ギャビー・ハートネット

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ギャビー・ハートネット
Gabby Hartnett
GabbyHartnettGoudeycard.jpg
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国 ロードアイランド州
生年月日 1900年12月20日
没年月日 1972年12月20日(満72歳没)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
初出場 1922年4月12日
最終出場 1941年9月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1955年
得票率 77.69%
選出方法 全米野球担当記者協会選出

ギャビー・ハートネット(Charles Leo "Gabby" Hartnett, 1900年12月20日 - 1972年12月20日)は、1920年代 - 1930年代のアメリカメジャーリーグの選手。主なポジションは捕手ロードアイランド州ウォーンソケット生まれ。右投げ右打ち。ニックネームの"Gabby"(『口達者』の意)は、物静かで控えめな彼に、チームメイトが皮肉を込めてつけたあだ名である。

経歴[編集]

球歴[編集]

14人兄弟の長男として生まれた。1922年にシカゴ・カブスに入団、1年目31試合、2年目は85試合に出場する。捕手ながらフィールディングに優れており、怪我で出場できない試合の多かった1926年や1929年を除き、1930年までは刺殺・補殺・併殺の数がリーグ最多を記録したことが何度もあった。また打撃面では、1925年に24本塁打(リーグ2位)の成績を残した。

1929年に怪我でほとんど試合に出られなかった(殆ど代打で、捕手としては1試合しか出場できなかった)ことが契機になって、1930年以降は怪我をしないプレーを心がけるようになる。同年、打率.339、本塁打37本を放って正捕手の座に返り咲き、以降1937年まで、毎年100試合以上出場と、安定した成績を残せるようになった。

1932年に正捕手としては初めてのワールドシリーズに出場。翌年から始まったオールスターゲームにも、6年連続での出場を果たす。特に1934年にカール・ハッベルとバッテリーを組み、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグジミー・フォックスアル・シモンズの4人を連続三振に打ち取った試合は有名である。打撃面では、このほか1935年と1937年に、それぞれ打率.344、.354を記録し、首位打者争いでリーグ3位となる成績を収めた。

1938年からは3年間カブスの監督を兼任、監督兼任の最初の年、カブスはパイレーツとの激しい優勝争いの末、ナショナルリーグを制覇した。1941年にジャイアンツで現役を引退する。その後は1946年まで、マイナーリーグの監督をしていた。

1955年に記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出。1960年代には、一時期カンザスシティ・アスレチックスのコーチおよびスカウトを務めていた。1972年、肝硬変のためイリノイ州にて死去。

「黄昏のホームラン」(Homer in the Gloamin')[編集]

1938年9月28日、本拠地リグレー・フィールドでハートネットが放ったホームランは、球史に残る一発となった。この日、カブスは0.5ゲーム差の首位パイレーツと優勝を争う試合を戦っていた。試合は5対5の同点で9回裏を迎えたが、日没が近づいてすでに辺りは薄暗く、このまま9回を終われば日没で再試合とするはずだった。2アウト2ストライクから、ハートネットが打った打球は夕闇の迫るスタンドへ。この劇的なサヨナラホームランの3日後、カブスはパイレーツを逆転し、この年のナショナルリーグを制覇した。

所属球団[編集]

通算成績[編集]

打撃成績[編集]

































O
P
S
1990 6432 1912 396 64 236 867 1179 28 697 703 35 127 .297 .370 .489 .859

獲得タイトル・記録[編集]

監督としての戦績[編集]

  • 所属:シカゴ・カブス (1938年 - 1940年)
  • 通算戦績:383試合、203勝176敗、勝率.536、ワールドシリーズ出場:1回 (1938年)

出典・外部リンク[編集]