ジョー・ジラルディ
| ニューヨーク・ヤンキース 監督 #28 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | イリノイ州ピオリア |
| 生年月日 | 1964年10月14日(48歳) |
| 身長 体重 |
5' 11" =約180.3 cm 200 lb =約90.7 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 捕手 |
| プロ入り | 1986年 ドラフト5巡目 |
| 初出場 | 1989年4月4日 |
| 最終出場 | 2003年9月28日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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この表について
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ジョー・ジラルディ(Joseph Elliot Girardi, 1964年10月14日 - )は、元MLB選手(捕手)、現在はニューヨーク・ヤンキース監督。1989年のデビュー後、2003年に引退するまでの15年間でシカゴ・カブス、コロラド・ロッキーズ、ニューヨーク・ヤンキース、そしてセントルイス・カージナルスにてプレーした。また、2006年にはフロリダ・マーリンズの監督も務めており、ナリーグの最優秀監督賞にも選ばれている。アメリカ合衆国イリノイ州出身。右投右打。
目次 |
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
イリノイ州のイーストピオリア出身。高校時代は、野球部で捕手としてプレーするほか、アメリカン・フットボール部でクォーターバックとしても活躍していた。ノースウェスタン大学でも野球を続ける傍らで、生産工学を専攻していた。
選手時代[編集]
1986年にドラフト5巡目でシカゴ・カブス入団。1988年にはベネズエラでのウィンターリーグに派遣される。1989年に捕手としてカブスでメジャーデビュー。1992年オフに新球団コロラド・ロッキーズからエクスパンション・ドラフトで指名され移籍。1996年にマイク・デジャーンとのトレードでヤンキースへ移籍する。
ジラルディは1996年から1999年までの4年間、ヤンキースの正捕手を務め、3度の世界一となる。伊良部秀輝、アンディ・ペティット、デービッド・ウェルズ、デービッド・コーン、マリアノ・リベラらとバッテリーを組み、1999年7月18日にはコーンが完全試合を達成した時の捕手を務めた。また、その3年前の1996年には、ドワイト・グッデンがノーヒット・ノーランを達成したときの捕手も務めていた。
ヤンキースが当時25歳の若手有望株だったホルヘ・ポサダをメジャーに昇格させた際には、ジラルディは彼のメンターとなった。二人は1999年まで、良いライバルとして出場機会を争っていた。
2000年に入団当時のカブスに再移籍し、オールスターにも初選出された(出場はせず)。2003年はセントルイス・カージナルスでプレーした。
引退〜マーリンズ監督[編集]
2004年にヤンキースの春季キャンプに招待選手として参加し、メジャー2年目の松井秀喜らと共にプレーするもメジャーに昇格できず、シーズンを前に引退。ヤンキース傘下のケーブルテレビ局YESで解説者となり、主にヤンキース戦の解説を務めた。
2005年、フロリダ・マーリンズからの「将来的には監督への就任を前提とした、ベンチコーチ契約」を蹴り、ジョー・トーリの下でヤンキースのベンチコーチを1年間務めた。
2006年にはジャック・マキーオンに代わり、マーリンズの監督に就任。監督してのジラルディが最初におこなったことは、選手への「髭禁止令」であった。
主力選手のほとんどをトレードやFAで放出する、いわゆる「ファイヤーセール」が断行された後の若手主体のチームで指揮を執り、結果は78勝84敗の4位だったものの一時はナ・リーグのワイルドカード争いをするという健闘を見せた。マーリンズの選手総年俸額は1400万ドル程度であり、幾人かのメジャーのスター選手の年俸一年分にも満たなかった。
しかし、ジラルディとマーリンズのオーナーであったジェフリー・ローリアとの関係は良好ではなかった。8月初旬におこなわれたとある試合では、審判に対する暴言を繰り返していたローリアを、ジラルディとベンチコーチのゲーリー・タックが窘めたことがきっかけで、大喧嘩が発生している。
結局10月3日に、ジラルディは解雇される。皮肉なことに、ジラルディの采配は評価されており、同年のオフにはナ・リーグの最優秀監督賞に選ばれている。彼がフリーになったことで、多くの球団はジラルディへの興味を示した。ヤンキースは、2006年のALDSで敗退したトーリ監督の後任としてジラルディを検討していたが、結局トーリが残留したことで、打ち消しとなった。また、カブスもジラルディをダスティ・ベーカー監督の後任候補と考えており、実際面接にまで至ったが、結局ルー・ピネラが就任した。ワシントン・ナショナルズからも監督職のオファーがあったが、断り、2007年には再びYESで解説者を務めた。同年7月にボルチモア・オリオールズがサム・パラーゾ監督を解雇したとき、ジラルディは監督職のオファーを受けたが、固辞している。
ヤンキース監督時代[編集]
2008年より、トーリ監督の後任として古巣ヤンキースの監督に就任する。ジラルディの他にも、ドン・マッティングリーやトニー・ペーニャが候補として挙がっていた。総額750万ドルで、2010年までの3年契約を結んだ。現役時代はヤンキースで背番号25を付けていたが、ジェイソン・ジアンビが付けていたため代わりに27を選んだ。ヤンキースは前年までにワールドシリーズ優勝を26回経験しており、この背番号にはチームを27回目の世界一へ導きたいという思いが込められていた。
就任1年目の2008年4月1日、トロント・ブルージェイズを3-2で下し、ヤンキース監督としての初勝利をあげる。しかしこの年、ヤンキースはプレーオフに出場することなくシーズンが終了し、1995年以来続いていたチームのポストシーズン進出が13年連続でストップしてしまった(1994年はアリーグ東地区1位だったが、ストライキでシーズンが終わってしまった)。
しかし翌年の2009年、チームを3年ぶりの地区優勝、6年ぶり40回目のリーグ優勝、そして9年ぶり27回目のワールドチャンピオンに導くという偉業を達成。優勝後のインタビューでは、先述の背番号について「来年は28に変えようかな」とコメントしたが、実際その通りに背番号を変更した。なお、この年オフに獲得したカーティス・グランダーソン選手はそれまで28番をつけていたが、監督の意向に従ってヤンキースでは14番を着用している。
2010年シーズン後、ジラルディとヤンキースは新たな3年契約に合意した。
選手起用[編集]
打順に関して[編集]
2番打者に中・長距離打者を据える傾向が強い。マーリンズ監督時代には新人のダン・アグラを2番に起用し、アグラも期待に応えてこの年チーム最多となる27本塁打を放った。ヤンキース監督時代にはそれまで2番打者としてのイメージが強かったデレク・ジーターを途中から1番に据え、2番にはより長打力のある選手を起用するケースが増えた。例えば2011年に最も2番として起用されたカーティス・グランダーソンは、その年41本塁打、119打点の活躍を見せ、打点王を獲得している。グランダーソンが不調ないし故障の場合には、ニック・スウィッシャーやロビンソン・カノが2番に入ることもあった。
日米でそれまで1~3番を打つイメージの強かったイチローが2012年途中に加入した際は、出塁率の低さを理由にまず8番打者として起用し、2013年に入り主力打者が相次いで故障離脱した際は6番や5番を打たせることもあったが、それに比べると上位で起用することは稀であった。
投手起用に関して[編集]
先発投手に100球での交代を命じる、左打者に対し左のリリーフ投手を投入するなど、現代のメジャー監督としては比較的基本に忠実である。ただし、黒田博樹、CC・サバシアなど先発完投・完封にこだわりを持つベテラン投手のプライドを尊重し、100球を超えても続投させるケースはある。
日本人選手との関係[編集]
ジラルディはヤンキース監督時代に多くの日本人選手と接点を持ってきた人物である。当時、日本で特に注目されてきた打者である松井秀喜とイチローの2人の指揮官であった人物として、またヤンキースというチームの注目度の高さも相まって、両選手についてジラルディの口から日本のマスコミ向けに(退団後も)たびたびコメントを求められてきた。ちなみに、松井・イチローの両者を監督として指揮した経験を持つ人物としては、ジラルディの他にボブ・メルビン(2003年~04年マリナーズ監督、11年アスレチックス監督)がいる。
松井秀喜[編集]
ジラルディ政権1~2年目に在籍。松井の打撃に関してジラルディは当初から評価をしていたが、守備力については戦力としては考えておらず、2年目の2009年シーズンには松井を一度も守備に就かせなかった。(当時膝を悪くしていたため、守備に就かせないことで故障を防ぐという意図もあった。)なお、この年にワールドシリーズMVPとなる松井の活躍もあり、ヤンキースはワールドチャンピオンに輝いている。現役引退後、2013年4月に政府発表された松井の国民栄誉賞受賞については、「この組織(ヤンキース)の全員は彼が素晴らしい選手であり、素晴らしい人間だったことをよく知っている。ヤンキースの一員として祝福したい」とコメントを残している。同年7月28日に行われるヤンキースタジアムでの引退式に関しても、「彼にふさわしい」と述べ祝福した。
イチロー[編集]
ジラルディ政権5年目となる2012年途中にマリナーズから加入。マリナーズ時代には1番など上位打線を打つことが多かったが、ヤンキース移籍当初は前述のように出塁率の低さを指摘され、デビュー戦では8番で起用、主力打者が離脱または休養の際には6番、5番など、それまでのキャリアでは考えられなかった打順を任せることが多くなった。
イチローを象徴するシーズン記録のひとつである「シーズン200本安打」を達成するためには、打席数を増やすために上位で起用し、また出来るだけ休養しないことが必要になってくるが、ジラルディはヤンキースに加入したイチローに個人記録の追求以上にチームの勝利を優先する方針を打ち出した。イチローもそのことを理解しているようで、既に40歳近い年齢であることもあってあまり無理をさせず、適度な休養を与えつつの起用になっている。
黒田博樹[編集]
ジラルディ政権5年目から在籍。その安定した投球について、たびたび絶賛のコメントを出している。
私生活[編集]
- キンバリー夫人ともうけた3人の子供と一緒に、ニューヨーク・パーチェイスにて暮らしている。ジラルディの血筋はイタリア系であり、キリスト教を信仰している。
- 2009年のワールドシリーズを制覇した日の帰りの高速道路にて、ジラルディは交通事故を目撃、けが人の救護をおこなっている。事故場所は大変危険であり、二次被害が起きる可能性も十分にあったが、彼はそのリスクを厭わずにけが人を救った。なお、けが人自身は、後からやってきた警官が指摘するまで、彼がヤンキースの監督であることに全く気付いていなかった。
- 健康主義者としても知られており、クラブハウスからアイスクリームやソーダなどの甘いものを全て撤去したことでも知られている。
獲得タイトル[編集]
- ナ・リーグ最優秀監督賞:1回、2006年
年度別打撃成績[編集]
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1989 | CHC | 59 | 172 | 157 | 15 | 39 | 10 | 0 | 1 | 52 | 14 | 2 | 1 | 1 | 1 | 11 | 5 | 2 | 26 | 4 | .248 | .304 | .331 | .635 |
| 1990 | 133 | 447 | 419 | 36 | 113 | 24 | 2 | 1 | 144 | 38 | 8 | 3 | 4 | 4 | 17 | 11 | 3 | 50 | 13 | .270 | .300 | .344 | .644 | |
| 1991 | 21 | 54 | 47 | 3 | 9 | 2 | 0 | 0 | 11 | 6 | 0 | 0 | 1 | 0 | 6 | 1 | 0 | 6 | 0 | .191 | .283 | .234 | .517 | |
| 1992 | 91 | 291 | 270 | 19 | 73 | 3 | 1 | 1 | 81 | 12 | 0 | 2 | 0 | 1 | 19 | 3 | 1 | 38 | 8 | .270 | .320 | .300 | .620 | |
| 1993 | COL | 86 | 350 | 310 | 35 | 90 | 14 | 5 | 3 | 123 | 31 | 6 | 6 | 12 | 1 | 24 | 0 | 3 | 41 | 6 | .290 | .346 | .397 | .743 |
| 1994 | 93 | 361 | 330 | 47 | 91 | 9 | 4 | 4 | 120 | 34 | 3 | 3 | 6 | 2 | 21 | 1 | 2 | 48 | 13 | .276 | .321 | .364 | .685 | |
| 1995 | 125 | 506 | 462 | 63 | 121 | 17 | 2 | 8 | 166 | 55 | 3 | 3 | 12 | 1 | 29 | 0 | 2 | 76 | 15 | .262 | .308 | .359 | .667 | |
| 1996 | NYY | 124 | 471 | 422 | 55 | 124 | 22 | 3 | 2 | 158 | 45 | 13 | 4 | 11 | 3 | 30 | 1 | 5 | 55 | 11 | .294 | .346 | .374 | .720 |
| 1997 | 112 | 433 | 398 | 38 | 105 | 23 | 1 | 1 | 133 | 50 | 2 | 3 | 5 | 2 | 26 | 1 | 2 | 53 | 15 | .264 | .311 | .334 | .645 | |
| 1998 | 78 | 279 | 254 | 31 | 70 | 11 | 4 | 3 | 98 | 31 | 2 | 4 | 8 | 1 | 14 | 1 | 2 | 38 | 10 | .276 | .317 | .386 | .703 | |
| 1999 | 65 | 229 | 209 | 23 | 50 | 16 | 1 | 2 | 74 | 27 | 3 | 1 | 8 | 2 | 10 | 0 | 0 | 26 | 16 | .239 | .271 | .354 | .625 | |
| 2000 | CHC | 106 | 407 | 363 | 47 | 101 | 15 | 1 | 6 | 136 | 40 | 1 | 0 | 6 | 3 | 32 | 3 | 3 | 61 | 12 | .278 | .339 | .375 | .714 |
| 2001 | 78 | 253 | 229 | 22 | 58 | 10 | 1 | 3 | 79 | 25 | 0 | 1 | 2 | 1 | 21 | 4 | 0 | 50 | 2 | .253 | .315 | .345 | .660 | |
| 2002 | 90 | 256 | 234 | 19 | 53 | 10 | 1 | 1 | 68 | 13 | 1 | 0 | 5 | 1 | 16 | 3 | 0 | 35 | 10 | .226 | .275 | .291 | .566 | |
| 2003 | STL | 16 | 26 | 23 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 4 | 2 | .130 | .231 | .130 | .361 |
| 通算:15年 | 1277 | 4535 | 4127 | 454 | 1100 | 186 | 26 | 36 | 1446 | 422 | 44 | 31 | 81 | 23 | 279 | 34 | 25 | 607 | 137 | .267 | .315 | .350 | .665 | |
年度別監督成績[編集]
| 年度 | チーム | 地区 | 年齢[1] | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位/チーム数 | 備考 | ポストシーズン 勝敗 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2006 | FLA | NL 東 | 42 | 162 | 78 | 84 | .481 | 4 / 5 | ||
| 2008 | NYY | AL 東 | 44 | 162 | 89 | 73 | .549 | 3 / 5 | ||
| 2009 | 45 | 162 | 103 | 59 | .636 | 1 / 5 | WS優勝 | 11勝4敗 | ||
| 2010 | 46 | 162 | 95 | 67 | .586 | 2 / 5 | ALCS敗退 | 5勝4敗 | ||
| 2011 | 47 | 162 | 97 | 65 | .599 | 1 / 5 | ALDS敗退 | 2勝3敗 | ||
| 2012 | 48 | 162 | 95 | 67 | .586 | 1 / 5 | ALCS敗退 | 3勝6敗 | ||
| 2013 | 49 | / 5 | ||||||||
| 通算 | 7年 | 972 | 557 | 415 | .573 | 21勝17敗 |
- WS…ワールドシリーズ、LCS…リーグチャンピオンシップシリーズ、DS…ディビジョンシリーズ。
脚注[編集]
- ^ 年齢は、その年の満年齢で表記。
外部リンク[編集]
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
- 監督の通算成績と情報 Baseball-reference.com
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