ベーブ・ルース

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ベーブ・ルース
Babe Ruth
Babe Ruth circa 1920.jpg
1920年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 メリーランド州ボルチモア
生年月日 1895年2月6日
没年月日 1948年8月16日(満53歳没)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
215 lb =約97.5 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手外野手
初出場 1914年7月11日
最終出場 1935年5月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1936年
得票率 95.13%
選出方法 BBWAA選出

ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア(George Herman Ruth, Jr., 1895年2月6日* - 1948年8月16日)、通称ベーブ・ルース(Babe Ruth)は、アメリカ合衆国プロ野球選手メリーランド州ボルチモア出身。左投げ左打ち。野球の神様と言われ、米国の国民的なヒーローでもある。

最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人の中の1人で、本塁打50本以上のシーズン記録を初めて達成した選手でもある。1927年に記録したシーズン60本塁打は、1961年ロジャー・マリスによって破られるまでの34年間、MLB最多記録であった。また、生涯通算本塁打数714本も1974年ハンク・アーロンに破られるまで39年間MLB最多であった。

ブラックソックス事件による当時の球界への不信感を、豪快な本塁打の連発により払拭するにとどまらず、さらに野球人気を高めることに成功した。アメリカ国内において、数多いプロスポーツの一つに過ぎなくなっていたベースボールを、最大の人気スポーツにした事で「アメリカ球界最大の巨人の1人」と評されている。

メジャーデビューまで[編集]

幼年期[編集]

メリーランド州ボルチモア南部のピッグタウン、エモリー通り216番地に生まれた。ドイツ系移民であった両親のケイト(Kate)とジョージ・ハーマン・シニア(George Herman Sr.)は、カムデン通り沿いで酒場を自営しており、家族はその2階で暮らしていた。ケイトはルースを含めて生涯に9人の子供を産んだが、成人期を迎えることができたのはルースと5歳年下の妹マミー(Mamie)の2人だけであった。

ルースは後年、自らの幼年期を振り返って「大変だった」と語っている。母は病弱であり(母はルースが15歳の時に結核で亡くなっている)、父は酒場の仕事で忙しく、息子の世話に関わっている余裕はほとんどなかった。そのため、両親から適切な教育を受ける機会のなかったルースは大人の手にも余る腕白坊主へと成長し、学校をサボっては通りをうろつき、町の不良たちと喧嘩に明け暮れ、商店の品物を万引きしたり、酒を飲んだり煙草を吸ったりするなど、様々な非行に手を染めた悪童であった。

7歳になった頃には既に両親の手には負えなくなり、「セント・メアリー少年工業学校」という全寮制矯正学校孤児院に送られた。ルースはその後の12年間をセント・メアリーで過ごすことになる。そこで少年たちの教官を務めていたローマ・カトリック神父、ブラザー・マシアス・バウトラー(Brother Matthias Boutlier)と出逢い、野球を教わったことが、ルースの人生に決定的な影響をもたらすことになった(以後、ルースは生涯にわたってマシアスを恩師と仰いだ)。

マシアスはルースに勉強や洋服の仕立て方を教え(セント・メアリーでは、少年たちの将来のために様々な職業訓練を行っており、ルースは仕立屋になるための訓練を受けていた)、休みの時間には野球のルールや打撃・守備のやり方などを教えた。ルースはその他に学校の吹奏楽部と演劇部にも所属していた。ルースの自伝によると、マシアスは大変な美男で外の世界に出ればすぐに俳優として活躍できるのではないかと思えるほど見た目が良かった上に、身長6フィート6インチ(約198cm)、体重250ポンド(約113kg)という堂々たる体格の大男であり、ルースは初めてマシアスと対面した瞬間から、それまでに体験したことのない威圧感と畏敬の念を覚えたという(ルース自身の成人時の身長は6フィート2インチ=約188cmであった)。また、マシアスはバットを片手で振るだけで、ボロ布で作った粗末なボールを100m以上も飛ばせるほどの腕力の持ち主であったという。当時、セント・メアリーには800人ほどの少年が収容されており、20~30人ほどのブラザー(神父)が少年たちの教官を務めていたが、その中でもマシアスほど少年たちから慕われていた教官は他にはいなかったとルースは語っている(実際、マシアスは後にセント・メアリーの校長に昇格している)。ちなみにルースがマシアスを尊敬していたエピソードとして、ルースは歩く時に内股にして足を引きずる癖があったが、これはマシアスの癖を真似たものであり、その癖は生涯治らなかった。

なお、余談ではあるが、ルースの父はルースが23歳の時に、自身が経営していた酒場で客同士の喧嘩に巻き込まれて命を落としている。しかし、ルースは母が亡くなった時には非常に悲しんだものの、父とは疎遠であり、父が亡くなった時にはそれほど悲しんだ様子はなかったという。もともと酒場で年中働き詰めだった父とは顔を合わせることも少なく、7歳の時からセント・メアリーで実の父よりも長い期間をマシアスと共に過ごしたルースにとっては、マシアスこそが“育ての父”であった。

ボルチモア・オリオールズ[編集]

1913年、野球部のエースとして君臨していたルースの活躍は、偶然試合を見に来ていたジョー・エンジェルの目に留まる。ワシントン・セネターズの投手であったエンジェルは、すぐにボルチモア・オリオールズ(現在のオリオールズ球団とは無関係であり、当時はマイナーリーグチーム)のオーナー兼監督のジャック・ダンにルースを紹介した。その場でルースの練習風景を30分ほど見たダンは、即座に年給600ドル(現在の金銭価値に換算すると約6万6000ドル)の契約を結ぶ。1914年2月14日、ルースが19歳の時のことであった。

外部から隔離された全寮制の矯正学校での生活が長かったためか、世間知らずで子供じみた所のあったルースは、早速チームメイト達から「ジャック(・ダン)の新しいベーブ(赤ちゃん)」と揶揄されるようになる。この時の「ベーブ」というあだ名は、生涯残る事になり、以後「ベーブ・ルース」として周りから呼ばれるようになった。なお、オリオールズ時代以降のチームメイトは「ベーブ」を意図的に避け、「ジョージ」「ジッヂ」「バム」などと呼んでいたりした。

1914年7月7日、ダンはルースを他の2名の選手とセットにして、金銭トレードに出す計画を立てていた。相手チームはフィラデルフィア・アスレチックスであった。しかし、ダンが要求していた1万ドル(現在の金銭価値に換算すると22万ドル)という額により、交渉は決裂。オリオールズが業務提携を結んでいたシンシナティ・レッズとも決裂したが、結局7月9日にはボストン・レッドソックスのオーナー、ジョー・ランニン(Joe Lannin)と交渉を成立させる。金額については諸説あり、不明である。

メジャーリーグ[編集]

レッドソックス時代[編集]

ボストン・レッドソックス時代

メジャーリーグデビューとなった1914年、ルースは5試合に出場し、そのうちの4試合は投手としてマウンドに登った。デビュー戦となった7月11日には、初登板初勝利を記録する。しかし、当時のレッドソックスはスター選手を多く抱えており、登板機会がさほど与えられないままマイナーへ降格された。また、今では考えられないがルースに代打が送られることもあったという。ルースが送られたインターナショナル・リーグ所属のプロヴィデンス・グレイズは、後の200勝投手カール・メイズも所属しており、見事にリーグ優勝を果たす。シーズン後の1914年10月17日に、ルースはボストンで知り合ったウェイトレスのヘレン・ウッドフォードと結婚。

1915年、シーズン前の春季キャンプにて、レッドソックスの先発ローテーション入りを果たす。同年、ルースは18勝8敗の好成績を挙げ、レッドソックスはアメリカンリーグペナントを制した。また、バッティングでもチームに貢献しており、打率.315に加えて本塁打を4本打っている。レッドソックスは4勝1敗でワールドシリーズを制したが、ルースに登板の機会はなく、唯一の打席でも内野ゴロに終わっている。

1916年、若干春季キャンプで苦しむものの、23勝12敗・防御率1.75、9完封を挙げる。防御率完封数はリーグ1位であり、なお完封数は1978年ロン・ギドリーが並ぶまで左投手としてはリーグ記録であった。同年6月27日のフィラデルフィア・アスレチックス戦では自己最多の10奪三振を奪ったり、大投手ウォルター・ジョンソンに投げ勝つなど、ルースは投手としての実績を着々と積んでいった。しかし、一方でチームの攻撃力は、主力のトリス・スピーカークリーブランド・インディアンスへ移籍したことでだいぶ弱まっていた。それでもレッドソックスは投手陣の踏ん張りで再度ワールドシリーズに進出。ルースは14イニング無失点の成績で、ブルックリン・ロビンスを4勝1敗の成績で破った。

続く1917年もルースは大活躍を見せ、24勝13敗・防御率2.01、6完封に打率.325と大活躍の成績であったが、チームは100勝をあげたシカゴ・ホワイトソックスの快進撃に及ばず、9ゲーム差の2位に終わった。6月23日のワシントン・セネターズ戦では、先頭打者に四球を与えたあと怒りに狂い、審判を殴ってしまう。これにより、ルースには10試合の出場停止処分が下された(ちなみにこの試合では代わってマウンドに上がったアーニー・ショアが9回終了まで投げ抜き、史上初の継投によるノーヒットノーランが成立した。なお、1991年に記録見直しが行われるまで、この試合はショアによる完全試合という扱いであった)。その後7月11日の試合は、デトロイト・タイガースに対して1-0の1安打完封勝利を挙げる。ルースは1942年にこの試合を「現役生活で一番興奮した試合」と振り返っている。

タイ・カッブ(右)と 1920年

1918年は20試合に投げ、13勝7敗・防御率2.22を挙げる。また、11本塁打を放って生涯初となる本塁打王のタイトルを獲得した。この年以降ルースは主に外野手として起用された。なお、この年右翼席へ打ち返した打球が当時のルールでサヨナラ三塁打と認定されたので、ルースは現行ルールでは通算715本の本塁打を放っていることになる。同年7月にルースはチームの監督と口論になり、一時期チームの帯同から外れていたため、若干成績に落ち込みが見られるシーズンであった。チームはワールドシリーズに出場し、ルースは第1戦と第4戦の先発投手を任された。両試合ともに勝ち星を挙げ、17回を投げ自責点2、防御率は1.06であった。ワールドシリーズでの連続無失点イニング数は29回と3分の2を記録し、これはホワイティ・フォード1961年に破るまでMLB記録であった。

打者としての台頭[編集]

1915年から1917年にかけてルースが投手以外で起用されたのはたったの44試合であった。1917年のシーズン終了後、チームメイトであったハリー・フーパーは、ルースは野手として毎日試合に出場した方が価値は上がる、と提言をしている。

ルースが外野を守る回数が増え、登板する機会が減っていったのは1918年からである。かつてのチームメートであるトリス・スピーカーは、投手でありながら登板のない日に野手として試合に出るのは馬鹿げたことだと話し、この転向がルースの選手生命を縮めるかもしれないと見ていたが、ルース自身は打撃の方に関心が移っていき、本格的に野手に転向することになる。この年、ルースは打率.300に11本塁打をレギュラー野手としては圧倒的に少ない317打数で達成している。そして1919年には、130試合に出場もたったの17試合にしか登板しなかった。この年に放った29本塁打は当時のMLB記録である。当時ホームランはシーズンで二桁打てば相当なスラッガーであり、最初期の「飛球をワンバウンドで取ってもアウト」というルールの影響から本塁打自体の評価も低かった。そのため29という本数は驚異的で、本数を重ねるうちに過去のMLBの本塁打数記録が調べ直され、本塁打記録が1884年ネッド・ウィリアムソンの27本に修正されるなど、それだけ当時としても脅威の本数だった。ルースの猛打の噂は瞬く間に広がって、プレーを一目見たさに大観衆がつめかけた。第一次世界大戦終戦からの開放感、更には未曾有の好景気から、大衆は華やかで、派手で、爽快なパフォーマンスを求めており、ルースの特大ホームランはその望みにぴったりだった。ルースの名声が高まるとともに、彼の胴回りも広がっていった。オリオールズ時代のチームメイトは、ルースの胃袋の大きさに驚き、1919年には、彼の肉体は1916年当時の背の高いアスリートらしい姿から、現在でもよく知られるとおりの丸々と太った体型に変化していた。こうした酒樽のような上半身に対し、筋肉質の下半身はおかしなほど細く見えたが、2桁盗塁を5回記録するなど、走者としても野手としても問題はなかった。タイ・カッブも後年、ルースを「太っている割には走るのが速かった」と述べている。

もしルースが最初から野手として起用されていたらもっと本塁打数は伸びていた、という意見もあるが、ルースのライバルといえる大打者、タイ・カッブは「ルースは投手だったからあの大振りが許されたんだ。もし野手だったらもっと粘ったり、当てにいく打ち方が求められただろう。大振りして無様な三振をしようものなら、それも奴は若造だったから、大目玉を食らっていただろうよ。だけど奴は投手だったから誰も気にしなかった。だから奴は自分なりの打ち方をいろいろ試すことが出来て、打者転向の頃には、確固たるものに仕上がっていたんだよ」と分析している。

ヤンキースへの金銭トレード[編集]

1919年12月26日、レッドソックスのオーナーであったハリー・フレイジーは、ルースをニューヨーク・ヤンキースへと金銭トレードで放出する。有名な定説によれば、当時劇場を経営していたフレイジーは、「No, No, Nanette」というブロードウェイ劇の予算を賄うためにルースを始めとした有力選手を他球団に売却したとされている。しかし、この売却には、ルース自身の高騰する年俸も大きく関わっていた。

1919年シーズン終了後、ルースは前年の給料の2倍である2万ドル(現在の金銭価値に換算すると22万ドル)を要求した。これを拒否したフレイザーに対し、ルースは引退をちらつかせるなどの強硬行為に出た。我慢がならなくなったフレイザーは、結局ルースをトレードに出す事にする。当時、ルースのトレードの交渉相手となってくれたのはシカゴ・ホワイトソックスとヤンキースの2球団のみであった。他の5球団は、フレイザーをレッドソックスの経営陣から追い出そうとしていたリーグ会長のバン・ジョンソンによる差し金により、そもそも交渉のテーブルに着いてさえくれなかった。ホワイトソックスはシューレス・ジョー・ジャクソンに加えて6万ドル(現在の金銭価値に換算すると65万ドル)を提示するも、ヤンキースのジャイコブ・ルパートとティリンゴースト・ヒューストン両オーナーは金銭のみで10万ドル(現在の金銭価値に換算すると109万ドル)を提示。12月26日にはヤンキースとの交渉がまとまり、その10日後には正式に発表された。

そしてこれが、長らく言われる「失敗トレード」となり、長くワールドシリーズを勝てないジンクスが生まれ、「バンビーノの呪い」と揶揄される原因となった。

ヤンキース時代[編集]

1920年から1925年[編集]

ニューヨーク・ヤンキース時代(1920年)
ニューヨーク・ヤンキース時代(1920年)

ヤンキースに移籍後のルースは、投手から打者へともはや完全に移行していた。ヤンキースでの15年間で2000試合以上に出場したが、投手としてマウンドに上がったのはそのうちのわずか5回である。ちなみに、その全てで勝ち投手となっており、登板は元投手であるベーブ・ルースのデモンストレーションやファンサービスの意味合いが強かった。

ヤンキースでのデビュー年となった1920年には、もうこれ以上の本塁打記録は生まれないだろう。去年が異常だっただけであれほどの本塁打数は期待できない。20本打てれば上出来だろうと言われながら、ルースは打率.376、54本塁打を記録し、周囲を驚嘆させる。同年に記録した長打率.847は、2001年までMLB記録であった。この年にルースが放った54本塁打というのは異常な数値であり、2位はセントルイス・ブラウンズの強打者、ジョージ・シスラーの19本と、約3倍の差で突き放す圧倒的な数だった。また、ルースよりも多く本塁打を打ったチームフィラデルフィア・フィリーズのみであった(64本)。

1921年は、もうこれ以上の本塁打記録は生まれないと言われた本塁打記録をさらに更新。ルースは打率.378、59本塁打を記録し、ヤンキースをチーム史上初のリーグ優勝に導く。7月18日には、現役通算139本目の本塁打を放ち、それまでの通算本塁打王だったロジャー・コナーの記録をたった8年のプロ生活で更新する。ルースの名前はもはや本塁打の同義語として扱われ、野球というスポーツ自体に新しくパワーの概念を導入した。彼が打った中で一番大きなホームランは1921年7月18日デトロイトネビン・フィールドでの一本と言われている。センター場外に消えていった打球は、175メートルの特大弾であった。

しかし、1921年当時は今と多少ホームランに関するルールが異なっていたため、もし現行のルールでルースがシーズンを送っていたら、彼はこの年に104本の本塁打を記録していただろうという研究もある。ビル・ジェンキンソン2006年に執筆した本「The Year Babe Ruth Hit 104 Home Runs」によれば、1931年までアメリカンリーグではファウルポールに直撃した打球はエンタイトル・ツーベース扱いであった。また、フェアゾーンでフェンスを越え、ファウルポールを巻いてファウルゾーンに落ちた打球は、今では当然のごとく本塁打扱いであるが、当時はファウルであった。これらデータを全て集計すると、ジェンキンソンによればルースは104本塁打を記録していたとしている。それでも、ルースがこの年に記録した総塁打数(457)、長打数(119)、出塁数(379)は未だにMLB記録である。

左からジョージ・シスラー、ベーブ・ルース、タイ・カッブ1924年

ヤンキースは1921年にワールドシリーズまで進出した際、非常に高い期待を背負っていた。相手チームのニューヨーク・ジャイアンツに対して最初の2試合を勝利したが、ルースが第2戦で盗塁をした際に肘を怪我してしまう。結果的に、ルースは残りの試合を欠場(最終戦のみ代打出場)し、ヤンキースもジャイアンツに敗れてしまった。このワールドシリーズでは、ルースは打率.316、1本塁打、5打点を記録している。

しかし、この直後にルースはまた不祥事に巻き込まれることになる。ワールドシリーズ終了後、ルースは地方巡業に参加したのだが、当時はシリーズ出場選手がオフに商業試合への出場が禁止されていた。選手が勝手に「ワールドシリーズの再戦」と題した試合をオフに組むことで、シリーズ自体の商品価値を下げないようにするのがルールの目的であった。これを受け、当時のコミッショナー、ケネソー・ランディスはルースを1922年シーズンの最初の6週間を出場停止とした。

なお、この年にルースはコロンビア大学に打撃に関する研究のため招かれた。その結果、研究者はルースが最も強打できるコースは外角ひざ上の高さであることを発見した。さらに、完璧な打撃をした場合のスイングスピードは秒速34メートルで、ボールの飛距離は140から150メートルにまで達するということがわかった。また、異なるサイズの小さな穴に棒を差し込んでいくことで根気を調べる臨床試験では、ルースは500人の被験者中最高位を示した。他にも、ルースの目は暗室で点灯する電球に対して常人よりも20ミリ秒早く反応するなど、いずれも超人的な計測結果を記録した。このことをチームメートのジョー・デュガンは「ルースは普通に生まれたんじゃない。奴は木から落っこちて来たのさ」と表現している。

1922年5月20日に処分が解けたルースは、ヤンキースのキャプテンに就任する。しかし、その5日後に、審判に泥を投げて退場処分を受け、更には観客と乱闘をするという醜態を晒したために、キャプテン職は剥奪された。同年、ルースは110試合に出場し、打率.315、35本塁打、99打点を記録する。この年もヤンキースはワールドシリーズに出場し、再度ニューヨーク・ジャイアンツと戦うが、またもチームは敗退。ジャイアンツの監督ジョン・マグローは自チームの投手に「ルースにはカーブしか投げるな」と伝え、これが功を奏してルースは17打席でわずか2安打という大スランプでシリーズを終えた。

1923年に、ヤンキースは本拠地をそれまでジャイアンツから間借りしていたにすぎないポロ・グラウンズから、ヤンキー・スタジアムへと移転する。「ルースが建てた家」と呼ばれたこの球場が開場した試合で第一号本塁打を記録したのはルースであった。この時のバットは2004年12月2日に1,265,000ドルで落札され、最も高価で販売された野球バットとしてギネス世界記録に認定された[1]。1923年シーズンをルースは自己最高打率.393、41本塁打を記録。この年も3年連続でワールドシリーズの組み合わせがヤンキース対ジャイアンツになったが、ルースは過去2年間の鬱憤を晴らすかのように猛打が爆発、打率.368、3本塁打に長打率は1.000を記録した。ヤンキースはチーム初のワールドチャンピオンに輝いた。

フロリダ保養地でアル・スミス前ニューヨーク州知事と 1930年

ルースは1924年三冠王級の活躍を成し遂げる。打率.378で自身唯一の首位打者に輝くと、MLB1位の46本塁打を記録。121打点はグース・ゴスリンの129にわずかに届かない2位であった。この年、ヤンキースはワシントン・セネターズに2ゲーム差で2位に終わった。

ここまで好成績を残してきたルースではあったが、1925年にはプロ入り後初めての挫折に見舞われる。試合前にホットドッグやソーダ水を飲み続けるなどの不摂生、性病、そしてアルコール過多などにより、高熱や腹痛に悩まされるようになってしまう。正確な病因は現在でも不明ではあるが、この年のルースはヤンキースでの生活の中で最低のシーズン(打率.290、25本塁打)を送る。なお、ヤンキースは69勝85敗と大きく負け越してしまった。

1926年から1928年[編集]

1926年は一念発起し、打率.372、47本塁打、146打点と成績を回復させた。ヤンキースはリーグ優勝を果たしワールドシリーズへと駒を進めるが、ロジャース・ホーンスビー擁するセントルイス・カージナルスに3勝4敗で敗れてしまう。ルース自身は第4戦に3本の本塁打を放つなどバットでは貢献するものの、走塁ミスでチームに迷惑をかけてしまう。2対3とヤンキースが1点差を追っていた第7戦、9回裏2アウトで一塁走者だったルースは果敢にも二塁盗塁を狙うも、あっけなく刺されてしまい、チームは敗退。呆気ない幕切れとなってしまった。なお、これはワールドシリーズ史上唯一、シリーズが盗塁死で終わったケースとなっている。なお、この1926年のワールドシリーズでは、ルースは病の床にあった11歳の少年ジョニー・シルベスター(英語版1915年4月5日1990年1月8日)にホームランを打つことを約束し、実際に打っている。

1927年のヤンキースは歴史的なチームであり、その打線はあまりの強烈ぶりから「殺人打線」と呼ばれていた。チームはリーグ記録となる110勝を達成し(154試合制での記録。後に2001年シアトル・マリナーズが162試合で116勝を達成)、19ゲーム差でリーグ制覇。ワールドシリーズでもピッツバーグ・パイレーツ相手に4連勝でワールドチャンピオンに輝き、見事な形でシーズンを終えた。

チームの順位は早々と決してしまっていたので、国民全体の期待はルースが何本本塁打を打つのか、というところに注がれた。それまでの記録はルース自身が持つ「59本」であったが、それにはもちろん幾つもの高いハードルがあった。59本を達成した1921年当時と比べ、投手はまともにルースと勝負しなくなっており、長年の不摂生から来る故障なども抱えていた。だが、60号を達成するにはプラスの要素もあった。強力な打線ゆえに打席がたくさん回ること、そして、チームメイトである自ら打撃を指導するなどしていたルー・ゲーリッグの台頭である。実際、シーズンの途中まではゲーリッグはルースの本塁打数を上回るなど活躍。9月の1ヶ月間でルースが17本塁打を放つなどして追い抜いて、9月30日には60号を達成するが、後年、ルースはゲーリッグの存在が大きく、彼がいたから相手投手もルースと勝負せざるを得なくなっていたと述べている。なお、この60号本塁打の有名な記録映画があるが、ヤンキースは1928年まで背番号を採用していなかったにも関わらず、背中にくっきりと背番号「3」がある。のちに撮影したものを、脚色や編集したものと見られている[2]。151試合の出場で60本塁打に加え、ルースは打率.356、164打点、長打率.772を記録。実に4度目の本塁打記録更新であった。

1928年もヤンキースにとっては良いスタートとなり、7月の時点で2位のチームを13ゲーム差で突き放す事に成功していた。しかし、その後けが人の増加に投手陣の崩壊なども重なり、チームは停滞。その間、フィラデルフィア・アスレチックスが快進撃を遂げ、9月に一瞬だけ1位を奪還することに成功。しかし、同月のヤンキース対アスレチックス4連戦でヤンキースが3勝し、首位の座を再奪還することになる。

ルースの成績もチームのパフォーマンスと比例していた。自身もチーム同様ロケットスタートに成功し、8月1日の時点では42本塁打を放っていた。これは前年の60本ペースをさらに上回るものであった。しかし、シーズン後半には踵の痛みに悩まされ、最後の2カ月ではたったの12本しか本塁打を打つことが出来なかった。また、打率も.323と、彼の通算での平均打率を下回るものだった。しかし、それでも彼はシーズンを54本塁打と、自身4回目の50本塁打を記録することとなった。

1928年のワールドシリーズは、1926年シリーズの再戦となった。対戦相手のカージナルスはホーンスビーがトレードで退団していた以外は2年前のチームとは変わっていなかった。このシリーズでは、ルースが打率.625(ワールドシリーズ史上2位の記録)を記録し、第4戦では再度3本の本塁打を放つ。更にゲーリッグも打率.545を記録し、ヤンキースはカージナルス相手に3連勝を記録。ヤンキースはワールドシリーズでの4連勝(スウィープ)を2年連続で達成した初のチームとなった。

衰退、そしてヤンキースとの別れ[編集]

1929年にはヤンキースは4年振りにワールドシリーズ進出を逃した。しかし、それでもルースは1929年から1931年にかけて3年連続で本塁打王を獲得している。1930年シーズンの途中には、ルースは1921年以来初めてマウンドに上がっており、完投勝利を挙げている(それまでもオープン試合などでマウンドに上がることは度々あった)。また、この年ヤンキースは日常的に背番号制を導入した初めての球団となり、ルースは日頃3番打者を務めていたため、背番号も「3」が与えられた(当時は打順を表していた)。

1932年には、ヤンキースはジョー・マッカーシー監督の下で107勝47敗とリーグ優勝を成し遂げ、ルースも打率.341、41本塁打、137打点を記録。ワールドシリーズではギャビー・ハートネット率いるシカゴ・カブスと対戦するが、ヤンキースは4連勝でカブスを下す。このシリーズの第3戦で、ルースでは球史に残る有名な「予告ホームラン」を放つ。打席に立ったルースは外野フェンスを指さし、その後彼が放った打球は実際にバックスクリーン一直線の本塁打となった。37歳になっていたルースだが、ボールは490フィートも飛んだのでは、と言われている。長年に渡って論争の的となってきたのは、本当にルースはスタンドを指差したのか?という疑問である。対戦相手のカブスの投手チャーリー・ルートは、ルースの予告ホームランを真っ向から否定しており、第3球目のモーションにうつる前に「この野郎、俺を三振させるには、もう1つストライクを投げなければダメなんだぞ」と怒鳴って人差し指を突き出してきた。その後にたまたま、センターのスタンドに飛び込んだので、あんな話が出来上がってしまったのだと述べている[2]。しかしながら、ルートには投球時にわずかに振り向くという癖があり、他の出場選手は、ルートは単にベーブの動作を見逃しただけではないかと証言した。ホームランに関する公式のフィルムはない。スタンドで観戦していた観客の撮影した家庭用フィルムを見ても、真偽は不明である。ただし投手方向に向かって指をさしている姿は確認できる。この予告ホームランについてルースは自伝の中で、ブラッシュボールが来て頭にきていたのでよく覚えていないが、スタンドを指差すのはこの時以外にも時々やって実際に本塁打を打ったと記している。なお、この本塁打はルースがワールドシリーズで放った最後のヒットとなった。

1933年にもルースは好成績を残し、打率.301、34本塁打、103打点を記録するとともに、リーグ最多の114四球を選ぶ。この年、初めてのオールスターゲームシカゴコミスキー・パークにて開催され、ルースはオールスター史上第1号本塁打を放つ。この時に打った2ランホームランにより、アメリカンリーグはナショナルリーグを4-2で下す。

1933年シーズン終盤には投手として1試合だけマウンドに上がり、完投勝利を挙げる。投手としての最後の登板となった。ヤンキース時代における投手としての出場は5試合であり、主にファンサービスのためではあったが、その全てで勝ち投手となっている。ルースは現役通算で投手としては94勝46敗という数字を残している。

1934年、ルースは打率.288、22本塁打を記録し、2年連続でオールスターに選出される。オールスターゲームではカール・ハッベルが5連続奪三振を成し遂げ、ルースは不名誉にもその一人目の打者であった。1934年シーズンはルースがヤンキースの一員としてプレーした最後の一年であったが、ヤンキー・スタジアムでの最終戦ではたったの2000人しか観客がいなかった。ルースはこの時点で個人的な目標だった700本塁打を達成しており、いつでも引退する用意は出来ていた。

この後、ルースはメジャーリーグ選抜軍として極東遠征に出る。22試合のうち、ほとんどは日本開催であった。選抜軍にはルースの他にも、ゲーリッグ、ジミー・フォックスレフティ・ゴメスアール・アベリルチャーリー・ゲーリンジャーなどが参加していた。野球はすでに日本でも人気であり、ルースも各地で歓迎を受けた。この極東遠征は日本における野球人気の形成に大きく寄与したと考えられており、1936年には日本は初のプロ野球リーグを形成する。

ブレーブス時代、引退[編集]

この頃になると、ルースは既に選手としての終わりが近づいていることは悟っていた。既に心はヤンキースの監督になる事を目指しており、マッカーシー監督の後任になる希望を隠しきれずにいた。しかし、ルパートはマッカーシーを辞めさせる気は無く、逆にこれはルースと監督の間に大きな軋轢を残した。選手としての1934年シーズンが開幕する直前、ルパートはルースをヤンキース傘下のマイナーリーグチーム、ニューアーク・ベアーズ(現在の独立リーグチームとは別)の監督にならないか、というオファーを出し、ヤンキースの監督になるならマイナーで監督経験を積んでくるように言われた。しかし、その場合はマイナーの指揮をとるため、選手としては引退しなければならない。ちょうど、引退を考えていたルースは検討することにした。しかし、ルースの妻であったクレール・メリット・ホッジソンと彼のマネージャーはオファーを蹴るようにとのアドバイスを出す。そのため、選手としてもう1年ヤンキースでプレーするつもりでいたが、ヤンキースの年俸提示はわずか1ドルと言うものであり、これを受けてヤンキースを出ることを決めた。

1934年シーズンの後には、ルースを雇うことを真剣に考えているチームはフィラデルフィア・アスレチックスとデトロイト・タイガースの2チームのみであった。アスレチックスのオーナー兼監督のコニー・マックは、ルースのために監督の座を降りることを検討していたが、後にルースが監督になったら実質の覇権を握るのは彼の妻になると考え、撤退した。同時期にはタイガースも撤退し、ルパートは真剣にルースの引き取り手を探す事になる。

そこで名乗りが挙がったのがボストン・ブレーブスのオーナー、エミル・フッシュで、ようやくルースを引き取ることに合意した。ブレーブスはそれなりのチームとして結果を残していたが、フッシュは負債に悩んでおり、本拠地ブレーブス・フィールドの家賃を払えない状態でいた。そのため、集客力のあるルースはちょうどよい補強であった。

電話に文書に会議を重ね、ヤンキースはようやく1935年2月26日にルースをブレーブスにトレードした。ルースは選手としてだけではなく、チームの副代表として選手の獲得や人事に関する権限を握ることになる。また、ブレーブス監督ビル・マケシュニーに仕える助監督にも就任した。さらにフッシュはルースに球団の利益の分け前を与えると同時に、副社長への就任の可能性、更には早くて1936年シーズンから監督就任の可能性も伝えていた。

メディアの注目の中で、ルースは本拠地としてのボストンに16年振りに帰ってきた。ニューヨーク・ジャイアンツとの開幕戦には2万5000人の大観衆が集まり、4-2でブレーブスが勝利。ルースは全得点に絡む大活躍を見せた。ボストンはレッドソックスの牙城であったが、ルースの存在によりブレーブスにボストン市民の注目が集まりつつあった。

しかし、それ以降チームは低迷。5月20日の時点で7勝17敗と、ほとんどシーズンは既に終わったも同然であった。ルースはシーズン序盤は多少打ってはいたものの、守備と走塁の衰えは怪我と不摂生のため著しく、ベースをノロノロ歩き回るのが限界であった。フッシュに契約前に「空いている外野に入ってもいい」と言われていたが、守備の衰えはあまりにもひどく、ブレーブスの投手陣は「ルースがラインアップにいる以上、マウンドに上がることは出来ない」とボイコット寸前の姿勢を見せていた。マケシュニー監督もチーム運営に際してルースの助言を受け入れることはほとんどなく、助監督と副代表としての役職は名ばかりであったということにルースは激怒。フッシュがルースに約束していた「球団の利益の分け前を与える」も嘘であった。それだけではなく、フッシュはルースにチームに資金を投資することさえ望んでいた。

5月25日ピッツバーグフォーブス・フィールドで行なわれたパイレーツ戦、ルースは4打席4安打、3本塁打に6打点を挙げるも、チームは7-11で敗戦。現役最後の本塁打となった一本は、フォーブス・フィールドの場外に消える特大アーチとなった。その5日後の、5月30日、ルースはフィラデルフィアで行われたフィリーズ戦に臨む。初回表に三振した後、その裏の守備の際に膝を痛めてそのまま途中交代となった。これがルースの現役最後の姿であった。

そして2日後の6月1日、ジャイアンツ戦が終わった後のルースは新聞記者をロッカールームに集めて現役引退を表明した。本当は彼は5月12日の時点には引退したかったのだが、フッシュは「まだ全てのナショナルリーグの球場でプレイしていないじゃないか」とルースを説得していたため、この日になったのだった。最後となった1935年シーズンのルースの成績は打率.181、6本塁打という現役最低の成績だが、72打数で本塁打6本というさすがの数字を残している。しかし、チームは38勝115敗で終わるひどい有様であった。このチーム成績は、MLB史上3番目に悪い記録である。このシーズンを本人は消してしまいたい1年と語り、シーズンオフにはコーチや監督としてのオファーを待っていたが結局、どこからもなく、もしも「君が必要だ」と言われていたらどこでも喜んで行ったと言っている。

私生活[編集]

家庭生活[編集]

ルースは1914年にヘレン・ウッドフォードと結婚するも、ヘレンはルースが浸る華やかな生活が好きになれず、1926年あたりから別居生活を送っていた。1929年1月11日の火災によりヘレンは焼死。当時ヘレンは歯科医だったエドワード・キンダーと同居しており、ヘレン自身は周囲の人間からキンダーの妻だと思われていた。ルースは「彼女には可愛そうなことをしてしまった」と死を悲しんでいた。

ルースには二人の娘、ドロシーとジュリアがいた。二人とも養女であった。ドロシーはルースとヘレンとの養女であったが、後年その著書「わが父、ベーブ」のなかで、自らをルースのガールフレンドであったジュアニータ・ジェニングスの実子であると主張している。 ジュリアは、ルースが再婚した妻、女優・モデルのクレア・メリット・ホジソンの連れ子である。ジュリアは現在アリゾナ州に住んでおり、2008年9月21日に行われたヤンキー・スタジアムの最終戦にて始球式の役を務めている。

ルースとクレアはオフシーズンをフロリダ州で過ごし、ゴルフなどを楽しんでいた。引退後、ルースはセントピーターズバーグからほど近いフロリダ州トレジャー・アイランドに別荘を購入、冬場はそこで過ごしていた。

映画などへの出演[編集]

ルースは様々なメディアへの出演を果たした。1930年代から40年代にかけては頻繁にラジオ番組に出演を果たしており、自身の番組を持ってもいた。1934年4月16日から7月13日にかけては、週3回『ベーブ・ルースの冒険』という15分番組が放送され、その3年後の1937年4月14日から7月9日にかけてはCBSで週2回『ベーブ・ルースは俺だ』が放送された。その他にもNBCなどでレギュラー番組を持っていた。

ルースが映画に初出演したのは『Headin' Home』という無声映画であった。また、1928年のハロルド・ロイドの映画『Speedy』など、幾つもの無声時代の映画に出演しており、そのどれもが大体は野球選手役もしくは本人役であった。その中の一つに、ゲーリッグの死後に作られた映画『打撃王』がある。ルースの声はクラーク・ゲーブルの声に似ていたとされている。

引退後[編集]

今でも献花が絶えないルースの墓

現役を引退した翌1936年、ルースは、アメリカ野球殿堂の初期メンバー5名のうちの1人に選ばれる。その2年後の1938年ブルックリン・ドジャースのゼネラル・マネージャーだったラリー・マクフェイルのオファーを受け、ドジャースの一塁コーチに就任する。打撃の指導などの他に若い選手にファンにサービスが悪いことを注意していた。しかし、わずか1年で辞任してしまい、これがMLBにおけるルースの最後の仕事となった。

1943年、ヤンキー・スタジアムで行われたチャリティーゲームで、ルースは代打として登場。四球を選ぶ。1947年には、退役軍人の会であるアメリカン・リージョンの少年野球プログラムの担当に就任した。

晩年[編集]

1946年、ルースは左目に強い痛みを感じるようになった。そのため、同年11月にニューヨークのフレンチ・ホスピタルを訪れた際、首に腫瘍があるのを発見される。腫瘍は悪性であり、左内頸動脈を取り囲んでしまっていた。そのため、放射線療法による治療を受けるものの、1947年2月に退院する頃には、なんと36キロも体重が落ちていた。しかし、この当時化学療法が飛躍的な発展を遂げていたことが、ルースにとっての救いであった。彼は激しい頭痛や嗄声に見舞われていたが、テロプテリン(Teropterin)と呼ばれる新薬が投入されたことにより、一時的に症状は緩和することになる。頭痛は回復し、体重も9キロ戻ってきた。今では、ルースの病名は鼻咽頭癌の一種であったことがわかっている。

1947年4月27日、古巣ヤンキースはヤンキー・スタジアムにて「ベーブ・ルース・デー」を開催した。健康状態は依然不安定であったものの、ルースは6万人を超える観客の前でスピーチをした。ゲーリッグの「私は世界一幸運な男です」という有名なスピーチのように特別な名言があったわけではないが、彼は心を込め、野球と次世代を担う子供たちに向けた愛情をたっぷりこめて話した。後に、ルースはベーブ・ルース財団を設立させ、恵まれない子供たちへのチャリティー活動をおこなう。このチャリティーへの募金活動のため、1947年9月にはヤンキー・スタジアムにてベーブ・ルース・デーが再度開催された。

1948年6月13日には、ルースはヤンキー・スタジアム開場25周年記念のイベントに参加し、この日、ルースがヤンキース在籍時につけていた背番号『3』が永久欠番に指定されることとなった。そこでの彼は、当時存命していた、1923年当時のヤンキースメンバーとのしばしの再会を楽しんだ。しかし、ルースはもはやバットを杖代わりに使わざるをえないほど衰えていた。この時撮られた写真は、野球史上最も有名な写真の一つとなり、これによってカメラマンはピュリッツァー賞を受賞している。

ヤンキー・スタジアムでの同イベント参列直後、ルースは再び入院生活を送る。彼は当時の大統領ハリー・トルーマンからの電話を含め、3万通もの見舞いの手紙を受け取った。その大部分は彼が愛してやまなかった子供たちからのもので、それらの処理を手伝ったのが、クレア夫人である。

1948年7月26日、ルースは自伝映画「ベーブ・ルース物語」の試写会に参列する。これが、彼が公式の場に現れた最後の姿となった。その直後からルースは入院生活に戻ったが、既にほとんど喋れないほどに衰弱していた。彼の病状がますます悪化していることが周知の事実となる中で、病院の外には記者やカメラマンが殺到し、数人の者しか面会できないようになっていた。許されたうちの一人であった当時ナショナルリーグ会長、フォード・フリックによれば、「ルースは信じられないくらい細くなっていた。彼は大男であったのにもかかわらず、腕はほとんど骨と皮のみになっており、顔も痩せこけていた」と証言している。

そして1948年8月16日、ルースは肺炎のため、53歳でその生涯を閉じた。検死によれば、ルースの死因となったガン細胞は鼻と口から発生しており、それらが急速に体全体へと拡がっていったことが示されている。彼の遺体はヤンキー・スタジアムに2日間安置され、この時にルースに別れを告げるべくスタジアムを訪れた一般人は2日間でおよそ15万人を数え、そのうちのほぼ半数は子供たちだったといわれる。安置後、遺体はニューヨーク・聖パトリック大聖堂に移されて葬儀が行われ、その後ホーソーンにあるゲイト・オブ・ヘヴン墓地に埋葬された。現在同所にあるルースの墓への献花は今も絶えない。

その他[編集]

引退時の通算本塁打714本は、当時においては続く記録が、かつての同僚ルー・ゲーリッグやそのライバルとされるジミー・フォックスの約350本であったことからも(ルース引退後にゲーリッグは493本、フォックスは534本まで記録を伸ばした)、その圧倒的な存在感をがうかがい知ることができる。ルースが今日に至る大リーグ観の形成に果たした影響はきわめて大きい。

通算本塁打714本は不滅の記録といわれたが、ハンク・アーロンバリー・ボンズに破られた。しかし、通算長打率.690と通算OPS1.164は現在も破られていない世界記録である。また、シーズン本塁打60本というのは当時の記録であり、試合数の都合上ペースとしてみると記録を破ったロジャー・マリスよりも早い。さらに、その後マリスの記録を破った選手達の薬物疑惑が絶えない点や、またルースの現役時代に使われていた球場の広さは現在の球場よりも広い事を考慮すると未だに伝説的な記録といえる。薬物汚染により現在、MLBの本塁打に対する疑惑が深まる反面、ルースの純粋な力によって生み出された本塁打記録は改めて評価されている。また、通算のうち10本がランニング本塁打で1試合3本塁打はレギュラーシーズンでは意外にも生涯で2度しかなく、現役最後の本塁打試合で2度目の1試合3本塁打を記録しており、ワールドシリーズでは2回1試合3本塁打を記録している。

現在、ボルチモア・ダウンタウンのエモリープレース216(カムデン・ヤードの北西2ブロックのところ)にベーブ・ルース記念館があり、生前のルースの遺品や資料が当所にて保管されている。

ベーブ・ルースの伝説[編集]

帝国ホテル滞在中に日本の野球少年と交流するベーブ・ルース 1934年
静岡草薙球場に建てられているベーブ・ルース像
  • ルースが40歳になるまで、彼自身も含めて、ルースの生年月日は1894年2月7日と信じられてきた(実際の生年月日は1895年2月6日)。そのため、当時の記録には、ルースの年齢を誤って記載しているものが多い。この間違いの原因については、生後間もなく死んだ彼の兄弟の生年月日と混同されていたとする説もあるが、ルースは両親の最初の子供であるため、この説は間違いであり、真相ははっきりしていない。
  • 彼は左投げ左打ちであったが、文字を書く時は右利きであった。
  • 彼はプレーヤーにかけられ回っている、78回転のレコードのタイトルを読めるほどの優れた動体視力の持ち主であった。
  • ルースはセント・メアリーに入れられた当初、それまで学校へ行っていなかったために読み書きができなかったが、実家が酒場で物心つく頃から店のメニューの文字を毎日見ていたため、食べ物の名前だけは読むことができた。それを知ったマシアスから「きみも毎日欠かさず努力を続けていれば何でもできるようになる」と励まされたルースは真面目に勉強に取り組むようになり、翌年には習字で賞をもらうまでになったという。
  • ルースはもともと仕立屋を目指していただけあって、ミシンの腕前は確かで、プロ入り後もユニフォームの修繕は自分でやっていた。彼は事あるごとに、「俺に1時間くれれば、シャツを4枚縫い上げてみせる」と得意げに語っていたという。
  • 本格的に野球を教わり始めた時には捕手を気に入り、本格的に守った最初のポジションとなった。しかし、ルースは左利きであり、当時から左利きの捕手はほとんど存在しないためミットなど一般には作成されておらず、特注しなければならない状態だったため他のポジションを勧められるが、どうしても捕手をしたいと、右利き用のミットを投げる方の左手にはめて、返球の際はミットをはずし、捕った左手で投げていたという。盗塁阻止時には動作が遅れるはずであるがそれでも余裕で間に合うほど強肩であったため、捕手で定着する。そのうち、投手や一塁や外野も守るようになり、さらに打撃の方では、打率にして5割近いものを残していた。
  • セント・メアリー時代のある試合で捕手をしていたルースは、味方の投手があまりにもボコボコ打たれてしまうので途中からおかしくなり笑いが止まらなくなってしまった。するとマシアスから「そんなにおかしいのなら、君が投手をしてみせろ」と言われ、やむを得ず投手として登板してみるとその試合で好投。そのため、次の試合からは投手をすることが多くなった。ちなみにマシアスは、このときルースに投手をさせた理由として、ルースの態度を戒める目的もあったが、同時に元々ルースに投手の才能を感じていたためでもあると語っていた。結果的にこの投手転向がプロへの道を開くことになった。
  • 投手としてのルースも無失点記録をつくるなど優秀であったが、カーブを投げる時に舌を出す癖があり、自分でその癖に気付くまでは狙われることが多かったという。また、ヤンキース時代は投手として時々登板し好投している。
  • タイ・カッブのヒット狙いの打法に対し、ルースは「あんたみたいな打ち方なら、俺なら6割はいけるだろうな。でも、客は俺のけちなシングルヒットじゃなくて、ホームランを見に来ているのさ」とコメントしたという。また、タイ・カッブから反論されると実際に本塁打を量産しつつ4割近い打率を残して見せ、これにはカッブもルースを認めるコメントを出している。また、この出来事が悔しかったのかカッブは狙ってマスコミの前で本塁打を放って見せたことがある。
  • 四球ばかりで、投手からまともに勝負してもらえなくなるのを避けるため、新人だったルー・ゲーリッグに目をつけ、自分の後を打つ打者として直接指導し、ゲーリッグは強打者に成長。ルースとゲーリッグの二人はリーグでも屈指の3番4番となった。巷では不仲説もあったが、実際の二人は一緒に釣りに行くなど仲が良く、ゲーリッグが筋萎縮性側索硬化症のために37歳の若さで亡くなった時には、ルースは彼の死をとても悲しんでいた。
  • ルースは若手の頃には記者への対応が悪く、印象の悪さからいつも悪評ばかり書かれていた。そこで記者に「なぜ、俺のことを悪くばかり書くんだ?」と尋ねると「きみの私たちへの態度が悪いからだ」と記者は答えた。それを聞いたルースは「すまなかった」と謝罪し記者への対応がよくなり、記者たちも好意的な記事を書くようになったという。
  • 肘に大きなできもののようなもの(腫瘍に近い)が出来たため、手術で摘出するなど治療で練習を休んでいる期間、ルースは練習をサボっていると新聞などで取り上げられ記者に詰め寄られた。そのため「これを見てもそういうのかい?」と摘出の手術で陥没した場所のある肘を見せ記者たちを納得させた。
  • ヤンキースに移籍してきたばかりの頃、打撃の調子があがらないルースに新聞などは「ルース。満塁の好機で凡退など」悪いことばかりを記事にした。そのため、知人に「なぜ、ここの記者は悪いことばかり書くんだ?」と文句を言った。知人は「それは悪いことしか書くことがないからそうなるんだ。活躍すればそれを記事にしてもらえるはずだ」と言われ、再び打ち始めると記事にも活躍したことが載るようになったという。
  • 打率が2割そこそこの打者に冗談で、「君はスイッチヒッターになれば右打席2割、左打席2割で合計4割で4割打者になれる」と言った。するとその打者は冗談を本気にし、実際にスイッチヒッターになって高打率を残したことがあるという。
  • ドジャースの一塁コーチをしていた際に若い選手にファンにサービスが悪いことをよく注意していたが、あるとき、若い選手が子供にサインをねだられたが、忙しいと言ってサインをせず行ってしまい子供は落ち込む。それに気がついたルースが選手に注意をしてサインをさせる。さらに「俺はベーブ・ルースだ」と言ってサインをすると言うと、子供はその若い選手のときよりも喜んでいたという話があるなど引退後でも人気は健在であった。
  • 引退後のルースは、一時期ドジャースの一塁コーチに就任した以外、野球界との大きな関わりがなく、彼を監督として迎え入れる球団もなかった。彼は選手としては優秀でも、自分勝手な所があり問題行動が多かったため、監督には不向きであると球団の経営陣から判断されたことがその理由であったが、新聞などでも「野球の人気をこれだけ向上させた彼がその野球界にこんなひどい扱いを受けているのはあんまりではないか?」と報じられるほどであった。ルースはヤンキースの球場に観戦に行くと、自分の守っていたポジションに代わりに就いている選手をよく眺めており、野球界に未練があるようだったと言う。また、観戦に訪れるとアナウンスでベーブ・ルースということを紹介してもらえ、そのたびに歓声があがり、帽子を取って挨拶をしていたと言う。
  • 打者転向後からヤンキース移籍後当初は、チームの合計本塁打数がルース一人に及ばないという年が続いた。今に置き換えればシーズン本塁打200本以上打った計算になり、さすがにそこまでは考えられないものの、まさしく彼は異次元の選手であったと言える。なお、1920年代は一桁の本塁打でも100打点を越す選手は珍しくなかった。
  • 日本球界との関わりで言えば、1934年11月2日から12月1日にかけて、全米選抜チームの一員として来日している。航空便による移動が一般的でなかった時代、長い船旅を当初は渋っていたが、鈴木惣太郎がアポなしでルースの似顔絵をメインにしたポスターを見せて説得したところ、そのポスターを大いに気に入り、快諾した。日本に向かう船の上でも人一倍練習に打ち込むなどやる気十分であり、いざ来日すると、雨天の中番傘をさして守備練習をするなど、持ち前のショーマン・シップを発揮、日本に野球人気を根付かせるのに大いに一役を買った。特に、ルースと直接対戦した沢村栄治の名を今日まで伝説化することになった「全米軍クリーンナップを4連続奪三振」の逸話では、最初に沢村から三振に斬り捨てられている。なお、この試合は秋口に行われ、気温は高くなく、ヒットで出塁した沢村にセーターを着せにいくなどのスポーツマンシップを見せ、「さすが大リーガーはやることが違う」と観客を感心させた。この後、全米選抜チ-ムの来日歓迎パレ-ドが行われた。このときの日本人達の歓迎はアメリカでワールドシリーズで優勝したとき以上のものであったため、ルースは大変喜んでいた。来日の印象を、「何百万人ものファンが心の底から迎えてくれていることを肌で感じている。銀座の通りは何キロにも及ぶ歓迎の列が並び、英雄のような扱いを受けた」と振り返っている。そのため、戦時中に真珠湾攻撃などによる、反日感情で日本人達から貰った陶器などを割り、戦争終了後にこの歓迎のことを思い出し後悔していたという。また、あの真珠湾が信じられないとも語ったと言う。
  • 1934年11月16日小倉球場での日米野球は、雨が降っていたにも関わらず大勢のファンがルースを見ようとつめかけたという。全米のコニーマック監督も、「お客さんが待ってる以上、試合をする」と決めると、先頭きってグラウンドに入ったのがルースだったが、その時番傘をさしていたという。また、試合中も番傘をさしたまま守備についたという。なを、打撃ではこの試合でホームランを打っている。[3]
  • セント・メアリー校でボルチモア・オリオールズからのスカウトを受けた時、ルースは意外にも「自分は仕立屋になる予定だから、もう野球をしている余裕はない」と言って、スカウトを断ったという。セント・メアリー校はラジオも新聞もない外部から隔離された環境であり、当時のルースは野球にプロチームがあることさえ知らなかったのである。そこでダン監督が慌てて、「給料は年間600ドル(現在だと約6万6000ドル)出そう」と言うと、ルースは「好きな野球をして、そんなにお金がもらえるのか」と大変驚き、今度はすぐに契約に応じたという。
  • 少年時代、自転車が欲しくてたまらず、プロ入りして初めての給料で購入した。既に成人で、自動車を購入していてもおかしくない年齢だったにもかかわらず(事実、他のチームメイト達は自動車を購入)、あえて自転車を買って得意げに乗り回していたことで、「やはりベーブ(赤ちゃん)だ」と周囲から笑われていたが、本人は全く意に介さず、「当時のニューヨークで、自分ほど得意だった人間はいなかったろう」と述懐している(伝記より)。その後、ルースは何台もの高級車を買ったが、自転車を手にした時ほどの嬉しさはなかったという。
  • セント・メアリーを卒業して都会に出たルースは、生まれて初めてエレベーターに乗ってこれを面白がり、係の者にお金を渡して自分で操作をさせてもらった。しかし、当時のエレベーターのドアは現在と違って格子戸であり、ルースはドアの隙間から首を外に出して階との間に挟まれそうになり、周りの人々から「首を出すな!挟まれるぞ!」と言われなければ危うく命を落とすところだったという。こうした彼の世間知らずで子供っぽい行動も、彼が「ベーブ(赤ちゃん)」とあだ名された由縁であった。
  • 車の運転は滅茶苦茶で、妻と友人を乗せ郊外にドライブに出た時は、荒いハンドルさばきから窪地にタイヤを取られ横転し、幸い全員無事だったものの、車は大破した。ニューヨーク市内を運転していた際はスピード違反から「ルース死亡か?」と記事にされるほどの物損事故を起こした。それにより試合直前にもかかわらず警察に身柄を拘束され、試合出場が危ぶまれたが、署内で「今俺をここに置いておくということは、また違反しろといってるようなもんだ」と警察官に言ったという(その後釈放され練習には遅刻したものの、試合には間に合ったという)。
  • ある新聞記者がルースの華やかなナイトライフを取材しようと、ルースのルームメイトに夜のホテルでのルースの様子を聞いたところ、そのルームメイトは「俺にはルースのことは分からないよ。だって俺は彼じゃなくて、彼のスーツケースのルームメイトなんだから」と答えたという。ルースは夜通しで街を飛び回っていたということである。
  • ルースはこのように私生活でも派手好きで粗暴な性格ではあったが、その反面、彼は子供が大好きで、ファンサービスに熱心だったことでも知られている。彼の打ったファウルボールがファンの少年の抱いていた子犬に当たって、あとでその子犬を見舞いに行ったことがあった。また、前述のジョニー・シルベスターという病弱な少年の両親が、医者から「何か彼が熱中できることがあれば、元気になれるかもしれない」と言われ、ジョニーが好きだったルースに見舞ってもらおうと無理を承知で球団事務所に電話をして頼んでみると、本当にルースが来てジョニーを驚かせたこともあった(「約束のホームラン」というタイトルで、ルースの伝記にはほぼ全て取り上げられている)。しかもジョニーと翌日の試合でホームランを打つ約束までしたのである。結果は三打席凡退の後、ホームランを放っている。このジョニーとルースが再会したのは、ルースの晩年、病気のために入院していた時で、かつての病弱な少年はたくましく成長し、海軍に入隊するまでになっていた。なお、ジョニー・シルベスターは1990年1月8日まで生存しており、彼が亡くなった時には、本エピソードの少年として日本の新聞の死亡記事にも掲載された。
  • また、ある時、試合が終わって、ルースが帰りのバスへ向かう途中、路上に停まっていた1台のオープンカーの座席に元気のない少年が座っているのを見て、何気なく、「坊や、こんにちは」と声をかけると、少年は目を輝かせてルースの名を叫びながら立ち上がった。すると、周りの人々が驚いたように歓声をあげ、傍にいた親らしき人物は涙を流しながら、「立った、立った!」と叫んでいる。その歓声を聞いてルースは何事かと思ったが、急いでいたのでそのままバスへ向かって去って行った。あとで分かったことだが、その少年は小児麻痺のために足の機能が失われ、2年間も立つことができない状態であった。それが、憧れのルースから声をかけられたので、嬉しさのあまり夢中になって立ち上がったのだという。この奇跡の出来事は当時の新聞でも紹介され、「子供たちにとって、ベーブ・ルースという名前はどんな薬よりも良く効く薬のようである」と評された。
  • このようにルースが子供たちに優しかったのは、貧しい下町の不良少年だった彼自身の生い立ちとも深い関係があったとされている。実際、ルース見たさにヤンキー・スタジアムへ来るものの、お金がなくて入場券を買うことができず外に立ち尽くしている貧しい子供たちの姿を見て、ルースは彼らを気の毒に思い、係員に札束を渡して、「これであの子たちに入場券を買ってやれ」と説得したこともあった。また、彼が友人と共にゴルフ場に行った時には、入口付近でルースを見つめる2,3人の子供の姿を見て、「君らも来いよ。今日はいいプレーができそうだぞ」と誘い、子供たちと談笑しながらラウンドを回り、休憩時にはお菓子とジュースを振る舞ったという。
  • ルースはいかなる有名人に対しても頭を下げず、むしろ挑戦的・尊大な態度を示していたが、子供たちの話題には弱かった。ルースが暴飲暴食、不規則な生活で練習を怠け、成績不振の状態が続いていた時、ある議員が「国中の子供たちがラジオに耳を押し付けて、君を英雄のように思いながら君のプレーを楽しみにしているんだ。その英雄がこんな体たらくでいいのか」と詰問した時には、ルースは涙を流して反省し、それまでの生活態度を改めて再び練習に打ち込むようになったという。
  • ルースは、不良少年だった自分を初めて認めてくれた恩師のブラザー・マシアスを生涯にわたって尊敬し、実の父以上に慕っていた。ルースがプロ入り後もたびたび問題行動を起こし、チームメイト達や球団の手に負えなくなると、チームメイト達や球団はこっそり電報を打ってマシアスに来てもらい、ルースを諫めてもらっていたが、ルース自身はマシアスに会えることが嬉しく毎回大喜びだったと語っている。とはいえ、マシアスがルースにとって唯一頭の上がらない人物であったことは確かであり、ルースはマシアスの恩を生涯忘れず、プロ入り後も母校のセント・メアリーをよく訪問して後輩の少年たちを励まし、多額の寄付をしていた。さらに、ルースはマシアスのために高級車を贈っていたが、運転が苦手なマシアスは車をすぐに事故などで壊してしまい、そのたびにルースは快く新しい車を贈っていた。そのマシアスが亡くなった後、ルースは「自分の人生で最も悲しかった出来事が二つある。一つは母を失ったこと。もう一つはマシアス先生を失ったことだ」と語っていた。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]













































O
P
S
1914 BOS 5 10 10 1 2 1 0 0 3 2 0 - 0 0 0 4 - .200 .200 .300 .500
1915 42 103 92 16 29 10 1 4 53 21 0 - 2 9 0 23 - .315 .376 .576 .952
1916 67 150 136 18 37 5 3 3 57 15 0 - 4 10 0 23 - .272 .322 .419 .741
1917 52 142 123 14 40 6 3 2 58 12 0 - 7 12 0 18 - .325 .385 .472 .857
1918 95 380 317 50 95 26 11 11 176 66 6 - 3 58 2 58 - .300 .411 .555 .966
1919 130 542 432 103 139 34 12 29 284 114 7 - 3 101 6 58 - .322 .456 .657 1.113
1920 NYY 142 616 457 158 172 36 9 54 388 137 14 14 5 150 3 80 - .376 .533 .849 1.382
1921 152 693 540 177 204 44 16 59 457 171 17 13 4 145 4 81 - .378 .512 .846 1.358
1922 110 495 406 94 128 24 8 35 273 99 2 5 4 84 1 80 - .315 .434 .672 1.106
1923 152 699 522 151 205 45 13 41 399 131 17 21 3 170 4 93 - .393 .545 .764 1.309
1924 153 681 529 143 200 39 7 46 391 121 9 13 6 142 4 81 - .378 .513 .739 1.252
1925 98 426 359 61 104 12 2 25 195 66 2 4 6 59 2 68 - .290 .393 .543 .936
1926 152 652 495 139 184 30 5 47 365 150 11 9 10 144 3 76 - .372 .516 .737 1.253
1927 151 691 540 158 192 29 8 60 417 164 7 6 14 137 0 89 - .356 .486 .772 1.258
1928 154 684 536 163 173 29 8 54 380 142 4 5 8 137 3 87 - .323 .463 .709 1.172
1929 135 587 499 121 172 26 6 46 348 154 5 3 13 72 3 60 - .345 .430 .697 1.127
1930 145 676 518 150 186 28 9 49 379 153 10 10 21 136 1 61 - .359 .493 .732 1.225
1931 145 663 534 149 199 31 3 46 374 163 5 4 0 128 1 51 - .373 .495 .700 1.195
1932 133 589 457 120 156 13 5 41 302 137 2 2 0 130 2 62 - .341 .489 .661 1.147
1933 137 575 459 97 138 21 3 34 267 103 4 5 0 114 2 90 - .301 .442 .582 1.024
1934 125 471 365 78 105 17 4 22 196 84 1 3 0 104 2 63 - .288 .448 .537 .985
1935 BSN 28 92 72 13 13 0 0 6 31 12 0 - 0 20 0 24 2 .181 .359 .431 .790
通算:22年 2503 10617 8398 2174 2873 506 136 714 5793 2217 123 117 113 2062 43 1330 2 .342 .474 .690 1.164
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB歴代最高

年度別投手成績[編集]





















I






















I






W
H
I
P
1914 BOS 4 3 1 0 2 1 0 0 .667 100 23.0 21 1 7 0 0 3 0 0 12 10 3.91 1.22
1915 32 28 16 1 18 8 3 0 .692 895 217.2 166 3 85 1 6 112 9 1 80 59 2.44 1.15
1916 44 41 23 9 23 12 3 1 .657 1300 323.2 230 0 118 1 8 170 3 1 83 63 1.75 1.08
1917 41 38 35 6 24 13 3 2 .649 1313 326.1 244 2 108 0 11 128 5 0 91 73 2.01 1.08
1918 20 19 18 1 13 7 0 0 .650 660 166.1 125 1 49 1 2 40 3 1 51 41 2.22 1.05
1919 17 15 12 0 9 5 2 1 .643 591 133.1 148 2 58 1 2 30 5 1 59 44 2.97 1.55
1920 NYY 1 1 0 0 1 0 0 0 1.000 17 4.0 3 0 2 0 0 0 0 0 4 2 4.50 1.25
1921 2 1 0 0 2 0 1 0 1.000 49 9.0 14 1 9 0 0 2 0 0 10 9 9.00 2.56
1930 1 1 1 0 1 0 0 0 1.000 39 9.0 11 0 2 0 0 3 0 0 3 3 3.00 1.44
1933 1 1 1 0 1 0 0 0 1.000 42 9.0 12 0 3 0 0 0 0 0 5 5 5.00 1.67
通算:10年 163 148 107 17 94 46 12 4 .671 5006 1221.1 974 10 441 4 29 488 25 4 398 309 2.28 1.16
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号[編集]

  • 3 (1929年 - 1935年)

獲得タイトル・記録[編集]

アメリカ野球殿堂におかれたルースの銘刻板
  • MVP1回(1923年
  • 首位打者1回(1924年
  • 本塁打王12回(1918年 - 1921年、1923年、1924年、1926年 - 1931年)
  • 打点王6回(1919年 - 1921年、1923年、1926年、1928年)
  • リーグ最高出塁率10回(1919年 - 1921年、1923年、1924年、1926年、1927年、1930年 - 1932年)
  • リーグ最高長打率13回(1918年 - 1924年、1926年 - 1931年)
  • リーグ最高OPS13回(1918年 - 1924年、1926年 - 1931年)
  • 最多得点8回(1919年 - 1924年、1926年 - 1928年)
  • 最多四球11回(1920年、1921年、1923年、1924年、1926年 - 1928年、1930年 - 1933年)
  • 通算サヨナラ本塁打12本
  • 通算満塁本塁打16本
  • 通算ランニング本塁打10本
  • 最優秀防御率1回(1916年
  • ノーヒットノーラン1917年)(アーニー・ショアとの継投による達成、ただしルースは1回先頭打者への四球の判定に抗議し退場したため1アウトもとっておらず、代わったショアが残りを完全に抑えた)
  • DHLホームタウン・ヒーローズ選出(2006年

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ Most expensive baseball bat sold at auction” (英語). Guinness World Records. 2014年3月6日閲覧。
  2. ^ a b 伊東一雄. メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事. サンケイスポーツ. p. 60-61. 
  3. ^ 日本プロ野球偉人伝vol1 ベースボールマガジン社P20

外部リンク[編集]