松井秀喜

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松井秀喜
ニューヨーク・ヤンキース No.55

基本情報
国籍 日本
出身地 石川県能美郡根上町(現:能美市
生年月日 1974年6月12日(33歳)
身長
体重
6' 2" =約188cm
210 lb =約95.3kg
選手情報
投球・打席 右投左打
守備位置 外野手(左翼手)
プロ入り 1992年 1位
初出場 NPB / 1993年5月1日
MLB / 2003年3月31日
年俸 $13,000,000(2008年)
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

松井 秀喜(まつい ひでき、1974年6月12日 - )は、ニューヨーク・ヤンキースに所属するプロ野球選手外野手)。代理人アーン・テレム

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入りまで

  • 1974年6月12日石川県能美郡根上町に生まれる。父・昌雄と母・さえ子の次男として生まれる。兄の影響で11歳から本格的に野球を始める。
  • 根上中学校を経て星稜高等学校に入学。1年生から4番打者を務める。
  • 1990年、高校一年、夏の選手権では3打数0安打、チームは初戦敗退。この大会には中村紀洋、後にメジャーに渡ることになるイチローも出場したがともに初戦敗退した。秋は北信越大会で敗れ、選抜出場を逃す。
  • 1991年、高校二年、選手権3回戦の竜ヶ崎一戦で甲子園初本塁打をライトスタンドに放った。新チームでは監督山下智茂の推薦でキャプテンに指名される。
  • 1992年、高校三年、センバツではラッキーゾーンが撤去され、本塁打の激減した阪神甲子園球場の初戦の宮古戦で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打の当時の大会記録をマークする。2回戦の堀越戦では難しいカーブを本塁打し、そのバッティングを長嶋茂雄が見ていて、それがきっかけで巨人入りしたという話は有名である。しかし、準々決勝の天理戦では本塁打は出ず、自らのエラーもありチームは敗退した。
  • 選手権は2回戦の対明徳義塾戦で敗退。この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を行うなどの社会問題にまで発展した。対戦相手の明徳義塾高等学校の馬淵監督は星稜の練習を見て、『高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた。』と試合後コメントした。
  • 高校通算打率は.450、本塁打は60本。高校通算60号は国体の対尽誠学園戦の第4打席、高校最終打席で記録。
  • 1992年11月に行われたドラフト会議で巨人阪神中日ダイエーの4球団が1位指名。本人は、小さい頃からの阪神ファンであり、阪神入りを希望していたが、抽選の結果、交渉権を獲得した巨人に入団。契約金は1億2,000万円。年俸は720万円。

[編集] 巨人時代

  • 1993年、オープン戦に7番で出場するも、プロの速球や変化球に手こずり三振と凡打の山を築いた。そのためか開幕二軍スタートだったが、二軍の開幕戦にて同じ新人の伊藤智仁からホームランを放つなど、12試合で.375、4本塁打の活躍で一軍に昇格。5月1日のヤクルト戦東京ドームに7番レフトでプロデビューを果たした。初打席は西村龍次からセカンドゴロ。2打席目には同じく西村からライトフェンス直撃の2塁打を放ち、初安打初打点を記録。翌日の5月2日には高津臣吾から内角の直球をライトスタンドに運びプロ入り初本塁打。しかし、その後は各球団のマークに遭い6月にはまた二軍に降格する破目となるが、8月下旬より再び一軍に昇格してヒットを連発し、セ・リーグ高卒ルーキー新記録となる11本塁打を放ったものの、残念ながら注目の新人王は伊藤智仁に奪われた。プロ入り1年目の成績は57試合の出場で打率.223、11本塁打。
  • 1994年、開幕戦で2本塁打。中日ドラゴンズとのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「10.8決戦」でも本塁打を放つなど20本塁打を記録してチームの日本一に貢献。オールスターではセ・リーグ史上最年少で4番を打った。
  • 1995年、22本塁打を放ち、初のベストナインを受賞。8月24日の横浜戦でレギュラーシーズンでは初の4番を打った。
  • 1996年、自身初の開幕四番スタートだったが5月からは落合が四番に返り咲き自身は三番に戻った。その後チームの上昇と共に成績も上昇し、自身2度目のリーグ優勝を経験するとともに初のセリーグMVPを受賞。夏場には7月、8月と2か月連続月間MVPを獲得し、巨人の逆転優勝に大きく貢献した。リーグ最終戦まで山崎武司と本塁打王のタイトルを争っていたが、最終戦の中日戦では、すべての打席を敬遠されてタイトルを逃した。22歳での38本塁打は王貞治に並ぶ年齢別最多本塁打記録である。同一投手からのシーズン最多本塁打のタイ記録の7本塁打を斎藤隆から放った。この年の斎藤隆との対戦成績は25打数7安打で、安打のすべてが本塁打であった。
  • 1997年4月27日の広島戦で通算100本塁打を達成。ドゥエイン・ホージーとの本塁打王争いに1本差で敗れ、史上初の2年連続1本差でタイトルを逃すことになる。
  • 1998年7月28日のヤクルト戦で通算150本塁打を達成。左ヒザの具合が思わしくないままシーズンを過ごし、その影響でプロ生活最大のスランプに悩まされる。開幕戦は4番を打ったものの、スランプの影響で清原和博に4番の座を奪われる。4月は打率.190、2本塁打に終わった。5月は月間MVPを受賞するなど本来の調子を取り戻し、その後は順調に打ち続け本塁打王打点王最高出塁率のタイトルを獲得。オールスターでは新記録となる4試合連続本塁打を放つ。
  • 1999年6月5日の横浜戦から6月10日の中日戦まで5試合連続本塁打を記録する。9月21日の阪神戦では通算200本塁打を達成。7月のオールスターで代打で出場した際にわき腹を痛め、連続フルイニング出場が当時歴代3位の574試合で止まる。以後8月中旬までは連続試合出場のために1イニングだけ守備固めとして出場する。ケガの影響が響いてロベルト・ペタジーニと2本差で本塁打王を逃すことになるが自己最高の42本塁打を記録。日本人のシーズン40本塁打は1989年落合博満以来10年ぶりの快挙だった。また巨人では1977年王貞治以来22年ぶりの快挙であった。
  • 2000年7月12日の広島戦で通算1000本安打を達成。本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞を受賞し、巨人の日本一の立役者となる。
  • 2001年4月12日の中日戦に1000試合目の出場で通算250本塁打を達成。5月3日の中日戦で当時史上5人目の1000試合連続試合出場を達成。5月5日から8月13日までセ・リーグ歴代1位の65試合連続出塁を達成する。9月27日に自身初の1試合3本塁打を記録するなど9月は打撃好調で月間MVPを受賞した。この年、初の首位打者のタイトルを獲得したが、全イニング出場での首位打者は王貞治イチローに次ぐ史上3人目の快挙である。
  • 2002年FA権獲得が目前に迫り、球団からは7年総額56億円という破格の長期大型契約の話が持ちかけられるが、これを断り当時プロ野球史上最高額となる年俸6億1000万円で契約した。7月9日に通算300本塁打を達成。同時にフリーエージェント権を取得。オールスター前までは打球が上がらず76試合で18本塁打だったが、後半戦は64試合で32本塁打という驚異のペースで打ち続け、自己最多、史上8人目の50本塁打を記録する。セリーグでは1985年ランディ・バース以来17年ぶり、巨人では同じく1977年王貞治以来の25年ぶりの快挙となった。50本目のホームランは2002年の本拠地最終戦のヤクルト戦・東京ドームで記録。最終打席は一度キャッチャーへのファールフライを打ったところ捕手米野智人が落球。次の投球で本塁打を放った。7・8月と2か月連続で月間MVPを受賞。9月7日の広島戦でプロ野球新記録となる5年連続100得点を記録した。三冠王目前だったが、首位打者争いでは福留孝介にタイトルを譲った。打率、本塁打、出塁率では自己最高の成績で、本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVPを獲得する。
  • 2002年シーズン終了後、FA権を行使し、アメリカメジャーリーグニューヨーク・ヤンキースと3年2,100万ドルで契約した。巨人からFA権を行使して移籍したのは、1994年の駒田徳広横浜へ移籍)以来2人目であった。
  • 松井在籍時の10年間巨人はリーグ優勝4回(内日本一3回)だったが、松井が抜けた2003年以降、4年間わたってリーグ優勝から遠ざかり、球団の人気、巨人戦のテレビ観戦視聴率、球場への観客動員数がそれぞれ低下し、かつては松井清原と共にMKT砲と呼ばれ巨人打線の中軸の一人であり、松井と同僚だった高橋由伸選手が怪我や故障に苦しみ始め、長嶋全盛期の頃の選手が次々と他球団へ移籍もしくは現役引退となり、以前に増して露骨な戦力補強が繰り返されるようになるなど、いかに巨人にとって松井の存在が大きかったかを物語っている。

[編集] ヤンキース時代

2003年
  • 2003年、ニューヨーク・ヤンキースに入団。3月31日公式戦開幕試合トロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、初回にレフト前へのタイムリーヒットを放ち、初打席・初安打・初打点を記録。4月8日の本拠地開幕戦ミネソタ・ツインズ戦ではジョー・メイズ投手から第1号満塁本塁打。4月12日にはメジャー初のサヨナラヒットを放つ。オールスター出場後の後半開幕戦でもサヨナラ本塁打を放った。勝負強いバッティングでヤンキースの新人としては67年ぶりの100打点以上を記録した。
  • 7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票で選出され、新人としては歴代19人目のオールスター先発出場を果たした。日本人では1995年の野茂英雄、2001年のイチローに続く快挙となった。
  • 新人として、ヤンキースの選手として、21世紀になって大リーグで初めてシーズン163試合に出場した選手となった。通常は162試合だが、雨天引き分けによる再試合があったため。
  • 地区シリーズではポストシーズン日本人初のホームランで先制点。ワールドシリーズ第2戦では、ワールドシリーズでの日本人初ホームランとなるバックスクリーンに飛び込む先制3ランを放った。
2004年
  • 日米通算350本塁打を達成。
  • 2004年8月7日、対トロント・ブルージェイズ戦で2打席連続本塁打を放ち、メジャーリーグ移籍後初の2打席連続本塁打となった。
  • 2004年9月30日、対ミネソタ・ツインズ戦で日本人選手初の3試合連続本塁打を放った。
  • シーズン優勝を決めた試合で同点本塁打を放ち30本塁打目を記録。最終的にメジャーで自己最高となる31本塁打を記録した。
  • ポストシーズンでは、アメリカンリーグ優勝決定シリーズでMVP候補になるほど打撃面で貢献したが、投手陣が最後に崩れ3勝4敗で逆転負けを喫した。
2005年
  • 2005年、メジャーでは自己最高となる打率.305、116打点を記録。打率はリーグ7位で打点は8位。
  • 2005年9月8日、日米通算400本塁打を達成。
  • シーズンオフにヤンキースと4年5,200万ドルで契約を延長。
2006年
2007年
  • 開幕から4試合目の現地時間2007年4月7日、オリオールズ戦の2回の第1打席目に捕ゴロで一塁へ走った際、左太股に一瞬つったような違和感を訴える。その後2イニングはストレッチなどで様子を見ながら守備に就いていたが、太股の張りが消えないため、4回の第2打席目の直前で首脳陣は代打を告げ、そのままベンチ裏に退いた。翌日4月8日のオリオールズ戦は欠場、同日よりDL入りとなった。MRI(磁気共鳴画像装置)診断の結果、左太股の軽い肉離れが判明。故障は順調に回復、DL入りの期限が切れる4月23日に出場選手登録され、同日のデビルレイズ戦へ16日ぶりにスタメン復帰となった。
  • 2007年5月6日(日本時間7日)、本拠地での対シアトル・マリナーズ戦で日米通算2000本安打を達成した。名球会入りも果たした。
  • 2007年8月2日(日本時間3日)、7月のアメリカン・リーグ月間MVPに選出される。出場28試合で打率.345、28打点の成績。長打率.735、13本塁打、31得点はリーグトップだった。2003年6月に月間新人MVPを受賞しているが、月間MVPは初受賞。
  • 2007年8月5日(日本時間6日)、ヤンキースタジアムでのロイヤルズ戦で、メジャー通算100号本塁打を達成。


[編集] 人物・エピソード

  • 高校時代、日本選抜に選ばれアメリカで試合を行っている間は、ロサンゼルス在住の日本人一家の元にホームステイしていた。交流は現在でも続いており時々スポーツニュースでも放送されている。松井は一家の主人のことをアメリカのお父さんと呼び慕っている。
  • 巨人時代は日本を代表する長距離打者。メジャーリーグ移籍以降は本塁打が激減し、自らを「メジャーでは中距離打者」と評した。ニックネームは「ゴジラ」。英語では、ニックネームを名前の間に挟むのが通例のため、ヒデキ・ゴジラ・マッツイー(Hideki "Godzilla" Matsui)と呼ばれることもある。ニューヨーク・ヤンキースの公式サイトにあるファンフォーラムでは「mats」、または好機に強いことから「Clutchzilla」と呼ばれている。ヤンキースのチームメートも呼び名も「mats」が多いという。巨人時代、原監督はよく「ゴジ」と呼んでいた。
  • 打点を多く叩き出すスタイルのため、2007年にはチーム内で「パックマン」という愛称がついたことも[2]。ゲームのキャラクターのように打点を呑み込んでいく連想からという。
  • 背番号は巨人・ヤンキースを通して一貫して「55」番を付けている。巨人に入団当時、本人は高校時代に付けていた5を希望していたが、当時は在籍していた岡崎郁選手が付けていた。たまたま55が空いていたため55になったという説もある。巨人時代に年間最多本塁打55本を打った同球団OBでの王貞治の記録にあやかって付けられたもの。ヤンキースに移籍した時には「背番号は何番でもいい」と言う発言をしていたが、たまたまその時にヤンキースで55番をつけている選手がいなかった為、ヤンキースでも55番をつける事ができた。松井がヤンキースに移籍した後の巨人では空番となっており、現在までのところ在籍選手・新加入の選手の誰も付けていない。つまり、「暫定欠番」となっている。
  • 監督からの信頼、強い精神力が求められる連続試合出場は、2006年の故障で記録が途切れるまで、日本で1250試合、大リーグで518試合、日米通算1768試合を数える。『きめ細かい体調管理による安定したフィジカルコンディションがその要因』と言われていたが、2006年の骨折後に『初めて体重計を買った』や、2007年のプレーオフ敗退時の『体調を整えるって大変なことだな。若いときはそんなこと考えもしなかったけど』という本人のコメントから、生来の身体の頑丈さが出場を続けられた一番の理由のようである。
  • 元来は父親譲りの熱狂的な阪神ファンで、掛布雅之真弓明信の大ファンであったため、阪神ファンからの印象も元巨人の選手にもかかわらず悪くない。ドラフト会議で巨人が交渉権を得た時に、周りにいた友人たちは松井が阪神ファンと知っていたことから歓声も拍手も出来ずに静まり返ってしまった。後に阪神へ移籍した広澤克実が掛布の背番号であった31番をつけた時には、「その番号は僕が付けたい番号」と縦じまの31番に対する憧れをみせていた。
  • 本業の野球以外にもCM撮影やTV出演など激務にも拘らず、練習後にファンにサインをねだられても断るようなことはしないらしく、小学校の道徳教育の副読本にも取り上げられている(詳細は「ヤンキース時代」を参照)。
  • 広岡勲広報やスポーツ紙の記者などマスコミとの関係は非常に親密で、ヤンキース移籍後も毎試合後に会見を行い、記者たちの質問にも真摯に答える。延長などで時間が遅くなってしまった場合、取材を優先してユニフォームのまま会見を受けることもある。シーズン終了後に、番記者や通訳らをメンバーに加えて行われる「草野球」は、毎年の恒例行事となっている。その際、松井は投手を務める。記者と食事、キャッチボールを行うことも多く、度々記事になっている。
  • WBCを辞退した際には、「王貞治殿」と宛名を書いた便箋15枚の手紙を書き送り、王監督に辞退の理由を説明した。
  • ジャイアンツ時代から有名女優、タレントなどとの密会がすっぱ抜かれることも多く、女性関係の話題には事欠かない。その一方で、チームでは練習・試合以外での人付き合いが良い方ではなく、ジャイアンツ時代には週刊少年マガジンのジャイアンツ特集で同僚の元木大介から「彼は試合が終わった後、家でゴジラの着ぐるみでも着ているのかな?」と言われるほどだった。
  • 近時は酒井美紀戸田菜穂らとの交際が話題となった。とくに2005年の戸田との交際報道では父・松井昌雄が結婚の可能性を示唆するなど真剣な交際が報じられたが、結局翌年破局に終わった。
  • 巨人時代から花粉症に悩まされており、そのせいか近年キャンプからシーズン開幕直後にかけては調子を崩すことが多い。
  • 書籍「不動心」のタイトルについて松井は、2006年の怪我の療養中に長嶋茂雄に会った際、2つあった候補の中から「不動心」を選んでもらったという。その時に長嶋は、特に何も語らず「これ」と一言述べただけですぐに決められたという。
  • 2008年3月26日、25歳の日本人女性(富山県出身)元OLとアメリカ合衆国ニューヨーク市内で結婚式を挙げた。[1]

[編集] プロ入りまで

  • 第85代・第86代内閣総理大臣森喜朗は松井の実家の隣の集落出身で、両者とも根上町立浜小学校の卒業生であり、松井の後援会名誉会長を務めている。
  • 小学生時代にわんぱく相撲大会で優勝。町の少年柔道教室に在籍しており、子供の頃は野球をやるか柔道をやるか悩んだという。根上中学校に柔道部がなかったため、野球に専念するようになった。
  • 松井が左打者になったのは、あまりにも打ちすぎるので、兄たちにハンデとして左で打つように言われたからという説が一般的である。当時松井が好きであった掛布雅之の影響で左で打つようになったという話もある。
  • 根上中学時代は通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあった。代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになった[要出典]
  • 中学時代のある練習試合で敬遠気味の四球を受けた際、バットを叩きつけ投手を睨み付ける、という不貞腐れた態度をとった。これを見た自軍のコーチが激昂し、試合中にもかかわらず、松井を呼びつけ彼の顔を何度も張った。この経験が後の五打席連続敬遠の際の落ち着いた対応につながったという。
  • 高校は当初は地元の石川県立小松明峰高等学校に進学し、星稜を倒したいと思っていたが、高校の監督山下智茂からの熱烈な勧誘や野球部の監督やコーチに薦められて星稜に進学することに決めた。
  • 星稜では1年生の時から4番を打っており、5番を打っていたのは3年生の村松有人だった。
  • ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「10年に1人の怪物」と言われていた。
  • 高校二年生の夏休みに部内で体力測定を行った際、背筋力250㎏、バーベル上げ150㎏と、関係者曰く「清原和博以来の数値」というようにずば抜けたものだったという。もちろん部内では圧倒的だった。
  • 星稜では毎年キャプテンは部員による投票により選んでいたが、山下監督が松井の統率力や影響力を高く評価しており、特例としてキャプテンに任命したという
  • 松井の交渉権を引き当てたのは13シーズンぶりに巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄で、「確定」のくじを引いた際、親指を立て満面の笑顔を見せた。当時の松井は阪神入りを熱望していたが、ドラフト会議直後に長嶋監督から直接電話を受け、長嶋監督の言葉に感銘を受け、すんなり巨人入りを決めた。
  • 松井のドラフト指名の際、当初巨人フロントは松井ではなく伊藤智仁を指名する予定だったが、長嶋が松井の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている。
  • 中学校を卒業し、星稜高校の入学式前から野球部の練習に参加していた。他校との練習試合で監督より「4番・サード」を告げられ、ヒットを放った。

[編集] 巨人時代

  • プロ初のキャンプでは150m級の場外弾を連発し、ファンの度肝を抜く。川上哲治青田昇等の野球評論家は「王貞治より上」と絶賛した。バックスイングが小さくフォロースルーが大きい力任せでない本当のスラッガー、という評価だった。
  • プロ入り初ホームランの球は、高津の内角球だった。ヤクルトの野村克也監督が松井が内角球に強いという話を確かめるために高津に投げさせたという。新人の年の5月2日、9回裏に東京ドームの中段に放り込んだ。
  • 高卒ルーキーで2桁本塁打を放ちながら新人王を逃したのは松井が初めてである。この年の新人王は規定投球回数に達しないながらも防御率0.91という驚異的な数字を叩き出した伊藤智仁
  • 1995年頃、フジテレビ系の子供番組ポンキッキーズの企画で、室内練習場にて野球少年と対決した。結果は、1人目はファーストゴロ、2人目はライトスタンド上段への本塁打だった。
  • 1999年5月下旬頃の東京ドームでの阪神戦でダレル・メイ投手からデッドボール(二塁走者の清水の三盗阻止のためと思われる)を受け、怒りの表情を出して即バットを放り投げ、メイに2,3歩歩み寄った際、球審に止められてその場でうずくまり、これより球場全体が一瞬どよめいた。試合後『あれは絶対故意に違いない』とコメント。その後試合ではサヨナラ三塁打を放った。
  • ジャイアンツ時代の契約更新は、必ず毎年12月24日に行ったことで「クリスマス更改」と呼ばれ、大物選手は下交渉をシーズン中から行うのが慣例のため球団との交渉時間よりもインタビューの方が長いほどで、松井はきれいに一発更改が続いていた。また、本人自体があまり金額自体に拘りを持っていなかった事も理由のひとつ。ヤンキース時代も含めても保留をしたことは一度もない。更に巨人時代には更改の記者会見時にくす球を割ったり、おもちゃのバズーカ砲を発射するなど、何らかのパフォーマンスをする事がお約束となっていた。松井はマスコミには「この日(クリスマスイブ)あたりは、1人でヒマなんですよ。忙しくなれるようにしたいです」と笑いながら言っている。ジャイアンツ時代から天災やテロでの被害者・被害地への義援金を一度に数千万出資している。ベトナムの孤児として暮らす10人ほどの子供たちに対しても、経済的里親として支援金を送っている。

[編集] ヤンキース時代

ヤンキースでの背番号55
ヤンキースでの背番号55
  • 2005年には、4月9日から5月29日にかけて46試合、202打席連続本塁打なしという不調に陥った。
  • メジャーリーグでデビュー以来518試合連続出場は、日本人選手としては歴代1位の記録である。
  • 仲の良いチームメイトは主将のデレク・ジーター。選手として、人間としてジーターを尊敬しているといい、ジーターもまた松井を2005年に副キャプテンに指名するなど厚い信頼を寄せている。またジョー・トーリ前監督については、自らが寄せる信頼を繰り返し語っていた。トーリもまた、契約更改時に「世界中の金を集めてでもヤンキースは松井と契約すべきだ」との賛辞を送っていた。
  • 審判に空振りをとられ、腑に落ちない表情の松井が三振に倒れたことにジョニー・デイモンが猛抗議をし、退場を宣告されたことがある。2006年に故障でチームを離脱した際には、首脳陣・チームメイトが口を揃えて「彼の代わりは存在しない」「松井ほどナイスガイはいない」と発言した。
  • 2005年度の小学校、2006年度の中学校の道徳副読本に登場、甲子園で5連続敬遠四球を受けた時の対応など、「誠実さ」が取り上げられた。
  • 2006年の大晦日にオーケストラ・アンサンブル金沢の演奏による松井応援歌『栄光(ひかり)の道』(宮川彬良作曲、詩は一般公募による)が初演される。オーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督・岩城宏之の企画によるもので、岩城は同年5月に松井へエールを送っており、岩城が生前に出した最後の手紙だった。
  • 2005年には、「本塁打より、むしろ連続試合出場に僕はこだわっていきたい」と話していたこともある。特に本人はこの連続試合出場には並々ならぬこだわりがあったようで「遠いところからわざわざ来てくれるファンのために」という考えによって休養をとるべき日も代打や代走、守備交代で僅かな時間でも出場していたが、骨折後の2007年シーズン初頭には「もう、連続試合出場記録が途切れたわけだから」というトーリ監督の提案を受け入れ、休養日をとるようになっている。しかし2008年初頭にはスポーツ紙に「もう一度全試合出場」を目標としてあげるなど、依然として強いこだわりを持っている。
  • 2004年12月26日に発生したインドネシアスマトラ島沖地震の際には義援金として5000万円を、2007年3月25日に発生した能登半島地震の際には1000万円を寄付した。
  • 2007年5月6日(日本時間7日)に日米通算2000本安打を達成した際、当初は外野手のエラーと記録されたが、後にツーベースに訂正された。直後判定に両チーム乱闘が起こった。試合後のインタビューにて、記念のボールについて問われると「エラーだと思ったから、どっかにいっちゃった」と発言し、周囲を笑わせた。「ひょっとして」と考えた球団トレーナーが保管しており、試合後に本人に渡されていた。日米通算2000本安打は日本人メジャーリーガーとしては、イチローに次いで2人目。

[編集] 個人よりもチーム

  • 松井は常に自分の成績よりもチームの成績にこだわっている。2001年5月23日のヤクルト戦東京ドームでは、単打が出ればサイクルヒット達成という状況の8回第5打席でヒットを打つが、個人記録よりもチームの勝利を選び一塁ベースを蹴って二塁に進んだ。
  • ヤンキース1年目のキャンプ中に監督のトーリが「エンドランのサインを出してもいいか?」と訊ねたところ、松井は「何でもします」と答えた。
  • 日本では50本を記録するほどのホームラン打者だったがメジャー移籍以降、ホームランが少ないことに対してもトーリは「チームのためにヒット量産に移行した」と発言している。

[編集] 松井と東スポ・アダルトビデオ

  • 東京スポーツの愛読者であるほか、アダルトビデオ(AV)鑑賞が趣味であることを公言しており、AVに造詣が深いことで知られる。東スポお薦めのAV(松井曰く「バイアグラAV」)を松井に贈呈する様子が東スポの一面を飾ったこともある[2]。2007年には、東京スポーツとソフト・オン・デマンドが共催した「AV OPEN〜あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦〜」の特別審査員も務めており、その際に好みの作品として「ストーリーのしっかりした単体女優物」を挙げている。
  • 2003年春のキャンプ中に、ヤンキースの歴史上初めてNYの番記者たちを食事に招待し、食事後には松井が所蔵しているAVを番記者たちにプレゼントした。このことは、マスコミを忌避する選手も少なくない中、誠実な人柄を示す例として取り上げられた[3]
  • AV好き以外にも下ネタ好きの一面もあり、それらを度々口にしては、新聞では書けないようなことを言って担当記者を爆笑の渦に巻いている。巨人時代は広報から注意を受けたこともある。巨人入団2年目に東スポ記者に懇願し、ノーパンしゃぶしゃぶに連れて行ってもらったこともあるという[4]
  • しかし2007年後半以降「AV封印」を度々口にするようになっており、東スポ紙上でも北海道日本ハムファイターズ中田翔を「二代目下ネタ王」として後継者に指名した[5]。また2008年には結婚したこともあり、「保有していたAVを全て処分した」とインタビューで語るなど[6]、最近はAVから一定の距離を置く姿勢を示している。ただ、同郷の友人たちからは「いや、最初だけでしょ」とAV封印を否定されている[7]

[編集] プレースタイル

[編集] 打撃

内角に強く、高めや内角の球をライト方向へ引っ張っての弾道ホームランの飛距離や打球の速度はメジャーでも全体10位以内に入るほどのパワーを誇る。しかし、メジャーに来てからは調子が上がるたびに外角中心の攻めを徹底され、本塁打ペースや打率が下がるパターンを繰り返すことが多い。

プルヒッターであり、状況に応じての進塁打を打った結果も含めて二塁方向へのゴロアウトが多い。バントはまず行わない。初球から振ることはあまりなく選球眼にも優れている。

[編集] 守備・走塁

捕球・送球や状況判断は堅実だが後方への飛球の反応はあまり鋭いとは言えず、頭上越えを許してしまうこともある。

巨人時代から100m走を11秒8と足は速い方だが、トップスピードに乗るまで時間がかかるタイプの為、内野安打・盗塁は少ない。

[編集] タイトル・表彰・記録

日本プロ野球

メジャーリーグ

  • 月間MVP:1回(2007年7月)
  • 週間MVP:3回(2003年6月、2004年5月、2005年6月)
  • 月間新人MVP:1回(2003年6月)
  • オールスター出場:2回(2003年、2004年)
    • シーズン新人最多出場:163(2003年)
    • リーグチャンピオンシップシリーズ最多安打:14(2004年)※タイ記録。
    • リーグチャンピオンシップシリーズ最多塁打:28(2004年)※タイ記録。
    • リーグチャンピオンシップシリーズ1試合最多安打:5(2004年第3戦)※タイ記録。
    • リーグチャンピオンシップシリーズ1試合最多得点:5(2004年第3戦)※タイ記録。

日米通算記録

  • 日米通算1768試合連続出場(1993年8月22日 - 2006年5月11日)
  • 日米通算2000本安打達成(2007年5月6日、日本時間7日)

[編集] 年度別打撃成績

年度 チーム






















年俸
1993年 巨人 55 57 184 27 41 9 0 11 83 27 1 17 2 50 .223 .296 .451 720
1994年 130 503 70 148 23 4 20 239 66 6 57 4 101 .294 .367 .475 2,100
1995年 131 501 76 142 31 1 22 241 80 9 62 2 93 .283 .362 .481 6,200
1996年 130 487 97 153 34 1 38 303 99 7 71 4 98 .314 .400 .622 8,000
1997年 135 484 93 144 18 0 37 273 103 9 100 6 84 .298 .419 .564 16,000
1998年 135 487 103 142 24 3 34 274 100 3 104 8 101 .292 .421 .563 22,000
1999年 135 471 100 143 24 2 42 297 95 0 93 2 99 .304 .416 .631 28,000
2000年 135 474 116 150 32 1 42 310 108 5 106 2 108 .316 .438 .654 35,000
2001年 140 481 107 160 23 3 36 297 104 3 120 3 96 .333 .463 .617 50,000
2002年 140 500 112 167 27 1 50 346 107 3 114 6 104 .334 .461 .692 61,000
2003年 NYY 163 623 82 179 42 1 16 271 106 2 63 3 86 .287 .353 .435 $600(72,000)
2004年 162 584 109 174 34 2 31 305 108 3 88 3 103 .298 .390 .522 $700(84,000)
2005年 162 629 108 192 45 3 23 312 116 2 63 3 78 .305 .367 .496 $800(96,000)
2006年 51 172 32 52 9 0 8 85 29 1 27 0 23 .302 .393 .494 $1,300(156,000)
2007年 143 547 100 156 28 4 25 267 103 4 73 3 73 .285 .367 .488 $1,300(156,000)
NPB通算(10年) 1268 4572 901 1390 245 16 332 2663 889 46 844 39 934 .304 .413 .582 ---
MLB通算(5年) 681 2555 431 753 158 10 103 1240 462 12 314 12 363 .295 .371 .485 ---
日米通算(15年) 1949 7127 1332 2143 403 26 435 3903 1351 58 1158 51 1297 .301 .401 .553 ---
  • 太字はリーグトップ。
  • $1=120円で換算。金額は万単位。

[編集] CM出演

他多数

[編集] 映画

[編集] ラジオ

[編集] 書籍

[編集] 本人の著作

  • 『不動心』新潮新書、2007年2月、売り上げは30万部を超えている

[編集] 関連書籍など

  • The Hideki Matsui Story―Reaching for Your Dream 松井秀喜バイオグラフィ』(2006年6月刊)
  • ヒデキマツイ(2005年12月21日刊)
  • 松井秀喜―日本を飛び出しメジャー・リーグで大活躍する野球選手(2005年7月刊)
  • 松井秀喜メジャー物語―ゴジラ・松井は世界の頂点を目指す!(2005年4月刊)
  • 松井秀喜 大リーグの真実(2005年4月刊)
  • 松井秀喜―メジャーにかがやく55番(2004年4月刊)
  • 松井秀喜―僕には夢がある (2004年3月刊)
  • ライジング・サンズ 2(DVD、2003年12月17日)
  • 心が変われば 山下智茂・松井秀喜を創った男(2003年9月30日刊)
  • 松井秀喜 完全版 ~夢と感動をありがとう(DVD、2002年12月11日)
  • GLORIOUS 松井秀喜~10years of homerun memories~(CD、2002年12月4日)
  • 松井秀喜2000 ~最強の4番打者~(VHS、2000年11月5日)
  • ホームラン神話(VHS、1996年11月21日)
  • 翔け世界の頂点へ~松井秀喜応援歌~父2)(CD、2006年9月27日)
  • 公式応援歌「栄光(ひかり)の道」(CD、2007年3月1日)

他多数

[編集] 関連エピソード

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^松井秀喜が結婚記者会見スポーツ報知 2008年3月27日閲覧
  2. ^ http://www.tokyo-sports.co.jp/1men/mastui/av.htm
  3. ^ [1] 夕刊フジ 2007年6月記事
  4. ^ http://www.tokyo-sports.co.jp/corner/005baseb.htm
  5. ^ 東京スポーツ・2008年1月20日付
  6. ^ 東京スポーツ・2008年4月22日付 1面
  7. ^ 東京スポーツ・2008年3月29日付

[編集] 外部リンク

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