ケネソー・マウンテン・ランディス

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ケネソー・マウンテン・ランディス


連邦地方裁判所
イリノイ州北部地区裁判所判事
任期
1905年3月18日 – 1922年2月28日
任命者 セオドア・ルーズベルト
前任者 クリスチャン・セシル・コルサート
後任者 ジェームズ・ハーバート・ウィルカーソン

任期
1920年11月 – 1944年11月25日
前任者 新設
後任者 A・B・チャンドラー

出生 1866年11月20日
オハイオ州ミルビル
死亡 1944年11月25日
セント・ルークス病院
イリノイ州シカゴ
母校 シンシナティ大学
ユニオン・カレッジ・オブ・ロー
職業 判事

ケネソー・マウンテン・ランディス: Kenesaw Mountain Landis1866年11月20日 - 1944年11月25日)は、MLBの初代コミッショナー(1920年11月12日から死去する1944年まで)、元イリノイ州連邦地裁判事。

来歴・人物[編集]

シカゴ・ホワイトソックスの選手たちが1919年のワールドシリーズで八百長を働いたとされるブラックソックス事件が発生し、大リーグはイメージダウンによる大打撃を受けた。大リーグはそれまでの3人ナショナル・コミッションが統治を行う形から、権威ある単独のコミッショナーを導入し、ケネソー・マウンテン・ランディスを初代コミッショナーに迎え入れた。

ランディスは事件に対処し、ブラックソックススキャンダルに関った8人の選手を永久追放とする裁定を下した。また、これ以外にも、オーナーたちの不正行為などを指弾し厳しく処分するなどの姿勢をとったことから、球界の最高権力者として振舞うというコミッショナーのイメージを定着させることになった。

またランディスは保守派としての顔も伺え、在任中に起きた、ブランチ・リッキーが展開したファーム・システムには批判的だった。これには若い才能ある選手たちがファームシステムによって球団に拘束され、却ってビッグ・リーグで活躍する機会を失ってしまうという考えだったという。他にもニグロリーグの優秀な黒人プレーヤーへのメジャーリーグへの門戸を開くことは拒否的で、「ニグロリーグというのがあるのだから、別に入れなくてもいいのではないか」と言うほどだが、当時ランディスの周囲にも黒人選手がメジャーリーグでプレーすることに反対する球界関係者(代表例:キャップ・アンソンなど)が多かったのも確かである。

1944年、ランディスは勤務先のコミッショナー事務局で、自らのデスクで勤務中に急死した。彼の死後、1947年にジャッキー・ロビンソンがデビューするなど、メジャーリーグは黒人を始めとする有色人種に対する門戸を徐々に開くようになるが、これはランディスの死と無関係ではないと指摘する者もいる[1]

参照[編集]

外部リンク[編集]

司法職
先代:
クリスチャン・セシル・コルサート
連邦地方裁判所
イリノイ州北部地区裁判所判事

1905年3月18日 - 1922年2月28日
次代:
ジェームズ・ハーバート・ウィルカーソン
スポーツのタイトル
先代:
新設
MLBコミッショナー
1920年 - 1944年
次代:
ハッピー・チャンドラー