日ドラゴンズ13回戦 (東京ドーム) 、3回裏にメルビン・バンチから中越ソロ ※史上11人目
  • 2000試合出場:2003年4月11日、対阪神タイガース1回戦(東京ドーム)、4番・一塁手として先発出場 ※史上33人目
  • 1713三振:2004年4月4日、対阪神タイガース3回戦(東京ドーム)、8回裏に吉野誠から ※史上初(新記録)
  • 2000本安打:2004年6月4日、対ヤクルトスワローズ9回戦 (明治神宮野球場) 、1回表にジェイソン・ベバリンから中前安打 ※史上31人目
  • 500本塁打:2005年4月29日、対広島東洋カープ4回戦(広島市民球場)、8回表に広池浩司から中越ソロ ※史上8人目
  • 1500打点:2006年5月21日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、5回表に平野佳寿の代打として出場、江草仁貴から中前2点適時打 ※史上8人目
  • 4000塁打:2006年5月26日、対横浜ベイスターズ1回戦(大阪ドーム)、2回裏に三浦大輔から右越ソロを放ち達成 ※史上12人目
オールスター戦
  • オールスターゲーム出場:18回(1986年 - 1998年、2000年 - 2002年、2005年、2006年)
  • オールスター戦通算打率:.365(100打数以上では、歴代1位タイ)
  • オールスター戦通算本塁打:13本(歴代2位タイ)
  • オールスター戦通算打点:34(歴代1位)
  • オールスター戦通算得点:26(歴代1位タイ)
  • オールスター戦通算塁打:96(歴代1位)
その他
  • 21年連続シーズン2桁本塁打(1986年 - 2006年 歴代1位タイ)※入団1年目からの記録としては、史上最多。
  • 13年連続シーズン20本塁打以上(1986年 - 1998年 歴代3位タイ)※入団1年目からの記録としては、歴代1位。
  • シーズン20本塁打以上:16回(1986年 -1 998年、2001年、2003年、2005年 歴代3位タイ)
  • 通算サヨナラ本塁打:12本(歴代1位)
  • 通算サヨナラ安打:20本(歴代1位)
  • 通算満塁本塁打:11本(歴代9位タイ)
  • 通算サヨナラ満塁本塁打:2本(歴代1位タイ)
  • 3イニング連続本塁打:2001年6月9日、対阪神タイガース13回戦(東京ドーム)、3回裏にバディ・カーライル、4回裏・5回裏に伊達昌司から ※史上7人目

背番号[編集]

  • 3(1986年-1996年)
  • 5(1997年-2008年)

関連情報[編集]

出演したテレビ番組[編集]

いずれも梅宮辰夫とのチームで出演。結果は2度とも「三流芸能人」であった。
2012年7月3日の回で逃走成功し、150万円を手に入れた。
2013年1月6日、13日の回で転倒し、小指を骨折し全治4週間となった[15]
翌年のジャイアントキリング3では桜庭和志と再戦し、見事リベンジを果たす。把瑠都には敗れた。
  • 大晦日スポーツ祭り!KYOKUGEN(TBS
2012年12月31日-桑田真澄と野球で対決し、8打席目に本塁打を打った。
2013年12月31日-前年同様本塁打に挑戦し、阿波野秀幸から本塁打を打った。

テレビCM[編集]

入団以来、所属球団の西武が選手CM出演を禁止していた為、清原が初めて全国CMに出演する事が出来たのは、CM出演解禁された入団8年目の1993年オフの事である。

著書[編集]

  • 「男道」(幻冬舎 2009年1月) - 1967年の誕生から2008年の現役引退までの清原の自伝。ISBN 9784344016095
    • 第一章を中学まで過ごした生まれ故郷の「岸和田」、第二章を高校時代に過ごした「富田林」、第三章を西武時代の「所沢」、第四章を巨人時代の「東京」、第五章をオリックス時代の「大阪」と名付けている。
  • 「反骨心」(角川書店 2009年8月) - 巨人時代の苦悩や、晩年を中心に書いた自伝。ISBN-10: 4047102075

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 【10月7日】1986年(昭61)“新人類”清原和博、新人タイ記録の31本塁打 逆転Vへの狼煙”. スポーツニッポン (2007年10月7日). 2012年9月12日閲覧。
  2. ^ 但し例えば1982年のパ・リーグ総本塁打数が772本なのに対し、1985年は1050本、1986年は1006本と200本以上増加している。打率も1982年が.259なのに対し1985年は.272、1986年は.270であり、リーグ全体が投低打高化している。
  3. ^ 永谷脩著、監督論 日本シリーズを制した27人の名将廣済堂出版、2013年、P127
  4. ^ a b 【9月23日】1989年(平元) 清原、死球に激高 バット投げつけるわ蹴り入れるわ”. スポーツニッポン (2007年9月23日). 2012年9月12日閲覧。
  5. ^ 伊良部秀輝 日本新の158キロ!「清原さんだから」”. Sponichi Annex. 2012年7月9日閲覧。
  6. ^ 日本人選手で1シーズン150三振はこれが初であり、2004年に岩村明憲が更新するまで日本人最多記録保持者であった。
  7. ^ この本塁打は「第二の野球人生のはじまり」と語っており、思い出深い本塁打となっている。
  8. ^ 禁煙したのは2005年で、長年親交がある長渕剛に辞めるように言われたのがきっかけ。長渕は大のタバコ嫌いでもある。タバコを辞める前までは1日2箱半吸うヘビースモーカーで試合中も吸っていたとさんまのまんま (2010年10月13日) 出演時に話している。
  9. ^ 清武英利 『巨魁』 ワック、2012年、104-108頁
  10. ^ 清武英利 『巨魁』 ワック、2012年、112頁
  11. ^ 清武英利 『巨魁』 ワック、2012年、107-108頁
  12. ^ 清原引退試合の主な来場者スポーツ報知 2008年10月2日
  13. ^ 清原最後のボールを直球勝負の杉内に返す ニッカンスポーツ 2008年10月2日
  14. ^ 「死にたいくらいに憧れた 花の都大東京」の一節を、自分が子供の頃から巨人軍に憧れていた事に重ね合わせたもの。
  15. ^ 尚、番組内では骨折したことは言及されず、スポーツ新聞で事前に報道された。そのため、放送開始前から一部ネタばれとなってしまった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]