ライスシャワー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ライスシャワー
1993年天皇賞(春)優勝時
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1989年3月5日
死没 1995年6月4日(6歳没・旧7歳)
リアルシャダイ
ライラックポイント
母の父 マルゼンスキー
生国 日本北海道登別市
生産 ユートピア牧場
馬主 栗林英雄
調教師 飯塚好次(美浦
厩務員 川島文夫
競走成績
生涯成績 25戦6勝
獲得賞金 7億2949万7200円
  

ライスシャワーは、日本競走馬。1992年の菊花賞、1993年・1995年の天皇賞(春)等、長距離GI競走に優勝した。また、菊花賞と最初に優勝した天皇賞では、それぞれミホノブルボンクラシック三冠メジロマックイーンの同競走3連覇を阻止し、「刺客」等の異名を取った。主戦騎手的場均。 1995年に出走した宝塚記念の競走中に骨折、安楽死となった。同年、JRA賞特別賞を受賞。

  • 記事中の馬齢は全て2000年以前に使用された旧表記(数え年)とする。

目次

[編集] 経歴

1989年3月、栗林運輸会長の栗林英雄が北海道登別市に所有するユートピア牧場に生まれる。その出生間もなくから、小柄ながら身体能力に優れた馬との評価を受け、購買の申し入れが複数あった[1]。しかし栗林は生産馬を自ら所有するオーナーブリーダーであったためこれらの要望を断り、1990年10月末には育成を行うため、千葉県に所有する大東牧場に移動させた。こちらでも身体のバネと柔らかさは高く評価された[2]。また、性質的に馴致に全く手が掛からない馬であり、育成の進捗は常に他馬よりも先んじていた[3]。 1991年初冬に育成を終え、栗林より「ライスシャワー」と名付けられ、3月23日に美浦トレーニングセンター飯塚好次の元へ入厩した。馬名は、結婚式のライスシャワーのように本馬に触れる全ての人々に幸福が訪れるようにとの意味が込められていた[4]。異説として、秋篠宮文仁親王紀子妃の結婚の時期であったため、祝賀の気持ちを込めて「ライスシャワー」としたとも言われている。[5]

[編集] 戦績

[編集] デビューから東京優駿まで

その後調教が積まれ、3歳戦が始まる7月の札幌開催にはデビューを迎えられる状態となった。しかし7月の初旬に熱発を起こして札幌での初戦は見送られ[6]、デビューは1ヶ月後、8月10日の新潟開催で迎えた。当日は飯塚厩舎の所属騎手であった水野貴広を鞍上に、2番人気に支持される。ここは先行策から最後の直線でダイイチリュモンをクビ差競り落とし、初戦勝利を挙げた。続いて重賞初出走となった新潟3歳ステークスでは、3番人気に推されながらスタートで出遅れて後方からのレースとなり、そのまま11着と惨敗を喫する。しかし3戦目に格上挑戦で出走した芙蓉ステークスでは、新馬戦と同様に先行策から2着馬との競り合いを制し、2勝目を挙げた。しかし競走後右前脚の骨折が判明、全治3ヶ月と診断され、トレーニングセンター内での療養が図られた。

明けて1992年、4歳となったライスシャワーはスプリングステークスで復帰し、4着となる。この次走・GI競走初出走となった皐月賞から的場均が初騎乗したが8着に敗れ、NHK杯でもやはり8着と精彩を欠いた。迎えた東京優駿(日本ダービー)では、18頭立て16番人気の低評価だった。しかし、レースでは逃げるミホノブルボンの2番手を追走、直線では同馬から4馬身突き放されたものの、一度交わされたマヤノペトリュースをゴール寸前で差し返し、2着で入線。ミホノブルボンとの馬連配当2万9580円という波乱の立役者となった。

[編集] ミホノブルボンのクラシック三冠を阻止

夏は休養のため大東牧場で過ごし、7月下旬に帰厩。9月24日にセントライト記念で復帰した。この日は的場が函館競馬場で騎乗していたため、鞍上には田中勝春を迎えた。結果は逃げたレガシーワールドを捉えきれず2着、騎手が的場に戻った続く京都新聞杯でもミホノブルボンに1馬身半差を付けられて3戦連続の2着となったが、3着ヤマニンミラクルには3馬身半差を付け、名実共に菊花賞への有力馬の1頭となった。この競走以降、騎手は全て的場が務めている。

迎えたクラシック最終戦の菊花賞では、無敗の三冠達成が懸かったミホノブルボンが単勝オッズ1.5倍の圧倒的な1番人気に支持され、ライスシャワーは7.3倍と離れた2番人気であった。レースでは、逃げ馬であったミホノブルボンに先んじてキョウエイボーガンが先頭を奪い、ライスシャワーは5番手という展開となる。2周目の最終コーナーで失速したキョウエイボーガンをミホノブルボンが交わして先頭に立ったが、直線半ばでライスシャワーが差し切り、1馬身1/4差を付けて優勝。重賞初制覇をクラシックで果たした[7]。優勝タイム3分5秒0は当時の芝3000mにおける日本レコードタイムであった。またこの勝利は、ミホノブルボンのデビュー以来8連勝・三冠を阻止し、その競走馬生活における唯一の黒星を与える結果ともなった[8]

[編集] メジロマックイーンの天皇賞(春)3連覇を阻止

年末のグランプリ有馬記念の8着を経て、古馬となった翌1993年は、緒戦の目黒記念で59kgという斤量を背負い2着となると、続く日経賞で初めて支持された1番人気に応え勝利を挙げた。次走はかねて目標としていた天皇賞(春)となり、当日に向けて非常に厳しい調教が課された。この競走を2連覇中であったメジロマックイーンを意識してのものであったが、「馬を虐め過ぎではないか」との批判が上がり、「メジロマックイーンに勝つ前に馬が潰れる」と揶揄されたほどの過酷な内容であった[9]。しかしこの調教が功を奏し、天皇賞当日は前走から12kg減・東京優駿以来となる430kgと、限界まで絞り込んだ馬体での出走となった[10]

レースはメジロパーマーが逃げ、マックイーンが2番手、ライスシャワーが両馬を見る形の先行集団という形で進み、2周目最終コーナーでは完全にこの3頭が抜け出した。しかし直線半ばでメジロマックイーンをライスシャワーが捉え、2馬身半の差を付けて同馬の天皇賞3連覇を阻止する形で優勝した。走破タイム3分17秒1は菊花賞に続き再びのレコードタイムであった[11]。入線直後、フジテレビ系列放送で実況アナウンスを担当した 杉本清が「関東の刺客、ライスシャワー」という言葉を使用し、以降ライスシャワーは「刺客」、あるいは「レコードブレイカー」等と渾名されることとなった。

[編集] スランプ

天皇賞後は放牧に出されたが、帰厩後はそれまでに見られたレースにおける闘争心を表に出さなくなり、秋緒戦のオールカマー3着以降は良い所のない連敗を続けた。年の明けた1994年緒戦の京都記念でも5着と敗れる。しかし次走の日経賞では直線で鋭い反応を見せ、差し込んできたステージチャンプとハナ差の2着と復活の兆しを見せた。

しかし、天皇賞(春)連覇を目指しての調教中、3歳時に骨折した右前管骨を再び骨折を生じる。3歳時とは異なり競走生命を危ぶまれた重傷であり、この時点で引退が検討され、種牡馬となる道が模索された[12]。しかし長距離競走以外の実績に乏しかった点や、小柄な馬体が敬遠され受け入れ先が見つからず、現役続行が決定する[13]。その後はユートピア牧場に移動して療養、当初予想された以上に早期での快復を見せ、10月末に帰厩を果たした。2ヶ月後に迎えた復帰戦の有馬記念では、この年史上5頭目のクラシック三冠を達成したナリタブライアン、当時最強牝馬と評されていたヒシアマゾンに続く3着となった。しかし1995年の年明け2戦ではいずれも1番人気に推されたが、それぞれ60kg、59kgという斤量も響き、いずれも6着と敗れた。

[編集] 2年ぶりの復活

2年振りの出走となった天皇賞(春)では、出走18頭中唯一のGI優勝馬にも関わらず、4番人気の評価であった。しかしレースが始まると、鞍上の的場均は2周目の向正面から徐々に仕掛け始め、第3コーナーから800mのロングスパートという勝負を仕掛ける。第4コーナーで馬群から抜け出して先頭に立ち、最後は追い込んできたステージチャンプと内外馬体が重なった状態で入線した。この時ステージチャンプに騎乗していた蛯名正義ガッツポーズを見せたため敗れたと思われたが、写真判定の結果わずかに先着(着差クビ)しており、1993年の同競走以来728日振りの勝利で復活を果たした[14]。着差は16cmという僅差であった。

[編集] 宝塚記念

天皇賞(春)での激走の反動は大きく、陣営は疲労回復のために秋まで馬を休ませ、それで調子が戻らなければレースに出さずそのまま引退させることも考えていた[15]。しかし第36回宝塚記念のファン投票で1位に選出され、またこの競走が当年1月に発生した阪神・淡路大震災の震災復興支援競走と位置づけられたことにより、出走が決定する。この背景には「ファン投票1位」に対する義務の他に、阪神競馬場の被災により得意の京都競馬場で競走が施行されること、近走の酷量からは望外の軽量となる56kgで出走できることなどがあった。さらに種牡馬入りが再度検討された際、やはり中距離競走での実績が必須であると結論付けられた事情もあった[16]

当日は3番人気に支持され、レースでは後方を進んだ。しかし第3コーナーで人馬共に前のめりに転倒する。左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折を発症しており手当ての術が無く、予後不良と診断された。トラックが直ちに用意され現場まで直行し、その場に幔幕が張られた中で安楽死処分となった。最期の様子は明らかではないが、遺体を運ぶ馬運車を最敬礼で見送る的場の写真が残されている。

[編集] 死後

ライスシャワー記念碑(京都競馬場)

その死後、この年のJRA賞において「特別賞」が贈られ、翌1996年秋には京都競馬場にライスシャワーの記念碑が建立された。また、故郷・ユートピア牧場には墓(母ライラックポイントの墓も共にある)が、育成場であった大東牧場には栗林英雄・育子夫人の手により建立された記念碑がある。他にも、茨城県美浦トレーニングセンターにはライスシャワーを管理していた飯塚好次の手による記念碑があり、栃木県大田原市のくろばねスプリングスには供養塔が建立されている。特に京都競馬場内の記念碑には現在でも多くの献花・供え物がされている。

[編集] 死の影響

宝塚記念施行前の京都競馬場は、2週間で3つのコースレコードが出るなど非常に馬場が固く締まった状態にあった。また、前日のメインレースの阪急杯でもバンブーユージンが故障し、安楽死処分となった。これ以前からJRA主催競馬場の馬場は固すぎるのではないかという批判があり、ライスシャワーの骨折はこの「高速馬場」に原因があったとして、競走後に非難の声が相次いで上げられた。その一方で故障と馬場との因果関係は不明であり、短絡的な批判であるとの意見もあった[17]

また、天皇賞での復活劇から高まりつつあったライスシャワーの人気は、死を契機として頂点に達し、京都競馬場の記念碑建立等の一因となった。一方、この現象についても違和感を唱える意見が存在した[18][19]

こうした出来事の後、ライスシャワーの担当厩務員であった川島文夫は、「ライスシャワーで燃え尽きた」として1998年を限りに飯塚厩舎を退職し、競馬界から離れている[20]

[編集] 競走成績

年月日 競馬場 競走名 頭数 オッズ 着順 騎手 斤量 距離 タイム(上がり 勝ち馬/(2着馬) 馬体重
1991 8. 10 新潟 3歳新馬 10 3.1(2) 1 水野貴広 ▲50 芝1000m(良) 0:58.6(34.8) クビ (ダイイチリユモン) 440
9. 1 新潟 新潟3歳S(GIII) 14 4.3(3) 11 菅原泰夫 53 芝1200m(良) 1:11.7(37.0) -1.0 ユートジェーン 440
9. 21 中山 芙蓉S(OP) 8 3.7(2) 1 水野貴広 53 芝1600m(重) 1:36.1(36.7) (アララットサン) 444
1992. 3. 29 中山 スプリングS(GII) 14 68.9(12) 4 柴田政人 56 芝1800m(重) 1:51.7(38.5) -1.6 ミホノブルボン 450
4. 19 中山 皐月賞(GI) 17 59.0(11) 8 的場均 57 芝2000m(良) 2:02.8(38.0) -1.4 ミホノブルボン 438
5. 10 東京 NHK杯(GII) 16 25.0(9) 8 的場均 56 芝2000m(重) 2:03.4(36.3) -0.6 ナリタタイセイ 434
5. 31 東京 東京優駿(GI) 18 114.1(16) 2 的場均 57 芝2400m(稍) 2:28.5(37.6) -0.7 ミホノブルボン 430
9. 27 中山 セントライト記念(GII) 13 6.5(3) 2 田中勝春 56 芝2200m(良) 2:13.6(36.9) 0.0 レガシーワールド 442
10. 18 京都 京都新聞杯(GII) 10 7.1(2) 2 的場均 57 芝2200m(良) 2:12.2(35.9) -0.2 ミホノブルボン 438
11. 8 京都 菊花賞(GI) 18 7.3(2) 1 的場均 57 芝3000m(良) 3:05.0(34.6) 1 1/4 (ミホノブルボン) 438
12. 27 中山 有馬記念(GI) 16 4.9(2) 8 的場均 55 芝2500m(良) 2.34.1(35.1) -0.6 メジロパーマー 446
1993. 2. 21 東京 目黒記念(GII) 12 3.5(2) 2 的場均 59 芝2500m(良) 2:32.8(36.6) -0.4 マチカネタンホイザ 448
3. 21 中山 日経賞(GII) 12 1.8(1) 1 的場均 58 芝2500m(良) 2:35.8(34.9) 2 1/2 (イタリアンカラー) 442
4. 25 京都 天皇賞(春)(GI) 15 5.2(2) 1 的場均 58 芝3200m(良) 3:17.1(36.3) 2 1/2 メジロマックイーン 430
9. 19 中山 オールカマー(GIII) 13 1.8(1) 3 的場均 57 芝2200m(良) 2.13.6(35.0) -1.0 ツインターボ 436
10. 31 東京 天皇賞(秋)(GI) 17 3.0(1) 6 的場均 58 芝2000m(良) 1.59.6(36.8) -0.7 ヤマニンゼファー 444
11. 28 東京 ジャパンC(GI) 16 12.8(7) 14 的場均 57 芝2400m(良) 2.25.9(37.4) -1.5 レガシーワールド 444
12. 26 中山 有馬記念(GI) 14 10.9(5) 8 的場均 57 芝2500m(良) 2.32.1(35.9) -1.2 トウカイテイオー 446
1994 2. 13 京都 京都記念(GII) 10 6.6(2) 5 的場均 60 芝2200m(稍) 2.18.3(38.3) -1.5 ビワハヤヒデ 444
3. 20 中山 日経賞(GII) 9 6.6(2) 2 的場均 59 芝2500m(良) 2.32.8(36.8) 0.0 ステージチャンプ 442
12. 25 中山 有馬記念(GI) 13 17.7(4) 3 的場均 56 芝2500m(良) 2.33.1(35.3) -0.9 ナリタブライアン 452
1995 2. 12 京都 京都記念(GII) 8 2.7(1) 6 的場均 60 芝2200m(良) 2.12.5(35.1) -0.7 ワコーチカコ 450
3. 19 中山 日経賞(GII) 9 1.9(1) 6 的場均 59 芝2500m(不) 2.42.3(38.5) -1.3 インターライナー 446
4. 23 京都 天皇賞(春)(GI) 18 5.8(4) 1 的場均 58 芝3200m(重) 3.19.9(36.0) ハナ (ステージチャンプ) 442
6. 4 京都 宝塚記念(GI) 17 6.0(3) 中止 的場均 56 芝2200m(稍) - - ダンツシアトル 438

※タイム赤字はレコード(当時)

[編集] 血統表

ライスシャワー血統  ロベルト系/アウトブリード

*リアルシャダイ
Real Shadai 1979
黒鹿毛 アメリカ
Roberto 1969
鹿毛 アメリカ
Hail to Reason Turn-to
Nothirdchance
Bramalea Nashua
Rarelea
Desert Vixen 1970
黒鹿毛 アメリカ
In Reality Intentionally
My Dear Girl
Desert Trial Moslem Chief
Scotch Verdict

ライラックポイント 1979
鹿毛 日本
マルゼンスキー 1974
鹿毛 日本
Nijinsky Northern Dancer
Flaming Page
*シル
Shill
Buckpasser
Quill
クリカツラ 1962
黒鹿毛 日本
*ティエポロ
Tiepolo
Blue Peter
Trevisana
クリノホシ *プリメロ
オホヒカリ F-No.1-C

リアルシャダイの産駒は、当時長距離競走において抜群の成績を挙げており、ライスシャワーはその代表であった。また母の父マルゼンスキーも長距離に優れた適性を示した産駒が数々おり、共にスピードを備えた長距離馬を出すことで知られた[21][22]。母ライラックポイントはライスシャワーを含め3頭の産駒しか残さなかったが、うちの1頭ライラックスマイルが繁殖牝馬として仔を残している。3代母クリノホシの全兄に1952年のクラシック二冠馬クリノハナがいる。

[編集] 参考文献

  • 杉本清『三冠に向かって視界よし - 杉本清・競馬名実況100選』(日本文芸社、1995年)
  • 柴田哲孝『ライスシャワー物語』(祥伝社ノン・ポシェット、1998年)
  • 井口民樹「ライスシャワー - 淀に咲き、淀に散ったステイヤー」(日本中央競馬会『優駿』2001年7月号所収)
  • 月本裕「ライスシャワー - 小さなヘビーステイヤー」(『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』〈徳間書店、1998年〉所収)
  • 北野海人「ステキな悪役ライスシャワーの殉職」(『競馬名馬&名勝負読本』〈宝島社、1996年〉所収)
  • 須田鷹雄「ライスシャワー伝説はこれでいいのか?」(『競馬名馬&名勝負読本』〈宝島社、1996年〉所収)

[編集] 脚注

  1. ^ 柴田 p.33
  2. ^ 育成担当者は初めてライスシャワーに跨ったときの印象を「雲の上に乗っているような気分だった」と表現している。(柴田 p.51)
  3. ^ 柴田 p.51
  4. ^ 柴田 p.54
  5. ^ 『ライスシャワー 55分55秒5』(ビデオ)学習研究社 ISBN 978-4054005976
  6. ^ 柴田 p.60
  7. ^ 的場均は菊花賞初優勝、管理調教師の飯塚はこれがGI競走の初優勝となった。また、馬主の栗林は1943年の第6回競走をクリフジで制している父・友二に続く、父子二代の菊花賞優勝オーナーとなった。
  8. ^ ミホノブルボンはこの競走後に屈腱炎を発症し、これを最後に競走馬を引退している。
  9. ^ 柴田 p.142
  10. ^ 杉本清は「この時のライスの身体は、まさに研ぎ澄まされた鋼のようでした」と述べている。(杉本 p.133)
  11. ^ また、当時は平成初頭の関西馬全盛期にあって、最もピークを極めた関東馬不遇の時代であったが、この4月25日のライスシャワーの天皇賞勝利は、1993年の関西圏の競馬場における関東馬の初勝利でもあった。これは、その年の関東馬による関西圏での初勝利としては平成以降でも最も遅い記録である。
  12. ^ 柴田 p.181
  13. ^ 柴田 p.182
  14. ^ 3着にもハギノリアルキングが入り、リアルシャダイ産駒が1着から3着までを独占した
  15. ^ 柴田 p.227
  16. ^ 『優駿』p.59
  17. ^ 作家の月本裕はこうした人々を「単純な論者」と呼び、「(JRA は)恐らく世界でもトップのレベルで、競走馬の故障と馬場の関係を研究している。(中略)故障を避けるために努力を続けているJRAの力が及ばず起きてしまう事故もないとは言えない。事故の原因をしっかりと探ることは必要であるが、必要以上にセンティメンタルになっても仕方がないということは確かだ」と述べている。(『サラブレッド101頭の死に方』 p.493)
  18. ^ ライターの須田鷹雄は「『死ぬ前のライスシャワー』と『死んでからのライスシャワー』との間にギャップがありすぎるのではないか」「経済動物論のように、本来競馬を支えている基本理念みたいなものが罪悪視されている状況はどうなのか」等と述べ、「全体主義的なライスシャワーブームは気持ち悪い」と批判した。(『競馬名馬&名勝負読本』 pp.230-231)
  19. ^ ライターの北野海人は「ライスがああやって悲惨に死んだことだけを美化して、『ライスは永遠に不滅です』なんて取って付けたように英雄視するのはやめようよ」「偉大な『ヒール伝説』の本質を忘れて、レース中に死んだというごく日常の事象だけを取り上げてブルボンやマックイーン以上に正統な英雄として仕立て上げる。これはライスシャワーという馬の本質からかけ離れた無意味な崇拝でしかない」と述べている。(『競馬名馬&名勝負読本』pp.22-23)
  20. ^ 『優駿』 p.55
  21. ^ ライスシャワー優勝以前の菊花賞レコードはマルゼンスキー産駒のホリスキーが保持していた。
  22. ^ 1996年版のデータブックでは、リアルシャダイは「スピード・底力ある中・長距離タイプ」、マルゼンスキーは「パワフルなスピード型万能タイプ」とされている。(飯田正美『種牡馬血統データブック』西東社、1996年)
先代:
レオダーバン
菊花賞優勝馬
1992年
次代:
ビワハヤヒデ
先代:
メジロマックイーン
ビワハヤヒデ
天皇賞(春)優勝馬
1993年
1995年
次代:
ビワハヤヒデ
サクラローレル