スモーキー・ジョー・ウィリアムズ

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”スモーキー・ジョー”・ウィリアムズ
"Smokey Joe" Williams
Williams Cyclone Joe.jpg
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テキサス州セギン
生年月日 1885年4月6日
没年月日 1946年3月12日(満60歳没)
身長
体重
6' 4" =約193 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
  • サンアントニオ・ブラック・ブロンコス(1907-1909)
  • シカゴ・ジャイアンツ(1910)
  • ニューヨーク・リンカーン・ジャイアンツ(1911-1913)
  • モホーク・ジャイアンツ(1913)
  • シカゴ・アメリカン・ジャイアンツ(1914)
  • アトランティックシティ・バカラック・ジャイアンツ(1916)
  • ヒルデール・デイジーズ(1917年)
  • ブルックリン・ロイヤル・ジャイアンツ(1924)
  • ホームステッド・グレイズ(1925-1932)
  • デトロイト・ウルヴス(1932)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1999年
選出方法 ベテランズ委員会選出

”スモーキー・ジョー”・ウィリアムズ(Joseph "Smokey/Cyclone Joe" Williams, 1886年4月6日 - 1946年3月12日)は、1910~1920年代にアメリカ合衆国ニグロリーグで活躍していた野球選手。主なポジションは投手テキサス州セギン生まれ。右投げ右打ち。”サイクロン・ジョー”とも呼ばれる。サチェル・ペイジ以前のニグロリーグにおいて、最も偉大な投手と言われる。

来歴・人物[編集]

ウィリアムズは、アフリカ系アメリカ人と、ネイティブアメリカン(コマンチ族)の両親の間に生まれた。プロとして野球を始めたのは1905年からで、サンアントニオにあったブラック・ブロンコスというチームでプレーを始める。身長6フィート4インチ、体重200ポンドという大柄な体からウィリアムズは剛速球を繰り出し、初年からいきなり28勝を上げ、その後も15勝、20勝、20勝、32勝と勝ち星を上げる。

1911年にウィリアムズはニューヨークのリンカーン・ジャイアンツに入団。1910年代におけるリンカーン・ジャイアンツの躍進を支える存在となった。記録は不充分ながら、1914年シーズンは41勝3敗の成績を挙げていたものと考えられている。また同年、メジャーリーグのニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)との交流試合では20奪三振を挙げたそうで、この速すぎて見えないほどの剛速球に、ジャイアンツの選手から『スモーキー』とあだ名を付けられたのが彼のニックネームの由来だという。また1917年に行われた交流試合では、同じニューヨーク・ジャイアンツを相手に無安打試合をやってのけた(その試合は1-0で敗れたそうである)。

1914年当時監督をしていたジョン・ヘンリー・ロイドが監督を退いた後は、1923年までリンカーン・ジャイアンツの選手兼任監督を勤めていた。しかし1923年に、チームがイースタン・カラード・リーグ5位と低迷すると、ウィリアムズはその責任を取らされる形で放出され、1924年のブルックリンを経て1925年からはホームステッド・グレイズに所属した。1929年には43歳になっていたが、12勝7敗という成績を残しており、また翌1930年の8月7日にカンザスシティ・モナークスと対戦した試合では、延長12回まで投げきり計27奪三振を挙げるという記録を作っている。

1932年に現役を引退。引退後はニューヨークでバーテンダーなどをしていたそうである。1946年にニューヨークで死去。[1]それまでニグロリーグ以前の投手成績統計の調査が充分でなかったことなどで、ウィリアムズがベテランズ委員会からアメリカ野球殿堂入り選手に選出されたのは、1999年のことであった。

記録・表彰等[編集]

  • メジャーリーグとの交流試合成績:通算20勝7敗

出典・外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 没年については他説もあり、アメリカ野球殿堂の記載は1951年没としている。