オグリキャップ

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オグリキャップ
(笠松競馬場正門横に立つオグリキャップ像。
2006年8月16日、笠松競馬場にて)
現役期間 1987年1990年
品種 サラブレッド
性別
毛色 芦毛
生誕 1985年3月27日
ダンシングキャップ
ホワイトナルビー
母の父 シルバーシャーク
生国 日本北海道三石町
生産 稲葉不奈男
馬主 小栗孝一
→佐橋五十雄
→近藤俊典
調教師 鷲見昌勇笠松
瀬戸口勉栗東
厩務員 三浦裕一(笠松)
→川瀬友光(笠松)
池江敏郎(栗東)
競走成績
生涯成績 32戦22勝
地方競馬12戦10勝)
中央競馬20戦12勝)
獲得賞金 9億1251万2000円
  

オグリキャップOguri Cap1985年 - )は日本競走馬である。

主な勝ち鞍は有馬記念2回、マイルチャンピオンシップ安田記念等。「平成三強」の一頭。「オグリ」「芦毛の怪物」などの愛称で、第二次競馬ブーム期にハイセイコー以来といわれる高い人気を得た。1988年JRA賞最優秀4歳牡馬1990年JRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬(JRA賞の部門名は当時のもの)。1991年顕彰馬に選出。

※年齢は旧表記(数え年)

目次

[編集] 概要

1987年5月に笠松競馬場でデビュー。8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録、1988年JRA賞最優秀4歳牡馬1990年JRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬に選出された。

ハイセイコーと並び、社会現象を引き起こすほど多くのファンを獲得した競走馬として知られ、その活躍と人気の高さは第二次競馬ブームを巻き起こす大きな要因のひとつとなったといわれる。

競走馬を引退した後は種牡馬となったが中央競馬の重賞優勝馬を輩出することはできず、2007年に種牡馬を引退した。

[編集] 誕生に至る経緯

オグリキャップの母であるホワイトナルビーは競走馬時代に馬主小栗孝一が所有し、笠松競馬場調教師鷲見昌勇が管理した。ホワイトナルビーが繁殖牝馬となった後はその産駒の競走馬はいずれも小栗が所有し、鷲見が管理していた。

1984年のホワイトナルビーの交配相手には笠松競馬場で優秀な種牡馬成績を収めていたダンシングキャップが選ばれた。これは小栗の意向によるもので、鷲見はダンシングキャップの産駒に気性の荒い競走馬が多かったことを理由に反対したが、最終的に提案が実現した。ホワイトナルビーを繋養していた稲葉牧場については小栗に賛同して鷲見を説得した[1]とも、そもそもダンシングキャップとの交配を提案したのは稲葉牧場だった[2]とも、一旦は交配を躊躇したものの小栗に押し切られる形で同意した[3]ともされる。

なお、オグリキャップは仔分け[4]の馬であり、出生後にセリ市に出した場合の想定額を小栗が稲葉牧場に対して支払うことで産駒の所有権を取得する取り決めがされていた。オグリキャップについて小栗が支払った額は250万円[5]とも500万円[6]ともされる。

[編集] 誕生・デビュー前

[編集] 稲葉牧場時代

オグリキャップは1985年3月27日の深夜に誕生した。誕生時には右前脚が大きく外向[7]しており、出生直後はなかなか自力で立ち上がることができず、牧場関係者が抱きかかえて初乳(生まれて初めての授乳)を手伝った[8]。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、障害を抱えた仔馬に対する願いもあって血統名(幼名)は「ハツラツ」と名付けられた[9][10]。なお、ハツラツの右前脚の外向は牧場長の稲葉不奈男が削蹄(を削ること)を行い矯正に努めた結果、成長するにつれて改善されていった[11]

ホワイトナルビーは乳の出があまり良くなく、また仔馬に授乳することを嫌がることもあったため、出生後しばらくのハツラツは痩せこけて見栄えのしない馬体だった。しかしハツラツは雑草もかまわず食べるなど食欲が旺盛で、2歳の秋頃には他馬に見劣りしない馬体に成長した[12]。気性面では前に他の馬がいると追い越そうとするなど負けん気が強かった[13]

[編集] 美山育成牧場時代

1986年の10月、ハツラツは岐阜県山県郡美山町(現:山県市)にあった美山育成牧場[14]に移り、3ヶ月間馴致が施された。当時の美山育成牧場では1人の従業員(吉田謙治)が30頭あまりの馬の管理をしていたため、すべての馬に手が行き届く状況ではなかったが、ハツラツは放牧地で一頭だけ離れて過ごすことが多かったために吉田の目を引き、調教を施されることが多かった[15]

当時のハツラツの印象について吉田は、賢くておとなしく、また人なつっこい馬だったが、調教時には人間を振り落とそうとして跳ねるなど勝負を挑んでくることもあり、調教というよりも一緒に遊ぶ感覚だったと語っている[16]。また、ハツラツは育成牧場にいた馬の中では3,4番手の地位にあり、他の馬と喧嘩をすることはなかったという[17]。食欲については稲葉牧場にいた頃と同じく旺盛で、その点に惹かれた馬主が鷲見に購入の申し込みをするほどであった[18]

[編集] 競走馬時代

[編集] 笠松競馬在籍時

[編集] 競走内容

1987年1月に笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入厩し、ダート800mで行われた能力試験を51.1秒で走り合格した[19]

5月19日のデビュー戦ではマーチトウショウの2着に敗れた。その後2連勝したが、4戦目で再びマーチトウショウの2着に敗れた。5戦目でマーチトウショウを降して優勝して以降は重賞5勝を含む8連勝を達成した。

なお、オグリキャップは笠松競馬時代、マーチトウショウにデビュー戦と4戦目の2度にわたり敗れている。敗れたのはいずれもダート800mのレースで、短距離戦では大きな不利に繋がるとされる出遅れ(スタート時にゲートを出るタイミングが遅れること)をした[20]。一方オグリキャップに勝ったレースでマーチトウショウに騎乗していた原隆男によると、同馬はオグリキャップがエンジンのかかりが遅い馬であったのに対し、「一瞬の脚が武器のような馬で、短い距離が合っていた」[21]。また、オグリキャップの厩務員は4戦目と5戦目の間の時期に三浦裕一から川瀬友光に交替している[22]が、川瀬が引き継いだ当初、オグリキャップの蹄は蹄叉腐乱(蹄の手入れを怠ったために蹄の内側が腐る疾病)を起こしていた。川瀬は、引き継ぐ前のオグリキャップは蹄叉腐乱が原因で競走能力が十分に発揮できる状態ではなかったと推測している[23]

[編集] 佐橋五十雄への売却と中央競馬への移籍

1988年1月、馬主の小栗はオグリキャップを2000万円で佐橋五十雄に売却し[24]、佐橋は中央競馬への移籍を決定した。

オグリキャップが活躍を続ける中で同馬を購入したいという申し込みは多数あり、とくに中京競馬場のコースで行われた8戦目の中京盃を優勝[25]して以降は申込みが殺到した[26]。また、小栗に対してオグリキャップの中央移籍を勧める声も出た[27]。しかしオグリキャップに関する小栗の意向はあくまでも笠松競馬での活躍にあり、また所有する競走馬は決して手放さないという信念を持っていたため、すべて断っていた。これに対しもっとも熱心に小栗と交渉を行ったのが佐橋で、中央競馬の馬主登録をしていなかった小栗に対して「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか」「馬のためを思うなら中央競馬へ入れて走らせるべきです」と再三にわたって説得し、最終的に「馬の名誉のためには早めに中央入りさせた方がいい」と考えた小栗が「中央の芝が向いていなければ鷲見厩舎に戻す」という条件付きで同意した[28]。また、佐橋はオグリキャップが中央競馬のレースで優勝した際にはウイナーズサークルでの記念撮影に招待し、種牡馬となった場合には優先的に種付けする権利を与えることを約束した[29][30]

なお、鷲見は小栗がオグリキャップを売却したことにより自身の悲願であった東海ダービー制覇の可能性が断たれたことに怒り、笠松競馬場での最後のレースとなったゴールドジュニアのレース後、小栗が関係者による記念撮影を提案した際にこれを拒否した[31]

[編集] 中央競馬移籍後

[編集] 4歳時(1988年)

中央競馬移籍後のオグリキャップは栗東トレーニングセンターの調教師瀬戸口勉の厩舎で管理されることが決まり、1月28日に鷲見厩舎から瀬戸口厩舎へ移送された。

[編集] 競走内容

オグリキャップの中央移籍後の初戦にはペガサスステークスが選ばれた。レースでは序盤は後方に控え、第3コーナーから馬群の外を通って前方へ進出を開始し、第4コーナーを過ぎてからスパートをかけて他馬を追い抜き、優勝した。出走前の時点では陣営の期待は必ずしも高いものではなく[32]、優勝は予想を上回る結果だった[33]

移籍2戦目には毎日杯が選ばれた。このレースでは馬場状態追い込み馬に不利とされる重馬場と発表され、オグリキャップが馬場状態に対応できるかどうかに注目が集まった[34]。オグリキャップは第3コーナーで最後方の位置から馬群の外を通って前方へ進出を開始し、ゴール直前で先頭に立って優勝した。

オグリキャップはクラシック登録(競走馬が中央競馬のクラシック競走に出走するためにしなければならない登録)をしていなかったため、前哨戦である毎日杯を優勝したにもかかわらず皐月賞に出走できず、代わりに京都4歳特別に出走した。レースでは第3コーナーで後方からまくりをかけ、優勝した[35]

クラシック登録をしていないオグリキャップは東京優駿(日本ダービー)にも出走することができず、代わりに出走するレースが検討された。競馬マスコミの一部にはGIの宝塚記念古馬と戦うべきだという意見もあった[36]が、陣営はニュージーランドトロフィー4歳ステークスへの出走を選択した。この時オグリキャップには疲労が蓄積し、治療のために注射が打たれるなど体調面に不安を抱えていた[37]が、レースでは序盤は最後方に位置したが向こう正面で前方へ進出を開始すると第4コーナーを通過した直後に先頭に立ち、そのまま優勝した。このレースでのオグリキャップの走破タイムはニュージーランドトロフィー4歳ステークスのレースレコ-ドであったにもかかわらず、騎乗していた河内洋はレース中に一度も本格的なゴーサインを出すことがなかった[38]。(レースに関する詳細については第6回ニュージーランドトロフィー4歳ステークスを参照)

続く高松宮杯では、中央競馬移籍後初[39]の古馬との対戦、とくに重賞優勝馬でありこの年の宝塚記念で4着となったランドヒリュウとの対戦にファンの注目が集まった。レースではランドヒリュウが先頭に立って逃げたのに対してオグリキャップは序盤は4番手に位置して第3コーナーから前方への進出を開始し、第4コーナーで2番手に立つと直線でランドヒリュウを交わし、中京競馬場芝2000mのコースレコードを記録して優勝した。この勝利により、地方競馬からの移籍馬による重賞連勝記録である5連勝[40]を達成した。

高松宮杯のレース後、陣営は秋シーズンのオグリキャップのローテーションを検討し、毎日王冠を経て天皇賞(秋)でGIに初出走することを決定した。毎日王冠までは避暑[41]を行わず、栗東トレーニングセンターで調整を行い[42]、8月下旬から本格的な調教を開始。9月末に東京競馬場に移送された[43]

毎日王冠では終始後方からレースを進め、第3コーナーからまくりをかけて優勝した。この勝利により、当時の中央競馬の重賞連勝記録である6連勝を達成した[44]。当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉はオグリキャップのレース内容について「毎日王冠で古馬の一線級を相手に、スローペースを後方から大外廻って、一気に差し切るなどという芸当は、今まで見たことがない」、「どうやらオグリキャップは本当のホンモノの怪物らしい」と評した[45]。毎日王冠の後、オグリキャップはそのまま東京競馬場に留まって調整を続けた[46]。(レースに関する詳細については第39回毎日王冠を参照)

続く天皇賞(秋)では、前年秋から8連勝(重賞5連勝、GIを2連勝)中[47]であった古馬のタマモクロスを凌いで1番人気に支持された。レースでは馬群のやや後方につけて追い込みを図り、出走馬中最も速い上がりを記録したものの、2番手を先行し直線で先頭になったタマモクロスを交わすことができず、2着に敗れた。(レースに関する詳細については第98回天皇賞を参照)

天皇賞(秋)の後、陣営は次に出走するレースについて協議した。馬主の佐橋がタマモクロスにリベンジを果たしたいという思いを強く抱いていたことから、タマモクロスが出走を決めていたジャパンカップへの出走が決定し[48]、オグリキャップは引き続き東京競馬場で調整されることとなった[49]。レースでは天皇賞(秋)の騎乗について佐橋が「もう少し積極的に行ってほしかった」と不満を表したことを受けて河内は瀬戸口と相談の上で先行策をとり[50]、序盤は3、4番手に位置した。しかし向こう正面で折り合いを欠いて後方へ下がり、第3コーナーで馬群の中に閉じ込められる形となった。第4コーナーから進路を確保しつつ前方への進出を開始したがペイザバトラーとタマモクロスを交わすことができず、3着に敗れた。

ジャパンカップの後、陣営は有馬記念への出走を決定し、レースまでの間は美浦トレーニングセンターで調整を行うこととなった[51]。レースでは終始5、6番手の位置を進み、第4コーナーで前方への進出を開始すると直線で先頭に立ち、優勝。GI競走初制覇を達成し、同年のJRA賞最優秀4歳牡馬に選出された。(レースに関する詳細については第33回有馬記念を参照)

[編集] クラシック登録

前述のように、オグリキャップはクラシック登録をしていなかったため、中央競馬クラシック三冠競走には出走できなかった。このことは競馬ファンの間で大きな物議を醸し、とくにオグリキャップが優勝した毎日杯で4着だったヤエノムテキが皐月賞を優勝した後は、大橋巨泉が「追加登録料を支払えば出られるようにして欲しい」と提言するなど、中央競馬を主催する日本中央競馬会に対してオグリキャップのクラシック出走を可能にする措置を求める声が起こった[52]が、実現しなかった。このことからクラシックに出走できなかったオグリキャップが「幻のダービー馬」と呼ばれた[53]一方、毎日杯の結果を根拠にヤエノムテキをはじめとする同世代のクラシック優勝馬の実力が低く評価されることもあった[54]。ちなみに調教師の瀬戸口は後に、「ダービーに出ていていれば勝っていたと思いませんか」という問いに対し、「そうやろね」と答え[55]、また「もしクラシックに出られたら、中央競馬クラシック三冠を獲っていただろう」とも述べている[56]

なお、中央競馬では1992年以降、追加登録制度(通常のクラシック登録がされていなくても、後で追加登録料を払えばクラシック競走に出走できる制度)が導入された[57]

[編集] 5歳時(1989年)

[編集] 競走内容

陣営は1989年前半のローテーションとして、大阪杯、天皇賞(春)、安田記念、宝塚記念に出走するプランを発表したが、2月に右前脚の球節[58]を捻挫して大阪杯の出走回避を余儀なくされた。さらに4月には右前脚に繋靭帯炎を発症。前半シーズンは全て休養に当てることとし、同月末から競走馬総合研究所常磐支所にある温泉療養施設(馬の温泉)において治療を行った。療養施設へは厩務員の池江が同行し温泉での療養のほかプールでの運動、超音波治療機による治療[59]が行われた[60]。オグリキャップは7月中旬に栗東トレーニングセンターへ戻り、主にプール施設を使った調教が行われた[61]

オグリキャップは当初毎日王冠でレースに復帰する予定であったが、調教が順調に進んだことを受けて予定を変更し[62]、9月のオールカマーで復帰した。同レースでは5番手を進み第4コーナーから前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。

その後オグリキャップは毎日王冠を経て天皇賞(秋)に出走することとなり、東京競馬場へ移送された[63]。移送後脚部に不安が発生したが厩務員の池江が患部を冷却した結果状態は改善し、毎日王冠当日は池江が手を焼くほどの気合を出した[64]。レースでは序盤は後方を進み、第4コーナーで馬群の外を通って前方へ進出を開始した。残り100mの地点でイナリワンとの競り合いとなり、ほぼ同時にゴールした。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、史上初の毎日王冠連覇を達成した。このレースは「オグリキャップのベストバトル」、また「1989年のベストマッチ」ともいわれる[65]。(レースに関する詳細については第40回毎日王冠を参照)

天皇賞(秋)では6番手からレースを進めたが、直線で前方へ進出するための進路を確保することができなかったために加速するのが遅れ、先に抜け出したスーパークリークを交わすことができず2着に敗れた。(レースに関する詳細については第100回天皇賞を参照)

天皇賞(秋)に出走後、陣営はオグリキャップをマイルチャンピオンシップに出走させ、さらに翌週のジャパンカップに連闘で出走させる予定であることを発表した。マイルチャンピオンシップでは第3コーナーで5番手から馬群の外を通って前方への進出を試みたが進出のペースが遅く[66]、さらに第4コーナーでは進路を確保できない状況に陥ったが、直線で進路を確保してから猛烈な勢いで加速し、先に抜け出したバンブーメモリーとほぼ同時にゴールした。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、優勝が決定した。(レースに関する詳細については第6回マイルチャンピオンシップを参照)

翌週のジャパンカップでは、非常に早いペース[67]でレースが推移する中で終始4番手を追走し、当時の芝2400mの世界レコード[68]である2分22秒2で走破したものの、ホーリックスの2着に敗れた[69]。(レースに関する詳細については第9回ジャパンカップを参照)

陣営はジャパンカップの後、有馬記念に出走することを決定したが、レース前に美浦トレーニングセンターで行われた調教でを上げる仕草を見せたことから、連闘の影響による体調面の不安が指摘された[70][71]。レースでは終始2番手を進み、第4コーナーで先頭に立ったがそこから伸びを欠き、5着に敗れた。レース後、関係者の多くは疲れがあったことを認めた[72]。(レースに関する詳細については第34回有馬記念を参照)

[編集] 近藤俊典への売却

1988年9月、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋五十雄が名古屋地方裁判所において法人税法違反の罪で有罪判決(懲役2年6月、執行猶予4年)を受けた。佐橋は量刑を不服として控訴したものの、脱税の事実そのものについては認めていたため、日本中央競馬会の定める規定[73]によって将来馬主登録を抹消される可能性が出た[74]。一審で有罪判決が出されて以降、多くの馬主から購入の申し込みがあり、最終的に[75]佐橋は1989年2月までに近藤俊典へオグリキャップを売却した[76][77]。ただし、オグリキャップが競走馬を引退した後は所有権を佐橋に戻すという条件付きであった[78][79]。この契約については、実態は名義貸しであり、実質的な権限は佐橋に残されているのではないかという指摘がなされた[80][81]。また、売却価格の高さも指摘された[82][83]

[編集] 1989年のローテーション

3ヵ月半の間に6つのレースに出走した1989年のオグリキャップのローテーション、とくに前述の連闘については、多くの競馬ファンおよびマスコミ、競馬関係者は否定的ないし批判的であった。栗東トレーニングセンターの競走馬診療所に勤務していた獣医師の松本実は、「京都で走って、東京へ輸送して、そしてすぐにレースに臨むというのは、馬にとっては相当にこたえること」であり、「常識的に考えればちょっと過酷」と述べた[84]。また競馬評論家の大川慶次郎は、「ああ、オグリはもう今年で終わりだな」と思ったと述べている[85]。さらにライターの藤井幸介は「無茶苦茶だ」、「人の欲にまみれた使い方だ」と陣営を非難した[86]。なお、多くのレースに出走するローテーションが組まれた背景として、「オグリ獲得のために動いた高額なトレードマネーを回収するためには、とにかくレースで稼いでもらうよりほかはな」く、「馬を酷使してでも賞金を稼がせようとしているのでは」という推測がなされた[87]

調教師の瀬戸口は連闘に加えオールカマーに出走させたことについても、「無理は少しあったと思います」と述べた[88]。また連闘が決定した経緯について調教助手の辻本光雄は、「オグリキャップは途中から入ってきた馬やし、どうしてもオーナーの考えは優先するんちゃうかな」と、馬主の近藤の意向を受けてのものであったことを示唆している[89]。一方、近藤は連闘について、「馬には、調子のいいとき、というのが必ずあるんです。実際に馬を見て判断して、調教師とも相談して決めたことです。無理使いとか、酷使とかいわれるのは非常に心外」としている[90]。また稲葉牧場の稲葉裕治は、「あくまで馬の体調を見て、判断すればいいことじゃないでしょうか」と近藤に同調した[91]

[編集] 6歳時(1990年)

[編集] 競走内容

有馬記念出走後、オグリキャップは休養のために競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設へ移送された[92]。オグリキャップのローテーションについては前半シーズンは天皇賞(春)もしくは安田記念に出走し、9月にアメリカで行われるGI競走アーリントンミリオンステークスに出走すると発表された。その背後には、アメリカのレースに出走経験がある馬のみが掲載されるアメリカの獲得賞金ランキングに、オグリキャップを登場させようとする馬主サイドの意向があった[93][94]

オグリキャップは2月中旬に栗東トレーニングへ戻されて調整が続けられた。当初初戦には大阪杯が予定されていたが、故障は見当たらないものの調子は思わしくなく、安田記念に変更された[95]。レースでは2、3番手を追走して残り400mの地点で先頭に立ち、コースレコードの1分32秒4を記録して優勝した。なお出走後、オグリキャップの通算獲得賞金額が当時の日本歴代1位となった。(レースに関する詳細については第40回安田記念を参照)

続く宝塚記念では終始3、4番手に位置したが直線で伸びを欠き、オサイチジョージを交わすことができず2着に敗れた(レースに関する詳細については第31回宝塚記念を参照)。レース直後に両前脚に骨膜炎を発症し、さらにその後右の後ろ脚に故障(飛節軟腫[96])を発症、アーリントンミリオンステークスへの出走を取りやめて7月中旬から競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設で療養に入った[97]

陣営はかねてからの目標であった天皇賞(秋)出走を目指し、8月末にオグリキャップを栗東トレーニングセンターへ移送したが、10月上旬にかけて次々と脚部に故障を発症して調整は遅れ、「天皇賞回避濃厚」という報道もなされた[98]。最終的に出走が決定したが、レースでは序盤から折り合いを欠き、直線で伸びを欠いて6着に敗れた。続くジャパンカップに向けた調教では一緒に走行した条件馬を相手に遅れをとり、体調が不安視された。レースでは最後方から追走し、第3コーナーから前方への進出を開始したが直線で伸びを欠き、11着に敗れた。

ジャパンカップの結果を受けてオグリキャップはこのまま引退すべきとの声が多く上がり[99]、馬主の近藤に宛てた脅迫状[100]が日本中央競馬会に届く事態にまで発展した[101]が、陣営は引退レースとして有馬記念への出走を決定した。レースでは序盤は6番手につけて第3コーナーから馬群の外を通って前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。限界説が有力に唱えられていたオグリキャップの優勝は「奇跡の復活」「感動のラストラン」と呼ばれ、レース後、スタンド前でウイニングランを行った際には中山競馬場にいた観衆から「オグリコール」が起こった[102]。(レースに関する詳細については第35回有馬記念を参照)

[編集] 1990年後半の不振と復活

1990年後半において、天皇賞(秋)とジャパンカップで大敗を喫し、その後第35回有馬記念を優勝した要因については様々な分析がなされている。

[編集] 体調

肉体面に関しては調子が悪かったという意見が多い。調教師の瀬戸口は、この年の秋のオグリキャップは骨膜炎に苦しんでいたとしている[103]。また、厩舎関係者以外からも体調の悪さを指摘する声が挙がっていた[104][105]。なお、天皇賞(秋)出走時の体調について瀬戸口は急仕上げ(急いで臨戦態勢を整えること)による影響もあったことを示唆している[106]

精神面に関しては、瀬戸口[107]と池江はともに気迫・気合いの不足を指摘していた[108]。さらに池江は、天皇賞(秋)の臨戦過程においてテレビ番組の撮影スタッフが密着取材を行ったことによりオグリキャップにストレスが生じたと証言している[109][110][111]

体調に関しては、優勝した第35回有馬記念においてすらよくなかったという証言が複数ある。オグリキャップと調教を行ったオースミシャダイの厩務員出口光雄[112]や同じレースに出走したヤエノムテキの担当厩務員(持ち乗り調教助手)の荻野功[113]がレース前の時点で体調の悪化を指摘していたほか、騎乗した武豊もレース後に「ピークは過ぎていたでしょうね。春と違うのは確かでした」と回顧している[114]。ただし、中央競馬時代のオグリキャップの診察を担当していた獣医師の吉村秀之は、大敗を続けた時期にはなくなっていたスポーツ心臓を第35回有馬記念の前に取り戻したことから体調の上昇を察知し、家族に対し「今度は勝つ」と予言していた[115][116]

[編集] 騎手との相性

ライターの渡瀬夏彦は天皇賞(秋)とジャパンカップで騎乗した増沢末夫について、スタート直後から馬に気合を入れる増沢の騎乗スタイルと、岡部幸雄が「真面目すぎるくらいの馬だから、前半いかに馬をリラックスさせられるかが勝負のポイントになる」と評したオグリキャップとの相性があまりよいものではなかったと分析している[117]。笠松時代のオグリキャップに騎乗した青木達彦と安藤勝己も同様の見解を示した[118]。一方、武豊とオグリキャップとの相性について馬主の近藤は、オグリキャップには「いいときと比べたら、80パーセントの力しかなかったんじゃないかな」としつつ「しかし、その80パーセントをすべて引き出したのが豊くん」とし、「オグリには豊くんが合ってた」と評した[119]

[編集] 第35回有馬記念のレース内容

大川慶次郎は、有馬記念はレースの流れが非常に遅く推移し、優勝タイムが同じ日に同じ条件(芝2500m)で行われた条件戦よりも遅い「お粗末な内容」であったとし、多くの出走馬が折り合いを欠く中、オグリキャップはキャリアが豊富であったためにどんな展開でもこなせたことをオグリキャップの勝因に挙げている[120]。またライターの関口隆哉も、「レース展開、出走馬たちのレベル、当日の状態など、すべてのファクターがオグリキャップ有利に働いた」としている[121]。岡部幸雄は「極端なスローペースが良かった」としつつ、「スローに耐えて折り合うのは大変」「ある意味で有馬記念は過酷なペースだった」とし、「ピタッと折り合える忍耐強さを最も備えていたのがオグリキャップだった」と評した[122]。なお、野平祐二はレース前の段階で有馬記念がゆったりした流れになれば本質的にマイラーであるオグリキャップの雪辱は可能と予測していた[123]

[編集] 引退式

1991年1月、オグリキャップの引退式が京都競馬場(13日)、笠松競馬場[124](15日)、東京競馬場(27日)の3箇所で行われた。競走馬の引退式を3競馬場で行うのは史上初のことであった。

引退式当日は多くの観客が競馬場に入場し、笠松競馬場での引退式には競馬場内だけで笠松町(笠松競馬場の所在地)の当時の人口(2万3000人)を上回る2万5000人、入場制限により場外から見物した人数を合わせると約4万人が詰めかけたとされる[125]。笠松競馬場での引退式では安藤勝己がオグリキャップに騎乗して競馬場のコースを走行し、岐阜県がオグリキャップを、笠松町が小栗と鷲見を表彰した[126]

[編集] 競走成績

通算:32戦22勝(地方12戦10勝/中央20戦12勝)

年月日 競馬場 競走名 人気 倍率 着順 距離 タイム 3F 騎手 勝ち馬/(2着馬)
1987 5. 19 笠松 3歳新馬 2人 2着 ダ800m(良) 50.1 青木達彦 マーチトウショウ
6. 2 笠松 3歳イ 1人 1.1 1着 ダ800m(良) 51.1 高橋一成 (ノースヒーロー)
6. 15 笠松 3歳イ 1人 1着 ダ800m(重) 49.8 青木達彦 (フェートチャールス)
7. 26 笠松 3歳イ 1人 2着 ダ800m(良) 50.3 高橋一成 マーチトウショウ
8. 12 笠松 3歳イ 1人 2.4 1着 ダ800m(良) 49.7 高橋一成 (マーチトウショウ)
8. 30 笠松 秋風ジュニア 1人 1着 ダ1400m(良) 1:30.3 安藤勝己 (マーチトウショウ)
10. 4 笠松 ジュニアクラウン 重賞 1人 1着 ダ1400m(良) 1:29.4 安藤勝己 (マーチトウショウ)
10. 14 中京 中京盃 重賞 1人 1.5 1着 芝1200m(良) 1:10.8 安藤勝己 (アーデントラブ)
11. 4 名古屋 中日スポーツ杯 重賞 1人 1.2 1着 ダ1400m(良) 1:29.8 安藤勝己 (ハロープリンセス)
12. 7 笠松 師走特別 1人 1.7 1着 ダ1600m(良) 1:44.4 (39.9) 安藤勝己 (ヤングオージャ)
12. 29 笠松 ジュニアグランプリ 重賞 1人 1着 ダ1600m(良) 1:45.0 安藤勝己 (トウカイシャーク)
1988 1. 10 笠松 ゴールドジュニア 重賞 1人 1.1 1着 ダ1600m(良) 1:41.8 (37.0) 安藤勝己 (マーチトウショウ)
3. 6 阪神 ペガサスS GIII 2人 3.8 1着 芝1600m(良) 1:35.6 (35.9) 河内洋 ラガーブラック
3. 27 阪神 毎日杯 GIII 1人 2.2 1着 芝2000m(重) 2:04.8 (38.3) 河内洋 (ファンドリデクター)
5. 8 京都 京都4歳特別 GIII 1人 1.3 1着 芝2000m(稍) 2:03.6 (37.1) 南井克巳 (コウエイスパート)
6. 5 東京 NZT4歳S GII 1人 1.2 1着 芝1600m(良) R1:34.0 (35.5) 河内洋 リンドホシ
7. 10 中京 高松宮杯 GII 1人 1.2 1着 芝2000m(良) R1:59.0 (34.5) 河内洋 ランドヒリュウ
10. 9 東京 毎日王冠 GII 1人 1.7 1着 芝1800m(稍) 1:49.2 (35.5) 河内洋 シリウスシンボリ
10. 30 東京 天皇賞(秋) GI 1人 2.1 2着 芝2000m(良) 1:59.0 (34.8) 河内洋 タマモクロス
11. 27 東京 ジャパンC GI 3人 6.9 3着 芝2400m(良) 2:25.8 (35.7) 河内洋 ペイザバトラー
12. 25 中山 有馬記念 GI 2人 3.7 1着 芝2500m(良) 2:33.9 (35.6) 岡部幸雄 (タマモクロス)
1989 9. 17 中山 オールカマー GIII 1人 1.4 1着 芝2200m(良) R2:12.4 (34.7) 南井克巳 (オールダッシュ)
10. 8 東京 毎日王冠 GII 1人 1.4 1着 芝1800m(稍) 1:46.7 (34.8) 南井克巳 イナリワン
10. 29 東京 天皇賞(秋) GI 1人 1.9 2着 芝2000m(良) 1:59.1 (34.4) 南井克巳 スーパークリーク
11. 19 京都 マイルCS GI 1人 1.3 1着 芝1600m(良) 1:34.6 (35.7) 南井克巳 バンブーメモリー
11. 26 東京 ジャパンC GI 2人 5.3 2着 芝2400m(良) 2:22.2 (35.9) 南井克巳 ホーリックス
12. 24 中山 有馬記念 GI 1人 1.8 5着 芝2500m(良) 2:32.5 (37.4) 南井克巳 イナリワン
1990 5. 13 東京 安田記念 GI 1人 1.4 1着 芝1600m(良) R1:32.4 (35.0) 武豊 ヤエノムテキ
6. 10 阪神 宝塚記念 GI 1人 1.2 2着 芝2200m(良) 2:14.6 (37.5) 岡潤一郎 オサイチジョージ
10. 28 東京 天皇賞(秋) GI 1人 2.0 6着 芝2000m(良) 1:58.9 (36.6) 増沢末夫 ヤエノムテキ
11. 25 東京 ジャパンC GI 4人 7.3 11着 芝2400m(良) 2:24.1 (35.4) 増沢末夫 ベタールースンアップ
12. 23 中山 有馬記念 GI 4人 5.5 1着 芝2500m(良) 2:34.2 (35.2) 武豊 メジロライアン

※1 タイム欄のRはレコード勝ちを示す。

[編集] 引退後

[編集] 種牡馬となる

引退後は北海道の優駿スタリオンステーションで種牡馬となった。種牡馬となったのちのオグリキャップは2代目の馬主であった佐橋が所有し、種付権利株を持つ者にリースする形態がとられた。これは実質的にはシンジケートに等しく[127]、その規模は総額18億円[128]であった[129]

[編集] 喉嚢炎を発症

1991年7月28日、オグリキャップが馬房の隅でぐったりとしているのが発見され、発熱鼻水などの症状がみられるようになった。はじめは風邪と診断されたが回復がみられなかったため精密検査を受け、その結果喉嚢炎(の後頭部にある袋状の器官の炎症)による咽頭麻痺と診断された。8月下旬から3人の獣医師によって治療が施されたが、9月11日には炎症の進行が原因で喉嚢に接する動脈が破れて大量の出血を起こし、死が危ぶまれる重篤な状態に至った。合計18リットル輸血を行うなどの治療が施された結果、10月上旬には放牧が可能な程度に病状が改善した[130]

[編集] 一般公開

競走馬を引退した後、オグリキャップは2002年に優駿スタリオンが移転するまでの間、同スタリオンで一般公開され、観光名物となっていた[131]。また、同スタリオン以外の場所でも二度にわたって一般公開された。一度目は1998年9月によみうりランドで行われた「JRAフェスティバル」で、二度目は2005年4月29日30日に笠松競馬場で行われた一般公開である[132]

[編集] オグリキャップにちなんだレースの開催

1992年、笠松競馬場でオグリキャップを記念した「オグリキャップ記念」が創設された。現在は東海・北陸・近畿地区ブロック限定競走として行われている。また、2004年11月21日にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「オグリキャップメモリアル」が施行された[133]

[編集] 種牡馬を引退

産駒は1994年にデビューしたが中央競馬の重賞優勝馬を輩出することはできず、リーディングサイアーでは105位(中央競馬と地方競馬の総合)が最高成績であった。2007年をもって種牡馬を引退し、引き続き功労馬として優駿スタリオンステーションに繋養されている。

2007年5月1日にはグレイスクインがオグリキャップのラストクロップとなる産駒を出産した。

[編集] 主な産駒

  • フルミネート - サラブレッド系3歳優駿
  • アラマサキャップ - クイーンステークス2着
  • オグリワン - ききょうステークス、小倉3歳ステークス2着
  • ランスルーザターフ - 中央競馬4勝
  • ノーザンキャップ - 中央競馬3勝、2007年現在唯一の後継種牡馬
  • Scotty The Samurai - IK血統研究所所長久米裕の進言により交配された、オグリキャップとワカシラユキ(父アラジ。テンポイントの全妹イチワカの子の子)のアイルランドで産まれた産駒(牡馬)が、2006年11月に英国タタソールズ・イヤリング・セールで12,500ギニー(約300万円)で外国人馬主に落札された。現在は、コリアーヒル(2006年香港ヴァーズ)を管理したアラン・スウィンバンク調教師(英)が管理。

[編集] 特徴

[編集] 競走馬としての特徴

[編集] 精神・知能面の特徴

ダンシングキャップ産駒の多くは気性が荒かった[134]が、オグリキャップは4歳時に調教のために騎乗した河内洋[135]岡部幸雄[136]がともに古馬のように落ち着いていると評するなど、落ち着いた性格の持ち主であった。オグリキャップの落ち着きは競馬場でも発揮され、たとえばパドックで観客の歓声を浴びても動じることがなかった[137][138]。 また、ゲートでは落ち着き過ぎてスタートが遅れることがあるほどであ