タイ・カッブ
タイ・カッブ(1917年)
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| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1886年12月18日 |
| 没年月日 | 1961年7月17日(満74歳没) |
| 身長 体重 |
6' 1" =約185.4cm 175 lb =約79.4kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 外野手 |
| プロ入り | 1905年 |
| 初出場 | 1905年8月30日 |
| 最終出場 | 1928年9月11日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督歴
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| 選出年 | 1936年 |
| 得票率 | 98.23% |
| 選出方法 | BBWAA選出 |
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この表について
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タイラス・レイモンド・カッブ(Tyrus Raymond "Ty" Cobb, 1886年12月18日 - 1961年7月17日)は、アメリカ合衆国ジョージア州出身のMLBプロ野球選手(外野手)。
1920年以前の本塁打が少なかった頃の代表的な選手で、「The Georgia Peach(ジョージア・ピーチ)」のニックネームで呼ばれた。日本では「球聖」と冠され、アメリカでは「メジャーリーグ史上、最も偉大かつ最も嫌われた選手」と言われている。また、世界唯一の打撃全タイトル制覇を達成した選手でもある。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] アマチュア時代
1886年12月、ジョージア州ナロウズで3人兄弟の長男として生まれ、ロイストンで育つ。母親であるアマンダは12歳で結婚し、15歳でカッブを出産した。父親のウィリアム・カッブは教師(数学者)から校長、市長、上院議員、牧師を務めるなど厳格な教育者で、土地の名士として有名な人物であった。
カッブ家は名家として知られ、有名な人物を多数輩出していた(アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンとも姻戚関係があった)。「名家の長男」、「ウィリアム・カッブの息子さん」という特別な目で見られることをひどく嫌ったカッブは、14歳頃から父親とは一切関係のないスポーツである野球に興味を持ち、熱中するようになった。厳格な性格で牧師を務めていた父親は、息子がごろつきになるのではないかと心配し、野球をしていたカッブにいつも、口癖のようにこう言い聞かせていた。「偽りの道は地獄に通じるのだぞ、タイラス。だから、常に正義をふまえ、正直に謙虚にふるまいなさい」カッブは、その言葉通りごろつきになることなく成長していった。
1904年、カッブは自らの実力を過大評価した手紙を新聞社に送り、マイナーリーグであるオーガスタ・ツーリスツと契約した。この際、野球をすることに反対していた父親を、夜中の3時までかけて説得した。契約し、家を出て行くとき、父親から「失敗して戻ってくるな。自分が信じた道なんだ、必ず成功しろ」と言われたという。
オーガスタでの2年目の1905年8月、寮生活中に、父親が母親にライフルで銃撃されて死亡する事件が起こった。同事件は、妻の浮気の噂にたまりかねた父親が、数日間巡回に出ると言いながら、その日の深夜に家に戻り、噂どおり寝室で浮気をしている妻を確認し、更に浮気相手を確かめようと寝室にのりこんだ所、強盗か暴漢と勘違いした母親に射殺されたというものであった。裁判では母親の正当防衛が認められ、無罪となった。カッブはこの事件以来、浮気をした上に父親を射殺した母親とは会おうとも話そうともしなかったという[1]。
当時18歳にしてマイナーリーグトップとなる打率.326を残し、すでに頭角を現していたカッブは、父親の葬儀を終えた10日後にデトロイト・タイガースのメジャーに昇格した。そこでの恒例の新人歓迎(新人相手のいたずら)でいきなり暴力沙汰の騒ぎを起こした。同年の成績は打率.240で終わっている。
[編集] 現役時代
[編集] デトロイト・タイガース
2年目の1906年は体調不良などで98試合に出場しただけだったが、後半戦からレギュラーに定着し、打率.316という好成績を残して飛躍のきっかけを掴んだ。翌1907年には打率.350で当時史上最年少で首位打者になる。更に、最多安打、打点王、盗塁王にもなり、3年目にしてブレークした形となった。同年以降、24年間の現役生活最後に至るまで打率.323を下回る事はなかった。1908年にも最多安打、打点王、首位打者の三冠を獲得した。
1907年から、ネクストバッターズサークルで黒いバットを使い始める。実際にそれを試合で使ったのはシーズンの最初だけだったが、カッブはそのバットを「魔法のバット」と呼んでおり、1907年の結婚式でも持ち出していてその時撮られたケーキカットの写真にも映っている。
強い闘争心と勝つためには手段を選ばないえげつなさから、いくつかのエピソードを残している。1909年のシーズン終盤、1.5ゲーム差で首位を争うフィラデルフィア・アスレチックスとの試合では三塁へ盗塁を試みて故意にスパイクで三塁手フランク・ベイカーの腕を刺したり、試合後半に安打を打つと迷わず二塁を目指し、スライディングで二塁手のエディ・コリンズに足払いをかけて転倒させたりした。
性格の悪さも折り紙つきで、エゴイスト、人種差別者、粗暴な態度と歯に衣着せぬ口の悪さでも有名であった。そのため周囲からは忌み嫌われ、疎まれる存在だった(映画『フィールド・オブ・ドリームス』の中でジョー・ジャクソンが、「タイ・カッブもプレーしたがってたが、生前みんなあの野郎には愛想が尽きてたから、シカトしてやったさ」という台詞がある)。カッブと長い間チームメートだったデイビー・ジョーンズも、「彼(カッブ)がスランプに陥ったときは、話しかける事なんかできなかった。(ただでさえひどい態度が)悪魔よりもひどくなっていたから」と語っている。また、嫌われ者であったカッブに対する野次は壮絶なものであり、観客や相手チームの選手が剣呑な雰囲気を作るため、カッブの出る試合には護衛のための警官が球場内に配置されていたという。
カッブの悪癖の1つにダッグアウトで相手にわざと見えるようにしてスパイクの歯を研ぐ事が知られているが、これは進塁の際に進塁先の守備を萎縮させる狙いがあったためとも言われており、それを裏付けるようにスパイクを研ぐことをはじめてから、むやみに相手野手がカッブを恐れたため、盗塁が非常にしやすくなり、盗塁数が急激に増えている。ちなみに、スパイクの歯がするどかったのは始めの数回だけだが、皆、萎縮したままだった。これらの事によってカッブの悪評は全米に知れ渡ることとなり、「最高の技術と最悪の人格の持ち主」と形容されるようになってしまう。これについてカッブは、「勝つためには手段は選んでいられなかった」と語っている。また、この言葉通り、悪評を更に広げてしまう事件がこの頃から多発する。
しかし、1909年には3年連続の三冠だけでなく、史上初(現在も唯一)となる首位打者、本塁打王、打点王、最多安打、盗塁王の打撃全タイトル制覇(当時)を達成。出塁率でもトップになったため、打撃主要6部門制覇を達成した。更に得点数、塁打数、長打率、OPSを含め合計10部門でトップとなっている。
1910年、最終日を残して首位打者を確信していたカッブは、打率を維持するために残り試合を欠場した。しかし打率.376だったナップ・ラジョイがセントルイス・ブラウンズとのダブルヘッダーに8安打し打率.384とカッブを猛追した。ところがそのうちの7本は三塁へのバント安打で、これは相手チームブラウンズの監督ジャック・オコナーが当時人気の高かったラジョイにタイトルを勝ち取らせるために、三塁手に「後ろに下がってプレーしろ」と命じた結果のものだった。結局、公式な首位打者はカッブとなったものの、賞品のチャルマーズの車は両者に与えられることになった(そのシーズン後にオコナーは監督を解雇されている)。1981年、スポーティング・ニューズ社によりこの年の集計に誤りが指摘され、カッブの打率は.383に修正された。しかしコミッショナー特別委員会は首位打者の変更を認めなかった。
1911年、146試合の出場で248安打し、自身初の打率4割となる自己最高の打率.420を達成。4回目の三冠王にもなり、この年は投票数満票でのMVP選出となった。また、40試合連続安打を記録し、自己最多の127打点を残した。
1912年5月15日、ニューヨーク・ヒルトップパークでのハイランダース(現在のニューヨーク・ヤンキース)戦でカッブは観客の人種に関しての暴言に逆上してスタンドに殴りこみ、暴言を飛ばしたその観客(事故で片腕を失い、もう片方の手も不自由な人)を袋叩きにするという暴挙を起こして退場、出場停止処分となった。制止しようとしてカッブに殴られた人物によると、「その男を蹴るな!両手が無いんだぞ!」と止められても「こいつ(暴言を吐いた観客)だけは、両足が無くてもこうしてやる!」と怒鳴り返したという。5月18日、この処分を不服としたチームメートはフィラデルフィアでの試合をボイコット。チームは臨時で大学生らのアマチュア選手を集め、コーチ2人と合わせて試合を行うも24対2で大敗した。結局カッブ自身がチームメートを説得して事態は収拾し、カッブは50ドルの罰金と10日間の出場停止の処分で済んだ。 また、この乱闘事件以降、カッブに対する観客の暴言がほとんどなくなり、カッブはプレーに集中できるようになったという。シーズンでは1911年に続いて史上初となる2年連続打率4割(.409)を達成した。
1914年に肋骨を骨折し、その後右親指も骨折。一説には肉屋の店員と取っ組み合いの大喧嘩となり、それで負傷したともいわれている。
1915年まで9年連続の首位打者に輝き、1915年に自己最多の96盗塁を記録。1916年には.371の高打率を記録するも、トリス・スピーカーの.386には惜しくも届かなかった。しかし1917年~1919年にも3年連続首位打者で、首位打者獲得は通算12度にも及んだ。また、1918年には初登板を果たし、合計2試合に登板。防御率は4.50だった。
1920年、外野守備時に打球を追い、チームメイトと激突してしまう。右膝靱帯を断裂する大怪我を背負ったが、そこで様々な治療法を用いて、試合に復帰するも、更に右膝を痛めてしまい、現役続行は不可能と思われていた。しかし、奇跡的に復活してみせた。
1921年には選手兼任でタイガースの監督に就任したが、同年のワシントン・セネタースとの一戦で審判の判定に激高し、試合後に観客と息子のジュニアが見守る中で審判のビリー・エバンスと取っ組み合いの大喧嘩を起こした。この年、自身初の二桁本塁打を記録するが、.389の高打率を残しながらも首位打者は獲得できなかった。タイガースを退団する1926年まで監督として指揮を執ったが、この間にチャーリー・ゲーリンジャーやハリー・ハイルマンといった名選手を育てている。
1922年には.401の高打率を残すが、首位打者は.420を記録したジョージ・シスラーに譲る形となり、2年連続で惜しくも首位打者獲得はならなかった。しかし3回目の打率4割は史上初の記録となった。1925年には目を悪くしたことで手術を行うなど現役続行に疑問符が挙がっていたが、現役にこだわり、.378の高打率を残す。首位打者獲得はならなかったものの、自身二度目の二桁本塁打を記録した。同年は1試合投手を務め、無失点に抑えている。
1926年シーズン終了後、タイガースを退団し、フィラデルフィア・アスレチックスに移籍。3902安打、2087得点、664二塁打、286三塁打といった記録は、現在でもタイガースの球団記録として残っている。
[編集] フィラデルフィア・アスレチックス
1927年の移籍一年目から、打率.357の好成績を残し、同年史上初の通算4000本安打を達成。1928年までの2シーズンをアスレチックスで過ごし、最後のシーズンも.323の打率を記録するが、この年限りで現役を引退した。デビューから途切れることのなかった本塁打と盗塁は、24年連続となった。通算4189安打は、当時将来更新されることはまずないだろうと言われていたが、後にピート・ローズによって更新された。1928年の年もまだ引退するつもりはなかったのだが、年々落ち始めた打率と、何より目の病気のため、やむなく引退を決断した。
引退時には通算安打数をはじめとする90ものMLB記録を保持していた。通算打率.366、通算本盗55等々、現在も30を超える記録が健在である。同年シーズンオフには日本に渡り、当時の大毎野球団に加わる形で神宮球場や甲子園球場で計12試合を行った。日本に滞在していた際のカッブの様子は、たいへん紳士的であったという。
[編集] 引退後
引退後は現役時の罪滅ぼしなのか、若手選手を積極的にバックアップした。例えばジョー・ディマジオがヤンキースと契約する時に一役買ったエピソードや、困窮した元メジャーリーガー(ミッキー・カクレーンなど)のために自分の財産の一部を寄付し続けた話もあるなど、名士として晩年はふるまったように見える。しかしその一方で自身の生活は荒んだもので、護身用に拳銃を携帯し、体の痛みを紛らすためにバーボンを一日に一瓶空ける有様だったという。結婚生活も全て最後は破局し、実の娘にも疎んじられ、寂しい晩年を過ごした。子供や肉親のために莫大な財産を残し、故郷に豪華な墓を建てたが、全員から縁を切られ、墓に入ることも拒否された。また、テッド・ウィリアムズが「カッブよりロジャース・ホーンスビーの方が偉大な選手」と発言したために、ウィリアムズとの仲を断ってしまったという話もあるなど、野球界の友人もほとんどいなかった。
1936年、野球殿堂の殿堂入り選手第一号の栄誉に輝き、「今日は最高の日だ。私はここにいることを光栄に思う」と発言している。この得票数はベーブ・ルース、ホーナス・ワグナー、クリスティ・マシューソン、ウォルター・ジョンソンらを上回る最多得票であり、野球選手としてのカッブの評価の高さがわかる。また、カッブの現役時代に背番号がなかったために番号は指定されていないものの、デトロイト・タイガースでは永久欠番と同様の扱いになっている。
1961年7月、癌のため74歳で死去。引退後の善行を差し引いても現役時代の業は相当深かったらしく、葬儀に訪れた球界関係者は前述のカクレーンを含めた、たったの4人だけだったという。
[編集] タイ・カッブが生んだ野球とプレースタイル
- 握りの部分(グリップエンド)が根元に近づくにつれて円錐状に太くなっているバットを発案し、愛用していた。日本では、そのようなバットを「タイ・カッブ型バット」と呼ぶことがある。
- 右手と左手を離してバットを握っていた[2]。このようなバットの握り方を「タイ・カッブ式グリップ」と呼ぶことがある。
- 走塁時、二塁に滑り込む際にタッチを避けるためになるべくベースから遠ざかって爪先をひっかけることでセーフ判定を狙う「フック・スライディング」を考案・実践した。さらに、二塁へ進む際、ダブルプレーをとられないよう相手内野手に足を向けて滑り込んでゆく「ゲッツー崩し」を積極的にしかけたのもカッブが初めてである。また、鉛をつめて普通の3倍も重くした靴を履いて走塁の訓練をしていたという。
- 相手投手の投球フォームやクセの観察によって弱点を見つけたり、攻撃時や守備時に外野へ吹く風を計算に入れるという戦術を最初に編み出した。
- 選手の権利と言う概念を主張し、メジャーリーグでの選手雇用契約の基礎を作った。
- 打率維持のため、長打狙いのバッティングはしなかったが、実際は長打力も併せ持っており、ある時、ベーブ・ルースの豪打ばかりもてはやすマスコミ陣に対し、「君たちに見せたいものがある」と宣言して、セントルイス・ブラウンズ戦に臨んだことがある。カッブはその日の試合で柵越えの本塁打を3本、その次の日の試合でも本塁打を2本放ち、フェンス直撃の二塁打も2本打ってその実力を証明している。また、その話を聞いた警官が、自動車のスピード違反でカッブを捕まえた際、「今日の試合でホームランを2本打てば違反はなかった事にしよう」と言ったところ、カッブは本当に本塁打を2本打ち、約束どおりに違反は取り消しになったという逸話もある。
- シングルヒット狙いで、普段は柵越えを狙わないため、通算本塁打の半分近くがランニング本塁打である。
- 両手をあけてバットを握るため、ボールに十分「力」が乗らないのではとの声もあったが、単に「力」のみが強い打球を生み出すものではないと言い、そのグリップで剛速球をたたいて、奥深く守っていた右翼手のグローブをはじきとばした上に彼の指を折ってしまったこともあったという。
- 足はそれほど速くはなかったと自身も語っており、上記に記したように相手にスパイクを研ぐところを見せたことや、クセを見つける戦術によって、盗塁数を稼いでいた。1イニングで二盗、三盗、本盗を決めるサイクル・スチールを通算4度達成している。また1年に2度やってのけたこともあった。
- 外野の三つのポジション以外にもファースト、セカンド、サード、さらには投手として3試合に登板している。打撃面だけではなく守備面の能力も高く、堅実なプレーをしていた。
- 以上のように細かい野球をするカッブだが、闘志を前面に出すプレーをし、それが結果として悪態として扱われてしまったことも少なくない。乱闘のときなどは、ボールをあてられたチームメイトのために激しく攻撃したことも多かったとされ、観客との乱闘などもプレーに集中したいがためにしてしまったことであった。また乱闘などは基本的に、これらはこうしておけばやじはなくなる、こうしておけば相手は恐れを抱くなど、したたかな計算の上での行動であったとのことである[要出典]。
[編集] 逸話
[編集] 野球選手として
カッブ(キツい性格、しかしたゆまない努力と引き締まった体)はよくベーブ・ルース(愛嬌のある性格、それでいて天賦の才能とたるんだ体)と対極を成す人物として挙げられることが多い。引退後のメジャーリーグでの本塁打至上主義には批判的な見解を示し、「野球本来の面白さは、走塁や単打の応酬にある」と自らの回顧録で語っているように「スモール・ベースボール」の重要性を説いている。
本塁打至上主義に批判的な見解をしめす理由の一つとして、本塁打狙いになることによっての大振りによる打率低下を言っており、ベーブ・ルースの本塁打狙いの打撃はまさにその典型だと語り、その打撃スタイルを否定していた。さらに、ルースがカッブの安打狙いの打法に対し、「あんたみたいな打ち方なら俺なら六割はいけるだろうな。でも、客は俺のけちなシングルヒットじゃなくて、ホームランを見に来ているのさ」とコメントしたため、カッブも「打てるものなら打ってみろ。3割そこそこでなにを言ってやがる」と反論している。しかし、そのルースが.376という高打率を記録したため、ルースを認める評価をするようになる。さすがに本塁打狙いの打撃への否定は続けたが、ルースの打撃の才能を高く評価しはじめ、打率.393で投票数満票でのMVPをとったときなどは「本塁打狙いの打撃をやめれば、4割を超えるのは間違いない」と述べ、自らのバッティングとの考え方の差を感じたコメントをしている。
そのルースに黒人の血が流れているという噂が流れた時などは、同室にいることを拒否したほか、対ヤンキース戦での乱闘のときなども、いつもカッブに向かって野次を飛ばしていたルースに真っ先に殴りかかり、激しい乱闘をしていた。しかし、そんなカッブも、野球選手としてのルースに高い評価をし、回顧録で記した『自身の選ぶオールスターチーム』のメンバーにもルースを選び、ルースの死にも「また来世で会えることを願う」という一節を記している。
本塁打狙いの打撃を否定していたカッブだが、バースデーアーチだけは狙っていたらしく、20歳と40歳の誕生日に本塁打を打っている。
カッブの球歴の大部分はメジャーリーグの初期であり、非常に「飛ばない」ボールの時代であった。その時代において、4割打者であるカッブに来るボールはひどいものが多く、今日とは比較にならない、スピットボール(ボールに唾を塗りたくって作る不正球)による変速投球だったと言われている(1920年にメジャーリーグが公式に禁止を発表するまで、スピットボールは黙認されていた)。始めは普通の速球のようにプレートに近づくが、打者のバットの下までくると突飛な曲がり方をするボールや、速球のスピードでナックルのように揺れるボールなどが当たり前のようにカッブに投げられていたという。
また、絶好調のときのカッブはさらに凄まじく打つため、相手から報復とも言える行動をされることも少なくはなかった。相手選手の中には、審判がボールをストライクと言うところのみしか投げないよう投手に指示する捕手や、危険球ともいえるようなボールしか投げてこない投手などが非常に多かったという。ボールをストライクと言う審判については、選球眼に絶対の自信があったカッブはすぐさま文句を言い、審判との乱闘になることもあった。カッブへ行われた乱暴行為は打席のみに留まらず、外野への安打で、二塁をまわった際に腰に体当たりをされて三塁打を二塁打にされ、乱闘になったなどの逸話もある。
対ヤンキース戦で、相手チームの選手から打席のカッブにひどい野次が飛んだ。野次のせいで集中力を失ったカッブは、三振を喫してしまう。試合後、野次に怒ったカッブは、銃を持って選手控え室に乗り込み、野次を飛ばしていた選手に銃口を向けた。カッブの悪評を聞いていたその選手は本気で殺されると思い、野次について謝罪した。その後、ルースに「おい、カッブ。まさか俺を打ちはしないだろうな」と宥められ、事態は収まった。この試合以後、ヤンキースの選手は「タイ・カッブを怒らせると、どうなるかわからない」と野次やラフプレーを全くしなくなったという。また、この時の銃は空砲であった。
足は速くないが、盗塁の技術が素晴らしかった理由の一つとして練習方法に理由があるという。カッブの秘密の練習場は台所で、妻が台所で料理をしているときに、横から背中を叩いて反対側に逃げる。妻が後ろを向くまでに反対側にいけたら盗塁成功で、妻のほうが先に振り向いたら盗塁失敗。これを繰り返しているうちに、盗塁のスタートのタイミングがうまくなったとのことである。妻からは「あなたは邪魔だから台所に来ないで」と何度も怒られたという。
カッブは安打を放った際、走りながら常に相手野手を観察していた。自伝でカッブが述べたところによると、走者は心理的な面や確率上から見ても、本人にその気さえあれば、ほとんどいつでも余分のベースを取ることが出来るという。同時代の選手であったケーシー・ステンゲルは、現役時代におけるカッブの進塁の巧さを振り返り、「あなたは外野に打ったヒットで、どうしてああも余分にベースを取ることが出来たのですか。足はそれほど速くなかったと思いますが」と質問した。
これに対しカッブは、「そう、足は速くない。しかし、私は外野手がボールを処理するときに、利き腕で取っているかどうかを常に見ることにしていた。それが私のつけ目だった」と答えた。 外野手が走者にばかり気を取られていた場合、走者の動きを見極めるために、ほんの一瞬にせよ野手はボールから眼を離す。その隙を突いて進塁すれば、野手はジャッグルし、走者は野手に打ち勝って進塁することができたのだという。
来日した際、中等野球に飛び入り参加して盗塁を試み、当時強肩で鳴らしていた嘉義農林の捕手に刺された。カッブはセカンドから捕手のもとへ駆け寄った。判定を不服として一瞬怒鳴りにいったのかと思いきや、笑顔で「やるな坊主」と言い、捕手の頭を撫でたという。
カッブは野球というスポーツについて、「50cm先に転がしたヒットと、50m先に飛ばしたヒット。この両方が同じヒット一本として扱われることは、野球のルールの最も素晴らしい部分である」と述べている。
日本プロ野球の元コミッショナーである内村祐之は、自著において、印象に残ったメジャーリーガーとしてカッブの名を挙げている。1927年の春、内村はフィラデルフィアにて、メジャーリーグ視察のためにアスレチックス対インディアンズの試合を観戦した。同年シーズンはカッブがタイガースからアスレチックスヘ移籍して1年目のシーズンであった。試合はアスレチックスが劣勢の展開となり、9回の最終回に1点をリードされたまま、アスレチックス最後の攻撃となった。この回の先頭打者であったカッブは、安打で出塁を果たす。カッブの安打にアスレチックスのベンチは沸き返った。しかし直後にカッブが相手投手の牽制球に刺され、アウトとなり、アスレチックスはそのまま敗退した。
内村はその時のカッブのプレーを見て、「4000本安打を目前にしている、あの海千山千のカッブでもあんな無駄死にをする事があると思うと、とても面白かった」と回想している一方で、「しかしそれより感心したのは、カッブのその時の態度である」と述べている。内村によると、それは文句なしのアウトであり、審判に抗議の余地はなかった。カッブは気の毒な程に項垂れ、ベンチに帰る顔がないという表情で天を仰ぎ、打ちひしがれていたという。この時のカッブは既に40歳の大ベテランであり、しかも同試合はシーズン初頭のゲームであった。それにも関わらず、カッブは前述のような真剣さと闘志を持って試合に臨んでいた。内村はカッブの野球に対するこの姿勢に、たいへん驚いたと述懐している。
引退後に出場した試合で、捕手に「ひさしぶりにバットを握るので、バットがすっぽ抜けてしまうかもしれない。少し後ろにさがっていてもらえるか?」と頼んだ。捕手が後ろにさがると、カッブはすかさずセーフティーバントを試み、見事に成功させた。これを見ていた周りの選手は、「引退してもタイ・カッブという選手はあくまで勝利のみにこだわっている」と感心していたという。
[編集] 両親の事件について
1905年の夏、オーガスタの監督が変わった。当時のオーガスタは監督が選手を甘やかすところがあり、マイナーリーグ2年目で18歳のカッブも野球に対する態度に問題があった。ある試合でカッブがポップコーンの袋を持ちながら外野守備についていたところ、そこへフライが飛んできた。カッブはボールを取り損ねた上に、ポップコーンを飛び散らせてしまった。試合後、新任の監督はカッブを呼び出し、「カッブ、野球は真面目なスポーツだ。君の態度は実に良くない。君は大スターになる素質がある。しかし、その怠け癖を直さなければダメだ」と諭した。これに対しカッブは、「はい、おっしゃる通りに致します」と直立不動の姿勢で答えた。以降、新監督と二人三脚での練習が毎日のように続いたという。
しかしその数ヶ月後、前述した両親の事件が起こった。この両親の事件は、カッブの人格に大きな影響を与えたと言われている。それまでは、上記のようにカッブは素直な性格の選手であったが、同事件以降、非常に攻撃的な性格になったとされる。事件が起こった直後のメジャー昇格の歓迎会では、初めて暴力事件を起こし、チームメイトを病院送りにした。それからも問題をよく起こすようになり、人格に難のある選手として知られるようになった。実績を残し始めるまでは、チームメイトから嫌がらせを受けることもあったという。
現役時代、強気な発言で知られていたカッブだったが、マスコミから両親の事件の話について聞かれると途端に口をつぐみ、「その話はしたくない」と暗い表情になったという。後年、カッブは両親の事件について、「私は(この事件を)生涯乗り越えることができなかった」と語っている。また、人種差別、とくに黒人差別をするようになった理由として、生まれである当時のジョージア州が非常に差別意識の強い地域であったためや、自分の母親の浮気相手が黒人であったためと言われている。
前述の1912年5月15日に起こった男性観客との大騒動も、両親の事件に関する野次が引き金であった。同観客はこの試合において、試合開始から延々とカッブに対して野次を飛ばしていた。守備についているカッブはこの観客と視線を合わさず無視していたが、段々と野次が過激になり、とうとう「お前は半ニガー野郎だ!」(白人と黒人のハーフ。つまり黒人と浮気をしていた不貞の母親のことを指しての野次)という罵声を浴びせられた[3]。この暴言にカッブは激怒し、左翼の守備に向かう途中に向きを変え、野次を飛ばす同観客に突進した。
その後、カッブはファンに暴力行為を働いたとして、無期限の出場停止処分を受けた。カッブ自身は自伝にて、騒ぎを起こしたことは認めているが、殴る蹴るなどの暴力を振るったことは否定している。また、騒動から3日後に起こったチームメイト全員による試合出場のボイコット理由も、「観客の野次があまりにもひどい」という怒りから発生したもので、カッブの処分を不服としたことが起因である。しかし当時のメディアは、カッブがファンに暴力行為をしたという部分だけを強調して報じている。
[編集] 人物像
野球を離れても頭脳プレーヤーであり、試合後にホテルのバーに足しげく通い、経済や株式の情報を集め、投資することを楽しみとしていた。カッブが買ったユナイテッド・モータースという小さな会社は、一年後にゼネラル・モータースと合併し、一株180ドルに高騰した。さらに、ある清涼飲料水の会社の株を買ったところ、その会社の商品が爆発的にヒットした。その会社というのが現在の「コカ・コーラ」である。カッブはのちにコカ・コーラの大株主の一人になり、莫大な富を得て、億万長者になった。
億万長者になったはいいが、すさまじいケチぶりで、メイドの給料をねぎろうとしたり、保険や牛乳の代金までも安くしてもらおうとしていた。そのうえ、電気代がもったいないということで発電機まで自分で製作。電圧が安定しなかったため、トースターが燃えてしまい、あやうく怪我人を出してしまうところだったという。また、死の直前に肝臓癌で入院したが、治療費の支払いまで拒否している。
引退後の1950年代に、インタビューで記者から「今の野球界でプレーしたら、どのくらいの打率を残せるか」と質問された。記者は現役時代に自分の力に絶対の自信があり、今の野球界のプレーの粗さを指摘していたカッブなら当然4割超えを言ってくるだろうと思っていたが、カッブは「打率.310ぐらいだな」と答えた。記者が驚き、「あなたは4割を3度も記録したじゃないですか」と言うと、カッブは笑顔で「忘れては困る。私は今70歳を超えているんだぞ」と言い、記者とともに大笑いしたという。
あるとき、永久追放になったジョー・ジャクソンが営業していた店を訪れ、ジャクソンが気づかないようなのでカッブが「ジョー。私だよ」と声をかけると、ジャクソンは「わかってる」と言い「メジャーで一緒だった連中は、俺のことなんか忘れたいんじゃないかと思ってな」とわざと気づかないふりをしていたことを述べる。それに対しカッブは「ああ。お前が優れたバッターだったということ以外忘れてしまった」と言い残し、店から帰ったという[要出典]。
嫌われ者というイメージが強いカッブだが、実際は噂ばかりが一人歩きしてしまい、どんどん避けられるようになってしまったというところもあり、ルースと同じく、アメリカ球界に多大なる貢献をした人物であるにも関わらず、その球界からまるで厄介者のように扱われていたという見解がある。ルースは、裏には悪いイメージにつながる行動もあったのだが、それを打ち消すだけの本塁打の強烈な印象力があった。しかし、カッブには悪いイメージを打ち消すだけの強烈なものはなく、逆に勝負にこだわる姿勢を、野球というスポーツのイメージを悪くしたととられてしまった、悲運な選手でもある。
打撃不振などを責められたためにチームメイトと大喧嘩をしたり、前述のようにひどいやじをとばした観客に対して暴挙も行ったが、自分の正義の感情を抑えることなく、正義をつらぬくと言う、彼なりの正義感で動いていたらしく、相手にも原因があるときのみしか大喧嘩をしなかったといわれる。試合の乱闘も、ボールをあてられたチームメイトへの怒りによるものなどがほとんどで、相手に大きな怪我をさせるような乱闘は一度もしなかった。これは「怪我のせいで野球をできなくなるつらさは自分が一番わかっている。それを、たとえ敵でも同じ野球選手に味わわせたくはなかった」とカッブ自身も語っている。
死の直前、カッブは自らの回顧録を書いてもらっていた晩年、はじめのうちは、自分の悪行を正当化するために内容もこと細かに指示をしていたとされていたが、死期が近づいてきたころ、その指示をやめて執筆者に「お前の好きに書いてくれ」と言い残して亡くなったとされる。一緒にいた執筆者は、カップと行動を共にするうちにカップの知られざる人間的な一面を知り、それを書き留めていた。その内容は、人知れぬ悲しみをもたらした過去のつらい事件を振り払うために野球に打ち込んでいたこと、カップが貧困しているかつての野球仲間に定期的に送金していること、自分の凶暴な面のため家族とはうまくいかなかったことなどであった。そのことを知ったカップが死の直前、執筆者にそう言ったという。
このため、専門家の中には「彼は本当は、そこまで嫌われるほどの人物ではなかったのではないか?」や 「彼がこんな性格になってしまったのは、彼のつらい過去に原因があるのではないか?」との意見もある。また、カッブ自身は自分の人生について、自伝にて次のように残している。「私は自分の生涯に一点の悔いも残してはいない。もしも人生をやり直すとしたら、私は同じことを繰り返すに違いない。ただし…多少あちこちに修正を加えはするだろうが…」。その後、1994年にカッブを描いた本が映画化され、トミー・リー・ジョーンズ主演の「タイ・カッブ(Cobb)」として公開された。
[編集] 日本語表記について
カッブが日本で初めて紹介されたとき、翻訳・マスコミ関係者が「カップ」というカタカナ表記をあてたため、1990年代頃まで「タイ・カップ」とのカタカナ表記がマスコミや野球評論家の間でも完全に定着していた(例えば、彼の自伝の邦訳が1977年に日本で出版されたときの邦題は「野球王タイ・カップ自伝」であり、1995年映画『COBB』の邦題は「タイ・カップ」である)。現在では発音になるべく忠実に「カッブ」とされるのが一般的になっている。
[編集] 通算打撃成績
※歴代順位は2006年シーズン終了時のもの
| 試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
四 球 |
死 球 |
犠 打 |
三 振 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 3033 | 11429 | 2246 | 4191 | 724 | 297 | 117 | 5854 | 1937 | 892 | 178 | 1249 | 94 | 295 | 357 | .366 | .433 | .513 | .945 |
| 5位 | 5位 | 2位 | 2位 | 4位 | 2位 | - | 4位 | 5位 | 4位 | 10位 | 44位 | 70位 | 12位 | - | 1位 | 8位 | 67位 | 26位 |
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1905 | DET | 41 | 164 | 150 | 19 | 36 | 6 | 0 | 1 | 45 | 15 | 2 | - | 4 | 10 | 0 | - | .240 | .288 | .300 | .588 |
| 1906 | 98 | 394 | 358 | 45 | 113 | 15 | 5 | 1 | 141 | 34 | 23 | - | 14 | 19 | 3 | - | .316 | .355 | .394 | .749 | |
| 1907 | 150 | 642 | 605 | 97 | 212 | 28 | 14 | 5 | 283 | 119 | 49 | - | 12 | 24 | 5 | - | .350 | .380 | .468 | .848 | |
| 1908 | 150 | 635 | 581 | 88 | 188 | 36 | 20 | 4 | 276 | 108 | 39 | - | 14 | 34 | 6 | - | .324 | .367 | .475 | .842 | |
| 1909 | 156 | 651 | 573 | 116 | 216 | 33 | 10 | 9 | 296 | 107 | 76 | - | 24 | 48 | 6 | - | .377 | .431 | .517 | .948 | |
| 1910 | 140 | 590 | 506 | 106 | 194 | 35 | 13 | 8 | 279 | 91 | 65 | - | 16 | 64 | 4 | - | .383 | .456 | .551 | 1.007 | |
| 1911 | 146 | 654 | 591 | 147 | 248 | 47 | 24 | 8 | 367 | 127 | 83 | - | 11 | 44 | 8 | - | .420 | .467 | .621 | 1.088 | |
| 1912 | 140 | 609 | 553 | 120 | 226 | 30 | 23 | 7 | 323 | 83 | 61 | - | 8 | 43 | 5 | - | .409 | .456 | .584 | 1.040 | |
| 1913 | 122 | 501 | 428 | 70 | 167 | 18 | 16 | 4 | 229 | 67 | 51 | - | 11 | 58 | 4 | 31 | .390 | .467 | .535 | 1.002 | |
| 1914 | 98 | 414 | 345 | 69 | 127 | 22 | 11 | 2 | 177 | 57 | 35 | 17 | 6 | 57 | 6 | 22 | .368 | .466 | .513 | .979 | |
| 1915 | 156 | 700 | 563 | 144 | 208 | 31 | 13 | 3 | 274 | 99 | 96 | 38 | 9 | 118 | 10 | 43 | .369 | .486 | .487 | .973 | |
| 1916 | 145 | 636 | 542 | 113 | 201 | 31 | 10 | 5 | 267 | 68 | 68 | 24 | 14 | 78 | 2 | 39 | .371 | .452 | .493 | .945 | |
| 1917 | 152 | 669 | 588 | 107 | 225 | 44 | 24 | 6 | 335 | 102 | 55 | - | 16 | 61 | 4 | 34 | .383 | .444 | .570 | 1.014 | |
| 1918 | 111 | 473 | 421 | 83 | 161 | 19 | 14 | 3 | 217 | 64 | 34 | - | 9 | 41 | 2 | 21 | .382 | .440 | .515 | .955 | |
| 1919 | 124 | 545 | 497 | 92 | 191 | 36 | 13 | 1 | 256 | 70 | 28 | - | 9 | 38 | 1 | 22 | .384 | .429 | .515 | .944 | |
| 1920 | 112 | 495 | 428 | 86 | 143 | 28 | 8 | 2 | 193 | 63 | 15 | 10 | 7 | 58 | 2 | 28 | .334 | .416 | .451 | .867 | |
| 1921 | 128 | 581 | 507 | 124 | 197 | 37 | 16 | 12 | 302 | 101 | 22 | 15 | 15 | 56 | 3 | 19 | .389 | .452 | .596 | 1.048 | |
| 1922 | 137 | 612 | 526 | 99 | 211 | 42 | 16 | 4 | 297 | 99 | 9 | 13 | 27 | 55 | 4 | 24 | .401 | .462 | .565 | 1.027 | |
| 1923 | 145 | 647 | 556 | 103 | 189 | 40 | 7 | 6 | 261 | 88 | 9 | 10 | 22 | 66 | 3 | 14 | .340 | .413 | .469 | .882 | |
| 1924 | 155 | 726 | 625 | 115 | 211 | 38 | 10 | 4 | 281 | 78 | 23 | 14 | 15 | 85 | 1 | 18 | .338 | .418 | .450 | .868 | |
| 1925 | 121 | 490 | 415 | 97 | 157 | 31 | 12 | 12 | 248 | 102 | 13 | 9 | 5 | 65 | 5 | 12 | .378 | .468 | .598 | 1.066 | |
| 1926 | 79 | 273 | 233 | 48 | 79 | 18 | 5 | 4 | 119 | 62 | 9 | 4 | 13 | 26 | 1 | 2 | .339 | .408 | .511 | .919 | |
| 1927 | PHA | 134 | 574 | 490 | 104 | 175 | 32 | 7 | 5 | 236 | 93 | 22 | 16 | 12 | 67 | 5 | 12 | .357 | .440 | .482 | .922 |
| 1928 | 95 | 393 | 353 | 54 | 114 | 27 | 4 | 1 | 152 | 40 | 5 | 8 | 2 | 34 | 4 | 16 | .323 | .389 | .431 | .820 | |
| 通算:24年 | 3035 | 13068 | 11434 | 2246 | 4189 | 724 | 295 | 117 | 5854 | 1937 | 892 | 178 | 295 | 1249 | 94 | 357 | .366 | .433 | .512 | .945 | |
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB歴代最高
投手通算 3試合登板 防御率3.60
[編集] タイトル・表彰・記録
- アメリカンリーグMVP:1回(1911年)
- 打撃三冠王:1回(1909年)(史上5人目)
- 首位打者:12回(1907年(.350)、1908年(.324)、1909年(.377)、1910年(.383)、1911年(.420)、1912年(.409)、1913年(.390)、1914年(.368)、1915年(.369)、1917年(.383)、1918年(.382)、1919年(.384)) (1907年~1915年、1917年~1919年)
- 9年連続首位打者(1907年~1915年)
- 本塁打王:1回(1909年(9))
- デビューから24年連続本塁打(1905~1928)
- 打点王:4回(1907年(119)、1908年(108)、1909年(107)、1911年(127))
- 盗塁王:6回(1907年(49)、1909年(76)、1911年(83)、1915年(96)、1916年(68)、1917年(55))
- 12年連続30盗塁(1907~1918)
- 5年連続50盗塁(1909~1913)
- デビューから24年連続盗塁(1905~1928)
- シーズン打率4割以上:3回(1911年(.420)、1912年(.409)、1922年(.401))
- 11年連続打率3割6分以上(1909~1919)
- シーズン打率3割以上:23回(1906~1928)
- 23年連続打率3割以上(1906~1928)
- 40試合連続安打(1911年)
- 最多安打:8回
- 200安打:9回
- 最高出塁率:7回
- 19年連続出塁率4割以上(1909~1927)
- 最多得点:5回
- 最多二塁打:3回
- 最多三塁打:4回
- 最多塁打:6回
- 最高長打率:8回
- 最高OPS:10回
- 二塁打20-三塁打20-盗塁20:4回
- 二塁打10-三塁打10-本塁打10-盗塁10:2回
- サイクル・スチール:4回
- ランニング本塁打:46回(アメリカンリーグ記録)
- 打撃全タイトル制覇(1909年)(史上唯一)
- 打撃六冠王(1909年)(史上唯一)
- ホームスチール:55回(世界記録)
- 通算打率:.366(世界記録)
[編集] 脚注
- ^ カッブは裁判にて、母親が不利になるような証言はひとつもしなかった。死の直前、自身の自伝の執筆を担当していた記者にその事について質問された際、カッブは「男はどんなときも母親を守らなければならない」と答えている。
- ^ Wayne Stewart: Hitting Secrets of the Pros, McGraw-Hill (ISBN 978-0071418249), 2004, 30-31ページ.
- ^ 当時から両親の事件のことはメディアによって報じられており、カッブがメジャーを代表する選手であったため、カッブの生い立ちは一部の野球ファンの間で知られていた。
[編集] 外部リンク
- Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 監督の通算成績と情報 Baseball-reference.com
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
- The BASEBALL Page(英語)
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