伊達公子

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伊達公子
Kimiko Date
伊達公子
基本情報
フルネーム Kimiko Date
国籍 日本の旗 日本
出身地 同・京都府京都市
生年月日 (1970-09-28) 1970年9月28日(53歳)
身長 163cm
体重 53kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1989年
引退年 1996年 (1回目)
2017年 (2回目)
ツアー通算 14勝
シングルス 8勝
ダブルス 6勝
生涯通算成績 634勝410敗
シングルス 450勝268敗
ダブルス 184勝142敗
生涯獲得賞金 $3,988,378
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト4 (1994)
全仏 ベスト4 (1995)
全英 ベスト4 (1996)
全米 ベスト8 (1993・94)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト8 (1992)
全仏 2回戦 (1993・2011)
全英 3回戦 (2011)
全米 ベスト4 (2014)
国別対抗戦最高成績
BJK杯 ベスト4 (1996)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 4位 (1995年11月13日)
ダブルス 28位 (2015年1月19日)
獲得メダル
女子 テニス
アジア大会
1994 広島 シングルス
2010 広州 シングルス
2010 広州 団体
パン・パシフィック・テニス2008

伊達 公子 (だて きみこ、Kimiko Date、1970年9月28日 - ) は、日本の元女子プロテニス選手。京都府京都市上京区出身。WTAランキング自己最高位はシングルス4位[1]、ダブルス28位。WTAツアー通算でシングルス8勝 (日本選手歴代2位記録)、ダブルス6勝を挙げている。

アジア出身の女子テニス選手として、史上初めてシングルス世界ランキングトップ10入り、日本選手21年ぶりのグランドスラムシングルスベスト4、日本女子選手初の全仏オープンシングルスベスト4・ウィンブルドン選手権シングルスベスト4進出者。

4大大会での女子シングルスベスト8入り6回は日本女子選手歴代最多記録である。また、準決勝進出3回は歴代2位の記録である。すべての4大大会でベスト8入りした最初の日本女子選手でもある。全豪オープン勝利 (オープン化以降)・ウィンブルドン3回戦進出の最年長記録、WTAツアーシングルス優勝・全仏オープン勝利の歴代2位の年長記録を保持している。2010年10月にWTA史上初の40歳以上でトップ10の選手に勝利を記録した。

人物

「ライジング・ショット」の名手として、世界的に有名な選手である。これは、相手の打ったボールが自分のコートでバウンドした直後の上がり端を打ち返す、非常に高度な技術である。世界トップ選手へと躍進し始めた頃の伊達は、“ライジング・サン”(日の出)と呼ばれた。

2008年の現役復帰後の所属はエステティックTBC

本来は左利きであるが、子供の頃に日本の習慣に従って右利きに直された。そのため、テニスの試合でも相手選手がバックサイド(左側)に打ってきたボールを左打ちする場面がしばしば見られた。日常生活でも、サインの時などに左手を用いることがある。

大津市立瀬田南小学校大津市立瀬田中学校(在校時バレーボール部)、園田学園高等学校卒業。

2001年にドイツ人レーシングドライバーのミハエル・クルムと結婚。結婚当初はクルム公子としたが、家庭裁判所での姓の変更を経てクルム伊達公子となった(国際結婚であるため夫婦別姓が可能)[2]2016年9月26日にミハエル・クルムとの離婚を発表した[3]

2022年1月に5年ほど交際を続けてきた男性と入籍をしたことを自身の52歳の誕生日である同年9月28日にSNSにて公表した[4]

選手経歴

アマチュア選手としての活動

6歳のとき、京都市北区にあるテニスクラブ「セブンスリー」で、両親が健康管理のために行っていたテニスに初めてふれる。滋賀県大津市に転居後、京都市山科区にてデ杯監督竹内映二の父親である竹内穣治がオーナーを務める「四ノ宮テニスクラブ」でレッスンを積む。中学校時代には「滋賀県テニス選手権」で優勝した。

高校時代には、兵庫県尼崎市にあるテニスの名門校・園田学園高等学校で光国彰監督の指導を受けた。1988年インターハイでシングルス、ダブルス、団体優勝の3冠獲得を達成する。

プロ選手としての活動

高校卒業後の1989年にプロ転向。同年、「サントリー・ジャパン・オープン」でWTAツアーにデビューし、岡本久美子との準々決勝まで進出した。全仏オープン4大大会にデビュー。予選3試合を勝ち上がり、本戦2回戦に進出した。ウィンブルドン全米オープンでも本戦へ出場した。女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップ(現フェドカップ)の日本代表選手に初選出され、西ドイツ・チームとの2回戦でダブルス戦に起用された。

1990年全豪オープンで初の4回戦進出を果たした。3回戦で第11シードのパム・シュライバーを破って注目を集めたが、前年度準優勝者のヘレナ・スコバに 4-6, 3-6 で敗退した。

1991年、8月中旬の「バージニア・スリムズ・オブ・ロサンゼルス」大会で予選から勝ち上がり準優勝した。準決勝で当時世界ランキング3位のガブリエラ・サバティーニを破る大金星を挙げ、決勝では当時の女王モニカ・セレシュに挑戦した。全日本テニス選手権の女子シングルスで初優勝を果たした。

1992年、2月に東京の「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」で、当時世界ランキング5位のアランチャ・サンチェス・ビカリオを破った。3月末の「リプトン国際選手権」4回戦でシュテフィ・グラフと初対戦した。全仏オープンで初めて4大大会のシード選手になり、4回戦に進出した。全日本テニス選手権で2連覇した。この年の活躍により、WTAアワードの「最も上達した選手賞」(Most Improved Player of the Year) に選出された。

1993年、全米オープンで初の4大大会ベスト8に進出した。この4回戦で、当年度のウィンブルドン準優勝者ヤナ・ノボトナを破った。

1994年 グランドスラムベスト4

1994年、1月にオーストラリアの「ニュー・サウスウェールズ・オープン」で海外の大会で初優勝した。日本女子選手として史上初の世界ランキングトップ10入りした。直後の全豪オープンで初の4大大会ベスト4進出を果たしたが、準決勝でグラフに 3-6, 3-6 で完敗。全米オープンで2年連続ベスト8入り。日本人選手として初めて女子テニスツアー年間最終戦の「バージニア・スリムズ選手権」の出場権を獲得し、準決勝まで進出した(当時のバージニア・スリムズ選手権は、世界ランキング16位以内の選手のみに出場資格が与えられた)。

1995年 世界ランキング4位

1995年、2月の東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントで初優勝。その決勝戦ではリンゼイ・ダベンポートを圧倒した。リプトン国際選手権で準優勝。この大会では決勝でグラフに完敗したが、準決勝でガブリエラ・サバティーニを 1-6, 1-5 の土壇場から逆転し、1-6, 7-6, 7-6 で逆転勝利を収めた。この年は全仏オープンで日本人初のベスト4進出を達成するが、準決勝でアランチャ・サンチェス・ビカリオに 5-7, 3-6 で敗れた。敗れたものの、この準決勝はテレビ東京系の地上波でゴールデンタイムの午後9時から放映された。11月に自己最高の世界ランキング4位を記録する。年間最終ランキングもシュテフィ・グラフコンチタ・マルティネスアランチャ・サンチェス・ビカリオに次ぐ4位に輝いた。日本プロスポーツ大賞殊勲賞を受賞した。

1996年 引退

1996年4月27日 - 28日、東京・有明コロシアムで開かれた女子国別対抗戦・フェドカップの「ワールドグループ」1回戦でドイツと対戦し、28日の試合で女王シュテフィ・グラフを 7-6, 3-6, 12-10 で破る大金星を挙げた。1996年7月4日 - 5日の2日間にわたり、ウィンブルドン準決勝でグラフと最後の対戦をする。第1セットはグラフが 6-2 で先取したが、第2セットを伊達が 6-2 で取り返したときに試合が日没順延となり、翌日に持ち越された第3セットはグラフが 6-3 で取ったため、日本人選手初の4大大会決勝進出はならなかった。アトランタ五輪でも女子シングルスのベスト8に進出し、アランチャ・サンチェス・ビカリオに惜敗した。しかし8月25日、アメリカサンディエゴで開かれた「トーシバ・クラシック」決勝戦でサンチェスを 3-6, 6-3, 6-0 で破り、WTAツアー7勝目を挙げた。

同年9月24日に現役引退を宣言した。WTAツアー年間最終戦の「チェイス選手権」2回戦で、当時16歳のマルチナ・ヒンギスに 1-6, 2-6 で敗れた。世界ランキング8位での引退だった。

その後

2000年2月6日 - 8日にかけて、シュテフィ・グラフの「引退世界ツアー」で日本の対戦相手に指名され、東京体育館名古屋レインボーホール大阪城ホールの3会場でエキシビション・マッチを行った。

2001年12月1日、ドイツ人レーシングドライバーのミハエル・クルムと結婚した。結婚当初は「クルム公子」としたが、家庭裁判所に姓の変更を申し出て「クルム伊達公子」となった。国際結婚であるため、夫婦別姓が可能だった。選択的夫婦別姓制度の導入について賛同し、「結婚する2人が考え、同姓にしたければする、別姓を名乗りたければ名乗る。それが理想」と述べている[2]

2008年3月15日、東京・有明コロシアムにてシュテフィ・グラフ、マルチナ・ナブラチロワとともにエキシビション・マッチを行い、ここでは伊達が2試合とも勝利を収めた(当初はサバティーニが参戦予定だったが欠場。代わりにナブラチロワが参戦し、伊達と初めての対戦となった[5])。

現役復帰

2008年

2008年、東京有明国際女子オープンに優勝し、トロフィーを受け取るクルム伊達公子

2008年4月6日、現役復帰を決意したことが報じられた。4月7日に復帰記者会見を行い、12年ぶりにツアープレーヤーとして再びコートに立つことを表明した。37歳にしてプロへ復帰した理由を「世界と戦うためではなく、若い選手へ刺激を与えるため」と語り、当時の本名の「クルム伊達公子」でプロ登録した。

同年4月27日、岐阜市岐阜メモリアルセンターにある「長良川テニスプラザ」で開催された「カンガルーカップ国際女子オープン」のシングルス予選で現役復帰する。3戦全勝で予選を突破し、本戦1回戦では藤原里華、準々決勝では中村藍子を破り、決勝まで勝ち進んだが、タマリネ・タナスガーンタイ)に敗れて準優勝に終わった。15歳のジュニア選手・奈良くるみと組んだダブルス決勝では、ニコル・タイセン(オランダ)&メラニー・サウス(イギリス)組を破って優勝した。

同年6月15日、東京有明国際女子オープンシングルス決勝で、主催者推薦で出場の18歳秋田史帆を 6-3, 6-2 で破り、シングルスでのプロ復帰後初優勝を果たした。同年7月12日、日本サッカー協会(JFA)理事に就任した。これはJFAの犬飼基昭会長(当時)の推薦によるもので、平尾誠二神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャー)とともにサッカー以外のスポーツ界からは初のJFA理事となった(2010年7月退任)。11月には全日本テニス選手権に出場、女子シングルス決勝で瀬間友里加ピーチ・ジョン)を破って16年ぶり3度目の優勝を飾る。38歳での優勝は、宮城黎子1963年に41歳で優勝し、大会8連覇を達成した時に次ぐ年長記録である。また藤原里華と臨んだダブルスでも決勝で米村明子&米村知子組を破って17年ぶり2回目(藤原は6年ぶり3度目)の優勝を飾り、吉田友佳以来5年ぶりの単複2冠の達成者となった。

2009年

2009年、4大大会にも13年ぶりの再挑戦を始め、全豪オープンで予選会を通過した。本戦1回戦では第25シードのカイア・カネピエストニア)に 6-4, 4-6, 6-8 で競り負け、初戦敗退。全仏オープンでは、故障で予選1回戦を途中棄権している。ウィンブルドンにおいて、主催者推薦(ワイルドカード)で13年ぶりの出場を果たしたが、第9シードの18歳、キャロライン・ウォズニアッキデンマーク)に 7-5, 3-6, 1-6 で逆転負けし、初戦突破はならなかった。復帰後WTAツアーレベルでは接戦の試合も見せながらも9戦全敗と、ツアー初勝利の壁に弾かれていたが、そんな中出場したハンソル韓国オープン1回戦において地元のYe-Ra Leeを 6-3, 6-4 のスコアで下し復帰後ツアー初勝利を挙げると、2回戦で第5シードのアリサ・クレイバノワロシア)には第2セット第9ゲームでマッチポイントを握られるも 4-6, 7-6(4), 6-3 の大逆転した。続く準々決勝では第1シードのダニエラ・ハンチュコバスロバキア)を 7-6(3), 4-6, 6-4 で、準決勝では前年大会優勝者のマリア・キリレンコロシア)を 3-6, 6-2, 6-4 でのスコアでそれぞれ下し決勝戦に進出した。決勝ではアナベル・メディナ・ガリゲススペイン)6-3, 6-3のストレートで下し、1996年のトーシバ・クラシック以来13年ぶり8度目のWTAツアーシングルス優勝を果たした。38歳11か月30日での優勝は1983年イギリスバーミンガム大会でシングルス優勝を果たしたビリー・ジーン・キングアメリカ)の記録(39歳7か月23日)に次ぐ歴代2位の年長優勝記録となった[6]

2010年

2010年 5月25日、ローランギャロスで行われた全仏オープン本戦1回戦に出場し、2009年世界ランキング1位で同大会2年連続準優勝の第9シードディナラ・サフィナ(ロシア)に 3-6, 6-4, 7-5 で逆転勝ちした。伊達にとって4大大会での勝利は、準決勝に進んだ1996年のウィンブルドン以来14年ぶりの勝ち星であり、また全仏女子オープンにおける39歳7か月での勝利は、1968年以降の同大会で歴代2番目の年長白星となった[7]

主催者推薦で出場した9月の東レ パン・パシフィック・オープンでは、1回戦で前年優勝のマリア・シャラポワを 7-5, 3-6, 6-3 で破った。10月のHPオープンでは準々決勝でサマンサ・ストーサーを 5-7, 6-3, 7-6 で破り復帰後初のトップ10プレーヤーからの勝利を挙げた。40歳を超えたプレイヤーが、トップ10の選手を破ったのはWTA史上初の快挙であった。決勝ではタマリネ・タナスガーンに 5-7, 7-6, 1-6 で敗れ最年長ツアー優勝はならなかった。11月の広州アジア大会にも出場し、シングルス準決勝で彭帥に 6-7, 6-3, 2-6 で敗れ銅メダルを獲得している。

2011年

2011年ウィンブルドン選手権2回戦のビーナス・ウィリアムズとの試合では1996年準決勝のグラフとの試合以来、15年ぶりのセンターコートに立った。過去ウィンブルドンで5度の優勝を誇るビーナス相手に、2時間56分の熱戦の末 7-6(6), 3-6, 6-8 で惜敗したが、健闘に大きな拍手が送られた[8]。10月のHPオープンでは前年準優勝したシングルスでは1回戦でペトラ・チェトコフスカに 2-6, 6-7 で敗れたが、張帥と組んだダブルスで決勝に進出し、バニア・キング&ヤロスラワ・シュウェドワ組を 7-5, 3-6, [11-9] で破り、1996年4月のジャパンオープン以来のダブルスタイトルを獲得した。

2012年

2012年4月のe-Boksオープン藤原里華と組んだダブルスで、ソフィア・アルビドソン&カイア・カネピ組を6-2, 4-6, [10-5] で破り、ダブルスではツアー通算3勝目を挙げた。 伊達自身、日本人とペアを組んでのダブルス優勝は、1996年4月杉山愛と組んで優勝したジャパン・オープン以来16年ぶりの優勝となった。 ちなみにパートナーの藤原里華は、これがシングル・ダブルス通じて初のツアー優勝となった(それまではダブルスで5度決勝進出し全て準優勝だった)。一方、シングルスでは全仏オープンから10連敗を喫し、ランキングを100位以下に落としたが、2013年も現役続行することを発表した[9]

2013年

2013年全豪オープンシングルス1回戦で第12シードのナディア・ペトロワに 6-2, 6-0 でストレート勝ちし、42歳の伊達は1968年オープン化以降同大会の最年長勝利記録更新した。また次戦の2回戦もシャハー・ピアーに 6-2, 7-5 で勝利し、18年ぶりに3回戦に進出。さらにその記録を更新した。ダブルスでの2回戦は、ロンドン五輪銀メダリストペアで第2シードのアンドレア・フラバーチコバ&ルーシー・ハラデツカ組相手に 7-5, 3-6, 6-3 で勝利する金星を挙げ、シングルスと共にダブルスでも3回戦進出を果たした(どちらも3回戦で敗退)。 全豪オープンの翌週に行われたPTTパタヤ・オープンではケーシー・デラクアと組み、アクグル・アマンムラドワ&アレクサンドラ・パノワ組に 6-3, 6-2 で勝利し、ダブルスでのツアー通算4勝目を手にした。 4月のモンテレイ・オープンティメア・バボシュと組んで、エバ・ビルネロバ&タマリネ・タナスガーン組を 6-1, 6-4 で破り、ツアー通算5勝目、現役復帰後では4勝目のダブルスタイトルを勝ち得た。 続く5月のストラスブール国際シャネル・シェパーズとのペアで マリナ・エラコビッチ&カーラ・ブラック組に 6-4, 3-6, [14-12] で競り勝ち、ツアー通算6勝目、2013年のダブルスツアー決勝3連勝を果たす。 一方のシングルスでは全仏オープン1回戦でサマンサ・ストーサーに敗れたが、続く2013年ウィンブルドン選手権では3回戦まで進出。42歳での3回戦進出は同大会史上最年長となった。3回戦はディフェディングチャンピオンで第1シードのセリーナ・ウィリアムズと初対戦。結果は 2-6, 0-6 で完敗したが、スコア以上に彼女らしさを随所に見せ、センターコートの観客を沸かせてみせた。

2014年

2014年の4大大会シングルスはすべて1回戦敗退を決したが、その全てが3セットによるものであった。 しかし4大大会最後の2014年全米オープン女子ダブルスで、パートナーのバルボラ・ザフラボバ・ストリコバとともに快進撃を見せ、3回戦では大会第2シードで2014年全仏オープンチャンピオンの謝淑薇彭帥相手に 7-6(4), 6-4 で勝利し、最終的にはキャリア初の準決勝へ進出した。準決勝はロシア人ペアのエカテリーナ・マカロワエレーナ・ベスニナ組に 5-7, 3-6 で敗れ、シングルスも通じての4大大会初の決勝進出とはならなかった。

2015年

2015年1月11日~16日にオーストラリアのシドニーで行われたシドニー国際で、チェコカロリナ・プリスコバと組みダブルスに出場し、準決勝へ進出した。これにより1月12日、19日と2週続けて、1992年8月24日に記録した自己最高であったWTAのダブルスでの世界ランキング33位を23年ぶりに更新した(1月12日は31位、19日は28位)。2015年全仏オープンにてグランドスラムでは2009年全米以来の予選敗退を喫した。

2016年

2016年1月14日、全豪オープン女子シングルス予選1回戦で敗れ、シングルスで8年連続の本戦出場はならなかった[10]。2月21日、16日に左膝半月板内視鏡手術を行ったが、復帰には再手術が必要であることを公式ブログで明らかにした[11]

2017年

2017年8月28日、「『そう遠くない日』と言っていた日がとうとう訪れました。伊達公子、再チャレンジにピリオドを打つ決断をいたしました」と自身のブログに記し、現役を引退することを表明した[12]。最後の大会となったジャパン女子オープンテニスではセルビアのアレクサンドラ・クルニッチに 0–6, 0–6 と1ゲームも奪えず完敗した[13]

WTAツアー決勝進出結果

シングルス: 15回(8勝7敗)

大会グレード
2008年以前 2009年以後
グランドスラム (0–0)
WTAファイナルズ (0–0)
ティア I (1–1) プレミア・マンダトリー (0-0)
プレミア5 (0-0)
ティア II (2–2) プレミア (0–0)
ティア III (3–3) インターナショナル (1–1)
ティア IV & V (1–0)
結果 No. 決勝日 大会 サーフェス 対戦相手 スコア
準優勝 1. 1991年8月12日 アメリカ合衆国の旗 ロサンゼルス ハード ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 モニカ・セレシュ 3–6, 2–6
優勝 1. 1992年4月6日 日本の旗 東京 ハード ベルギーの旗 サビーネ・アペルマンス 7–5, 3–6, 6–3
準優勝 2. 1993年2月8日 日本の旗 大阪 カーペット (室内) チェコの旗 ヤナ・ノボトナ 3–6, 2–6
優勝 2. 1993年4月5日 日本の旗 東京 ハード オランダの旗 ステファニー・ロティエ 6–1, 6–3
準優勝 3. 1993年9月20日 日本の旗 東京 ハード 南アフリカの旗 アマンダ・クッツァー 3–6, 2–6
優勝 3. 1994年1月10日 オーストラリアの旗 シドニー ハード アメリカ合衆国の旗 メアリー・ジョー・フェルナンデス 6–4, 6–2
優勝 4. 1994年4月4日 日本の旗 東京 ハード アメリカ合衆国の旗 エミー・フレージャー 7–5, 6–0
優勝 5. 1995年1月30日 日本の旗 東京 カーペット (室内) アメリカ合衆国の旗 リンゼイ・ダベンポート 6–1, 6–2
準優勝 4. 1995年3月25日 アメリカ合衆国の旗 マイアミ ハード ドイツの旗 シュテフィ・グラフ 1–6, 4–6
準優勝 5. 1995年4月10日 日本の旗 東京 ハード アメリカ合衆国の旗 エミー・フレージャー 6–7(5), 5–7
準優勝 6. 1995年5月22日 フランスの旗 ストラスブール クレー アメリカ合衆国の旗 リンゼイ・ダベンポート 6–3, 1–6, 2–6
優勝 6. 1996年4月15日 日本の旗 東京 ハード アメリカ合衆国の旗 エミー・フレージャー 6–4, 7–5
優勝 7. 1996年8月19日 アメリカ合衆国の旗 サンディエゴ ハード スペインの旗 アランチャ・サンチェス・ビカリオ 3–6, 6–3, 6–0
優勝 8. 2009年9月27日 大韓民国の旗 ソウル ハード スペインの旗 アナベル・メディナ・ガリゲス 6–3, 6–3
準優勝 7. 2010年10月17日 日本の旗 大阪 ハード タイ王国の旗 タマリネ・タナスガーン 5–7, 7–6(4), 1–6

ダブルス:10回 (6勝4敗)

大会グレード
2008年以前 2009年以後
グランドスラム (0–0)
WTAファイナルズ (0–0)
ティア I (0–0) プレミア・マンダトリー (0-0)
プレミア5 (0-0)
ティア II (0–0) プレミア (0–0)
ティア III (1–0) インターナショナル (5–3)
ティア IV & V (0–1)
結果 No. 決勝日 大会 サーフェス パートナー 対戦相手 スコア
準優勝 1. 1992年4月6日 日本の旗 東京 ハード アメリカ合衆国の旗 ステファニー・レイヒ アメリカ合衆国の旗 エミー・フレージャー
日本の旗 平木理化
7–5, 6–7(5), 0–6
優勝 1. 1996年4月21日 日本の旗 東京 ハード 日本の旗 杉山愛 アメリカ合衆国の旗 エミー・フレージャー
アメリカ合衆国の旗 キンバリー・ポー
7–6(6), 6–7(6), 6–3
準優勝 2. 2009年9月14日 中華人民共和国の旗 広州 ハード 中華人民共和国の旗 孫甜甜 ベラルーシの旗 オリガ・ゴボツォワ
ベラルーシの旗 タチアナ・ポウチェク
6–3, 2–6, [8–10]
優勝 2. 2011年10月16日 日本の旗 大阪 ハード 中華人民共和国の旗 張帥 アメリカ合衆国の旗 バニア・キング
カザフスタンの旗 ヤロスラワ・シュウェドワ
7–5, 3–6, [11–9]
準優勝 3. 2012年2月26日 メキシコの旗 モンテレイ ハード 中華人民共和国の旗 張帥 イタリアの旗 サラ・エラニ
イタリアの旗 ロベルタ・ビンチ
2–6, 6–7(6)
優勝 3. 2012年4月15日 デンマークの旗 コペンハーゲン ハード
(室内)
日本の旗 藤原里華 スウェーデンの旗 ソフィア・アルビドソン
エストニアの旗 カイア・カネピ
6–2, 4–6, [10–5]
準優勝 4. 2012年10月14日 日本の旗 大阪 ハード イギリスの旗 ヘザー・ワトソン アメリカ合衆国の旗 ラケル・コップス=ジョーンズ
アメリカ合衆国の旗 アビゲイル・スピアーズ
1–6, 4–6
優勝 4. 2013年2月3日 タイ王国の旗 パタヤ ハード オーストラリアの旗 ケーシー・デラクア ウズベキスタンの旗 アクグル・アマンムラドワ
ロシアの旗 アレクサンドラ・パノワ
6–3, 6–2
優勝 5. 2013年4月7日 メキシコの旗 モンテレイ ハード ハンガリーの旗 ティメア・バボシュ チェコの旗 エバ・ビルネロバ
タイ王国の旗 タマリネ・タナスガーン
6–1, 6–4
優勝 6. 2013年5月26日 フランスの旗 ストラスブール クレー 南アフリカ共和国の旗 シャネル・シェパーズ ニュージーランドの旗 マリーナ・エラコビッチ
ジンバブエの旗 カーラ・ブラック
6–4, 3–6, [14–12]

4大大会シングルス成績

略語の説明
 W   F  SF QF #R RR Q# LQ  A  Z# PO  G   S   B  NMS  P  NH

W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.

大会 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997–2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 通算成績
全豪オープン A 4R 2R 2R 2R SF 3R 2R A 1R 1R 1R 1R 3R 1R 1R LQ 16–14
全仏オープン 2R A LQ 4R 2R 1R SF 4R A LQ 2R 1R 1R 1R 1R LQ A 14–11
ウィンブルドン 1R 2R 1R 2R A 3R QF SF A 1R 1R 2R 1R 3R 1R LQ A 16–13
全米オープン 1R 2R 2R 2R QF QF 4R 1R A LQ 1R 1R 1R 1R 1R LQ A 14–13

世界ランキング

※年間最終シングルスランキング

1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 - 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016
順位 322 119 79 32 21 13 9 4 8 198 82 46 100 146 54 116 141 804

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著書

出演

関連情報

ゲーム

脚注

  1. ^ 熱烈応援の倉岡さんのおにぎり 伊達公子さん”. PHP研究所 (2020年6月28日). 2021年2月8日閲覧。
  2. ^ a b 「伊達姓を手放し味わった喪失感 クルム伊達公子さん」朝日新聞、2015年12月17日[リンク切れ]
  3. ^ クルム伊達公子が離婚発表「2人の人生に変化が」 日刊スポーツ、2016年9月28日閲覧。
  4. ^ “伊達公子さん、1月に再婚していた「50代の今、楽しい時間を2人で積み重ねたい」5年交際”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2022年9月28日). https://hochi.news/articles/20220928-OHT1T51021.html?page=1 2022年9月28日閲覧。 
  5. ^ nikkansports.com (2007年12月18日). “ナブラチロワさん代役でエキシビションに”. 2008年6月20日閲覧。
  6. ^ 時事通信 (2009年9月27日). “伊達が13年ぶりツアー優勝=史上2番目の高齢V-女子テニス”. 2009年9月27日閲覧。[リンク切れ]
  7. ^ 時事通信 (2010年5月26日). “クルム伊達、14年ぶりの勝利=昨年準優勝サフィナを逆転-全仏テニス”. 2010年5月26日閲覧。
  8. ^ nikkansports.com (2011年6月24日). “芝に強い伊達に絶賛の嵐”. 2011年7月4日閲覧。
  9. ^ スポーツニッポン (2012年11月22日). “クルム伊達、来季も現役 「自分のテニスを追求する」”. 2012年11月26日閲覧。
  10. ^ “クルム伊達 8年連続出場ならず”. tennis365.net. (2016年1月14日). http://news.tennis365.net/news/today/201601/107834.html 
  11. ^ “クルム伊達 復帰に再手術必須”. デイリースポーツ online. (2016年2月21日). https://www.daily.co.jp/newsflash/general/2016/02/21/0008825133.shtml 
  12. ^ “伊達公子、46歳で引退決断「再チャレンジにピリオド打つ」”. スポニチ. (2017年8月29日). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2017/08/29/kiji/20170828s00028000398000c.html 
  13. ^ “伊達公子破ったクルニッチ涙「勝ってしまいごめん」”. 日刊スポーツ. (2017年9月12日). https://www.nikkansports.com/sports/news/201709120000717.html 
  14. ^ JXTGエネルギー 企業情報 企業広告・スポーツ CMギャラリー 「ENEOSエネルギーソング テニス」編
  15. ^ NHKアカデミア 伊達公子 生きるヒントが、ここに。”. NHK (2023年5月17日). 2024年1月15日閲覧。
  16. ^ 「スーパーファミコンソフトオールカタログ 1994年」『スーパーファミコン パーフェクトカタログ』、ジーウォーク、2019年9月28日、122頁、ISBN 9784862979131 

外部リンク