ロベルト・クレメンテ

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ロベルト・クレメンテ
Roberto Clemente
Roberto Clemente.png
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カロリーナ(現:プエルトリコの旗 プエルトリコ自治連邦区)
生年月日 1934年8月18日
没年月日 1972年12月31日(満38歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
175 lb =約79.4 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1954年
初出場 1955年4月17日
最終出場 1972年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1973年
得票率 92.69%
選出方法 BBWAA選出
ピッツバーグ市内のクレメンテの銅像

ロベルト・クレメンテ・ウォーカーRoberto Clemente Walker , 1934年8月18日 - 1972年12月31日)は、プエルトリコ出身のプロ野球選手外野手)。MLBにおけるヒスパニック系選手の先駆け的存在であり、現在でもプエルトリコ出身の選手から目標とされていることが多い。

シーズンオフにはプエルトリコやラテンアメリカ諸国において慈善活動に関与しており、野球道具や食料を必要としている人々に提供していた。1972年12月31日、その年に起きた大地震の被災者への援助物資を提供するためにニカラグアへ向かうチャーター便の飛行機に同乗し、その途上で航空事故に巻き込まれ、亡くなった。38歳没。1955年から1972年までの18シーズンをMLBのピッツバーグ・パイレーツ一筋で過ごした。

1965年に誕生した息子ロベルト・クレメンテJr.(Roberto Clemente, Jr.)も野球選手となりフィラデルフィア・フィリーズサンディエゴ・パドレスのマイナーでプレーしたが、故障が多くメジャーには昇格できなかった。甥のエドガルド・クレメンテは1998年から2000年の3年間、外野手としてメジャーでプレーした。

経歴[編集]

プロ入り前、マイナー時代[編集]

1934年8月18日、プエルトリコカロリーナで生まれる。クレメンテの母親は2人の子供を連れて再婚。その後、5人の子供を産み、ロベルト・クレメンテはその末っ子である[1]。家庭は非常に貧しく、父親は砂糖農園で働き、クレメンテも家計を支えるために幼い頃から仕事をしていた。兄の出場する少年野球リーグ戦について行って、見よう見まねに野球を始める[2]。少年時代からスポーツの才能は抜きんでており[2]、高校時代には陸上競技やり投走高跳などで活躍[3]。やり投を得意としていたが、クレメンテ本人によると母親譲りだという[4]モンテ・アーヴィンへの憧れもあり、最も力を入れていたものは野球だった[5]

高校を卒業したクレメンテには9以上のMLB球団から入団交渉が来た[4]。最初にニューヨーク・ジャイアンツから入団交渉が来たが、ブルックリン・ドジャースは優れた選手をライバル球団に入団するのを防ぎたいこともあり[4]、契約金10,000ドルと年俸5,000ドルをクレメンテに提示。1954年2月19日、クレメンテはドジャースと契約した[6]

1954年シーズンはドジャース傘下のモントリオール・ロイヤルズでプレイする。選手としての能力は認められたが、ドジャースには当時、メジャー全体の黒人選手20人中5人と、割合として非常に多くの黒人選手が在籍していたため、白人ファンの観客動員に影響を及ぼさないようにドジャースはクレメンテをマイナーでプレイさせた[7]。マイナーでは出場機会を与えられず、友人に「自軍が初回に5点も入れると、もう私はメンバーから外される。私は監督から好かれていないらしい」と言っている[8]。しかし、これは当時、契約金4,000ドル以上の選手は最初の2年間、メジャー25人ロースターに入っていないと他球団からの引き取りに応じることができるという制度があったからである[9]

ピッツバーグ・パイレーツ時代[編集]

1958年から1959年にかけてのシーズンオフの時期はアメリカ海兵隊に在籍した(1958年9月30日撮影)

ピッツバーグ・パイレーツスカウトは投手補強のため、モントリオール・ロイヤルズのジョー・ブラック獲得を狙っていたが、クレメンテを目のあたりにし[10]、クレメンテ獲得を狙うようになった。1954年11月22日、クレメンテは現在のルール5ドラフトにあたる制度でパイレーツから指名を受け、移籍。1955年4月17日にメジャーデビューを果たした。同年、124試合の出場で打率.255・5本塁打・47打点でメジャー1年目を終え、チームはリーグ最下位だったが、スポーティング・ニュース(1955年7月)によるとパイレーツのファンはクレメンテの守備と強肩に惚れ込んだという[11]

1956年にはリーグ3位となる打率.311を記録する。1957年から3年間は、持病である背中の痛みや、相手投手の研究もあり低迷[12]1960年、打率.314・16本塁打・94打点と自己ベストを更新し、オールスター初選出を果たした。チームは33年ぶりにリーグ優勝を果たし、ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは4勝3敗で35年ぶりの世界一となる。クレメンテは全7試合に出場し、チーム最多の9安打を記録した[13]

1961年、打率.351で初の首位打者となる。201安打・30二塁打・23本塁打・100得点と自己記録も更新した。オールスターでは初の先発出場を果たし、オールスター初安打を記録。1964年には自己最多の155試合に出場し、打率.339で2度目の首位打者を獲得。同年シーズン終了後にベラ・ザバラと結婚[14]。翌1965年も打率.329で3度目の首位打者を獲得した。

ハリー・ウォーカー監督から1966年開幕前に25本塁打・115打点を希望されていたが[15]、クレメンテはそれを上回る自己最高の29本塁打・119打点を記録。ナショナルリーグMVPを27勝・防御率1.73・奪三振317の成績で投球三冠となったサンディー・コーファックスと争うことになったが、投票の結果はクレメンテが218ポイントに対して、コーファックスは208ポイント。10ポイント差でナショナルリーグMVPに選出された[16]

1967年、自己最高の打率.357で4度目の首位打者を獲得。同年5月15日、クロスリー・フィールドで行われた対レッズ戦でクレメンテは、5打数4安打(3本塁打、1二塁打)を放ち、打点はチームの全得点である7打点を記録した。守備では本塁打性の打球を好捕する活躍を見せる[17]。しかし、チームは7対8で敗れた[18]。同試合は1968年版のパイレーツのメディアガイドで「クレメンテの最も輝かしい試合のひとつ」と評された[17]。また、このメディアガイドはクレメンテがパイレーツ史上最高の選手となったと評している[17]

クレメンテの活躍をファンと共に祝うため、パイレーツ球団によって1970年7月24日[19]に「ロベルト・クレメンテ・ナイト」(Roberto Clemente Night)が催された[20]。球団などから様々な記念品を贈られる予定だったが、クレメンテは記念品ではなくピッツバーグ小児科医のためのお金を希望。それに賛同してお金は小児科医に寄付された[21]。同年8月22日から23日にかけて1901年以降のメジャーリーグでは初となる2試合で10安打を記録[19]。チームは地区優勝を果たし、クレメンテは打率.352を記録した。レッズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは3連敗でシーズンを終えた。

1971年、チームは11年ぶりにワールドシリーズへ進出。下馬評では対戦相手のボルチモア・オリオールズが優勢だったが[22]、4勝3敗でパイレーツがワールドチャンピオンとなった。クレメンテは打率.414を記録し、ワールドシリーズMVPに選出された。第7戦ではソロ本塁打を放ち、チームは2対1で勝利。クレメンテはワールドシリーズに出場した全14試合で安打を記録しており、当時、ハンク・バウアーの17試合連続安打に次ぐ連続安打記録だった[23]

3000本安打に残り118安打で1972年シーズンを迎える。クレメンテの実力から達成は容易と思われたが、足首の故障で試合を欠場することもあったため、一時は絶望視された[24]。しかし、9月2日に2971安打を記録し、ホーナス・ワグナーの球団通算安打記録を更新[25]。9月28日にベテランズ・スタジアムで行われたフィリーズ戦の2打席目で2999安打を放ち、その次の打席では代打を送られた[26]

翌日から閉幕までの5戦はすべて本拠地スリー・リバース・スタジアムで行われた。9月29日のメッツ戦の最初の打席でトム・シーバーから大きくバウンドする打球を放ち、ケン・ボスウェル二塁手はグラブの先でボールをはじいため、公式記録員はボスウェルの失策としたが、電光掲示板では「H」が表示されてしまったため、観客は騒然となった[27]。結局この試合は4打数0安打に終わった。クレメンテは試合後に「あれがヒットに判定されなくてよかった。私は文句のつけようのないヒットがほしいんだ」と語った[28]。9月30日のメッツ戦の2打席目にジョン・マトラックから二塁打を放ち、3000本安打を達成した。

パイレーツの永久欠番21

事故死[編集]

1972年12月23日、ニカラグア地震が発生。その夜、クレメンテの3000本安打達成を祝うパーティが催され、地震のことが話題となった。クレメンテを中心に救援が検討され、翌24日から救援活動が行われた[29]。救援物資を募ったが、ニカラグアの軍隊の兵士がその物資を盗み、モルヒネを売りつけているという情報を知ったクレメンテは、「私がニカラグアへ飛べば盗難はなくなるだろう。このロベルト・クレメンテから物を盗むことはないはずだ」と言い、ニカラグアへ行くことになる[30]

チャーター料が安いため、ジェット機ではなくターボプロップ機DC-7に最大積載量を上回る救援物資を積み、クレメンテ自身も乗り込んで12月31日の夜に離陸した[30]。しかしその直後に片方のエンジンの調子がおかしくなり、フライトデータレコーダーによると操縦士が引き返すと言い、急旋回した直後にカリブ海へ墜落。クレメンテは死亡した[30]。事故後、沿岸警備隊の捜索や、クレメンテの友人たちによる救助活動が行われたが、機体の一部を回収したのみで、クレメンテの遺体は発見されなかった[31]

クレメンテの功績を称えて建設されたロベルト・クレメンテ・コロシアム

死後の栄光[編集]

その死を悼み、1973年1月3日にアメリカ野球殿堂入りの選考で特別措置を取ることを発表。通常は引退後5年を経過しないと被投票資格を得られないが、クレメンテはルー・ゲーリッグに次いで史上2人目となる期間短縮の特別措置が取られた。3月20日、全米野球担当記者協会(BBWAA)による投票結果が発表され、424票中393票が殿堂入りに賛成で殿堂入りが決定した[32]。残りの31票の内訳は、反対票は29票で、棄権が2票。反対投票の6割は被投票資格を緩めることに反対するものであった[33]

生前、クレメンテが慈善活動に積極的に動き、事故死したのもその活動中だったことから、メジャーリーグ機構では、これまで慈善活動を行ったメジャーリーガーに贈られる「コミッショナー賞」という名の功労賞を、「ロベルト・クレメンテ賞」と改称[34]。ロベルト・クレメンテ賞はMVPに匹敵する名誉ある賞となっている[35]

ボウイ・クーンコミッショナーは、改称後初の選考を前に、「この賞は今から2年前に、コミッショナーの名においてロサンゼルスで始められたものだった。だが私はその名称を気に入ってはいなかった。ピタリとその実を示すものではないからだ。ところで今ここに、私たちは望みを得る最高の名称を得た。『ロベルト・クレメンテ賞』― 今後これはそう呼ばれるものとなる。これは野球の内と外とを問わず、たとえ人の目にはつかなくとも、深く世に尽くしているものに贈られる」と語っている[36]

1973年開幕戦の4月6日を追悼試合として行われ、クレメンテがつけていた背番号21はパイレーツの永久欠番に指定された[37]。クレメンテの影響で、中南米系のメジャーリーガーには背番号を「21」番を付けたがる選手が多く、憧れの対象となっている[38]2001年に開場したPNCパークの右翼のフェンスの高さはクレメンテの背番号にちなみ21フィート(約6.4メートル)である[39]

1973年5月14日に議会名誉黄金勲章を授与され[40]2002年に当時のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュから大統領自由勲章が送られた。2005年10月26日、ラティーノ・レジェンズ・チームに選出された[41]。ピッツバーグ・パイレーツの本拠地PNCパークで行われた2006年オールスターゲームでは、ロベルト・クレメンテのコミッショナー特別表彰受賞セレモニーが行われ、遺族のクレメンテ夫人が表彰を受けた[42]

選手としての特徴[編集]

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Nuvola apps kaboodle.svg ロベルト・クレメンテのプレー(アメリカ野球殿堂公式動画)

打撃[編集]

ナショナルリーグで4度首位打者を獲得し、打率は年間上位10人の中に13度入った。生涯のヒット数は3000本である。悪球打ちで有名であり、佐山和夫もクレメンテをヨギ・ベラとともに「バッドボールヒッター」の代表格として取り上げている[43]

守備[編集]

右翼手としても群を抜いた強肩で、その強肩は「ライフルアーム」と称され、相手走者には恐れられていた。1試合最多補殺5回はナ・リーグ最多[44]。1961年にはシーズン27補殺を記録し、メジャー生活18年で通算267補殺を記録している。「ペンシルベニアで投げたボールがニューヨークまで届く」「クレメンテの守るライトに打球が飛んだならそれが観客席以外であったら進塁をあきらめろ」ともいわれた。また、クレメンテのプレーを生で見たことのあるパンチョ伊東は「現代メジャーにおいて強肩と言われている選手たちの比ではない」ともいっている。クレメンテは外野手として最多タイのゴールドグラブ賞を12回受賞している[45]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1955 PIT 124 501 474 48 121 23 11 5 181 47 2 5 4 3 18 3 2 60 14 .255 .284 .382 .666
1956 147 572 543 66 169 30 7 7 234 60 6 6 8 4 13 2 4 58 14 .311 .330 .431 .761
1957 111 475 451 42 114 17 7 4 157 30 0 4 0 1 23 1 0 45 13 .253 .288 .348 .636
1958 140 556 519 69 150 24 10 6 212 50 8 2 3 3 31 1 0 41 15 .289 .327 .408 .735
1959 105 456 432 60 128 17 7 4 171 50 2 3 3 3 15 2 3 51 10 .296 .322 .396 .718
1960 144 620 570 89 179 22 6 16 261 94 4 5 4 5 39 4 2 72 21 .314 .357 .458 .815
1961 146 614 572 100 201 30 10 23 320 89 4 1 1 3 35 10 3 59 18 .351 .390 .559 .949
1962 144 581 538 95 168 28 9 10 244 74 6 4 1 6 35 9 1 73 18 .312 .352 .454 .806
1963 152 642 600 77 192 23 8 17 282 76 12 2 4 3 31 6 4 64 24 .320 .356 .470 .826
1964 155 683 622 95 211 40 7 12 301 87 5 2 3 5 51 16 2 87 9 .339 .388 .484 .872
1965 152 642 589 91 194 21 14 10 273 65 8 0 2 3 43 14 5 78 17 .329 .378 .463 .841
1966 154 690 638 105 202 31 11 29 342 119 7 5 1 5 46 13 0 109 14 .317 .360 .536 .896
1967 147 632 585 103 209 26 10 23 324 110 9 1 0 3 41 17 3 103 15 .357 .400 .554 .954
1968 132 557 502 74 146 18 12 18 242 57 2 3 0 3 51 27 1 77 13 .291 .355 .482 .837
1969 138 570 507 87 175 20 12 19 276 91 4 1 0 4 56 16 3 73 19 .345 .411 .544 .955
1970 108 455 412 65 145 22 10 14 229 60 3 0 1 2 38 14 2 66 7 .352 .407 .556 .963
1971 132 553 522 82 178 29 8 13 262 86 1 2 1 4 26 5 0 65 19 .341 .370 .502 .872
1972 102 413 378 68 118 19 7 10 181 60 0 0 0 6 29 7 0 49 15 .312 .356 .479 .835
通算:18年 2433 10212 9454 1416 3000 440 166 240 4492 1305 83 46 36 66 621 167 35 1230 275 .317 .359 .475 .834
  • 各年度の太字はリーグ最高

獲得タイトル・表彰・記録[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 佐山 38頁
  2. ^ a b 佐山 42頁
  3. ^ 佐山 44頁
  4. ^ a b c 佐山 45頁
  5. ^ 佐山 44 - 45頁
  6. ^ Thornley, Stew. “The Baseball Biography Project Roberto Clemente” (英語). BIOPROJ.SABR.ORG. 2009年8月5日閲覧。
  7. ^ 佐山 47 - 48頁
  8. ^ 佐山 46頁
  9. ^ 佐山 46 - 47頁
  10. ^ 佐山 48頁
  11. ^ 佐山 49頁
  12. ^ 佐山 50頁
  13. ^ 1960 World Series - PIT vs. NYY” (英語). Baseball-Reference.com. 2009年8月5日閲覧。
  14. ^ 佐山 51頁
  15. ^ 佐山 69頁
  16. ^ 1966 Awards Voting” (英語). Baseball-Reference.com. 2009年8月7日閲覧。
  17. ^ a b c 佐山 74頁
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  20. ^ 佐山 85 - 86頁
  21. ^ 佐山 87頁
  22. ^ 佐山 93頁
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  27. ^ 佐山 96頁
  28. ^ 佐山 97頁
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  31. ^ 佐山 106頁
  32. ^ When Clemente earned election to the Hall of Fame” (英語). National Baseball Hall of Fame (2007年2月15日). 2009年8月10日閲覧。
  33. ^ 佐山 127頁
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]