クラーク・グリフィス
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| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1869年11月20日 |
| 没年月日 | 1955年10月27日(満85歳没) |
| 身長 体重 |
5' 6.5" =約168.9cm 156 lb =約70.8kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| 初出場 | 1891年4月11日 |
| 最終出場 | 1914年10月7日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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| 選出年 | 1946年 |
| 選出方法 | ベテランズ委員会選出 |
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この表について
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クラーク・グリフィス(Clark Calvin Griffith、1869年11月20日 - 1955年10月27日)は、1890~1920年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの選手、および監督。後にワシントン・セネターズの球団所有者となった。選手時代の主なポジションは投手。ミズーリ州クリアクリーク生まれ。右投げ右打ち。ニックネームは"The Old Fox"(オールド・フォックス)。選手、監督、オーナーとして、それぞれ輝かしい実績を残した人物である。
目次 |
[編集] 経歴・人物
[編集] 選手時代
1891年にアメリカン・アソシエーションのセントルイス・ブラウンズ(現在のカージナルス)から投手としてメジャーリーグにデビューする。11勝8敗とまずまずの成績だったが、ブラウンズはグリフィスを放出、同年ボストン・レッズに移籍する。1893年からシカゴ・コルツ(現在のカブス)に所属し先発投手として定着、1894年から1899年まで6年連続で20勝を挙げる活躍をする。特に1898年には38試合に登板して24勝10敗、防御率1.88という好投を見せ、この年の最優秀防御率投手となった。
1901年にアメリカンリーグが創設されると、グリフィスは同じシカゴのホワイトソックスに移籍、この年監督兼任ながら24勝7敗の活躍をし、チームをリーグ制覇へ導く。1903年にはニューヨーク・ハイランダース(現在のヤンキース)で14勝11敗、防御率2.70の成績を残した。1905年、1906年は先発から主にリリーフをするようになっていたが、出場機会は徐々に減り、監督業に専念するようになる。現役選手は実働で21年勤め、通算で237勝を挙げている。
[編集] 監督時代
グリフィスはアメリカンリーグに参加した1901年、シカゴ・ホワイトソックスの選手兼任監督として、自らも20勝以上挙げる活躍をしチームをリーグ制覇に導いている。その後ニューヨーク・ハイランダース時代にはチームをリーグ2位まで押し上げたことが2度あったが、なかなか優勝に手が届かなかった。シンシナティ・レッズの監督を3年勤めた後、1912年からはワシントン・セネターズ(現在のツインズ)を率いる。ここでも1912年と1913年にチームは90勝以上を挙げたもののリーグ2位に終わる。その後は補強が上手くいかず徐々に成績が低迷しセネターズは勝てなくなっていった。一計を案じたグリフィスは自らセネターズを所有することを決断、1920年シーズンに所有者となったのを期に監督を退く。チームを優勝に導いたのは結局1901年の1度きりだが、監督としても1400勝以上を挙げる実績を残した。グリフィスの功績の1つには、自身がそうしたように先発投手とリリーフ投手の分業を導入したことが挙げられる。
[編集] 球団オーナーへ
1920年からグリフィスはセネターズのオーナーとなる。グリフィスはナイトゲーム嫌いのオーナーとして知られ、また特に若いプレーヤーを信頼して使うチーム運営をしていた。1924年、グリフィスは当時まだ27歳だったバッキー・ハリスを監督に迎えたが、この年ウォルター・ジョンソンらの活躍で念願のリーグ制覇を成し遂げ、翌年とあわせリーグを2連覇する。セネターズはその後ウォルター・ジョンソンの監督時代を経て、1933年に再び27歳のジョー・クローニンを監督にすえ、3度目のリーグ制覇を遂げている。しかしクローニンのセネターズ在任期間は長くなく、球団の経営難からグリフィスは1934年にクローニンをボストン・レッドソックスに放出する。これがきっかけとなって、セネターズはその後の長い低迷期を迎えることになる。
1946年にグリフィスはアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。1955年にワシントンD.C.にて死去。奇しくもこの年、グリフィス率いるセネターズをモデルにしたミュージカル『くたばれ!ヤンキース』がブロードウェイで公開され大ヒットした。このミュージカルは後の1958年に映画化されている。
[編集] 通算成績
[編集] 投手成績
| 登 板 |
先 発 |
投 球 回 |
勝 利 |
完 封 |
敗 戦 |
救 援 |
奪 三 振 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
暴 投 |
自 責 点 |
防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 453 | 372 | 3385.2 | 237 | 22 | 146 | 6 | 955 | 3670 | 76 | 774 | 102 | 57 | 1246 | 3.31 |
[編集] 打撃成績
- 通算:485試合、1380打数321安打、本塁打8、打点166、打率.233
[編集] 獲得タイトル・記録
- 最優秀防御率:1回(1898年、1.88)
[編集] 監督としての戦績
| 年度 | チーム | リーグ | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1901年 | CWS | AL | 137 | 83 | 53 | .610 | 1位 | |
| 1902年 | 138 | 74 | 60 | .552 | 4位 | |||
| 1903年 | NYH | 136 | 72 | 62 | .537 | 4位 | ||
| 1904年 | 155 | 92 | 59 | .609 | 2位 | |||
| 1905年 | 152 | 71 | 78 | .477 | 6位 | |||
| 1906年 | 155 | 90 | 61 | .596 | 2位 | |||
| 1907年 | 152 | 70 | 78 | .473 | 5位 | |||
| 1908年 | 57 | 24 | 32 | .429 | 6位 | 開幕~6/24 | ||
| 1909年 | CIN | NL | 157 | 77 | 76 | .503 | 4位 | |
| 1910年 | 156 | 75 | 79 | .487 | 5位 | |||
| 1911年 | 159 | 70 | 83 | .458 | 6位 | |||
| 1912年 | WAS | AL | 154 | 91 | 61 | .599 | 2位 | |
| 1913年 | 155 | 90 | 64 | .584 | 2位 | |||
| 1914年 | 158 | 81 | 73 | .526 | 3位 | |||
| 1915年 | 155 | 85 | 68 | .556 | 4位 | |||
| 1916年 | 159 | 76 | 77 | .497 | 7位 | |||
| 1917年 | 157 | 74 | 79 | .484 | 5位 | |||
| 1918年 | 130 | 72 | 56 | .563 | 3位 | |||
| 1919年 | 142 | 56 | 84 | .400 | 7位 | |||
| 1920年 | 153 | 68 | 84 | .447 | 6位 | |||
| 通算 | 2917 | 1491 | 1367 | .522 | ||||
[編集] 関連項目
- Damn Yankees-グリフィスのセネタースをモデルにしたブロードウェイミュージカル。邦題『くたばれ!ヤンキース』
- シェリー・ロバートソン
[編集] 出典・外部リンク
- Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 通算戦績 (Retrosheet)
- Baseball Library
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| 先代: エイモス・ルーシー |
ナ・リーグ最優秀防御率 1898年 |
次代: ヴィック・ウィリス |
