バッキー・デント
| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1951年11月25日(61歳) |
| 身長 体重 |
5' 9" =約175.3 cm 170 lb =約77.1 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 遊撃手 |
| プロ入り | 1970年 6月二次ドラフト1巡目でシカゴ・ホワイトソックスから指名 |
| 初出場 | 1973年6月1日 |
| 最終出場 | 1984年9月11日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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バッキー・デント(Russell Earl "Bucky" Dent , 1951年11月25日 - )は、アメリカ合衆国・ジョージア州サバンナ出身の元MLB選手(遊撃手)。右投右打。
目次 |
経歴 [編集]
1970年6月の二次ドラフトでシカゴ・ホワイトソックスから1巡目指名を受け、プロ入り。1973年にメジャーデビューを果たし、翌年よりレギュラー遊撃手に定着。1977年にはラマー・ホイト、オスカー・ギャンブルとの1対2のトレードによりニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、同年から2年連続の世界一に貢献。特に1978年は、後述するボストン・レッドソックスとのワンゲームプレーオフを含め誰もが予想だにしなかった猛打を振るい、ワールドシリーズではMVPを獲得した。その後テキサス・レンジャーズ、カンザスシティ・ロイヤルズを経て1984年に引退。
引退後は、ヤンキース傘下のAAA級コロンバスで監督、1989年8月18日から翌年途中までヤンキースの監督を務めた。その後は、セントルイス・カージナルスなど3球団でベンチコーチ、前後してロイヤルズ傘下のAAA級オマハ、再びコロンバスで監督を歴任。
現在は、自身の名前を冠した野球学校を経営している(外部リンク参照)。
1978年のワンゲームプレーオフ [編集]
この年、アメリカンリーグ東地区は、7月19日地点ではレッドソックスがヤンキースに14ゲーム差をつけて独走していたが、9月に失速。特に9月8日からの3日間、フェンウェイ・パークでの直接対決4連戦では4連勝を許してしまう(このとき、1770年にアメリカ独立戦争の引き金となった同市での歴史的な事件になぞらえ、「ボストン虐殺事件」と言われた)。この間、ヤンキースはシーズン中盤での不調や主砲レジー・ジャクソンのトラブル及びビリー・マーチン監督解任によるゴタゴタが嘘のように勝ち出す。負けじとレッドソックスも食い下がり、ともに99勝63敗の同率首位でシーズンを終えていた。
そこで地区の覇者を決めるためのワンゲームプレーオフが設けられ、コイントスの結果フェンウェイ・パークで行われることとなった。そして10月2日、ヤンキースは中1日でエースのロン・ギドリー、レッドソックスはこの年16勝のマイク・トーレスが先発し、6回裏終了時には0-2でレッドソックスがリードしていた。直後の7回表、1死からクリス・チャンブリスとロイ・ホワイトがそれぞれ単打で出塁し、打席にはこの年打率.242・4本塁打とお世辞にも打撃が期待できるとは言えないデントが立った。しかし、この打席でデントは3球目の内角への速球を強振し、打球は左翼のグリーンモンスターを越えて逆転の本塁打となった。この後ヤンキースは2点を追加の後に1点差に詰め寄られるも、7回途中より登板の2番手リッチ・ゴセージが踏ん張り、5-4でアメリカンリーグ東地区優勝を決めた[1]。
背番号 [編集]
- 30 (1973年 - 1976年)
- 20 (1977年 - 1982年, 1989年 - 2001年)
- 7 (1982年 - 1983年, 2006年 - 2007年)
- 21 (1984年)
脚注 [編集]
外部リンク [編集]
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