フォード・フリック

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フォード・フリック

フォード・クリストファー・フリック(Ford Christopher Frick、1894年12月19日 - 1978年4月8日)はアメリカMLBの3代目コミッショナー(在任1951年9月20日-1965年11月16日)。

[編集] 経歴

野球記者として名声を得た後に、ナショナル・リーグ会長を歴任したあと、ハッピー・チャンドラーの後任としてコミッショナーに就任した。1970年アメリカ野球殿堂入り。1978年から、メジャーリーグの報道・放送方面で功績のあった人物をたたえる『フォード・C・フリック賞(Ford C. Frick Award)』が創設されている。

[編集] ロジャー・マリスの年間最多本塁打記録(1961年)について

ロジャー・マリスニューヨーク・ヤンキース時代の1961年に、当時の大リーグ年間最多本塁打の61本を放つ。それまで年間最多本塁打の記録を持っていたのは、ベーブ・ルースだった(1927年に記録)。しかし、当時のニューヨークのメディアは、マリスがルースの記録を破るのを快く思っていなかった。コミッショナーのフリックもその一人だった。彼はベーブ・ルース(その他大勢の選手)のゴーストライターでもあった。

1961年は大リーグの年間試合が154試合から162試合に増加した年であった。フリックは、この記録達成を快く思っておらず、シーズン途中で「ベーブ・ルースが記録を達成した1927年は年間試合が154試合であり、新記録は154試合までの時点で達成されるべきである」との声明を発表した。そして、公式記録にアステリスク(注釈)をつけるよう指示したのであった。マリスは154試合目の時点で59号を放ち、158試合目で60号、そして162試合目で61号を放った。

このためマリスの記録は長らくアステリスク(注釈)扱いを受けたが、1991年当時コミッショナーだったフェイ・ヴィンセントが「記録は統一されるべきものである。マリスは誰よりも本塁打を打った」との見解を出してアステリスクを外し、「名誉回復」された。

[編集] 出典・外部リンク

先代:
ジョン・ヘイドラー
ナショナルリーグ会長
第11代:1934年 - 1951年
次代:
ウォーレン・ジャイルス