テッド・ウィリアムズ

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テッド・ウィリアムズ
Ted Williams
Ted Williams 1940 Play Ball.jpeg
1940年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州サンディエゴ
生年月日 1918年8月30日
没年月日 2002年7月5日(満83歳没)
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1936年
初出場 1939年4月20日 ニューヨーク・ヤンキース
最終出場 1960年9月28日 ボルチモア・オリオールズ
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1966年
得票率 93.38%
選出方法 全米野球担当記者協会選出

テッド・ウィリアムズTheodore Samuel "Ted" Williams, 1918年8月30日 - 2002年7月5日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ出身の元プロ野球選手。右投左打。

ロジャース・ホーンスビーと並び、メジャーリーグベースボール三冠王を2度獲得した。通算出塁率.482はメジャー歴代1位であり、「打撃の神様」の異名を持つ。

経歴[編集]

アマチュア時代[編集]

1918年、サンディエゴで生まれる。名前の"Theodore Samuel"は、彼の父サミュエル・スチュアート・ウィリアムズと大統領セオドア・ルーズベルトにちなんで名づけられた。

地元サンディエゴのハーバート・フーバー高校時代からその才能は注目され、高校在学中には既にセントルイス・カージナルスニューヨーク・ヤンキースからのオファーを受け取っていた。しかしサンディエゴを離れるにはまだ若すぎると母親が反対したため、ウィリアムズは当時まだマイナーリーグに所属していた地元のパドレスと高校在学のまま契約を交わした。ウィリアムズはマイナーリーグで上記のパドレスとミネアポリスに所属し、メジャーリーグ昇格の機会を伺っていた。

現役時代[編集]

1939年にメジャーデビュー。1年目から活躍し、打率.327、本塁打31本、145打点の活躍で打点王のタイトルを獲得した。

1941年には打率4割の期待がかかり、シーズン最終日にフィラデルフィア・アスレチックスとのダブルヘッダーを残して打率.3995。打率は毛を四捨五入して厘の値までとなり、この時点でも記録上は打率4割となるため、周囲からは欠場を勧められた。しかしウィリアムズはダブルヘッダーに出場。最初の打席で、球審のビル・マゴワンがホームプレートを掃きながら、「4割を達成したいなら、力を抜くんだぞ」と言ったという[1]。ウィリアムズは同2試合で8打数6安打を記録し、打率4割を6厘上回り、23歳1ヶ月で、1911年ジョー・ジャクソンが打率4割を記録した24歳2ヶ月という4割打者の最年少記録を塗り替え、首位打者本塁打王のタイトルを獲得した。これ以降、メジャーで打率4割を記録した者はいないため、最年少記録を出した選手が最後の打率4割達成者となっている。また、試合に出場した理由として、四捨五入で4割となるため実際は4割ではなかったと言われるのが嫌だったと言っている。 この、1941年は打点が120で、あと5打点稼いでいれば125打点のジョー・ディマジオに並び三冠王だった。 1942年には自身初の三冠王、1947年にはメジャー最多タイ記録の2度目の三冠王を記録している。1949年にも三冠王獲得のチャンスがあったが、最終戦に1毛差で打率を逆転されて首位打者を逃し三冠王ならず。1954年には打率がリーグトップであるが当時の首位打者の規定である400打数に136四球が影響し386打数で届かず逃している。このため、1957年シーズン前に打数ではなく、打席を採用することが決定している。

第二次世界大戦朝鮮戦争による2度の従軍があったものの[2]1960年の引退までレッドソックスの主軸として活躍した。通算打率.344、521本塁打はレッドソックスの球団記録である。"Untouchable"と言われる出塁率5割を3度も達成し、通算出塁率.482はメジャー歴代1位。また、通算OPS1.116はベーブ・ルースに次ぐ歴代2位である。

引退後[編集]

1966年アメリカ野球殿堂入り。1969年からの4年間は第3次ワシントン・セネタース及び後身のテキサス・レンジャーズの監督を務めた。2002年7月5日、死去。背番号9はレッドソックスの永久欠番となっている。

ウィリアムズの死体を巡る裁判騒動[編集]

死の直前、自分の死体を冷凍保存する旨の遺言を残したなどで物議を醸した。

長男[3]は冷凍保存を望み、長女[4]は火葬して遺灰を海にまく事を望んだ。一審では長男の勝訴となったが、長女の要求した再審の結果、双方の意見を尊重し、遺体の頭部を冷凍保存、胴体以下を火葬とする判決が出された[5]。現在は実際に頭部のみアルコー延命財団で冷凍保存されている。また、長男はその数ヵ月後に急性白血病により亡くなっており、本人の希望により同財団に冷凍保存された(英語版「en:Ted Williams」より一部翻訳。詳細は英語版を参照のこと)。

特筆[編集]

人物[編集]

生涯を通じて釣り、とくに海釣りを趣味とし、シーズンが終わるとそのままフロリダ州まで行って海釣りに興じていたこともある。また、釣りの雑誌の表紙に出たこともあった。

頑固な性格であった。堅苦しいことを嫌い、服装に於いてもネクタイの着用を拒否し続けた。ファンやメディアとの関係も友好的とは言えず、その圧倒的な実力を認められながらジョー・ディマジオのような大衆の人気を得ることはなかった。引退試合においても通常通りプレーし、試合終了後にもセレモニーどころか帽子を取って観客に応える仕草ひとつ見せず、グラウンドを去った。ファンやメディアからは当然不満の声が上がったが、ニューヨーカー誌記者で、後に作家となるジョン・アップダイクはこの一件について「神々はいちいち、手紙の返事など書かないものだ」と記している。しかし、最後の打率4割到達から50年後の1991年5月、フェンウェイ・パークにおける記念式典に招かれた際には、「新聞記者達は、ウィリアムズは偏屈で帽子を取って挨拶もしないと書き続けたが、2度とそんなことは書けないだろう」とスピーチした後、レッドソックスの帽子を振って客席に向かって挨拶をした。

人種問題について、進歩的思想の持ち主であった。黒人であるウィリー・メイズが通算本塁打記録でウィリアムズを追い越しかけた頃、ウィリアムズはメイズに対し「レッツゴー、ウィリー」と激励したという。野球殿堂入りを果たした際の式典スピーチでは、サチェル・ペイジジョシュ・ギブソンなどニグロリーグで活躍した名選手たちの殿堂入りを訴えた。トニー・グウィンと親交が深かったことでも知られ、グウィンを釣りに誘ったこともある。

野球[編集]

打率4割を打った1941年にも2度の三冠王を獲った1942年、1947年にもMVPに選ばれなかった。特に1947年に関しては、シーズン中に地元ボストンのある地元記者と記事を巡ってトラブルがあり、三冠王を獲ったにも関わらずその地元記者が10位までにウィリアムズの名前を書かなかったため、僅差の得票で敗れた(ただし、1946年と1949年にはMVPに選ばれている)。

並外れた動体視力を持ち、78回転のレコードのラベルを読むことが出来た。さらに空軍時代は、その目を生かして敵機を多数撃墜していたという。また、動体視力に加えて記憶力にも優れており、その日の試合で自分に投じられたボールのコース・球種をすべて記憶し、ノートに記録していたとされる。ウィリアムズの著作『バッティングの科学』は、この日々の記録を元に著された。

ウィリアムズには野球人生で3つの悔いがあった。1つ目はワールドシリーズのひのき舞台を踏んだのが1度だけで、カージナルスに敗れてチャンピオンズリングを手にできなかったこと。2つ目は第二次世界大戦と朝鮮戦争での兵役で選手生活を5年近く中断されたこと。そして3つ目は「俊足」に恵まれなかったことである。1957年、打率3割8分8厘で史上最年長39歳で5度目の首位打者を獲得したが、ウィリアムズは「もし自分にもう少しスピードがあって、あと5本のヒットを内野安打で稼いでいたら、2度目の打率4割を記録できていた」と終生悔しがっていたという。

試合前の打撃練習にて、「たまらないなあ、何で俺はこんなに凄いんだろう?」、「面白すぎて一日やっても飽きないな」、「練習するたびに、どんどん打撃がうまくなるな」などの独り言を言っていたという。また、周囲が夜遊びに街に出る中、ウィリアムズは夜十時には就寝し、煙草も吸わずにいるほど、自己管理をしていたという。

ウィリアムズの強打に対して、クリーブランド・インディアンスの監督ルー・ブードローは、内野手を右に寄せるブードローシフトと呼ばれる作戦をあみ出した。この作戦は、後年、日本プロ野球で王貞治に対して組まれた王シフトの原型となった。

引退後に「特に第一ストライクを狙う事が強打者になる第一の秘訣。と言うのはストライクを逃せば、それだけ打者に不利なカウントになる。そうると投手も思い切ってドンドン投げてくる。こんな簡単な事が分からない打者が今の野球には多過ぎるんじゃないかな。第一ストライクを打つ打者が沢山いるチームは必ず好成績をおさめる。また、それこそプロ野球だ」と述べている(彼自身は四球が多い打者だった)[6]

野村克也は現役時代、打撃不振に陥った頃にウィリアムズの著書と出会い、その中で「ピッチャーは、投げる際に既に球種を決めており、球種によって体の動きに微妙な変化が出る」という旨の記述を読み、これをきっかけにピッチャーのクセを研究するようになったという。

亡くなる前の2002年のインタビューで、「次に打率4割を達成する打者は誰か」というインタビューに対し、「イチロー」と答えた。

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1939 BOS 149 677 565 131 185 44 11 31 344 145 2 1 3 - 107 - 2 64 10 .327 .436 .609 1.045
1940 144 661 561 134 193 43 14 23 333 113 4 4 1 - 96 - 3 54 13 .344 .442 .594 1.036
1941 143 606 456 135 185 33 3 37 335 120 2 4 0 - 147 - 3 27 10 .406 .553 .735 1.288
1942 150 671 522 141 186 34 5 36 338 137 3 2 0 - 145 - 4 51 12 .356 .499 .648 1.147
1943 軍隊への入隊のため試合出場なし
1944
1945
1946 150 672 514 142 176 37 8 38 343 123 0 0 0 - 156 - 2 44 12 .342 .497 .667 1.164
1947 156 693 528 125 181 40 9 32 335 114 0 1 1 - 162 - 2 47 10 .343 .499 .634 1.133
1948 137 638 509 124 188 44 3 25 313 127 4 0 0 - 126 - 3 41 10 .369 .497 .615 1.112
1949 155 730 566 150 194 39 3 43 368 159 1 1 0 - 162 - 2 48 22 .343 .490 .650 1.140
1950 89 416 334 82 106 24 1 28 216 97 3 0 0 - 82 - 0 21 12 .317 .452 .647 1.099
1951 148 675 531 109 169 28 4 30 295 126 1 1 0 - 144 - 0 45 10 .318 .464 .556 1.020
1952 6 12 10 2 4 0 1 1 9 3 0 0 0 - 2 - 0 2 0 .400 .500 .900 1.400
1953 37 110 91 17 37 6 0 13 82 34 0 1 0 - 19 - 0 10 1 .407 .509 .901 1.410
1954 117 526 386 93 133 23 1 29 245 89 0 0 0 3 136 - 1 32 10 .345 .513 .635 1.148
1955 98 417 320 77 114 21 3 28 225 83 2 0 0 4 91 17 2 24 8 .356 .496 .703 1.199
1956 136 503 400 71 138 28 2 24 242 82 0 0 0 0 102 11 1 39 13 .345 .479 .605 1.084
1957 132 546 420 96 163 28 1 38 307 87 0 1 0 2 119 33 5 43 11 .388 .526 .731 1.257
1958 129 517 411 81 135 23 2 26 240 85 1 0 0 4 98 12 4 49 19 .328 .458 .584 1.042
1959 103 331 272 32 69 15 0 10 114 43 0 0 0 5 52 6 2 27 7 .254 .372 .419 .791
1960 113 390 310 56 98 15 0 29 200 72 1 1 0 2 75 7 3 41 7 .316 .451 .645 1.096
通算:19年 2292 9791 7706 1798 2654 525 71 521 4884 1839 24 17 5 20 2021 86 39 709 197 .344 .482 .634 1.116
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB歴代最高
  • 1954年は規定打数に到達していないが残りの打席が全て凡退であると仮定しても規定打数到達者の最高出塁率、長打率、OPSを上回る為、リーグ1位として扱われる

獲得タイトル・表彰・記録[編集]

脚注[編集]

  1. ^ パット・サマーオール『ヒーロー・インタヴューズ』朝日新聞社刊、328ページ
  2. ^ 年齢でいえば、25歳から27歳までの三年間は出場なし、34歳・35歳の二年間でわずか44試合出場に終わっている。このブランクさえなければ、成績・記録において相当上積みできたと言われている。
  3. ^ 3回目の結婚の時の妻との子供
  4. ^ 1回目の結婚の時の妻との子供
  5. ^ 頭部は長男、胴体以下は長女に引き渡された
  6. ^ 伊東一雄. メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事. サンケイスポーツ. p. 74-76. 

外部リンク[編集]