エドガー・マルティネス

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エドガー・マルティネス
Edgar Martínez
Edgar Martinez 1997.jpg
現役時代(1997年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク市
生年月日 1963年1月2日(51歳)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
210 lb =約95.3 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 指名打者三塁手
プロ入り 1982年 アマチュアFA
初出場 1987年9月12日
最終出場 2004年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

エドガー・マルティネスEdgar Martínez, 1963年1月2日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州出身の元野球選手指名打者内野手)。

従兄弟のカルメロ・マルティネスも元メジャーリーガー。

経歴[編集]

アマチュア時代[編集]

1963年ニューヨーク州に生まれた。1979年に行われたピッツバーグ・パイレーツボルチモア・オリオールズワールドシリーズをたまたま見たことがきっかけで、野球に興味を持つようになる。プエルトリコ人として育ったということもあり、尊敬していた選手はロベルト・クレメンテであった。プエルトリコのアメリカン大学を卒業後、1982年三塁手としてシアトル・マリナーズと契約した。

マイナーリーグで着々と成績を伸ばし、1987年9月にメジャー昇格。9月12日の対シカゴ・ホワイトソックス戦(キングドーム)で代走としてメジャーデビュー。3Aのプレーオフが始まるという中でのメジャー昇格であった。二日後の14日に三塁打を放ち、メジャー初安打を記録した。

1988年は飛躍が期待されたが、故障し、3Aで開幕を迎えた。3Aでは打率.363を記録し、リーグの首位打者を獲得。翌1989年はメジャーで開幕スタメンを飾ったが、成績が安定せず、シーズン途中で3Aに降格。メジャーのレギュラー定着には時間を要すも、冬のプエルトリカンリーグでは打率.424と結果を残した。

シアトル・マリナーズ時代[編集]

1990年、開幕をメジャーで迎えると、打率3割・リーグ3位の出塁率.397を記録するなど打撃面で好成績を残し、そのままメジャー定着を果たした。一方、三塁の守備は不安定で、1試合で4失策を冒すなどシーズンで27個を記録した。翌1991年も活躍し、150試合に出場して打率3割・出塁率4割を記録。守備では失策を前年の27個から15個に減らし、成長を見せた。

1992年、打率.343で自身初・マリナーズ球団史上初となる首位打者を獲得。右打者の首位打者としては、1959年のハーベイ・キーンが打率.353で首位打者になって以来の高打率での首位打者獲得であった。また、リーグトップの46二塁打を記録した他、18本塁打、73打点と打撃部門の全てで自己最高を記録し、三塁手部門のシルバースラッガー賞も受賞した。

1993年、タイトルを獲得して迎えたシーズンだったが、左足のハムストリングを痛め、故障者リスト入りを3度繰り返すなど、出場は42試合にとどまった。1994年も開幕早々から故障で離脱し、成績が低迷。球団はマルティネスの打力を惜しみ、同年から徐々に指名打者(DH)として起用するようになる。この起用方針がマルティネスにとって最大の転機となった。

1995年、主にDHとして再び打棒を発揮した。1994年から1995年のMLBストライキの影響もあり短縮シーズンで行われたが、145試合全てに出場し、リーグトップの打率.356・出塁率.479・対左投手打率.433・121得点・52二塁打OPS1.107を記録。自身2度目の首位打者とDH部門のシルバースラッガー賞、自身初となる最優秀指名打者賞を獲得した。右打者の首位打者としては1939年にジョー・ディマジオが.381を記録して以来の高打率であり、右打者として2度の首位打者獲得は52年ぶり(1936年、1943年のルーク・アップリング)であった。MVP投票では、モー・ボーンアルバート・ベルに次ぐ3位に付け、球団史上初の地区優勝・プレーオフ進出に大きく貢献した。ニューヨーク・ヤンキースとのディビジョンシリーズでは、1勝2敗で迎えた第4戦に、1試合で7打点を挙げる猛打を見せ、更に第5戦では延長11回裏にサヨナラとなるタイムリー二塁打を放った。同シリーズでは打率.571(21打数12安打)、3ラン本塁打と満塁本塁打を含む10打点を記録するなど大活躍を果たし、以降「史上最強のDH」と呼ばれるようになった。

1996年以降は、ケン・グリフィー・ジュニアジェイ・ビューナーアレックス・ロドリゲスらと共に、他球団から怖れられる驚異的なクリーンナップの一角を担った。1996年8月にマリナーズ史上4人目となる通算1000本安打を達成。1997年は開幕から自己最長の17試合連続安打を記録し、オールスターゲームではグレッグ・マダックスから本塁打を放った。アベレージと出塁を持ち味とし、1998年まで4年連続で打率3割・100打点・100四球を記録した。

1999年は後半戦に打ちまくり、8月にペドロ・マルティネスから通算1500本安打を達成。最終的にリーグ4位となる打率.337を残し、前年から続けてリーグトップの出塁率を記録した。

2000年シーズン開幕前、MLBでリーグ再編が叫ばれ、マリナーズがDH制のないナショナルリーグへ移動するという噂があったことから、マルティネスはそれが現実になれば引退すると発言した(DHがなければマルティネスはDHのあるチームへ移らなければならないため)。同年限りでの引退をほのめかしたため、地元シアトルでは大きな話題となった。37歳という年齢で迎えたこのシーズンは、前半戦で打率.354、23本塁打、87打点を残し(前半戦での87打点はマリナーズ球団新記録)、最終的に145打点を記録して自身初の打点王を獲得。また、前年の夏に本拠地が右打者に不利とされるセーフコ・フィールドへ移ったにもかかわらず、自己最多となる37本塁打を放った。

2001年も開幕から一貫して打率3割以上を維持。7月半ばに故障者リスト入りすることはあったものの、復帰後も活躍を見せ、リーグ2位の出塁率を記録し、5度目の最優秀指名打者賞と4度目のシルバースラッガー賞を受賞した。2年続けてチームのプレーオフ進出に貢献し、当時監督のルー・ピネラからは「最も頼りになる男」と絶賛された。クリーブランド・インディアンスとのディビジョンシリーズでは、1勝2敗で迎えた第4戦の最終回に逆転2ラン本塁打を放ち、チームを勝利に導いた。

2002年、左足を痛めた影響で97試合にしか出場できず、再び故障がちになった。加齢もあり、引退を覚悟して臨んだ翌2003年は、145試合に出場して通算2000本安打を達成。シーズン半ばには自打球を足に当て、足の親指を骨折したこともあったが(球団はその際、マルティネスのためにつま先に鋼鉄の入ったスパイクを特注した)、最終的に打率.294、24本塁打、98打点、出塁率.406と好成績を残し、5度目となるシルバースラッガー賞を獲得した。シーズン終了後に球団側の慰留もあり、現役を続行した。

2004年、8月上旬に同年シーズン限りでの現役引退を表明。同月10日、本拠地セーフコ・フィールドで行われた対ミネソタ・ツインズ戦では、試合前からマルティネスに盛大な拍手が送られ続けた。マルティネスは同試合に3番打者として出場、初回の第1打席に先制点となる9号2ランを放ち、ファンもスタンディングオベーションで応えた。先制のホームを踏んだイチローは、試合後に「一番盛り上がる打席だったでしょうからね。かっこよすぎますよね」とマルティネスの活躍を称えた。マルティネスは同年にMLB史上20人目の通算500二塁打、通算300本塁打を達成し、現役を引退。通算成績で打率3割・300本塁打・500二塁打・出塁率4割・長打率5割を記録した。シーズン終了後、社会やファンへの貢献が評価され、憧れであったクレメンテの名を冠するロベルト・クレメンテ賞を受賞した。

マルティネスの背番号11はマリナーズの永久欠番に準ずる扱いとなっている。出塁率(.418)、出場試合数(2055)、二塁打(514)、打点(1261)、得点(1219)、四球(1283)などでマリナーズの球団記録を保持しており、打率(.312)、本塁打(309)、安打(2247)などは球団歴代2位である。また、DHでの本塁打243本は、2007年にフランク・トーマスに更新されるまでMLB歴代1位であった。

引退後[編集]

2005年ラティーノ・レジェンズ・チームに選出され、2007年にはマリナーズのチーム殿堂入りを果たした。

2010年アメリカ野球殿堂入りの候補者となった。しかし、遅咲きの選手であるが故に通算成績に突出したものがないことや、守備貢献の全くないDH自体の評価が低く、ナショナルリーグの記者からの票が集めにくいこともあり、得票率は36.2%にとどまった。その後も30%前後を推移しており、殿堂入りには至っていない。

人物[編集]

18年間の現役生活を一貫してシアトル・マリナーズで過ごしており、MLBでは珍しいフランチャイズ・プレイヤーである。地元シアトルのファンからは「エドガー」の愛称で親しまれ、2008年後半にESPNが実施した「マリナーズの歴史上で最も偉大な選手は誰?」というアンケート調査において、ケン・グリフィー・ジュニアに次いで第2位に選出されている。

社会奉仕・ファンサービスに熱心であり、人格者としても知られる。現役時代は率先してリーダーシップを取るタイプではなく、寡黙で落ち着いていたが、後輩の面倒見がよく、チームのリーダー的存在であった。ブレット・ブーンは「彼がいるだけで打線が全然違う」と語っており、アレックス・ロドリゲスはマルティネスを「父のような存在」と話している。イチローも「背中で引っ張ってくれる」と語っており、マルティネスの引退後には「打撃に関し、練り上げてきた技術を持った人。ヒット1本の味が違うというか、それぞれに味がある」、「シアトルで、エドガーの存在はとてつもない大きさですから」と述べている。

DHになってからが全盛期であり、DHでキャリアの大半を終えた数少ない選手である。選手生活のほとんどをDH専任として過ごし好成績を残し続けた選手は、マルティネスが初めてであった。マルティネスが活躍するまでは、DHは好打者の例が少なく、DHのイメージを変えた選手でもある。マルティネスの引退後、MLBはマルティネスに敬意を表し、最優秀指名打者賞を「エドガー・マルティネス賞」と改称した。マリナーズ球団はセーフコ・フィールドの脇にある通りの名前を「エドガー・マルティネス・ドライヴ」と命名し、その経歴を称えている。

選手としての特徴[編集]

打撃[編集]

巧みなバットコントロールでフィールド全体に打球を打ち分ける広角打法と、四球を量産する優れた選球眼を持ち味とした[1]。通算打率は右打者ながら.312の高打率を残しており、通算出塁率は4割を大きく超えている。打席では非常に忍耐強く、球をよく見る打者で、相手投手に投げさせる平均球数は毎年メジャーで上位に位置していた。1990年代後半には同じ中軸であるグリフィーやロドリゲスらと遜色のない打撃成績を残し、特に純粋な打撃力を表すといわれているOPSでは毎年安定して非常に高い水準を保持していたが、出塁重視のスタイルから目立つことが少なく、他の選手の影に隠れがちであったため、「メジャーで最も過小評価されている打者」とメディアに言われたこともある。

現役時代は選球眼と共に、重要な局面での勝負強さが光ることが多く、巧打のクラッチ・ヒッターとしても知られた。1995年のプレーオフ、2勝2敗で迎えたディビジョンシリーズ最終戦、リーグチャンピオンシップシリーズ進出を懸けたヤンキースとの対戦で、試合は5対4のビバインドで11回裏を迎えた。ランナー一塁三塁の場面で打席に立ったマルティネスは、ジャック・マクダウエルからレフト線へ逆転サヨナラ2点二塁打を放ち、一塁走者のケン・グリフィー・ジュニアをホームに還した。後がない劣勢の場面からチームが逆転サヨナラ勝ちを果たし、球団史上初めてリーグチャンピオンシップシリーズ進出を収めた。マルティネスの放った二塁打は「The Double」と呼ばれている。マルティネス自身も同シーンをキャリアのハイライトに挙げている。

右眼が生まれつき外斜視であったため、目の筋肉を動かす運動を練習メニューに組み込んでいた。特に試合の前には、200km/h近い速度でバッティングマシンから放たれるテニスボールに書かれた数字を読み取るなどし、動体視力を鍛えるトレーニングをしてから試合に臨んでいたという[1]

守備・走塁[編集]

DHに転向する前は三塁手であったが、元々守備には難のある選手であったことや、足に不安を抱えていたため、1994年頃から極端に守備機会が減った。DH制のない交流戦などでは、一塁の守備に就くこともあった。

足の故障を繰り返す以前は平均以上の走力を持ち、メジャーデビューは代走で、メジャー初安打も三塁打であった。しかし故障以降は、若い頃の膝の手術から無理ができなくなっていたため、全力疾走する機会は限られており、たいへん鈍足であった。そのため、同じく鈍足のチームメイトであったジョン・オルルドと並んで、イチローに「各駅停車だ」とからかわれる程で、試合終盤で出塁すると代走を送られることが多かった。一方で走塁ミスは非常に少なく、盗塁も走力の割には企図することが多かった。

エドガー・マルティネスのバッティング

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1987 SEA 13 46 43 6 16 5 2 0 25 5 0 0 0 0 2 0 1 5 0 .372 .413 .581 .994
1988 14 38 32 0 9 4 0 0 13 5 0 0 1 1 4 0 0 7 0 .281 .351 .406 .758
1989 65 196 171 20 41 5 0 2 52 20 2 1 2 3 17 1 3 26 3 .240 .314 .304 .619
1990 144 570 487 71 147 27 2 11 211 49 1 4 1 3 74 3 5 62 13 .302 .397 .433 .830
1991 150 642 544 98 167 35 1 14 246 52 0 3 2 4 84 9 8 72 19 .307 .405 .452 .857
1992 135 592 528 100 181 46 3 18 287 73 14 4 1 5 54 2 4 61 15 .343 .404 .544 .948
1993 42 165 135 20 32 7 0 4 51 13 0 0 1 1 28 1 0 19 4 .237 .366 .378 .744
1994 89 387 326 47 93 23 1 13 157 51 6 2 2 3 53 3 3 42 2 .285 .387 .482 .869
1995 145 639 511 121 182 52 0 29 321 113 4 3 0 4 116 19 8 87 11 .356 .479 .628 1.107
1996 139 634 499 121 163 52 2 26 297 103 3 3 0 4 123 12 8 84 15 .327 .464 .595 1.059
1997 155 678 542 104 179 35 1 28 300 108 2 4 0 6 119 11 11 86 21 .330 .456 .554 1.009
1998 154 672 556 86 179 46 1 29 314 102 1 1 0 7 106 4 3 96 13 .322 .429 .565 .993
1999 142 608 502 86 169 35 1 24 278 86 7 2 0 3 97 6 6 99 12 .337 .447 .554 1.001
2000 153 665 556 100 180 31 0 37 322 145 3 0 0 8 96 8 5 95 13 .324 .423 .579 1.002
2001 132 581 470 80 144 40 1 23 255 116 4 1 0 9 93 9 9 90 11 .306 .423 .543 .966
2002 97 407 328 42 91 23 0 15 159 59 1 1 0 6 67 8 6 69 6 .277 .403 .485 .888
2003 145 603 497 72 146 25 0 24 243 98 0 1 0 7 92 7 7 95 17 .294 .406 .489 .895
2004 141 549 486 45 128 23 0 12 187 63 1 0 0 3 58 10 2 107 15 .263 .342 .385 .727
通算:18年 2055 8672 7213 1219 2247 514 15 309 3718 1261 49 30 10 77 1283 113 89 1202 190 .312 .418 .515 .933
  • 各年度の太字はリーグ最高

獲得タイトル・表彰[編集]

  • 月間/週間タイトル
    • 月間MVP:5回 (1992年7月・8月、1995年6月、2000年5月、2003年5月)
    • 週間MVP:7回

記録[編集]

  • MLBオールスターゲーム出場:7回 (1992年、1995年 - 1997年、2000年 - 2001年、2003年)
  • Sporting News年間ベストナイン:4回 (1992年、1995年、1997年、2001年)
  • シアトル・マリナーズ球団記録
    • 通算記録
      • 通算試合 2055
      • 通算打席 8672
      • 通算打数 7213
      • 通算得点 1219
      • 通算二塁打 514
      • 通算打点 1261
      • 通算塁打 3718
      • 通算長打 838
      • 通算四球 1283
      • 通算犠飛 77
      • 通算死球 89
      • 通算併殺打 190
      • 通算出塁率 .418
    • シーズン記録
      • シーズン四球 123:1996年
      • シーズン出塁率 .479:1995年
    • 1試合記録
      • 1試合二塁打数 3:1995年6月25日、1996年5月11日 ※タイ記録。複数回記録した選手は他にイチローのみ
      • 1試合三塁打数 2:1992年5月3日 ※タイ記録
      • 1試合得点数 5:1999年5月17日 ※タイ記録
      • 1試合四球数 5:2004年6月24日 ※タイ記録
      • 1試合敬遠数 3:2004年5月15日 ※タイ記録
      • 1試合犠飛数 3:2002年8月3日 ※タイ記録

背番号[編集]

  • 11 (1987年 - 2004年)

脚注[編集]

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  1. ^ a b 史上最強のDH エドガー・マルティネスのバッティング理論『月刊スラッガー』2003年10月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-10、14-19頁。

外部リンク[編集]