バン・ジョンソン

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1921年。バン・ジョンソン

バン・ジョンソンByron Bancroft "Ban" Johnson, 1864年1月5日 - 1931年3月28日)は、アメリカメジャーリーグアメリカンリーグ初代会長。オハイオ州ノーウォーク生まれ。1901年のアメリカンリーグ創設に尽力した。

1922年。バン・ジョンソンとベーブ・ルース(右)

来歴・人物[編集]

ジョンソンはオハイオ州のマリエッタ大学で法律を学んでいたが、中退しシンシナティのシンシナティ・コマーシャル・ガゼッタ誌でスポーツ記者をしていた。取材などで当時のレッズのマネージャーだったチャールズ・コミスキーと親しくなる。1894年に当時レッズのオーナーだったジョン・ブラッシュの口添えもあって30歳でマイナーリーグの「ウェスタンリーグ」理事長となる。1894年にコミスキーが監督を解雇されると、ジョンソンはパートナーとしてコミスキーを迎え入れた。

1900年、ウェスタンリーグは名称を『アメリカンリーグ』に変更し、ジョンソンはリーグをメジャーリーグにするための施策を打ち始める。1890年代末にナショナルリーグも経営難に見舞われ、いくつかの球団の脱退などが起きていた。ジョンソン自身もこれを野球の危機と捉えていたようである。ジョンソンはナショナルリーグからの選手の引き抜きを始め、マスコミとの連携を図ると共に汚い野次や飲酒、ギャンブルなどに厳しく取り締まることで、家族や女性が野球を観戦できるようなイメージ作りを行った。また『保留事項』を定めない1球団14人のロスターからなるチームを構成してフランチャイズの配置換えを行ない、各球団の旅費が公正なものになるようなスケジュール組みなどを行った。またリーグの特徴として、審判の権限の尊重を打ち出し、監督以外の選手が審判へ手を出す行為を禁じる措置をとった。かくして1901年にジョンソンは、アメリカンリーグがナショナルリーグと並ぶメジャーの野球リーグであることを宣言する。

翌1902年シーズン後、ナショナルリーグ側がリーグに加盟するようアメリカンリーグ側に要請する。しかしジョンソンはこれを拒否し、逆に両リーグを制覇したチーム同士での王者決定戦の開催を逆に要求する。このシリーズは翌年1903年から『ワールドシリーズ』として毎年開催されるようになった。

この後メジャーリーグの運営は1920年まで両リーグ会長を含む『三頭政治』で行われていたが、ブラックソックス事件を契機としてコミッショナーに権力を集める体制に移行していった。コミッショナー制度確立後両リーグ会長の権限は弱くなったが、会長職制度は20世紀の終わりまで継続される。

ジョンソンは後の1927年に体調の不良を理由にリーグ会長職を退き、1931年にセントルイスで死去。死後1937年に、ナショナルリーグ初代会長のモーガン・バークリーと共にアメリカ野球殿堂入りした。

出典・外部リンク[編集]

先代:
N/A
アメリカン・リーグ会長
初代:1901年 - 1927年
次代:
アーネスト・バーナード