ビル・マドロック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ビル・マドロック
Bill Madlock
パイレーツ時代(1983年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テネシー州メンフィス
生年月日 (1951-01-02) 1951年1月2日(73歳)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手二塁手一塁手指名打者
プロ入り 1970年 MLB二次ドラフト5巡目
初出場 MLB / 1973年9月7日
NPB / 1988年4月8日
最終出場 MLB / 1987年10月4日
NPB / 1988年10月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

ビル・マドロック・ジュニア(Bill Madlock, Jr.、1951年1月12日 - )は、アメリカ合衆国テネシー州出身の元プロ野球選手内野手)、野球指導者。

メジャーリーグで15年間プレーして首位打者を4回獲得した後、日本プロ野球ロッテオリオンズで主に指名打者として1年間プレーした。

来歴・人物[編集]

メジャーリーグ時代[編集]

メジャー時代は闘志溢れるプレーで、ファミリーネームに引っ掛けて"Mad Dog"(狂犬)の異名を取った。

1969年6月のMLBドラフトセントルイス・カージナルスから11巡目(全体の258番目)で指名されたが契約せず、1970年1月のMLB二次ドラフトでワシントン・セネタースから5巡目(全体の97番目)で指名され契約。

メジャーデビューはチームがテキサスに移転し「レンジャーズ」となった後の1973年であった。 シーズン終盤21試合に出場して打率.351を記録したが、シーズン終了後の10月26日に、ファーガソン・ジェンキンスとの交換トレードで、ビクター・ハリスとともにシカゴ・カブスに移籍[1]

1974年は、それまでカブスの看板打者だったロン・サントの後継者として開幕から正三塁手として起用され、途中5月4日から6月4日まで右足の踝痛、肉離れの怪我で戦線離脱したものの、128試合に出場して5本塁打、54打点、ナ・リーグ5位となる打率.313を記録した[1]

1975年には打率.354を記録して、自身初のナショナルリーグ首位打者となる。同年、MLBオールスターゲームにも初出場を果たし、ジョン・マトラックとともにその試合MVPに選ばれた。

1976年にも、シーズン最終戦で4安打を放ちケン・グリフィー・シニアを抜いて2年連続首位打者(打率.339)に輝くが、シーズン終了後にサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。

ジャイアンツでは1977年(打率.302)・1978年(打率.309)と、いずれも当時のマドロックにしては低打率に終わり、1979年シーズン途中にピッツバーグ・パイレーツに移籍。移籍後は打率.328と復調して、ウィリー・スタージェルデーブ・パーカーらとともに活躍し、チームをワールドシリーズに導く。ボルチモア・オリオールズとの1979年のワールドシリーズ[2]では打率.375を記録し、ワールドシリーズ制覇に貢献した。

1981年(打率.341)・1983年(打率.323)にもナショナルリーグ首位打者を獲得し、カブス時代とあわせて、「2球団でいずれも2回(以上)首位打者を獲得したメジャー史上初の選手」になった。

1985年シーズン途中には3選手との交換トレード[3]ロサンゼルス・ドジャースに移籍。1987年シーズン途中にはドジャースを解雇され、デトロイト・タイガースに移籍。いずれのチームも移籍1年目には地区優勝したが、リーグチャンピオンシップシリーズで敗れ、ワールドシリーズ出場はならなかった。

マドロックがメジャーに在籍した1973年から1987年の間に、ナショナルリーグ首位打者になった右打者はマドロックの他にいない。三塁手として4回の首位打者は、1988年にウェイド・ボッグスに更新されるまでメジャー歴代最多であった。1970年以降に4回以上ナショナルリーグ首位打者になった選手は、現時点で他にトニー・グウィン(8回)のみである。

ロッテ時代[編集]

1988年、前年に退団したレロン・リーに代わってロッテオリオンズに入団した[4]背番号5。年俸1億3650万円[5]。球団は元メジャーリーガーを手厚く迎えるべく、当時の本拠地川崎球場の一塁側ダッグアウト裏に専用のロッカールームを用意したほどだった[6]。またマドロックは来日後初めて川崎を訪れた際、狭いフィールドを見るや「この野球場なら(本塁打)50本は打てると思う」と豪語。同年シーズンは主に「4番・指名打者」で出場した[4]

しかし年齢的に衰えて速い球に対応できなくなっており、かつての首位打者の片鱗は見えぬまま、打率はシーズン中盤まで2割5分を前後した[4]。不振が続き、シーズン後半戦には4番打者から6番打者に降格した[4]。リーのような活躍を期待していたファンを大きく裏切る低調な成績で、川崎球場の外壁には「マドロック立入禁止」なる落書きまで現れた。愛甲猛の著書によると、指名打者での登場以外ではベンチ裏でテレビゲームをしていたそうである。

同年10月19日に川崎球場で開催された近鉄バファローズ25・26回戦のダブルヘッダー、いわゆる「10.19」の第2試合で先制17号ソロ本塁打を放つなどしたものの、結局シーズン通算では平凡な成績に終わり、1年限りで退団となった[4]

退団時、マドロックは「ボブ・ホーナー(元ヤクルトスワローズ)は“地球の裏側にもうひとつの違う野球があった”と言ったが、そんなことはない。日本の野球だって、十分立派にやっていると思う」と自らの成績の不甲斐なさを嘆きつつ、日本野球を評した。

ロッテ時代の応援歌は「サザエさん」の主題歌であった[4][7]

引退後[編集]

1998年ボストン・レッドソックス傘下の1Aミシガンのコーチ、2000年2001年まではデトロイト・タイガースの打撃コーチ、2003年2004年まではアメリカ独立リーグニューアーク・ベアーズの監督、2005年中華職棒(CPBL)のLa Newベアーズの打撃コーチを務めた。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1973 TEX 21 85 77 16 27 5 3 1 41 5 3 2 0 0 7 0 1 9 0 .351 .412 .532 .944
1974 CHC 128 509 453 65 142 21 5 9 200 54 11 7 3 6 42 8 5 39 15 .313 .374 .442 .815
1975 130 565 514 77 182 29 7 7 246 64 9 7 1 5 42 5 3 34 11 .354 .402 .479 .881
1976 142 588 514 68 174 36 1 15 257 84 15 11 3 4 56 4 11 27 21 .339 .412 .500 .912
1977 SF 140 585 533 70 161 28 1 12 227 46 13 10 1 2 43 14 6 33 25 .302 .360 .426 .785
1978 122 509 447 76 138 26 3 15 215 44 16 5 9 2 48 2 3 39 6 .309 .378 .481 .859
1979 69 270 249 37 65 9 2 7 99 41 11 3 1 2 18 3 0 19 3 .261 .309 .398 .706
PIT 85 353 311 48 102 17 3 7 146 44 21 8 2 5 34 8 1 22 14 .328 .390 .469 .860
'79計 154 623 560 85 167 26 5 14 245 85 32 11 3 7 52 11 1 41 17 .298 .355 .438 .792
1980 137 546 494 62 137 22 4 10 197 53 16 10 0 3 45 12 4 33 15 .277 .341 .399 .739
1981 82 320 279 35 95 23 1 6 138 45 18 6 0 4 34 7 3 17 5 .341 .413 .495 .907
1982 154 634 568 92 181 33 3 19 277 95 18 6 1 13 48 16 4 39 12 .319 .368 .488 .856
1983 130 530 473 68 153 21 0 12 210 68 3 4 1 5 49 10 2 24 16 .323 .386 .444 .830
1984 103 435 403 38 102 16 0 4 130 44 3 1 1 4 26 5 1 29 11 .253 .297 .323 .620
1985 110 449 399 49 100 23 1 10 155 41 3 3 3 3 39 2 5 42 12 .251 .323 .388 .711
LAD 34 128 114 20 41 4 0 2 51 15 7 1 0 1 10 0 3 11 3 .360 .422 .447 .869
'85計 144 577 513 69 141 27 1 12 206 56 10 4 3 4 49 2 8 53 15 .275 .345 .402 .747
1986 111 421 379 38 106 17 0 10 153 60 3 3 1 6 30 4 5 43 7 .280 .336 .404 .739
1987 21 69 61 5 11 1 0 3 21 7 0 0 1 0 6 0 1 5 4 .180 .265 .344 .609
DET 87 376 326 56 91 17 0 14 150 50 4 3 8 4 28 1 10 45 10 .279 .351 .460 .811
'87計 108 445 387 61 102 18 0 17 171 57 4 3 9 4 34 1 11 50 14 .264 .337 .442 .779
1988 ロッテ 123 509 437 47 115 15 0 19 187 61 4 3 0 7 51 4 14 59 14 .263 .354 .428 .782
MLB:15年 1806 7372 6594 920 2008 348 34 163 2913 860 174 90 36 69 605 121 68 510 190 .305 .365 .442 .807
NPB:1年 123 509 437 47 115 15 0 19 187 61 4 3 0 7 51 4 14 59 14 .263 .354 .428 .782
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

アメリカ独立リーグ
年度 チーム 前・後期 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
2003年 Newark Bears 前期 2位 63 32 31 0 .507
後期 4位 62 22 40 0 .354
2004年 前期 4位 63 27 36 0 .428
後期 2位 63 36 27 0 .571

タイトル[編集]

MLB
  • 首位打者:4回 (1975年、1976年、1981年、1983年)

表彰[編集]

MLB

記録[編集]

MLB
NPB

背番号[編集]

  • 38 (1973年)
  • 18 (1974年 - 1979年)
  • 5 (1979年 - 1985年、1988年、2005年)
  • 52 (1985年)
  • 12 (1986年 - 1987年)
  • 7 (1987年)

脚注[編集]

  1. ^ a b 週刊ベースボール1975年8月4日号「大リーグ100人の顔 ビル・マドロック」p96
  2. ^ 対戦相手オリオールズの三塁手は、1988年に1シーズンだけヤクルトスワローズに在籍したダグ・デシンセイであった。
  3. ^ 交換相手の一人がR.J.レイノルズ(後に横浜大洋ホエールズ近鉄バファローズでプレー)であった。
  4. ^ a b c d e f 【2月7日】1988年(昭63) ロッテの“狂犬”、棲み家は金100万円ナリ”. スポニチAnnex. 日めくりプロ野球 (2008年1月30日). 2018年9月22日閲覧。
  5. ^ 80年代では異例の西武黄金時代“育てる助っ人”バークレオとは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】
  6. ^ 楽天・大久保元監督が球団社長に激怒! 大物助っ人を巡る裏話を暴露、「AJは切ってください!」と吼えたワケは|ニフティニュース
  7. ^ 歌詞は「ドラネコ」「サザエさん」を「マドロック」「有藤」(当時の監督)に変えただけであった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]