テキサス・レンジャーズ

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テキサス・レンジャーズ
Texas Rangers
創設: 1961年
所属リーグ

アメリカンリーグ西地区

歴代チーム名
  • テキサス・レンジャーズ (1972年 - )
  • ワシントン・セネタース[1] (1961年 - 1971年)
歴代本拠地

収容人員: 49,115人
永久欠番
26, 34, 42
獲得タイトル(獲得年)
ワールドシリーズ優勝 なし
リーグ優勝 なし
地区優勝 (3回) 1996 • 1998 • 1999
ワイルドカード なし
球団組織
オーナー: トム・ヒックス
GM: ジョン・ダニエルズ
監督: ロン・ワシントン

テキサス・レンジャーズTexas Rangers、略称:TEX)は、アメリカMLBアメリカンリーグ西地区所属のプロ野球チーム。本拠地はテキサス州アーリントンにあるレンジャーズ・ボールパーク・イン・アーリントン

目次

[編集] 概要

シーズン成績の詳細については年度別成績一覧を参照

1961年に2代目のワシントン・セネタースとして発足。1972年にテキサス州アーリントンに移転し、テキサス・レンジャーズと改名した。発足当初から弱小球団としてその歩みを続け、1990年代後半に3度の地区優勝を果たした時期を除いて、下位に低迷することが多い。1989年から1993年までノーラン・ライアン、2001年から2003年までアレックス・ロドリゲスといったスター選手も在籍したがいずれも優勝には縁がなかった。

本拠地球場が本塁打が出やすいこともあるため、伝統的に長打力を前面に押し出した野球を志向する典型的な打高投低のチームである。しかし創設40年以上経って未だリーグ優勝・世界一を経験していない数少ない球団の1つとなっており、30球団中唯一リーグチャンピオンシップシリーズへ駒を進めたことすらない。

チーム名は地元テキサス州に今も存在し、北米最古の公安組織として知られるテキサス・レンジャーにちなんで命名された。

日本人選手では2002年に伊良部秀輝、2006年から大塚晶則が所属。両名とも主にクローザーとして活躍し、伊良部は2002年に16セーブ、大塚は2006年に32セーブをあげた。2008年からは東北楽天イーグルスから移籍した福盛和男が所属する。

[編集] 球団の歴史

[編集] ワシントン・セネタース時代

1960年のシーズン限りで、1901年のアメリカンリーグ発足から60年間に渡ってワシントンD.C.に本拠地を構えていたワシントン・セネタースミネソタ州ミネアポリスに移転(現在のミネソタ・ツインズ)。翌1961年の球団拡張に伴い新たなワシントン・セネタースとして創設された。初年度は以前のセネタースに引き続きグリフィス・スタジアムを使用し、翌年からはロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムを本拠地球場とした。しかし発足初年度から4年連続でシーズン100敗を記録、1968年まで8年連続負け越しと苦しいシーズンが続いた。

1969年に打撃の神様、テッド・ウィリアムズを監督に迎え、86勝76敗で初めてシーズンを勝ち越し。観客数も球団移転前では最高の918,106人[2]を動員した。この頃には後に太平洋クラブライオンズに在籍することとなるフランク・ハワードが主砲として活躍。1968年には44本塁打で本塁打王を獲得し、1970年にも44本塁打・132打点で二冠王に輝いた。しかしチームの躍進も1969年限りで、翌年からは再び負け越し、1971年には観客動員数も655,156人に落ち込み、球団はワシントンD.C.を離れることになった。セネタースとしての歴史は、1971年9月30日の試合(対ヤンキース)がファンの乱入などで没収試合となって、その幕を下ろした。

[編集] テキサス移転以降

1972年にテキサス州アーリントンへの移転が決定。チーム名もテキサス・レンジャーズに改称した。本拠地球場はアーリントン・スタジアムを使用。移転後も低迷は続き、1972年、1973年と2年連続でシーズン100敗を記録してしまった。1973年のシーズン途中にはビリー・マーチンを監督に招き、翌1974年は84勝76敗で地区2位となった。なおこの年にはマイク・ハーグローヴが打率.323で新人王に輝き、ファーガソン・ジェンキンスが25勝12敗、防御率2.82で最多勝カムバック賞を獲得している。1977年は4人の監督が入れ替わり指揮をしたが、当時チームの最高勝数シーズン94勝(68敗)を挙げた[2]。しかし1980年代に入ると再び負け越しのシーズンが続いた。

1985年のシーズン途中からは後に日本プロ野球でも監督経験を持つボビー・バレンタインが監督に就任。1992年のシーズン途中まで球団史上最長となる1,186試合にわたって指揮をとった。この間1989年4月からジョージ・W・ブッシュが共同オーナーを務め、同年にはノーラン・ライアンが移籍している。ライアンは既に40歳を超えていたが、300勝、5000奪三振、ノーヒットノーランを2回成し遂げた。1994年からは本拠地をザ・ボールパークインアーリントン(現在のレンジャーズ・ボールパーク・イン・アーリントン)へ移転。

1994年には52勝62敗と負け越していながら地区1位をキープしていたが、ストライキによってシーズンが中断され、地区優勝はならなかった。この年の7月28日にはケニー・ロジャースがメジャー史上12人目となる完全試合を達成している。1995年からジョニー・オーツが監督に就任、オーツは2001年のシーズン途中まで監督を務めた。この頃にはイバン・ロドリゲスホワン・ゴンザレスらが台頭。1996年に90勝72敗で初の地区優勝を果たした。1998年・1999年(球団記録の最高勝数シーズン95勝(68敗)を記録し[2])も2年連続で地区優勝したが、プレーオフではいずれもニューヨーク・ヤンキースディビジョンシリーズで敗れた。

[編集] 新世紀

2001年にアレックス・ロドリゲスシアトル・マリナーズから10年総額2億5,200万ドルの契約金で獲得。同年から3年連続で本塁打王となり、2002年には球団記録の57本塁打を記録した。しかしその間チームは最下位に沈み、その契約金は却ってチーム再建への大きな障害となってしまった。アレックスも優勝争いが出来るチームでのプレーを希望していたため、ニューヨーク・ヤンキースにトレードで移籍することとなる。これにより「数年後には勝てるチームになる」と評され、再建への期待が見込まれた[3]

2004年シーズンは3位に終わったものの、優勝したアナハイム・エンゼルスとは3ゲーム差の89勝をあげ、エンゼルスやオークランド・アスレチックスとの三つ巴を最後まで演じた。翌2005年シーズンは7人もの打者が20本以上の本塁打を記録し、チーム合計でもメジャー年間最多記録にあと4本に迫る260本塁打を放ったが、再び負け越しに転じた。2006年シーズンも勝率は5割近かったが、最下位のマリナーズとはわずか2ゲーム差の3位と振るわず、2003年から指揮を執っていたバック・ショーウォルターは退団した。

2007年にはロン・ワシントンが監督に就任。同年にはエリック・ガニエサミー・ソーサを獲得する。8月22日にはボルチモア・オリオールズとのダブルヘッダー第1戦において、30対3のスコアで勝利した。1試合30得点はメジャーでは1897年6月29日、シカゴ・コルツルイビル・カーネルズにメジャー記録の36対7で勝利して以来110年ぶりだった。しかしシーズンでは投打共に主力選手の不調が響き、75勝87敗と大きく負け越してしまい最下位に沈んだ。

2008年には前年に麻薬中毒から立ち直ったジョシュ・ハミルトンエディンソン・ボルケスダニー・ヘレーラとの1対2のトレードで獲得。ハミルトンは打率.304・32本塁打・130打点を記録、打点王に輝くなど、期待にたがわぬ活躍を見せた。しかしチームは2位ながらも負け越し、首位エンゼルスとは21ゲーム差と大きく離される結果となった。

[編集] 主な選手

[編集] 現役選手

投手

捕手

内野手

外野手

指名打者

* アクティブロースター外
** 40人ロースター外

2009年7月8日更新   
[公式サイト(英語)より:40人ロースター 選手の移籍・故障情報 予想オーダー]

[編集] 殿堂入り選手

[編集] 永久欠番

[編集] 傘下マイナーチーム

クラス チーム 参加リーグ
AAA オクラホマ・レッドホークスOklahoma RedHawks Pacific Coast League
AA フリスコ・ラフライダースFrisco RoughRiders Texas League
A+ ベイカーズフィールド・ブレイズBakersfield Blaze California League
A ヒッコリー・クロウダッズHickory Crawdads South Atlantic League
A- スポケーン・インディアンスSpokane Indians Northwest League
Rookie アリゾナリーグ・レンジャーズArizona League Rangers Arizona League

[編集] 脚注

  1. ^ 1901年-1960年に同じ名前の初代のチームがあるが、これは現ミネソタ・ツインズの前身である。セネタースの商標権は現レンジャーズが保有しており、ワシントンに復活したチームはセネタースを名乗ることは当面ないと思われる
  2. ^ a b c texas.rangers history year by year2007年12月24日閲覧
  3. ^ 日本スポーツ企画出版社刊行雑誌『スラッガー』2004年4月号

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ