トミー・マッカーシー
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1863年7月24日 |
| 没年月日 | 1922年8月5日(満59歳没) |
| 身長 体重 |
5' 7" =約170.2 cm 170 lb =約77.1 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 右翼手 |
| 初出場 | 1884年7月10日 |
| 最終出場 | 1896年9月26日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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| 選出年 | 1946年 |
| 選出方法 | ベテランズ委員会選出 |
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この表について
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トミー・マッカーシー(Thomas Francis Michael "Tommy" McCarthy, 1863年7月24日 - 1922年8月5日)は、19世紀のアメリカ・メジャーリーグの選手。主なポジションは右翼手。マサチューセッツ州ボストン生まれ。右投げ右打ち。ニックネームは"Little Mac(リトル・マック)"。1890年代のボストン・ビーンイーターズ(現アトランタ・ブレーブス)で主に活躍、現在の殿堂入り選手の中で唯一、ユニオン・アソシエーション(1884年だけ運営されたリーグ)でのプレー経験を持つ。
目次 |
経歴 [編集]
1884年、この年に創設されたユニオン・アソシエーションのボストン・レッズに投手および外野手として入団する。53試合に出場したものの、通算打率は.215、投手としては0勝7敗と全くいいところがなかった。ユニオン・アソシエーション解体と共に翌年から3年間はナショナルリーグのボストン、フィラデルフィアに所属するが、打率は2割に届かず、レギュラー定着には程遠い状況だった。
1888年にアメリカン・アソシエーションのセントルイス・ブラウンズに移籍。ここでようやく外野手として定着した彼は、持ち前の足の速さを生かせるようになり、それまで全くだめだった打撃成績も急激に向上した。同年は109盗塁、106得点(近年の統計では93盗塁、107得点)を記録。シーズン得点はこの年以後7年連続で100以上を挙げた。打率は1890年に初めて3割を超え (.350) 、マッカーシーは俊足巧打の外野手へと変貌していった。
1891年にアメリカン・アソシエーションの消滅に伴ってボストン・ビーンイーターズに移籍。翌年からボストンはリーグを2連覇。ヒュー・ダフィーとの外野コンビは『ヘブンリー・ツインズ』(双子座の意)と呼ばれた。マッカーシーは外野守備を工夫し、フライをわざと落とし進塁する走者を刺す、といったトリッキーなプレーをいくつも見せていたそうである。
1896年にブルックリンに移籍し同年現役を引退、1922年ボストンにて死去。1946年、ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。
通算成績 [編集]
打撃成績 [編集]
※数字の後の"(+)"は、記録不明の箇所があることを示す。
| 試 合 |
打 数 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
得 点 |
打 点 |
盗 塁 |
三 振 |
四 球 |
死 球 |
犠 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1275 | 5128 | 1496 | 192 | 53 | 44 | 1069 | 537 | 468(+) | 163(+) | 537 | 50(+) | 33(+) | .292 | .364 | .376 | .740 |
獲得タイトル・記録 [編集]
- 盗塁王:1回 (1890年)
- リーグ優勝:3回 (1888年、1892年、1893年)
投手成績 [編集]
- 通算:登板数13、先発6、投球回69.1、0勝7敗、被安打83、被本塁打3、防御率4.93
監督としての戦績 [編集]
- 所属:セントルイス・ブラウンズ(アメリカン・アソシエーション)(1890年)
- 戦績:15勝12敗、勝率.556、リーグ最高順位:3位
審判歴 [編集]
- 在籍・年次・試合数:
- アメリカン・アソシエーション (1889年) 1試合
- ナショナルリーグ (1896年) 1試合
出典・外部リンク [編集]
- Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 年度別成績(レトロシート)
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