ウェイト・ホイト
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1899年9月9日 |
| 没年月日 | 1984年8月25日(満84歳没) |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1915年 |
| 初出場 | 1918年7月24日 |
| 最終出場 | 1938年5月15日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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| 選出年 | 1969年 |
| 選出方法 | ベテランズ委員会選出 |
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この表について
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ウェイト・ホイト(Waite Charles Hoyt, 1899年9月9日 - 1984年8月25日)は、1920年代 - 1930年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの野球選手。ポジションは投手。ニューヨーク州ブルックリン生まれ。右投げ右打ち。15歳でプロ契約し、"Schoolboy"(スクールボーイ)というニックネームで呼ばれた。1920年代ヤンキース黄金期の主力投手。
目次 |
経歴 [編集]
ホイトはブルックリン生まれでドジャースのファンだったそうだが、15歳の時にプロ契約を結んだのは、当時ジョン・マグローが率いていたジャイアンツだった。その才能はマグローを驚かせ、ホイトはマグローから「スクールボーイ・ワンダー」というあだ名を付けられた。メジャーリーグデビューは18歳の時だったが、ジャイアンツではわずか1イニングしか登場せず、翌1919年にはレッドソックスへ移籍してしまう。しかし当時財政難を抱えていたレッドソックスにも長くは居られず、1920年オフにヤンキースに移籍する。
ヤンキースには1921年から約10シーズン在籍した。移籍した1921年と1922年はそれぞれ19勝、1923年には17勝を挙げ、3年連続でワールドシリーズに進出する。ホイトはこの間ワールドシリーズで計6試合に登板し、2勝2敗の成績を挙げている。ヤンキースは1926年から再びリーグを3連覇するが、この間ホイトも1927年に22勝(リーグ最多)、1928年に23勝を上げている。
1930年シーズン途中にタイガースに移籍した後は、数球団を転々とするも、ヤンキース時代のような成績はなかなか残せなかった。唯一、1934年にパイレーツで15勝6敗を上げ、防御率でリーグ3位となる活躍をしたが、二桁勝利を挙げられたのはこれが最後だった。
1938年にブルックリンで現役を引退。引退後は野球放送に関わろうとしていたが、ヤンキースは語彙が少ないとの理由でホイトの採用を拒んだという。ホイトは2年間ドジャースのポストゲームショーの解説者を務めた後、シンシナティ・レッズの実況解説者を24年間勤めている。放送界を引退したのは1965年のことだった。レッズはホイトの放送活動での功績をたたえ、2007年に球場のラジオブースの壁近くに記念の放送マイクを飾るセレモニーを行っている。1969年にベテランズ委員会がアメリカ野球殿堂入り選手に選出、1984年にオハイオ州シンシナティにて死去した。
通算成績 [編集]
投手成績 [編集]
| 登 板 |
先 発 |
投 球 回 |
勝 利 |
完 封 |
敗 戦 |
救 援 |
奪 三 振 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
暴 投 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 674 | 423 | 3762.1 | 237 | 26 | 182 | 52 | 1206 | 4037 | 154 | 1003 | 49 | 39 | 1500 | 3.59 | 1.34 |
獲得タイトル・記録 [編集]
打撃成績 [編集]
- 通算成績:674試合、1287打数255安打、本塁打0、打点100、打率.198
出典・外部リンク [編集]
- Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、The Baseball Cube
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