モンテ・ウォード
モンテ・ウォードのベースボールカード
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | ペンシルベニア州ベルフォント |
| 生年月日 | 1860年3月3日 |
| 没年月日 | 1925年3月4日(満65歳没) |
| 身長 体重 |
5' 9" =約175.3 cm 165 lb =約74.8 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 投手、内野手 |
| 初出場 | 1878年7月15日 |
| 最終出場 | 1894年9月29日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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| 選出年 | 1964年 |
| 選出方法 | ベテランズ委員会選出 |
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この表について
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ジョン・モンゴメリ・"モンテ"・ウォード(John Montgomery "Monte" Ward、1860年3月3日 - 1925年3月4日) は、19世紀のメジャーリーグの選手。主なポジションは投手、後に遊撃手。アメリカ合衆国ペンシルベニア州ベルフォント生まれ。右投げ左打ち。投手・内野手としての活躍だけでなく、初の選手組合の創設などにも関わった。
目次 |
経歴 [編集]
1878年~1883年 [編集]
1878年にプロビデンス・グレイズに入団。最初は投手を務めていた。1年目に37試合に登板し、22勝13敗、リーグ最高の防御率1.51の成績を収める。翌1879年と1880年には70試合に登板、両年とも600イニングス近い投球回を投げ、グレイズの主力投手として活躍する。1879年は47勝19敗で最多勝利投手、奪三振も239でリーグ最多を記録。1880年は一時期監督も兼任していたが、39勝24敗で防御率は1点台だった。さらにこの年の6月17日には、後の300勝投手であるパッド・ガルヴィンと投げあい、メジャーリーグ史上二人目となる完全試合を達成している。
ウォードはニューヨーク・ゴサムズに移った1883年まで主に投手・外野手として活躍し、この年と翌年の投球ルール改定(下手投げルールの撤廃)を期に内野手に転向した。通算防御率2.10は、メジャーリーグ歴代4位に相当する。
1884年~1894年 [編集]
1884年は自身二度目の選手兼任監督をつとめ、主にショートのポジションを守っていた。1887年にキャリア最高となる打率.338を記録、また同じ年に111もの盗塁をきめて盗塁王となる。盗塁記録が残っている1886年以降は、引退するまで9年続けて30盗塁以上をあげていた。また1892年にも、88盗塁を記録し2度目の盗塁王になっている。
選手組合と新リーグの創設 [編集]
当時ナショナルリーグの球団オーナー達が行っていた、選手への度重なる給料抑制に対抗すべく、ウォードは選手組合の必要性をよびかけ、1885年に選手組合 (The Brotherhood of Professional Baseball Players) を組織する。しかしさらに給与制限策をすすめようとする球団オーナー側に対し、ウォードは1889年11月、30人ほどの代表の選手達とニューヨークで話し合いを持ち、「プレイヤーズ・リーグ」の設立と選手の参加を了承した。代表の選手達は他の選手の勧誘を行い、最終的にはナショナルリーグの8割の選手を引き抜くことに成功する。
1890年にプレイヤーズ・リーグは開幕したが、ナショナルリーグ側が選手達により高給の条件を提示して逆に選手を引き抜き、結局リーグは1年運営されただけだった。
引退後 [編集]
ウォードは1894年に34歳で現役を引退して法律の専門課程に入った。1909年にはナショナルリーグ会長に就任する予定があったそうだが、アメリカンリーグ側のバン・ジョンソンやチャールズ・コミスキーらの反対がありこれは実現しなかった。その後1912年にボストン・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)の球団経営に参画、また1914年と1915年に運営されたフェデラル・リーグにも関わり、ブルックリン・ティップトップスのビジネスマネージャーを勤めたこともあった[1]。
1925年にジョージア州オーガスタで死去。1964年にベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。
通算成績 [編集]
打撃成績 [編集]
※数字の後の"*"は、記録不明の箇所があることを示す。
| 試 合 |
打 数 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
得 点 |
打 点 |
盗 塁 |
三 振 |
四 球 |
死 球 |
犠 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1825 | 7647 | 2104 | 231 | 96 | 26 | 1408 | 867 | 540* | 326 | 420 | 17* | 20* | .275 | .314 | .341 | .655 |
投手成績 [編集]
| 登 板 |
先 発 |
投 球 回 |
勝 利 |
完 封 |
敗 戦 |
救 援 |
奪 三 振 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
暴 投 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 292 | 261 | 2461.2 | 164 | 24 | 102 | 3 | 920 | 2317 | 26 | 253 | 144 | 575 | 2.10 | 1.04 |
獲得タイトル・記録 [編集]
- 打撃部門
- 盗塁王:2回 (1887年、1892年)
- シーズン盗塁数:111(1887年、歴代3位)
- 投手部門
- 最多勝利:1回 (1879年)
- 最優秀防御率:1回 (1878年、1.51)
- 最多奪三振:1回 (1879年)
- 完全試合:1880年6月17日
- 通算防御率:2.10(歴代4位)
- 1882年8月17日の試合で、一人で18回を投げ相手を無得点に抑えた。これは現在MLB史上最長の完封試合である。
監督としての戦績 [編集]
| 年 度 |
チ | ム |
リ | グ |
試 合 |
勝 利 |
敗 戦 |
勝 率 |
順 位 |
備 考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1880 | PRO | NL | 32 | 18 | 13 | .581 | 2位 | 6月1日~7月24日 |
| 1884 | NYG | 16 | 6 | 8 | .429 | 4位 | 9月23日~ | |
| 1890 | BRW | PL | 133 | 76 | 56 | .576 | 2位 | |
| 1891 | BRO | NL | 137 | 61 | 76 | .445 | 6位 | |
| 1892 | 158 | 95 | 59 | .617 | 3位 | |||
| 1893 | NYG | 136 | 68 | 64 | .515 | 5位 | ||
| 1894 | 139 | 88 | 44 | .667 | 2位 | |||
| 通算成績 | 751 | 412 | 320 | .563 | ||||
脚注 [編集]
- ^ “Simply Baseball Notebook”. 2009年10月30日閲覧。
出典・外部リンク [編集]
- Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs
- 年度別成績 (Retrosheet)
- Alfonso Park
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