安藤勝己

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安藤勝己
Katsumi-Ando20110410.jpg
2011年桜花賞表彰式
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県一宮市
生年月日 1960年3月28日(54歳)
身長 161cm(騎手引退時)
体重 52kg(騎手引退時)
血液型 A型
騎手情報
所属団体 JRA栗東トレーニングセンター
所属厩舎 フリー
初免許年 1976年NAR)、2003年(JRA)
免許区分 平地競走
騎手引退日 2013年1月31日
重賞勝利 81勝
G1級勝利 22勝
通算勝利 6593戦1111勝
経歴
所属 1976-2003年 笠松(田邊睦雄厩舎)
2003-2013年 JRA(栗東・フリー)
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安藤 勝己(あんどう かつみ、1960年3月28日- )は日本中央競馬会 (JRA) の元騎手、現在は競馬評論家。栗東トレーニングセンター所属(フリー)。愛知県一宮市出身。血液型A型。笠松競馬場在籍時の勝負服の服色は胴青、白山形一本輪、袖黄。また、兄の安藤光彰も騎手(笠松→JRA)、甥は大井競馬場所属の安藤洋一である。

アンカツ」のニックネームで親しまれている。出生から幼少時までの姓は「北浦」であったが、中学2年生のときに両親が離婚、母親に引き取られ「安藤」姓となる。両親はのちに復縁したが、復縁時には逆に父親が安藤籍に入ったため、本名は現在でも「安藤勝己」である[1]。なお、兄の光彰は「アンミツ」、甥の洋一は「アンヨウ」「アンヨー」の愛称で呼ばれている。

なお本項ではほかの安藤姓の競馬関係者と区別するため、とくに断りのない限り安藤勝己を「勝己」と表記する。

来歴[編集]

笠松時代[編集]

兄・光彰が騎手である影響から、勝己は1976年地方競馬笠松競馬場で初騎乗。同年12月のジュニアグランプリをシプリアパールで優勝し初の重賞勝利を挙げる。翌1977年は78勝を挙げリーディング2位となり、さらに1978年に116勝を挙げリーディングジョッキーとなる。以降リーディングジョッキーに君臨し続け、「カラスが鳴かない日はあっても、アンカツが勝たない日はない」と言われるほどであった。1985年に「名古屋の天才」とうたわれた坂本敏美が競走中の不慮の事故で引退を余儀なくされたあとは、2003年中央競馬に移籍するまで笠松競馬場のみならず「東海のエース」と称される活躍を見せた(JRA移籍時点で通算3299勝)。

笠松時代のお手馬[編集]

オグリキャップ
笠松時代のお手馬の中で、中央競馬でも活躍した馬として有名であるのがオグリキャップである。勝己は笠松時代の12戦のうち7戦で手綱をとり、その7戦では無敗であった。その後、オグリキャップは笠松を離れ中央へ移籍するが、勝己は当時は中央競馬の騎手免許がないため騎乗することはできず、中央移籍後は河内洋南井克巳岡部幸雄武豊岡潤一郎増沢末夫らJRA所属の騎手が騎乗した。オグリキャップは中央競馬・地方競馬時代を合わせて32戦を戦ったが、勝己が跨った7戦という数字は河内、南井と並び最多である。笠松で行われた引退式では勝己が跨りスタンドを2周した。
オグリローマン
勝己はオグリキャップの半妹であるオグリローマンの笠松時代の主戦騎手も務めた。のちにオグリローマンは中央競馬へ移籍し、1994年桜花賞を武豊を背に制した。

現在では、地方競馬所属騎手が中央競馬で騎乗し活躍することはめずらしくない。しかし1994年までは地方所属騎手が騎乗できる中央競馬の競走はオールカマージャパンカップといった地方競馬所属馬が出走できる競走や、地方競馬騎手招待競走のみに限られており、勝己が中央の舞台で両馬の手綱を取れなかったのはやむを得ないことであった。

中央競馬への参戦[編集]

勝己がJRA初勝利を挙げたのは1980年5月、阪神競馬場で行われた地方競馬騎手招待競走で引退後に種牡馬となったヤマニンスキーによるものである。

1995年は「交流元年」とも呼ばれ、多くの指定交流競走が設けられ中央競馬のGIおよびステップレースが地方所属馬へと大きく開放された年であった。同年、笠松競馬所属で10戦10勝のライデンリーダーとのコンビで中央競馬の重賞・4歳牝馬特別(現・フィリーズレビュー)に出走し、単勝2番人気ながらレースレコードで勝利を収めた(詳細は第29回報知杯4歳牝馬特別を参照)。

続く桜花賞では、のちの優駿牝馬(オークス)優勝馬・ダンスパートナー、悲願の桜花賞初制覇を目指す岡部幸雄騎乗のプライムステージサンデーサイレンス産駒2頭を抑え、ライデンリーダーは単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持された。しかし第3、4コーナーで内外を包まれ身動きが取れず、ワンダーパヒュームの4着に敗れた。続くオークスでも1番人気に支持されるが13着に大敗。秋は1戦したあとにローズステークスに挑んで3着に入り、当時の牝馬三冠最終戦であるエリザベス女王杯に出走するが、見せ場なく13着に敗退。結局ライデンリーダーは4歳牝馬特別以後に中央で勝ち星を挙げることはなかったが、この活躍が中央競馬のファンに安藤勝己の名を知らしめる大きなきっかけとなった。

中央競馬への移籍[編集]

JRA騎手試験を受験[編集]

上記の報知杯4歳牝馬特別を皮切りに安藤は中央競馬でも重賞を8勝し、通算でもJRA100勝を達成するなど活躍。2001年には中央競馬への移籍を目指してJRA騎手試験を受験する。公営ジョッキーが現役のままJRAの騎手試験を受けることは前代未聞であり注目されたが、結果は1次試験で不合格となった。これはJRA競馬学校卒業者と同じく学科試験を課されたからであると言われているが、橋口弘次郎調教師が「アンカツだけは特例と思ってた、ファンの立場からすればあれだけ信頼して買える騎手もいない、競馬界にマイナス」と非難したのをはじめ[2]、地方とはいえこれだけの実績を残した騎手を学科試験で不合格にしたのはナンセンスであると競馬ファンや競馬記者からの批判を呼び、当時JRA理事であった高橋政行がJRAのホームページにコメントを寄せる事態になった。この事態を受けてJRAは、翌年から「過去5年間に中央競馬で年間20勝以上の成績を2回以上挙げた騎手」に対し、1次試験を免除する試験要項改定(いわゆる「アンカツ・ルール」)を実施し、勝己は2002年にふたたびJRA騎手試験を受験し合格となった。

中央競馬移籍[編集]

2003年[編集]

騎手試験合格後中央競馬へ移籍し2003年3月1日阪神競馬で中央競馬所属騎手としてデビュー。同日の第6競走で移籍後初勝利を挙げると、翌週にはチューリップ賞中京記念を制し早くも中央騎手としての重賞勝利を挙げる。その後3月30日には高松宮記念中京競馬場)をビリーヴで優勝し中央騎手デビューから30日というJRA新記録で、また「お膝元」でのGI初制覇となった。また同年、菊花賞ザッツザプレンティで勝利しクラシック競走初制覇。最終的にこの年は112勝を挙げ、全国リーディング3位となる。

2004年[編集]

2004年はアドマイヤドンフェブラリーステークス優勝。キングカメハメハNHKマイルカップ東京優駿(日本ダービー)を制し史上初のNHKマイルカップと東京優駿制覇という「変則二冠」を達成。また地方競馬出身騎手としては初のダービージョッキーとなる。さらに東京優駿翌週の安田記念ツルマルボーイで制するなど中央GI4勝を含むGI競走を7勝を挙げるなど前年を上回る127勝を挙げ、全国リーディング3位。

2005年[編集]

2005年はスズカマンボ天皇賞(春)初優勝を遂げ、JRAでのGI競走初の100万馬券を演出した。この年はGI競走2勝(中央GI1勝)を含む104勝にとどまり、全国リーディングは7位に下げる。

2006年[編集]

2006年はキストゥヘヴン桜花賞ダイワメジャー天皇賞(秋)マイルチャンピオンシップを制覇するなどGI3勝を含む120勝を挙げ、全国リーディング4位。

2007年[編集]

2007年はダイワスカーレットで桜花賞(連覇)、秋華賞の牝馬二冠を達成。また同馬でエリザベス女王杯も制し、京都競馬場で行われるGI・JpnIの完全制覇を達成した。さらにサンライズバッカスフェブラリーステークスを、ダイワメジャーで安田記念・マイルチャンピオンシップ(連覇)を制し、中央GI・JpnI6勝を挙げる。これは2005年武豊と並ぶJRA記録である。この年から騎乗数を抑え始めるも136勝を挙げ、全国リーディング3位。

この年のJRA賞最高勝率騎手を受賞(2割3分8厘)。なお連対率(4割1分)と複勝率(5割2分4厘) はともにこの年のトップであった。11月17日には京都競馬場でJRAタイ記録で史上3人目となる騎乗機会6連勝を達成。またワールドスーパージョッキーズシリーズに出場し、世界中の名騎手たちが参加するなか15人中3位と健闘した。

2008年[編集]

2008年は阪神ジュベナイルフィリーズブエナビスタで優勝。また有馬記念ダイワスカーレットで優勝し、有馬記念初制覇とともに中山の芝重賞を初制覇。この年は119勝を挙げ、全国リーディング3位。

2009年[編集]

2009年は桜花賞をブエナビスタで優勝し同レース3勝目。また優駿牝馬(オークス)をブエナビスタで初制覇し、これで八大競走のなかで制していない競走は皐月賞のみとなった。この年からさらに騎乗数を減らしたことから年間87勝にとどまり、全国リーディング11位と大きく下げたが、この年のJRA賞最高勝率騎手を受賞(2割1分)。

2010年[編集]

2010年1月30日、京都の第3競走でトウカイレジーナに騎乗し中央1000勝を達成。地方と中央両方で1000勝を達成した騎手は初となる偉業。5月9日にはNHKマイルカップダノンシャンティで制し同レース2勝目。奇しくも5月9日は6年前にキングカメハメハで同レースを制した日であり、さらにこのとき同様にレースレコードも記録する。この年も前年に比べさらに騎乗数を抑えたため年間56勝、全国リーディング23位とさらに大きく下げた。

2011年[編集]

2011年4月10日、桜花賞をマルセリーナで優勝し同レース4勝目。これで武豊の5勝に次ぐ2位タイとなる。

2012年[編集]

兄である光彰の引退によりJRAでは最年長の騎手となる。6月24日に福島競馬場で初勝利を挙げ、JRA全10競馬場で勝利を挙げるという記録を達成した。同年11月24日京阪杯を最後にレースでの騎乗がなく、理由は一切明らかにされないまま長期休養に入った。また、この年は中央移籍後初めてGI未勝利に終わる。

2013年[編集]

2013年に入っても実戦騎乗がない状況が続く中、1月30日に次年度の騎手免許更新の手続きをしていないことが明らかになった[3]。同日、納得のいく騎乗ができなくなったことを理由に、翌1月31日を以って騎手免許を返上することを表明した[4]。JRA通算6593戦1111勝(うち重賞81勝、GI級22勝)。引退式の条件である1000勝を達成していることから、2月3日に京都競馬場で引退式が行われた。なお、後日公式twitterにて、前述の2012年京阪杯でパドトロワに騎乗したことをふり返り、「京阪杯はもっとやれると思っとった。動かしきれんで納得いかなくて、引退決意したんや」と引退の理由を明かした。[5]

引退後[編集]

引退の記者会見では「調教師や調教助手になるつもりはない」としながらも「ファンに競馬のよさを伝える仕事ができれば」と語っていたが[6]、現役時代から続けている『週刊実話』のコラム「アンカツの『勝負師の極意』」(現役引退と同時に終了)に加え、2013年4月には『競馬最強の法則』(KKベストセラーズ)で「競馬アンカツの流儀」、東京スポーツでコラム「GIはアンカツに聞け!」[7]など、相次いで競馬関連メディアで連載をスタートさせており、現在は競馬評論家として活動を行っている。

人物像[編集]

勝己は自分の騎手への価値観に関し、「笠松競馬場のリーディングジョッキーであり続ける中でリーディングジョッキーに価値を感じなくなり、さらに目指すべき目標がなくなったことで騎手という職業自体に魅力を感じなくなりしばしば騎乗をサボタージュし、南関東への移籍や調教師への転職を考えた時期がある。しかし地方競馬および中央競馬に指定交流競走が創設され、フェートノーザントミシノポルンガに騎乗してそれらの競走に出走する中で競馬に面白さを感じるようになった」と語っている。

2003年の中央移籍後、2008年まで6年連続でGI級勝利ならびに年間100勝以上を達成しており(GI級勝利は2011年まで9年連続)、また移籍後7年で旧八大競走のうちの七競走を制覇している(皐月賞のみ未勝利)。2008年ごろからはレースに集中するためなどの理由で騎乗数を抑えていたが、連対率、複勝圏率は極めて優秀だった。騎乗依頼に関しては東西問わずに受けるようにしており、GI請負人として厚い信頼を得ていた。競馬場別では京都競馬場で行われるGI級競走を完全制覇しているが、他方で中山競馬場との相性が悪く、2008年の有馬記念を制覇するまではGI級競走を制覇していない上に、そのほかの重賞もマーチステークスの1勝のみで、芝コースの重賞に至っては上記の有馬記念まで一度も勝てなかった。他方で東京競馬場とは相性が良く、GI級勝利の半数近くを占めている。

中央競馬のGI級競走開催週には中日スポーツ(現在は東京中日スポーツにも掲載)に「アン勝つ」という手記を寄せている。この中日スポーツでは中央移籍後、馬柱の騎手欄で「安藤」と載せたところ読者から「笠松の時代から慣れてきた『安藤勝』表記でないので違和感がある」といったクレームが多数寄せられ笠松時代同様に「安藤勝」と変更したというエピソードがある(他の予想紙・スポーツ紙は「安藤」のまま)。2007年3月以降は光彰の中央移籍に伴い、全紙「安藤勝」となっていた。

一方で天然キャラでもあり、『武豊TV!II』(フジテレビワンツーネクスト)での武豊の発言によると、自身が参加するレースの距離を把握しておらず本馬場入場の前に「これ、何メートルだっけ」と聞かれることがたまにあり、それでもレースでは1着になることがあるとしている。これには本人いわく「レース前に競馬新聞の類は一切読まない」ことも影響している[8]

晩年は毎週末レースになると「約5kgほど」の減量を必要としていて、「毎週水曜日が体重のピークで、そこから徐々に減らしていく」という。ただ本人曰く「サウナに入るとすぐに汗をかく」体質で、サウナと水風呂を頻繁に往復することですぐに体重が落ちるため、減量そのものは周囲が思うほど大変ではなかったとのこと[8]

おもな勝ち鞍[編集]

GI級[編集]

斜字は統一GI級を指す)

これらはすべて中央競馬移籍後であるが、笠松競馬時代にも1989年帝王賞1992年ダービーグランプリ(当時は格付けなし)などを勝利している。

重賞[編集]

※GIおよびJpnIは上記参照。馬名の後の*印はJpnIIまたはJpnIIIを指す。

中央競馬
ダートグレード競走
笠松競馬

おもな表彰[編集]

テレビ出演[編集]

著書[編集]

  • 『安藤勝己自伝 アンカツの真実』(エンターブレイン、2003年5月)
  • 『アンカツ日記』(芸文社、2003年5月)

脚注[編集]

  1. ^ 安藤勝己『安藤勝己自伝 アンカツの真実』、エンターブレイン、2003年、12-13頁参照
  2. ^ なんかモヤモヤ、アンカツ不合格(All About競馬 2001年12月03日)
  3. ^ アンカツ引退!地方からJRA移籍のパイオニア、騎手免許更新せず”. 2013年1月30日閲覧。
  4. ^ 安藤 勝己騎手が引退”. 2013年1月31日閲覧。
  5. ^ https://twitter.com/andokatsumi/status/331575891849273344
  6. ^ アンカツ引退会見「調教師になるつもりはない」 - 東京スポーツ・2013年1月30日
  7. ^ 競馬界の“生ける伝説”アンカツが本紙に登場 - 東京スポーツ・2013年4月8日
  8. ^ a b 『武豊TV!II』第11回

関連項目[編集]

外部リンク[編集]