ハーブ・ペノック
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1894年2月10日 |
| 没年月日 | 1948年1月30日(満53歳没) |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投両打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1912年 |
| 初出場 | 1912年5月14日 |
| 最終出場 | 1934年8月27日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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| 選出年 | 1948年 |
| 得票率 | 77.69% |
| 選出方法 | BBWAA[1]選出 |
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この表について
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ハーブ・ペノック(Herbert Jefferis "Herb" Pennock, 1894年2月10日 - 1948年1月30日)は、1910年代 - 1930年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの野球選手。ポジションは投手。ペンシルベニア州ケネットスクエア生まれ。左投げ、スイッチヒッター。ニックネームは、"The Knight Of Kennett Square"(ケネットスクエアの騎士)。1920年 - 1930年のヤンキースの主軸投手。日本にフォークボールを伝えた選手としても知られている。
目次 |
[編集] 略歴
1912年、18歳でアスレチックスに入団、3年目の1914年には28試合に登板し11勝4敗の成績を挙げたが、アスレチックスでは先発投手として定着せず、1915年シーズン中にレッドソックスに移籍する。ペノックがチームの主軸投手となるのは、ボストンに移籍して5年たった1919年からのことである。この年初めて年間200イニング以上を投げる機会を与えられ、16勝8敗、防御率2.71の成績を収める。1921年まではレッドソックスの中軸投手としてほぼ安定した成績だったが、1922年に10勝17敗と大きく負け越し、その年ヤンキースにトレードされる。
ヤンキースでは、1924年と1926年にそれぞれ20勝に達したほか、1932年までの間に4度ワールドシリーズに出場した。ワールドシリーズでの通算成績は5勝負けなし、防御率1.95とポストシーズンに強いところを見せた。
1934年、40歳で現役を引退。引退後、ペノックはレッドソックスのコーチと、ファーム組織の責任者を務めた後、1944年 - 1948年はフィラデルフィア・フィリーズのゼネラルマネージャーを務めた。1948年に記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出される。同年脳溢血で死去。彼が死去したのは殿堂入りが決まる1週間前だった。
[編集] 通算成績
[編集] 投手成績
| 登 板 |
先 発 |
投 球 回 |
勝 利 |
完 封 |
敗 戦 |
救 援 |
奪 三 振 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
暴 投 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 617 | 419 | 3571.2 | 240 | 35 | 162 | 33 | 1227 | 3900 | 128 | 916 | 36 | 65 | 1428 | 3.60 | 1.35 |
[編集] 獲得タイトル・記録
- ワールドシリーズ出場:5回(1914年、1923年、1926年、1927年、1932年)
[編集] 打撃成績
- 通算成績:620試合、1214打数232安打、本塁打4、打点103、打率.191
[編集] 特筆・エピソード
- 殿堂入り選手である二塁手のエディ・コリンズとは、義理の兄弟の関係にあたる。
- 1922年、ペノックがメジャーリーグ選抜チームの一員として来日した際、同行していた明治大学の天知俊一にフォークボールの握りを教えている。その後天知は、明治大学監督だった1948年に、杉下茂にフォークを投げることを勧め、ペノックから教わった投げ方を伝授した。[2]
- 1928年、腕の痛みの治療のため、ペノックは左腕にミツバチの群れをたからせる、という療法を試みたことがある。効き目はあまりなかったようである。
[編集] 出典・外部リンク
- Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
- 通算成績 (Retrosheet)
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