ノーラン・ライアン

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ノーラン・ライアン
Nolan Ryan
Nolan Ryan in Atlanta.jpg
ノーラン・ライアン(1983年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国の旗 テキサス州レフュージオ
生年月日 1947年1月31日(65歳)
身長
体重
6' 2" =約188cm
195 lb =約88.5kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1965年 10巡目 ニューヨーク・メッツ
初出場 1966年9月11日
最終出場 1993年9月22日
経歴(括弧内は在籍年)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1999年
得票率 98.2%
選出方法 BBWAA選出

リン・ノーラン・ライアン・ジュニア(Lynn Nolan Ryan, Jr. , 1947年1月31日 - )はアメリカ合衆国テキサス州レフュージオ出身の元プロ野球選手投手、右投右打。現テキサス・レンジャーズ球団社長兼共同経営者。

1966年から1993年までメジャーリーグベースボールでプレーし、最速101マイル(約163km/h)の速球を武器にメジャーリーグ記録となる通算5714奪三振の山を築いた。他にもシーズン奪三振、通算与四球などのメジャー記録を保持している。引退時にはタイ記録も含めると53個のメジャー記録を保持していた[1]。1999年に野球殿堂入り。2008年2月6日、テキサス・レンジャーズの球団社長に就任し、2010年1月23日にはオーナーだったトム・ヒックスから投資グループの一員として球団を買収、共同経営者となった。社長は兼任している。

ニックネームは特急を意味するジ・エクスプレス(The Express)。

目次

[編集] 経歴

[編集] メジャー昇格まで

テキサス州のレフュージオに6人兄弟の末っ子として生まれ、生後6週間で一家がヒューストン郊外のアーヴィンに引っ越す。家庭は貧しく、父は早朝の新聞配達と石油会社勤務を兼業していた。このような家庭環境からかライアンは早熟で、12歳の頃には自ら貯めた金で子牛を買っては育てて売り、その金で新しい子牛を買っては育てて売り…を繰り返し、高校入学時には自分の牧場を借りるまでになっていた。また、中学1年の頃にはマイカー(52年型シェヴィー)も所有していた[2]

高校時代の投球(規定7回)で19の三振を奪うなど輝かしい記録を残したが、1965年6月のドラフト10巡目(全体295位)でニューヨーク・メッツから指名を受けるまで、どこからも声がかからなかった。最初のマイナーリーグ時代はアパラチアン・リーグで投げた。

[編集] ニューヨーク・メッツ

翌年の1966年はウェスタン・カロライナ・リーグのグリーンビルで投げ、183イニングを投げ、272三振・127四球・17勝を記録。三振・四球・勝利数は当時のリーグ新記録となり[3]、最優秀投手に選ばれる。この年の後半、イースタン・リーグ(AAA級)のウィラムスポートに昇格。この中の1試合、ポータケット戦で9回と3分の1を投げ、21三振を奪った。この年メジャーデビューも果たし2試合に登板したが、結果は0勝1敗・防御率15.00という、散々な結果だった。

1967年の前半は陸軍予備兵として過ごし後半に復帰したが、右肘の腱を断裂したためリハビリに徹さざるを得ず、マイナーで過ごした。

1968年、初めてメジャーでフルシーズンを迎える。134イニングを投げ133の三振を奪うなど活躍した。(当時の球団記録となる14三振を5月18日のレッズ戦で奪っている)

1969年は6勝3敗・防御率3.53の成績で、メッツ球団史上初の公式セーブを挙げている。ワールドシリーズでは第3戦で苦闘する先発投手を引き継ぎ、当時の強力なボルチモア・オリオールズ打線を相手に2回3分の1を投げ零封しメッツの勝利に貢献、ここでもセーブをあげている。第5戦でオリオールズを倒し、メッツをワールドチャンピオンに導く。これがライアンが初めて、そして生涯で唯一出場したワールドシリーズであった。

1970年1971年はコントロールに苦しみ、1970年は7勝11敗、132イニングの投球で97の四球、1971年は10勝14敗、152イニング投げて116の四球を与えた。

[編集] カリフォルニア・エンゼルス

1971年12月10日、3人の他の選手(その中に後に阪神タイガースでプレーすることになるリロイ・スタントンがいた)と共にカリフォルニア・エンゼルスにトレードされ、先発の柱となる。これはエンゼルスで捕手ジェフ・トーボーグと出会ったことが大きい。トーボーグは「モーションを急ぐために足の踏み出しに腕の振りが追いついていない」とライアンのフォームを分析し、欠点を指摘した。その後デル・ライス監督やトム・モーガン投手コーチも交え、フォーム改造に取り組んだ。ライアンは後年「機械的でうんざりすることもあったが、結局はこの作業が私のピッチングを変えることになった」と振り返っている[2]

移籍1年目の春季キャンプでは球団の環境に嫌気がさし、引退を考えている。後年、彼は当時を振り返り「それは(選手会による)史上初のストライキになるところだった。そしてあの状況があと1週間でも続くものだったら、私はアーヴィンに戻り、二度と戻るつもりなどなかった。労働者としての職を得て、それで過ごしていくつもりだった」と語っている[4]。当時のエンゼルスは弱小チームであったが、毎年19勝から22勝をあげる安定した活躍を見せることになる。

1973年シーズン最後の登板となった9月27日のツインズ戦で11回を投げ16奪三振を記録しシーズン奪三振は383となり、サンディー・コーファックスが保持する20世紀以降の年間奪三振メジャー記録382を更新[3]。同年には5月15日と7月15日に2度のノーヒットノーランを達成し、23試合で2桁奪三振を記録したが、サイ・ヤング賞の投票ではジム・パーマーに次ぐ2位に終わった。

1974年は3度目のノーヒットノーランを達成する。1974年8月20日のホワイトソックス戦において、エンゼルスの企画で赤外線レーダーによる測定が行われ、100.9マイル(162.4キロ)を記録し、これが現在のギネス記録である[5]。翌年の1975年にも4度目のノーヒットノーランを達成し、再びコーファックスの記録に並ぶ。1970年代には奪三振王を7回獲得し、1試合19三振のメジャー記録(その後1986年1996年ロジャー・クレメンス1998年ケリー・ウッドが1試合20奪三振を記録してライアンの記録を破る)も達成する。

[編集] ヒューストン・アストロズ

エンゼルスのGME・J・"バジー" バベシシアトル・マリナーズでGMを務めたビル・バベシの父親)がライアンを「勝率5割の投手」と見切りをつけた[1]1979年11月19日、フリーエージェントヒューストン・アストロズと4年450万ドルで契約し、史上初の単年あたり100万ドルプレーヤーとなった[6]1980年1981年にポストシーズン出場を果たすが、ワールドシリーズまではたどり着けなかった。

1981年の9月26日に5度目のノーヒットノーランを達成し、コーファックスの記録を破る。同年には防御率1.69でタイトルを獲得した。1983年4月27日にはウォルター・ジョンソンの通算3509奪三振を抜き、通算奪三振のメジャー記録を更新した[7]

1986年に再びポストシーズンまで進めるが、リーグチャンピオンシップで姿を消す。1987年には防御率2.76と270奪三振でリーグ1位となるが、打線の援護に恵まれず8勝16敗を記録する。そのため、それぞれのシーズンで最高の投手に与えられるサイ・ヤング賞を逃し、その後引退するまでついにサイ・ヤング賞を受賞できなかった。最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを獲得しながらサイ・ヤング賞を逃したのは、歴史上ライアンだけである。

[編集] テキサス・レンジャーズ

1988年のシーズン後にテキサス・レンジャーズに移籍し、1989年のシーズンには16勝・301奪三振を記録。8月22日のアスレチックス戦の5回にはリッキー・ヘンダーソンから三振を奪い、史上初の通算5000奪三振を達成し、1990年には通算300勝も達成している。

1991年には44歳にして防御率2.91(リーグ5位)・203奪三振(リーグ3位)を記録、再びサイ・ヤング賞の候補に上がる。1991年5月1日試合前に体調が悪く「5回までもたないかもしれないから、代わりの投手を用意しておいてくれ」と言い残しての登板だったが[6]、7度目のノーヒットノーランを達成した。1993年を最後に現役を退いたが、速球は94マイルを記録した[1]

[編集] 引退後

ライアンは資格取得1年目の1999年野球殿堂入りを果たす。殿堂入りは記者投票で決まるが、ライアンの得票数491票は歴代1位(当時)、得票率98.79%は歴代2位だった。「レンジャーズに在籍した時、私のキャリアと試合における存在感は一段上のレベルになった。あの何年かは、私にとって特別なものだ」と[1]殿堂のプレートのライアンはレンジャーズの帽子を被っており、レンジャーズの選手として最初の殿堂入りとなった。これより前の1992年には(当時まだライアンが他球団で現役で投げているにもかかわらず)エンゼルスでの背番号30が、1996年にはアストロズとレンジャーズでの背番号34が、それぞれ永久欠番に指定された。3球団で永久欠番になったのは史上初である。また、この年MLBオールセンチュリー・チームの右投手部門で1位に選ばれている。

2006年にはヒューストン・アストロズで特別アドバイザーを務め、後進の指導を行った。ロジャー・クレメンス(2006年シーズン終了時通算奪三振でライアンに次いで歴代2位)がアストロズ在籍時に撮影された、ライアンとのツーショット写真もある[6]

2006年にアストロズの本拠地 "ミニッツ・メイド・パーク" で始球式を行ったライアン(右)。捕手役はアンディ・ペティットが務めた

レンジャーズ時代の監督で日本プロ野球千葉ロッテマリーンズでも指揮を執ったボビー・バレンタインとは旧知の間柄であり、その縁もあって2007年7月18日に行われた千葉ロッテマリーンズ-オリックス・バファローズ戦(千葉マリンスタジアム)で始球式を行った。

2008年2月6日、テキサス・レンジャーズの球団社長に就任した。1925年以来初めての、殿堂入りした選手によるメジャーリーグ球団社長就任となった[8]

[編集] 選手としての特徴

最速101マイルの速球、大きく縦に割れるカーブサークルチェンジを持ち球にしている。

当時異端児と言われたピッチングコーチのトム・ハウスと 二人三脚で編み出した独特のトレーニング法・調整法は後年の投手に多大な影響を与えた。その徹底された健康管理とトレーニング方法はその著書 "ピッチャーズ・バイブル" に詳細に書かれている。その中でも特に、当時投手には一般的でないどころか、害になるとさえいわれていたウエイトトレーニングを取り入れ、また肩周辺のローテーターカフ(いわゆるインナーマッスル。 当時はこれらの言葉も一般的ではなかった)もアウターマッスル同様に鍛えるエクササイズを取り入れていたことは、驚くべきことである。「投手は若いうちは より多くのイニング数を投げて肩を作るべきだ」という独自の考えをもっており、現在のメジャーでスタンダードとなっている「先発投手は1試合100球・1シーズン200イニング」という考え方に疑問をもっているとのコメントが "ピッチャーズ・バイブル" の中においてある研究者に寄せられている。

[編集] 年度別投手成績





















































W
H
I
P
1966 NYM 2 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 17 3.0 5 1 3 1 0 6 1 0 5 5 15.00 2.67
1968 21 18 3 0 0 6 9 0 -- .400 559 134.0 93 12 75 4 4 133 7 0 50 46 3.09 1.25
1969 25 10 2 0 0 6 3 1 -- .667 375 89.1 60 3 53 3 1 92 1 3 38 35 3.53 1.26
1970 27 19 5 2 0 7 11 1 -- .389 570 131.2 86 10 97 2 4 125 8 0 59 50 3.42 1.39
1971 30 26 3 0 0 10 14 0 -- .417 705 152.0 125 8 116 4 15 137 6 1 78 67 3.97 1.59
1972 CAL 39 39 20 9 0 19 16 0 -- .543 1154 284.0 166 14 157 4 10 329 18 0 80 72 2.28 1.14
1973 41 39 26 4 0 21 16 1 -- .568 1355 326.0 238 18 162 2 7 383 15 0 113 104 2.87 1.23
1974 42 41 26 3 0 22 16 0 -- .579 1392 332.2 221 18 202 3 9 367 9 0 127 107 2.89 1.27
1975 28 28 10 5 0 14 12 0 -- .538 864 198.0 152 13 132 0 7 186 12 0 90 76 3.45 1.43
1976 39 39 21 7 0 17 18 0 -- .486 1196 284.1 193 13 183 2 5 327 5 2 117 106 3.36 1.32
1977 37 37 22 4 0 19 16 0 -- .543 1272 299.0 198 12 204 7 9 341 21 3 110 92 2.77 1.34
1978 31 31 14 3 0 10 13 0 -- .435 1008 234.2 183 12 148 7 3 260 13 2 106 97 3.72 1.41
1979 34 34 17 5 0 16 14 0 -- .533 937 222.2 169 15 114 3 6 223 9 0 104 89 3.60 1.27
1980 HOU 35 35 4 2 0 11 10 0 -- .524 982 233.2 205 10 98 1 3 200 10 1 100 87 3.35 1.30
1981 21 21 5 3 0 11 5 0 -- .688 605 149.0 99 2 68 1 1 140 16 2 34 28 1.69 1.12
1982 35 35 10 3 0 16 12 0 -- .571 1050 250.1 196 20 109 3 8 245 18 2 100 88 3.16 1.22
1983 29 29 5 2 1 14 9 0 -- .609 804 196.1 134 9 101 3 4 183 5 1 74 65 2.98 1.20
1984 30 30 5 2 0 12 11 0 -- .522 760 183.2 143 12 69 2 4 197 6 3 78 62 3.04 1.15
1985 35 35 4 0 0 10 12 0 -- .455 983 232.0 205 12 95 8 9 209 14 2 108 98 3.80 1.29
1986 30 30 1 0 0 12 8 0 -- .600 729 178.0 119 14 82 5 4 194 15 0 72 66 3.34 1.13
1987 34 34 0 0 0 8 16 0 -- .333 873 211.2 154 14 87 2 4 270 10 2 75 65 2.76 1.14
1988 33 33 4 1 2 12 11 0 -- .522 930 220.0 186 18 87 6 7 228 10 7 98 86 3.52 1.24
1989 TEX 32 32 6 2 1 16 10 0 -- .615 988 239.1 162 17 98 3 9 301 19 1 96 85 3.20 1.09
1990 30 30 5 2 0 13 9 0 -- .591 818 204.0 137 18 74 2 7 232 9 1 86 78 3.44 1.03
1991 27 27 2 2 0 12 6 0 -- .667 683 173.0 102 12 72 0 5 203 8 0 58 56 2.91 1.01
1992 27 27 2 0 0 5 9 0 -- .357 675 157.1 138 9 69 0 12 157 9 0 75 65 3.72 1.32
1993 13 13 0 0 0 5 5 0 -- .500 291 66.1 54 5 40 0 1 46 3 0 47 36 4.88 1.42
通算:27年 807 773 222 61 4 324 292 3 -- .526 22575 5386.0 3923 321 2795 78 158 5714 277 33 2178 1911 3.19 1.25
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB最高

[編集] タイトル・表彰・記録

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d 「1999 HALL OF FAMERS 伝説となったヒーローたち ノーラン・ライアン&ジョージ・ブレットロビン・ヨーント」『月刊メジャー・リーグ』1999年3月号、ベースボールマガジン社、1999年、雑誌 08625-3、6 - 8項。
  2. ^ a b 武田薫 「ノーラン・ライアン 「永遠の奪三振王」──その揺るぎなき本質」 『スポーツ・スピリット21 No.20 メジャーリーグ 栄光の「大記録」』、ベースボール・マガジン社、2004年、ISBN 4-583-61303-2、32-35頁。
  3. ^ a b The Ballplayers - Nolan Ryan” (英語). BaseballLibrary.com. 2009年1月3日閲覧。
  4. ^ "That was the year of the first [players']strike and if it had gone on another week I would have quit and gone back to Alvin. And once I would have done that, I wouldn't have come back. I would have gotten a job as a laborer, and that would have been it," Baseball the Biographical encyclopedia, ISBN: 0-681-20016-2
  5. ^ Guiness Book of Baseball World Records” (英語). Baseball-Almanac. 2009年1月3日閲覧。
  6. ^ a b c 出野哲也「歴史が動いた日第15回1991年5月1日 44歳のノーラン・ライアンが7度目のノーヒッターを達成」『スラッガー』2006年9月号、日本スポーツ企画出版社、2006年、雑誌15509-8、88-90頁
  7. ^ Nolan Ryan from the Chronology” (英語). BaseballLibrary.com. 2009年1月3日閲覧。
  8. ^ http://texas.rangers.mlb.com/news/press_releases/press_release.jsp?ymd=20080206&content_id=2366206&vkey=pr_tex&fext=.jsp&c_id=tex

[編集] 外部リンク

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