ラリー・ダーカー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ラリー・ダーカー
Larry Dierker
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州ハリウッド
生年月日 1946年9月22日(68歳)
身長
体重
6' 4" =約193 cm
215 lb =約97.5 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1964年
初出場 1964年9月22日
最終出場 1977年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴

監督歴

  • ヒューストン・アストロズ(1997 - 2001)

ローレンス・エドワード・ダーカーLawrence Edward Dierker, 1946年9月22日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ハリウッド出身の元プロ野球選手投手)・監督。

経歴[編集]

選手時代[編集]

1964年に17歳でヒューストン・コルト45'sと契約。18歳の誕生日である同年9月22日サンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビュー[1]し、初回にウィリー・メイズから三振を奪った。新球場アストロドームに本拠地を移し、それに伴いチーム名がアストロズに変更された1965年は7勝、1966年6月14日ロサンゼルス・ドジャース戦でメジャー初完封を達成するなど10勝を挙げる。1967年は故障で6月21日を最後に離脱し6勝に留まるが、1968年は12勝15敗・233.2イニングを記録。1969年は前半戦で12勝を挙げ、オールスターゲームに初めて選出される。20勝13敗・防御率2.33・232奪三振、2012年現在も球団記録の305.1イニング・20完投を記録し、球団初の20勝投手となった。1970年は16勝12敗・防御率3.87の成績。1971年は5月までに9勝を挙げるなど前半戦で12勝を記録し、2度目のオールスターゲームに選出されるが故障のため登板はなく、8月8日を最後に離脱した。1972年は5月の3完封を含め前半戦だけで5完封を記録し、15勝8敗・防御率3.40だった。1973年は肩の故障で出遅れ、復帰後もリリーフとしての登板が多く1勝に終わる。1974年は先発に戻り、11勝10敗・防御率2.90と復活。1976年7月9日モントリオール・エクスポズ戦でノーヒッターを達成。11月23日に2選手との交換トレードで、1選手と共にセントルイス・カーディナルスに移籍。1977年は故障もあって2勝に留まる。1978年3月28日に解雇され、31歳の若さで現役引退。

引退後はアストロズのフロントに入り、1979年からテレビラジオで専属コメンテーターとして活動した。

監督時代[編集]

1997年から、選手との確執が原因で退任したテリー・コリンズに代わってアストロズの監督に就任。指導者の経験が皆無だったため起用には疑問の声も上がったが、就任1年目で11年ぶりとなる地区優勝を果たす。アトランタ・ブレーブスとのディヴィジョンシリーズでは3連敗で敗退。1998年は球団記録の102勝を挙げて地区連覇。サンディエゴ・パドレスとのディヴィジョンシリーズでは1勝3敗で敗退するが、ナショナルリーグ最優秀監督賞を受賞した。1999年6月の試合中に意識を失い、検査の結果脳卒中と診断され、手術。1ヶ月後には復帰し地区3連覇を達成。しかしディヴィジョンシリーズではブレーブスに1勝3敗で、3年連続でディヴィジョンシリーズ敗退となった。新球場エンロン・フィールドが開場した2000年は地区4位に終わる。2001年は再び地区優勝を果たすが、ディヴィジョンシリーズでまたもブレーブスに3連敗で敗退し、解任される。

2002年5月19日に選手・監督時代を通じて着けていた背番号49』がアストロズの永久欠番に指定された。2004年から再び解説者として復帰。またアストロズの福祉団体の幹部も務め、自らの野球人生を綴った回顧録を2冊著している。

獲得タイトル・表彰・記録[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 18歳でのメジャー出場は、現在のところこれが最後である。

外部リンク[編集]