栗東トレーニングセンター

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凱門(かちどきもん、正門)

栗東トレーニングセンター(りっとうトレーニングセンター)は、滋賀県栗東市にある、日本中央競馬会(JRA)の施設(トレーニングセンター)である。中央競馬の競走馬約2000頭が滞在して、約4000名の調教師・調教助手・厩務員・騎手が住み、東の美浦トレーニングセンターと並んで西日本における中央競馬調教拠点である。

概要[編集]

開設は1969年11月11日

1967年8月に着工。1969年8月に中京競馬場から人馬とも移動して調教を開始。同年11月に阪神競馬場から、翌1970年12月に京都競馬場から人馬が移動して、競走馬のトレーニングセンターとしての体制が整う。

敷地面積 約1,519,000㎡  収容可能頭数 2,161頭・119棟   居住者 約1,100世帯・約4000人

調教馬場

  • Aコース  【1周 1450m】 幅員20m ≪芝≫
  • Bコース  【1周 1600m】 幅員20m ≪ダート≫
  • CWコース 【1周 1800m】 幅員20m ≪ウッドチップ≫
  • Dコース  【1周 1950m】 幅員14m ≪芝≫
  • DPコース 【1周 2038m】 幅員14m≪ニューポリトラック≫
  • Eコース  【1周 2200m】 幅員30m≪ダート≫
  • 坂路コース【全長 1085m】 幅員7m ≪ウッドチップ≫


それまで、中央競馬は関東及び関西・中京とも厩舎は競馬場に隣接して置かれ、調教は主としてその競馬場のコースを使っていた。関西地区には京都阪神そして中京地区には中京の各競馬場にて競馬及び調教が行われ、一方関東では東京競馬場・中山競馬場そして白井分場にそれぞれ分散して競馬及び調教(白井分場は調教のみ)が行なわれていた。しかし開場当時は周囲は閑散とした所であったのが都市化がすすみ、近隣が住宅地になっていくと、場所の狭さと、競走馬の移動に問題が生じ、しかも芝コースの保全などの問題をかかえ(阪神競馬場には当時ダートコースはなく、逆に中京競馬場は芝コースがなかった)、十分な調教が次第に出来にくくなったことで、競馬関係者の住居、競走馬の馬房、調教専門のトラックの設置、競走馬の診療所やその他衛生面での管理など一括して運営ができる総合的な施設を作ることが要望されるようになった。そして1964年に名神高速道路が開通して栗東インターチェンジから当日の競走馬の競馬場への移動が可能となったことから、阪神・京都・中京から集まりやすい当時の滋賀県栗東町に総合的なトレーニングセンターを作る動きが加速した。ここに中央競馬としては初めての本格的な調教専用トラックをAからEコースの5本のコース(現在は6本のコース)を設置して、阪神・京都・中京の各競馬場の厩舎を集団で移転させて当時としては大きな競馬村が完成した。Aコースは障害馬専用馬場であり、Bコースはコーナーがきつく、Dコースが芝なのでほとんどの馬がダートのCコースとEコースを使うのが一般的であり、大レースに出走する馬は一番外側のEコースを使用することが多く、画一的な調教パターンで当時はこれで普通であった。

この当時、1960年代から1970年代にかけては、必ずしも関西馬が劣勢ではなく、栗東トレーニングセンターの開設前の1964年のシンザンから日本ダービーを3年連続関西馬が勝利し、開設後の1970年のタニノムーティエから日本ダービーを同じく3年連続関西馬が勝利し、1963年から1972年までの10年間の日本ダービーは関西馬7勝・関東馬3勝で、しかも1970年から1972年まで牡馬三冠競走を8連勝するなど関西馬の全盛期であった。したがってそもそも栗東トレーニングセンターの開設は劣勢の関西馬を強くするためのものでなくて、関東の美浦とほぼ同じ時期に計画された総合的センターを作るためであった。そしてその後に栗東に内在する問題がやがて関西馬が劣勢になる原因を作ることとなった。

この関西馬全盛も1973年頃から変わって関東馬が圧倒することが多くなり、いわゆる八大競走で関東勢優位の時代がしばらく続いていたた時、1976年にテンポイントが出現して当時としては珍しく1月に東上して日本ダービーが終わる5月末まで東京と中山に滞在して皐月賞と日本ダービーに出走したが、トウショウボーイに敗れ、しかも日本ダービーでは軽微な骨折もあって惨敗。傷心のうちに栗東に戻ってきたテンポイントの小川佐助調教師が関西馬の敗因として挙げたのが、直線に坂の無い関西と直線に坂の有る関東の違いであった。

日本ダービーを目指して東上した関西馬が、東京や中山の坂を経験していくと次第に疲労が重なり肝心の日本ダービーを迎える頃には体調が万全とは言えないことが東西の格差を生んでいるとして、関西の競馬場の直線に坂を作って、デビューする馬が早い段階で坂を経験させて後躯を鍛えることが必要との訴えであった。当時栗東の調教コースは全て平坦であり、阪神競馬場も平坦で、京都競馬場は3コーナーに坂があるが、「ゆっくり上り、ゆっくり下る」坂であって、競走馬にそれほど負担をかけるものではなかった。しかし、当時それほどには取り上げられることはなく、またその後に栗東のコースに緩い坂ができたが中山ほどの急坂ではなく注目されることはなかった。

実は当のテンポイントが翌年破竹の勢いで天皇賞(春)・有馬記念を勝ち、またその年の4歳(現3歳)クラシック競走でも関西勢が圧倒する中でこの話は自然に忘れられていったからである。そして現在から振り返ると、問題は坂の有無でなく、まず栗東の冬の時期の寒さが問題であった。春のクラシックが関東なので早い時期にレースで勝ち上がらないと関東に行けないので、どうしても早めにレースを使おうとして、特に3歳(現2歳)時に実績がなければ1~2月の厳寒期に勝ちあがるために強い調教を行って故障馬を増やしたことである。1981年に皐月賞までの関西4歳(現3歳)重賞の勝ち馬がすべて故障で出走できなかったことがその例である。次に東京に遠征することで最低3ヵ月は栗東を離れて慣れない東京や中山に滞在すること。馬にもやはり中心となる住み処があって、たまに外へ出張することは負担にならないが、ただ流れ流れていくような滞在方法は馬にとっても負担になった。これは地元の関東馬とは決定的なハンデである。実は戦前には関西の厩舎なのに、日本ダービーを目指して最初から中山や東京でデビューさせる例があり、後に関西馬を強くするのにはGI競走を関西に増やすことだという意見が出たのはこの点を指摘したものであった。

そして1978年に美浦トレーニングセンターができて、関東馬も一か所に集められたが、栗東との違いは専用コースが北と南との2つがあって、栗東は1つの馬場で多数の馬が混みあい、地盤も硬くしかも調教コースが冬期になると降雪で馬にとって負担をかけることや、そこへ無理にレースを使おうとして強い調教をかけて故障馬が多くなり、有力馬が相次いで離脱する事態が多くなった。そのことが全体のレベルを下げることとなり、そしてミスターシービーやシンボリルドルフの三冠馬が続けて関東に出現した頃には関西勢は全く歯がたたず、「弱い関西馬」として関東では一段低く見られるほど東西に格差が生じていた。

なぜ関西馬は弱いのか、何とか強くする方法はないのか、といった論議が競馬誌やスポーツ新聞で盛んに論じられていた。この時の競馬関係者の危機感が後に様々な問題意識を持っていろんな新しい取り組みに着手することになった。そして「直線の坂」の議論が復活する。やがて競馬場の直線に設けることがすぐには実現できないので、栗東に坂を作ることとなったが、トラックに設置することも難しいなかで、浮上したのが調教専用トラックの向う側にあった裏山で逍遥馬場と呼ばれる一帯で、もともと高低差がある所なのでそれを利用して直線走路の坂路を設置したのが1985年11月であった。ただ現在に比べると長さも高さもまだ足りないもの(第1期工事完成時全長394m)で最初の頃はあくまで調教の補助的手段として使うだけであり、ここで追い切りをかけるものではなく、話題にはなったが特に注目されるものではなかった。この時はまだウッドチップは導入されていなかった。

そして手探り状態が2年ほど続いた後、1987年12月に現在の形に近いもの(第2期工事完成時全長約700m・高低差24m)に改修された。ウッドチップはこの時に導入されてそのことで話題にはなったが、これが競馬の歴史を激変させるほどの衝撃を生むとは誰も予想していなかった(その後1990年9月の第3期工事完成時全長785m・高低差26.4m、1992年11月の第4期工事完成で全長1085m・高低差32mとなった)。戸山為夫調教師などが何度かの試行錯誤の中で普通にCコースやEコースでの追い切った場合の競走馬の心臓への負荷と同じような負荷をかけるための坂路の追い切りの回数とタイムがある程度目安として認識されたあたりから、その週に出走する馬の追い切りに坂路が使われることとなった。

坂路調教馬が最初に注目をあびたのは1988年3月26日であった。その日のメインレースの準オープン特別で戸山為夫厩舎の馬マリビクトリーが3ヵ月の休み明けのしかも昇級レースで12頭中10番人気だったが逃げ切って勝った。その時に競馬紙の記者は調教では確認がとれず坂路調教で出走したことは分かっていたが計時は当然できなかったので前走時の調教時計を掲載した。そして厩舎サイドの「チップコースで乗り込んでいて久しぶりでも仕上がりは良い」というコメントが載っていた。しかし休み明けの大型馬が全長700mのコースで仕上がるとは到底思えないというのがそれまでの常識であった。しかしこの誰も注目しなかった馬が突然勝ったので「チップコース」がここで注目されることとなった。そして翌週に同じ戸山為夫厩舎の馬ツナミ・タニノシーエスの両馬がやはり条件特別を勝って坂路がただの調教の補助手段ではなく、主な調教手段に変わったことがはっきりと理解されるようになった。 この時期は坂路での計時が不可能であったので、JRAは坂路を使う馬の名前を公表し、テレビカメラを設置して馬の様子もスタンドから見えるようになった(バーコードを使って調教タイムを自動計測するシステムができたのは1990年4月)。そして同年6月にサンキンハヤテ(橋口弘次郎厩舎)が重賞の阪急杯を勝ったが、この馬はずっと坂路で調教し追い切りは普通にコースで行った。そして8月7日に福島競馬場の関屋記念でヒシノリフォー(増本豊厩舎)が、小倉競馬場の北九州記念でタガジョオー(松元省一厩舎)が坂路調教馬として優勝し、しかもタガジョオーは栗東の坂路で追い切って直前に小倉入りするという当時としては新しい試みで重賞を制覇した最初の馬となりこの成功がその後の栗東に在籍する馬の調教と輸送のパターンを大きく変えるスタートとなったのである。

しかしよく言われる東西のGI競走の勝利数が逆転した1988年頃から坂路効果が現れたとするのは誤りで、この頃は坂路を中心に調教する厩舎はまだ少なく、あくまで実験的な試みの段階である。1988年~1989年にGI競走を賑わしたタマモクロス、オグリキャップ、ヤエノムテキ、スーパークリーク、サッカーボーイなどは坂路を使っていない。日本ダービーが1990年まで関東馬が8連勝していた時期であって、1988年~1989年の関西馬の攻勢は主に関東馬のエースであるサクラスターオーの骨折やまた1987年~1990年までの日本ダービー馬がそろって日本ダービー後に故障していたことが大きい。坂路の効果が目に見えてGI競走に現れてくるのは1990年であった。

この1990年に入ると桜花賞馬アグネスフローラ、オークス馬エイシンサニーとも坂路調教馬で、特にエイシンサニーは最終追い切りも坂路を使った最初のGI馬であり、翌年のオークスを勝ったイソノルーブルと皐月賞・日本ダービーを勝ったトウカイテイオーの両馬は坂路だけで調教された馬で4歳(現3歳)馬の頂点を極めることとなった。坂路の形が整ってから3年後のことである。そして翌1992年に現れて坂路の申し子と言われたのが、戸山為夫厩舎のミホノブルボンである。

こうしてかつては「坂のある関東」「坂のない関西」と言われたのが、関東勢が坂の全く無い美浦に移った後に逆に「坂のない関東」「坂のある関西」と言われるようになり、その後の西高東低の時代は誰も想像できなかったほど長く続くことになった。ただ坂路の最大の効果は馬の故障が少なくなったことにつきるという意見もある。寒い冬に硬いコースを周回して脚を痛めていたことを考えると、下がウッドチップで脚に負担がかからない坂を真っ直ぐ走らせることは故障につながる要因を減らすことになり、故障が少ない→素質馬がデビュー→有力馬が鍛錬できる→強力馬が揃う→競走のレベルが上がる→GI勝利馬が増える→成績の良い厩舎に血統のいい馬が集まる、などうまく回転して格差が広がることになったと思われる。

栗東トレーニングセンターは現在トラック6コースと坂路コースの計7コースからなり、トラックのCコースと坂路コースには木片を敷き詰め、競走馬の脚部負担を抑える効果があるとされる「ウッドチップコース」を採用している【CWコース】。Dコースはかつては芝だけであったが、その後内側半分は芝、外側半分は1989年9月からウッドチップで、そして2009年10月に全天候馬場素材であるニューポリトラックを採用したコースとなっている【Dコース・DPコース】。一時期はかなり坂路に集中したこともあったが今では調教パターンが多様化している。スイミングプールも1988年9月に完成して冬でも利用でき、脚部不安の馬もプールでの調整で1周50mを40秒ほどで泳ぐと普通のコースで15-15程度のタイムを出したのと同じ運動量になると言われている。

全体の規模だけを見れば美浦トレーニングセンター(敷地面積約2,010,000㎡、収容可能頭数2,304頭・123棟、居住者約1,500世帯・約5,000人、専用トラックは坂路を含めて北・南馬場を合わせて8コース)に見劣りするものの、最初に与えられたこれらの調教設備を質的にも充実させることを図り、その一環として関東馬に圧倒されていた時期に坂路コースが設置され、それらをミホノブルボンを管理した戸山為夫トウカイテイオーを管理した松元省一などの各調教師が試行錯誤の末に競走馬の鍛練のノウハウを確立して、GI競走で関東馬を圧倒し、かつ1991年以後東西の交流制限が緩和されて関東の競馬場の特別競走や重賞競走及び一般競走でも地元の関東馬を圧倒する状況が続いている。

このことの詳細については美浦トレーニングセンター#美浦トレーニングセンターの長期低迷を参照のこと。

現在は勝利数こそ若干差を詰められているものの、獲得賞金額や重賞競走の勝利数はいまだ完全に水を空けている状況である。また、平成以降、一時は栗東トレセンの代名詞にもなった坂路コースをはじめとして、栗東で取り入れられた各種施設や新機軸、他にも関西・関東間などの長距離の直前輸送など、栗東の厩舎が考案したノウハウの成功を見て、これを美浦の厩舎が追随するというパターンが幾度となく繰り返されている。

さらに2000年代中頃には、国枝栄など美浦トレセン所属の調教師の間で、京都・阪神への出走などを利用して管理馬を栗東トレセンに長期滞在させてトレーニングを積ませる「栗東留学」と呼ばれる育成手法が考案・研究されるに至っている。関東馬の栗東への長期滞在は開場翌年の1970年タマミが桜花賞に出るために栗東に行ったのが皮切りとされているが、このこと自体は当時全く普通のことで、その後関西のGIや重賞競走に出走する関東馬は少なくともレースの2週間前には栗東に入り最終追い切りも栗東で行い、競馬場に当日移動するのが一般的であった。関西で使うレースが続けば当然栗東滞在は長くなり、桜花賞を目指すのであれば、トライアルを含めて1ヶ月以上栗東に滞在することになる。1976年に菊花賞に挑むためにトウショウボーイは菊花賞の2ヶ月前に栗東に入りトライアルを2走して本番まで栗東の武田文吾厩舎で調教を積んでいた。当時はそれが普通であった。ただし出張馬房に限りがあるので栗東に来れるのは、今でいうGIや重賞競走に出る馬とそれに帯同してくる馬であって希望すれば誰でも関西に行ける時代ではなかった。このことは東西を逆にしても同じで、日本ダービーを目指して行くのであればやはり最低でも2週間前に、トライアルレースを使うのであればもっと早くということになり、テンポイントは結局1月下旬から5月末まで中山と東京に滞在した(1984年にジャパンカップを勝ったカツラギエースは9月中旬から12月末まで東京と美浦に滞在)。やがて1980年代に入って日本ダービーを目指して勝ち抜くために無理なローテーションを立て、栗東の硬い馬場でそれも寒い時期に走らせて、無理を重ねた結果故障する馬が続出して、強い馬が居なくなったと言えなくもない。また当時中山競馬場の馬場の悪さを指摘して、皐月賞を回避するか、或いは阪神を使ってから直前に中山へ行くなど工夫する調教師もいた。


この滞在方法が変わったのも1989年頃で、それまで日本ダービーの最終追い切りは関西馬は早めに行って東京競馬場で木曜日に行うのが普通であったが、水曜日に栗東で追い切り、木曜日に東京競馬場へ移動し、金曜か土曜日に軽めの調整を行い、レース終了後は即栗東へ向い翌日の夜中に帰着する現在の方法に変わったのが、ちょうど東西の勢力関係が変わった頃であった(1989年の日本ダービー1番人気のロングシンホニーはこのステップで出走した)。したがって必ずしも坂路だけで東西の勢力が変わったのではなく、坂路やプールなどの調教パターンの変化・直前輸送と直後帰栗で滞在方法の変化・余裕のあるローテーション(以前は東京の馬場を経験させるためにNHK杯を必ず使う意識が強かった)など弱い関西馬を強くするために色んな試みを大胆に進める中から生まれてきたものであって、関西馬であるが故のハンデが結果的には向上させる条件を作ってきたとも言える。

なお、栗東の隆盛については1987年にデビューした武豊騎手など、関西を中心とした活躍を続けている騎手が多い事も理由の一つであるとも言われているが、競馬の主体は馬であって調教師が馬を強くするためにどれほどの尽力をされたかを見れば、その強くなった馬に跨る騎手はまた別の観点から見るべきである。強い関西馬に岡部幸雄や柴田政人が乗って出走した1993年の日本ダービーを見れば的外れでもあるし、また世代交代を経てその後関東の騎手も層が厚くなり、また公営から有力な騎手が加わってリーディングジョッキーを争い、そこへ外国から超一流騎手も加わり、フリーの騎手が揃った今は東西の垣根を越えて武豊が美浦の馬に乗り、内田博幸が栗東の馬に乗って勝つ時代である。馬も人も東西を行き来している時代である。

施設面での美浦トレーニングセンターとの比較[編集]

  • 施設の南方にある竜王山から流れる水は自然の地形によって磨かれることから大変水質が良く、小島茂之調教師は馬が倍も飲むとコメントしている。[要出典]
  • 坂路の高低差は、美浦が17メートルで競走馬が一息で駆け上がれるのに対し、栗東32メートルで傾斜もきつく、2度ほど深呼吸しなければ上り切れないと言う。これにより、後肢を中心とした筋力、心肺能力、真っ直ぐに走る力、首を下げて走る技術などが、身に付きやすいと言われる。また、ゴールの後が下りになっていて、最後まで十分に走らせきれない美浦に対し、上りへの傾斜が更にきつくなる栗東では、最後まで走りきるための力が付きやすいとも言われる。レオダーバンの陣営は、菊花賞出走に備えての栗東滞在中、カロリーの消費量が大きく、美浦で与えていた7升の飼料では馬がガレて(痩せて)しまったために、8升に増やして対応した。
  • トレセン全体に起伏が多く、馬のクールダウンやリラックスのための逍遥馬道を歩くだけでも負荷がかかり、鍛えられると言われる。

主な厩舎および活躍馬[編集]

厩舎 所属馬
野中賢二 カゼノコ
飯田祐史 メイショウマンボ
佐藤正雄 ワンダーアキュート
藤岡健一 サマリーズ
柴田政見 マーベラスカイザー
大橋勇樹 ニホンピロアワーズ
平田修 カレンブラックヒル
須貝尚介 ゴールドシップローブティサージュジャスタウェイレッドリヴェール
松永昌博 エイシンアポロン
笹田和秀 エリンコートメーデイア
矢作芳人 グランプリボスディープブリランテタイセイレジェンド
安田隆行 トランセンドグレープブランデーカレンチャンロードカナロア
庄野靖志 サマーウインド
小崎憲 スマートファルコン
松永幹夫 レッドディザイア
村山明 テスタマッタコパノリッキー
中竹和也 ジョーカプチーノ
吉田直弘 スーニゴルトブリッツ
藤原英昭 エイジアンウインズサクセスブロッケンエイシンフラッシュローマンレジェンドトーセンラー
安達昭夫 バンブーエールエスポワールシチー
友道康夫 アドマイヤジュピタアンライバルドヴィルシーナ
目野哲也 ニホンピロジュピタ
境直行 フレッシュボイス
谷潔 ナリタホマレ
坪憲章 エルウェーウィン
梅田康雄 ダイタクヘリオス
山内研二 ダンツフレームダンツシアトルイシノサンデーチアズグレイスシルクプリマドンナアローキャリーパーソナルラッシュ
五十嵐忠男 テイエムプリキュア
西浦勝一 テイエムオーシャンカワカミプリンセスホッコータルマエ
服部利之 ブルーコンコルド
南井克巳 ウイングアロー
宮徹 アインブライドコパノリチャード
西橋豊治 プリモディーネ
西園正都 タムロチェリーフィールドルージュエーシンフォワードサダムパテック
中村均 トウカイローマンマイネルマックスマイネルセレクトビートブラック
長浜博之 アグネスフローラファビラスラフインアグネスフライトアグネスタキオンファイングレインリトルアマポーラビッグウィーク
佐々木晶三 タップダンスシチーコスモサンビームアーネストリーキズナ
坂口正則 エイシンサニー
昆貢 ローレルゲレイロイイデケンシンディープスカイヒルノダムールハタノヴァンクール
加藤敬二 ノースフライトエリモシック
小野幸治 サッカーボーイ
岩元市三 テイエムオペラオー
大根田裕之 カルストンライトオ
大久保龍志 マンオブパーサーアサクサキングス
沖芳夫 エリモシックナリタトップロード
浅見秀一 メジロブライトヤマニンシュクルソングオブウインドレジネッタ
池添兼雄 ヤマカツスズラン
角居勝彦 デルタブルースカネヒキリシーザリオハットトリックウオッカトールポピーフレンドシップヴィクトワールピサアヴェンチュラルーラーシップエピファネイア
松田国英 クロフネタニノギムレットキングカメハメハフサイチリシャールゴールドティアラダイワエルシエーロダイワスカーレットダノンシャンティベルシャザール
松田博資 コスモドリームベガブゼンキャンドルアドマイヤドンタイムパラドックスアドマイヤムーンブエナビスタレーヴディソールマルセリーナジョワドヴィーヴルハープスター
音無秀孝 オレハマッテルゼサンライズバッカスヴィクトリーオウケンブルースリカンパニークリソライトミッキーアイル
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松元茂樹 ユウフヨウホウビリーヴギルデッドエージウインクリューガーローブデコルテ
石坂正 アロンダイトアストンマーチャンヴァーミリアンダイタクヤマトブルーメンブラットジェンティルドンナ

所属騎手[編集]

現役騎手[編集]

参考文献[編集]

  • 『関西馬で狙う必勝馬券法』第3章 強い関西馬はこうして作られる。「全ては坂路からはじまった」 1991年10月発行 著者 競馬ダービー編集長 小川等 竹書房文庫


外部リンク[編集]

関連項目[編集]

座標: 北緯34度59分38.4秒 東経136度0分57.5秒