井口資仁

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井口 資仁 (井口 忠仁)
千葉ロッテマリーンズ #6
Iguchi tadahito.jpg
2011年8月6日、QVCマリンフィールドにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都田無市(現:西東京市
生年月日 1974年12月4日(37歳)
身長
体重
178cm
91kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1996年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1997年5月3日
MLB / 2005年4月4日
年俸 1億8,000万円+出来高(2012年)
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 1996年
オリンピック
男子 野球
1996 野球

井口 資仁(いぐち ただひと、本名:井口 忠仁(読み同じ)、1974年12月4日 - )は、千葉ロッテマリーンズに所属するプロ野球選手内野手)。

目次

[編集] 球歴

[編集] プロ入り前

12月4日、東京都に生まれる。童話作家の寺村輝夫の次男が、友達や近所の大人を集めて野球チームを作ったが、これに寺村や長男も参加し、その後に入って来たのが井口であり、寺村は「井口君は俺が育てた」と語っていた(寺村輝夫参照)。國學院久我山高から青山学院大学へ進学。青山学院大学では1年春からレギュラー(入学当時の主将は小久保裕紀)。同期の澤崎俊和清水将海倉野信次、1学年下の高須洋介らと共に全日本大学野球選手権大会優勝を始め多くの輝かしい実績を残した。個人としても、1番・遊撃手の「青い核弾頭」として大活躍し、東都大学リーグ史上唯一である三冠王や、リーグ記録となる1シーズン8本塁打などを記録。大学通算成績は101試合出場、103安打、打率.281、24本塁打、61打点。 大学通算本塁打数の24本で、現在も破られていないリーグ記録である。1996年にはアトランタオリンピック野球日本代表に選出され、銀メダルに貢献。この時にキューバ代表のプレーに衝撃を受けたことが後のメジャー挑戦を意識するきっかけになったという[1]

プロ野球の各球団の争奪戦の末、福岡ダイエーホークスを逆指名し、ドラフト1位指名を受けて入団。背番号7。青山学院大学のチームメートでは、澤崎が広島1位(逆指名)、清水がロッテ1位(逆指名)で指名され、同一チームから同時に3名のドラフト1位選手が出た。 井口の青山学院大学入学および福岡ダイエーホークスへの入団は小久保裕紀の影響が大きいと言われる[誰によって?]。高校時代に、バルセロナ五輪で唯一の大学生として活躍した小久保の姿に憧れて同じ大学・プロ球団を選択した。

[編集] ダイエー時代

1997年は3月のオープン戦で右足首を捻挫したため開幕には間に合わず、5月3日の対近鉄バファローズ4回戦(福岡ドーム)で、2番・遊撃手として初出場。1回のプロ初打席で初安打、4回の3打席目では満塁本塁打を相手先発の山崎慎太郎から放つ鮮烈なデビューを飾った。外国人選手を除き、新人選手のデビュー戦での満塁本塁打はプロ野球史上初の快挙だった。しかし順調な滑り出しとは裏腹にその後は2割台前半の低打率に苦しみ、主に下位打線で起用されるようになった。そのオフにはハワイ・ウインターリーグに松中らと共に派遣され、ウエストオアフ・ケーンファイアーズに所属(背番号25)した。1998年は21本塁打を放つなど広角に打てる長打力があり、「恐怖の9番打者」と言われた。

1999年は開幕から3番を任されるものの、その後は低迷し例年と同様下位打線で起用されるようになる。しかし優勝争いの中でサヨナラ打を3度記録するなど勝負強さを発揮した。9月8日の首位攻防となる対西武ライオンズ26回戦(福岡ドーム)では西崎幸広からサヨナラ満塁本塁打を、試合前に西武が破れマジック1で迎えた9月25日の対日本ハムファイターズ26回戦(福岡ドーム)でも金村暁から決勝本塁打を放つなど、福岡ダイエー初のリーグ優勝、日本一に大きく貢献した。

2000年、シーズン中に左肩を負傷し、手術を行い長期離脱。日本シリーズで復帰するが、守備が得意な鳥越裕介の一軍定着により、こだわりを持っていた遊撃手のレギュラーを剥奪され、遂には二塁手にコンバートされる。優勝旅行にも参加せず、オフに登録名を本名の「忠仁」から「資仁」に変更して飛躍を誓った。

2001年島田誠コーチの助言から目標を盗塁王に定めて望んだシーズンで、強力打線の3番に定着。打率は.261ながら史上3人目の30本塁打・40盗塁を達成し、44盗塁で盗塁王のタイトルを獲得。強肩、俊足を生かしたセカンドの守備も評価され、ベストナインゴールデングラブ賞にも選ばれた。この年、井口の他に小久保裕紀が44本塁打、松中が36本塁打、城島健司が31本塁打し、パシフィック・リーグ初の30本カルテットを形成。日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初の快挙だった。11月には台湾で開催された第34回IBAF(国際野球連盟)ワールドカップ日本代表に高橋由伸井端弘和、高校生で唯一メンバー入りした寺原隼人らと共に選出され、3番二塁手として出場した。

2002年は打率.259に終わったものの、そのオフ城島と共に金森栄治スコアラーに指導され、「より引き付けて打つ打法」に変更。翌2003年にはそれまでの粗いイメージを覆し5試合連続猛打賞、1試合4二塁打の日本タイ記録を達成。1番・村松有人、2番・川崎宗則とともに盗塁を量産、終盤に村松が骨折で離脱したこともあり再び盗塁王に輝く。さらに4番松中、5番城島、6番ペドロ・バルデスとともに史上初の100打点カルテットを形成するなど、3番としてダイハード打線の中軸を担い、最終的に打率.340、27本塁打、109打点、42盗塁。2度目のベストナイン・ゴールデングラブ賞にも選ばれた。3年ぶりのリーグ制覇、4年ぶりの日本一に大きく貢献。日本シリーズ優秀選手にも選ばれた。オフには一時ポスティングシステムでのメジャー移籍を球団から承認されていたが、小久保裕紀の読売ジャイアンツへの移籍により否認。契約更改では「中内正オーナーの経営体制が刷新した場合、もしくは高塚代行が退任した場合、自由契約の選択権は井口にある」との覚書を交わした。

2004年にも打率.333、24本塁打、89打点とレギュラーシーズン1位に貢献した。公式戦最終戦の9月23日の対日本ハム戦では、延長12回裏に入来祐作からサヨナラ本塁打を放ったが、福岡ダイエーホークスとしては公式戦最後の本塁打となった。但し、チームはこの年導入されたプレーオフで敗れ、リーグ優勝は逃した[2]。オフには高塚猛オーナー代行が部下への強制わいせつ罪の容疑で逮捕されたため辞任したことを受け、前年に交わした覚書に基づき自由契約を選択し、メジャーリーグ挑戦を表明。球団は「不可解、不明朗な契約ではあるが契約は有効」と認め、チームにとっては前年の小久保の無償トレードに続く前代未聞の出来事であり、王貞治監督は「野球を分からない、愛せないフロントはもういらない」と怒りを顕わにした。

[編集] メジャー時代

[編集] シカゴ・ホワイトソックス

2005年シカゴ・ホワイトソックスと2年470万ドルで契約(3年目は年俸330万ドルの球団オプション)。開幕戦となった4月4日のクリーブランド・インディアンス戦(USセルラー・フィールド)に2番二塁手として初出場。開幕2戦目となる4月6日のインディアンス戦では、ケビン・ミルウッドからメジャー移籍後初安打を二塁打で記録(同試合で初盗塁も記録)。5月3日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦(USセルラー・フィールド)では、ブライアン・アンダーソンから左翼席へメジャー初本塁打を放った。その後もスコット・ポドセドニックと共にホワイトソックスの「スモール・ボール(監督のオジー・ギーエンスマート・ボールと呼んでいた)」を牽引し、チームの5年ぶりの地区優勝に大きく貢献。

ポストシーズンでは10月5日の前年度ワールドチャンピオン、ボストン・レッドソックスとのアメリカン・リーグ・ディビジョン・シリーズ(ALDS)第2戦(USセルラーフィールド)で決勝の逆転3点本塁打をデビッド・ウェルズから放つ活躍などを見せ、US移籍1年目でワールドシリーズに出場。日本人選手としては新庄剛志松井秀喜田口壮に次ぐ4人目のワールドシリーズ出場選手となった。ワールドシリーズも制し、日本人では伊良部秀輝に次いで2人目のチャンピオンリングを獲得した(伊良部はワールドシリーズに出場しておらず、実際に出場してリングを獲得したのは井口が初めて)。しかし最後の打席後に交代し、優勝決定の瞬間はベンチにいたため、「優勝した瞬間グラウンドにいたはじめての日本人選手」は翌年の田口に譲ることになった。また、日本人で初めて日本シリーズとワールドシリーズの両方を制覇した選手となった。後にこのシーズンについて自己犠牲を強いられる役割には不満があったと語るが、ギーエン監督の「今年のMVPはイグチ。イグチほど野球を深く理解している選手はいない。彼がいたからホワイトソックスはワールドシリーズを制覇できた」という言葉で救われたという[1]

オフにはワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出される。当初は出場を前向きに検討するコメントをしていたが、出場表明後NPBから何の連絡も無いことに不信感を持ったことや、メジャーでクリーンナップを打つという夢に向けての調整をしたいこともあり出場を辞退。代わりに宮本慎也が選出された。日本のWBC優勝については「コメントする資格は自分に無いが、日本人として嬉しい」と述べた。

2006年は開幕前には長打力を生かすため打順を6番へ変更する案が出たが、2番の適任者が他にいなかったため、前年と同じく主に2番で起用された。それでも5月20日のシカゴ・カブス戦で1試合6打点を、6月25日のヒューストン・アストロズ戦で1試合7打点を記録。最終的にリーグの二塁手最多の18本塁打を放ち、ギーエン監督は「打点の稼げるパワーヒッターになろうとして渡米したのに、2年間、今までやったことがない仕事をよくやってくれた」とコメントした他、シーズン終了直後には直々に「お前にはずいぶんと我慢させてしまった。今年だって本当なら20本以上の本塁打を打っていたはずだし、打率も3割を越えていたはずだ。来年はもっと自由に打たせる」と言われたという[1]。12月29日の東京証券取引所の大納会にゲストとして招かれた。

2007年は開幕直後に中指を骨折しながら強行出場していたこともあり低調なスタートを切り、7月27日には右手を骨折したチェイス・アトリーの代役としてマット・マロニーとのトレードでフィラデルフィア・フィリーズへ移籍。フィリーズではアトリーの復帰まではスタメンで二塁手を務めたが、アトリーの復帰後はチャーリー・マニエル監督から三塁手への転向を勧められたがこれを固辞。そのため主に代打での出場となり、フィリーズ移籍後は打率.304を残した。ポストシーズン終了後には「現在永住権を申請中であり、来季は二塁手のレギュラーとして起用してもらえる球団を中心に移籍先を探す」旨の発言をした。12月18日にサンディエゴ・パドレスと1年385万ドルで契約を結んだ。

[編集] サンディエゴ・パドレス

パドレス時代の井口

2008年は4月中旬に32打席連続無安打になるなど絶不調に陥ったが、4月26日の対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦(ペトコ・パーク)で日本人選手史上2人目となるサヨナラ本塁打を記録。5月16日の対シアトル・マリナーズ戦(セーフコ・フィールド)ではダイエー時代の同僚城島健司と2004年10月1日のパ・リーグ・プレーオフ・セカンド・ステージ対西武5回戦(福岡ドーム)以来1313日ぶりにアーチ(本塁打)を競演。その後も正二塁手として出場していたが3安打を放った6月5日の対ニューヨーク・メッツ戦(ペトコ・パーク)で、走塁中に転倒し右肩を脱臼。6月6日にメジャー4年目で初の故障者リスト入りとなった。8月2日に復帰したが脱臼した右肩の影響などで調子が上がらず9月1日に解雇されるが、前年に所属したフィリーズと5日に契約。その後フィリーズはポストシーズンに進出。井口の入団はポストシーズン出場選手登録期限後のため出場資格は無かったが、チームがワールドチャンピオンに輝いたため、同年フィリーズに所属していた田口壮と共に2つ目のチャンピオンリングを手にすることになった。

[編集] ロッテ時代

11月15日にFAとなり、複数年契約を提示したフィリーズを始め複数のメジャー球団から三塁手としてのオファーがあったが、家族の生活環境と二塁手としてのオファーを優先し、2009年1月20日に千葉ロッテマリーンズと年俸1億8千万円の3年契約を結んだ[1]。背番号6は過去に落合博満(現・中日ドラゴンズ監督)や初芝清らが着けており、「偉大な番号をいただけて、本当に光栄。この番号に恥じないプレーをする」とコメントした。

石垣島での春季キャンプではダイエー時代に行っていたアーリーワーク(朝練習。メジャーでは怪我の恐れなどから禁止だった)を竹原直隆と共に敢行。開幕から4番を担い、4月7日には史上7人目となる全打順本塁打を達成。この本塁打は自身のNPB通算150本塁打でもあった。

2010年は3番セカンドに定着し、シーズン打率.294に対し得点圏打率は.340を記録し、リーグ2位の103打点を記録した。また、四死球112と二塁打44は共にリーグトップだった。

[編集] プレースタイル

井口の走塁

2003年にはトリプルスリーを達成しかけたこともあり、盗塁王に2度、ゴールデングラブ賞3度に輝くなど全盛期は走攻守3拍子揃った内野手だった。西武ライオンズ時代の松坂大輔との対戦は、通算で打率.365(85打数31安打 3本塁打9打点)を残し、かなり得意としていた事から、「松坂キラー」と呼ばれた。

右方向への長打が特徴的な勝負強い打撃が持ち味で、状況に応じた打撃もできるため、メジャーリーグではクリーンナップへのつなぎを求められる2番での出場が多かった。ホワイトソックス時代はチームの方針からほぼ毎打席1ストライクを捨てながらも20本近い本塁打を放ち、A.J.ピアジンスキーから「打順が変われば25本は打てるパワーは十分ある」[3]、他球団スカウトからも「2番ではなく6番を打たせれば25~30本塁打する力がある」と長打力が高く評価されていた[4]。ロッテ移籍当初は4番や2番で出場したが、後に3番に定着し、2009年から2年連続でIsoDが1割を越えるなど選球眼に磨きがかかり、2010年には外角打率.313で12本塁打を放つなど外角に強さを発揮した[5]

走塁ではスイングが大きいため一塁到達までは4.3秒と平均的だが[6]、ダイエー時代に二度の盗塁王を獲得したように盗塁技術にも優れていた。

二塁守備では深めのポジションに就くことが多く、肩の強さは二塁手としてはメジャーでも強肩の部類に入ると評された[6]ジミー・ロリンズは井口と初めて二遊間を組んだ時について「あの日は練習時間を間違えて球場入りしてしまったんだ。練習や打ち合わせなしで本番に臨んだ。でも、初回から彼のプレーを見て『本物だ。それにオレと感覚が似ている。オレと同じで基本の枠を越えてプレーできる選手だ』と実感した。素晴らしいね」と語った[7]。2006年には『ベースボール・アメリカ』誌で監督投票による「最も守備の良い二塁手」の2位に選出されるなどグラブ捌きにも定評があったが[8]、守備範囲は広くなく[6]、2005年にはDRSUZRなど各種守備指標で平均を上回る数値を残していたが、翌年以降は平均を下回り、ロッテ移籍後も得点換算などで平均を大きく下回った[9]

[編集] グーイング

ホワイトソックス時代には本拠地USセルラー・フィールドで井口が打席に入るときや好プレーをしたとき、ブーイングに似た「GUU-! GUU-!」という唸り声をホームの観客が発した。これは「グーイング(guing)」と呼ばれる井口への応援である。現地では「イグチ」のグにアクセントが置かれた特徴的な発音で呼ばれることが多く、これに由来する[1]

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1997 ダイエー 76 252 217 31 44 6 3 8 80 23 3 3 2 1 24 0 8 67 4 .203 .304 .369 .673
1998 135 476 421 58 93 18 4 21 182 66 12 6 15 4 28 1 8 121 6 .221 .280 .432 .712
1999 116 424 370 38 83 15 1 14 142 47 14 7 4 3 38 1 9 113 13 .224 .310 .384 .694
2000 54 185 162 21 40 9 2 7 74 23 5 2 5 1 15 0 2 29 5 .247 .317 .457 .774
2001 140 636 552 104 144 26 1 30 262 97 44 9 9 2 61 0 12 117 14 .261 .346 .475 .821
2002 114 472 428 64 111 14 1 18 181 53 21 7 5 2 27 0 10 84 8 .259 .317 .423 .740
2003 135 617 515 112 175 37 1 27 295 109 42 6 1 6 81 2 14 81 10 .340 .438 .573 1.011
2004 124 574 510 96 170 34 2 24 280 89 18 5 0 8 47 2 9 90 14 .333 .394 .549 .943
2005 CWS 135 581 511 74 142 25 6 15 224 71 15 5 11 6 47 0 6 114 16 .278 .342 .438 .780
2006 138 627 555 97 156 24 0 18 234 67 11 5 8 2 59 0 3 110 7 .281 .352 .422 .774
2007 90 377 327 45 82 17 4 6 125 31 8 1 1 3 44 1 2 65 5 .251 .340 .382 .722
PHI 45 156 138 22 42 10 0 3 61 12 6 1 1 3 13 0 1 23 1 .304 .361 .442 .803
'07計 135 533 465 67 124 27 4 9 186 43 14 2 2 6 57 1 3 88 6 .267 .347 .400 .747
2008 SD 81 330 303 29 70 14 1 2 92 24 8 1 1 0 26 0 0 75 11 .231 .292 .304 .596
PHI 4 7 7 0 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .286 .286 .429 .715
'08計 85 337 310 29 72 15 1 2 95 24 8 1 1 0 26 0 0 75 11 .232 .292 .306 .598
2009 ロッテ 123 530 448 71 126 24 3 19 213 65 4 4 0 1 68 2 13 101 11 .281 .391 .475 .866
2010 143 650 531 88 156 44 1 17 253 103 2 1 0 7 98 1 14 114 13 .294 .412 .476 .888
2011 140 597 509 52 135 23 3 9 191 73 1 1 0 7 72 4 9 96 11 .265 .362 .375 .737
NPB:11年 1300 5413 4663 735 1277 250 22 194 2153 748 166 51 41 42 559 13 108 1013 109 .274 .362 .462 .824
MLB:4年 493 2078 1841 267 494 91 11 44 739 205 48 13 22 14 189 1 12 387 40 .268 .338 .401 .739
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 背番号

  • 7 (1997年 - 2004年)
  • 15 (2005年 - 2007年途中)
  • 12 (2007年途中 - 2008年途中)
  • 10 (2008年途中 - 同年途中)
  • 9 (2008年途中 - 同年終了)
  • 6 (2009年 - )

[編集] タイトル・表彰

[編集] 個人記録

NPB初記録
NPB節目の記録
※同時に史上7人目の全打順本塁打を達成(最後に4番で放って達成したのは史上初)
NPBその他の記録
  • オールスターゲーム出場:7回(2001年 - 2004年、2009年 - 2011年)
  • ランニング本塁打(1998年7月5日対ロッテ12回戦 吉田篤史から)
  • 30本塁打40盗塁(2001年) ※張本勲(1963年)、秋山幸二(1990年)に次いで史上3人目
  • 1試合4二塁打(2003年7月26日) ※プロ野球タイ記録・史上9人目
  • 5試合連続猛打賞(2003年6月3日~6月8日) ※パ・リーグ新記録・プロ野球タイ記録(1954年 西沢道夫(中日)以来2人目)
  • シーズン最多得点:112(2003年)
MLBでの記録
  • 2006年6月25日、対アストロズ戦でMLB日本人選手中最多の1試合7打点を記録(左越3点本塁打・左中間満塁本塁打)
MLB、NPBにまたがった記録

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d e 井口資仁 『二塁手論 現代野球で最も複雑で難しいポジション』 幻冬舎、2010年。ISBN 978-4-344-98175-1
  2. ^ この頃のプレーオフは、レギュラーシーズンの順位に関係なく、プレーオフを勝ち抜いたチームがリーグ優勝という制度だった。
  3. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2007』 廣済堂出版、2007年、150頁。ISBN 978-4-331-51213-5
  4. ^ 2007 二塁手ランキング『月刊スラッガー』2007年6月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-6、29頁。
  5. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』 白夜書房、2011年、45頁。ISBN 978-4-86191-710-3
  6. ^ a b c 現役スカウト部長による“本物”のスカウティング・レポート『月刊スラッガー』2005年11月号、雑誌15509-11、32-35頁。
  7. ^ MLB TALK SHOW No27 ジミー・ロリンズ『月刊スラッガー』2007年11月号、雑誌15509-11、67-69頁。
  8. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008』 廣済堂出版、2008年、430頁。ISBN 978-4-331-51300-2
  9. ^ Baseball Lab守備評価~Second BasemanSMR Baseball Lab

[編集] 著書

  • 井口の法則 メジャーリーガーの野球技術(MCプレス) 2008年8月 ISBN 4-86295-047-7
  • 二塁手論―現代野球で最も複雑で難しいポジション (幻冬舎新書) 2010年7月 ISBN-10: 4344981758 ISBN-13: 978-4344981751

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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