ジャック・グラスコック
| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1857年7月22日 |
| 没年月日 | 1947年2月24日(満89歳没) |
| 身長 体重 |
5' 8" =約172.7 cm 160 lb =約72.6 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 遊撃手 |
| 初出場 | 1879年5月1日 |
| 最終出場 | 1895年7月13日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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ジャック・グラスコック(John Wesley "Jack" Glasscock、1857年7月22日 - 1947年2月24日)は、主に1880年~1890年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの野球選手。ポジションは遊撃手。ウェストバージニア州ホイーリング生まれ。右投げ右打ち。ニックネームは"Pebbly Jack"。当時守備の専門家が多かった遊撃手のポジションで攻守にわたって活躍、『19世紀最高の遊撃手』と評される。1890年のナショナルリーグ首位打者。
目次 |
来歴 [編集]
子供の頃、父親の後を継いで大工になるため小学校を4年で中退し通信教育を受けていたが、15歳の時には既にオハイオ州のバックアイ・ベースボール・クラブの選手となっていた。翌年オハイオ州のスタンダードクラブに昇格し.369の打率を残す。翌年チームはプロ化し、当時グラスコックは月給40ドルでプレーをしていたそうである。
その後より高給を求めてクリーブランドのクラブに移り、1879年にこのチームがナショナルリーグに加盟したことで、グラスコックはメジャーリーグの選手となった。10代だったグラスコックの背はこの頃まだ伸び続けていたそうである。同年は主に二塁手をしていたが、打率.209と打つ方がだめで、翌年には遊撃手にコンバートされた。
1882年には当時の二塁手で兼任監督だったフレッド・ダンラップ、一塁手ビル・フィリップスとともにリーグ最多の併殺数を記録する一方、打率も.291を記録しクリーブランドの中軸を打つまでになっていた。1884年にユニオン・アソシエーションが活動した年は、シーズン途中にクリーブランドを離れシンシナティ・アウトロー・レッズに参加し、38試合の出場ながら打率.419と大暴れする。グラスコックはその後も高い守備率やリーグ最多の併殺数を誇る一方で、打率3割前後を毎年残す打者になっていた。インディアナポリスの監督を兼任していた1889年には、リーグ最多の205安打と打率.352、7本の本塁打とキャリア最高の数字を残した。
1890年に選手組合がプレイヤーズ・リーグを創設し多くの選手が移籍した際、以前のユニオン・アソシエーション参加の際のごたごたに懲りていたグラスコックはナショナルリーグに留まったが、逆にそのことで選手組合に参加していた他の多くの選手から非難されることになった。この年グラスコックは打率.336を記録、ナショナルリーグの首位打者となる。
1891年に手を負傷してからは徐々に出場機会が減り、1895年にメジャーリーグから引退した。その後生まれ故郷の「アイアン・アンド・オイル・リーグ」でエド・バローが率いるチームに参加、4割の打率を残してチームをリーグ優勝に導くなど、1901年頃までマイナーリーグでプレーを続けていた。野球選手引退後は大工となり、1947年に90歳で亡くなった。
人物 [編集]
グラスコックは内野守備の際に、グラウンドの小石をしょっちゅう拾っては外に放り投げるという習慣があったそうで、"Pebbly"(石ころだらけの意味[1])というニックネームは、これを見たシンシナティの新聞記者がつけたあだ名である。
通算成績 [編集]
打撃成績 [編集]
※数字の後の"*"は、記録不明箇所があることを示す。
| 試合 | 打数 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 得点 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 四球 | 死球 | 犠打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1736 | 7030 | 2040 | 313 | 98 | 27 | 1163 | 825* | 372* | 196* | 439 | 62* | 4* | .290 | .337 | .374 |
獲得タイトル・記録 [編集]
- ナショナルリーグ首位打者:1回(1890年)
- 最多安打:2回(1889年,1890年)
- サイクル安打:1889年8月8日
- 最高守備率(遊撃手):1881,1883,1885,1886,1888,1889年
投手記録 [編集]
- 通算:5試合、投球回7.0、奪三振3、被安打12、被本塁打0、自責点5、防御率6.43
監督としての戦績 [編集]
※順位は年度最終順位
| 年度 | チーム | リーグ | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1889年 | IND | NL | 67 | 34 | 32 | .515 | 7位 | 7月22日~ |
| 1892年 | STL | 4 | 1 | 3 | .250 | 11位 | 開幕~4月17日 | |
| 通算 | 71 | 35 | 35 | .500 | ||||
脚注 [編集]
- ^ 転じて「扱いにくい」という意味もある。
出典・外部リンク [編集]
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference
- Biography (SABR.org)