サンデーサイレンス
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| サンデーサイレンス | |
|---|---|
| 品種 | サラブレッド |
| 性別 | 牡 |
| 毛色 | 青鹿毛 |
| 生誕 | 1986年3月25日 |
| 死没 | 2002年8月19日(16歳没) |
| 父 | Halo |
| 母 | Wishing Well |
| 母の父 | Understanding |
| 生国 | |
| 生産 | Oak Cliff Throughbreds Ltd. |
| 馬主 | Gaillard & Hancock III Charles Whittingham Whittingham et al 吉田善哉 |
| 調教師 | Charles Whittingham |
| 厩務員 | Charles Clay |
| 競走成績 | |
| 生涯成績 | 14戦9勝 |
| 獲得賞金 | 4,968,554ドル |
サンデーサイレンス(Sunday Silence、1986年 - 2002年)は、アメリカ合衆国生まれの競走馬、種牡馬。競走馬時代にアメリカ三冠のうち二冠、さらにブリーダーズカップ・クラシックを優勝し1989年のエクリプス賞年度代表馬に選ばれた。引退後は種牡馬として日本に輸入され、産駒の活躍が日本競馬界を根底から塗り替える一大旋風を巻き起こした。サンデーサイレンスを起点とするサイアーラインは日本競馬界における一大勢力となり、サンデーサイレンス系とも呼ばれる。そのイニシャルからSSと呼ばれることもある。1996年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。
目次 |
[編集] 概要
1988年10月にデビュー。翌1989年に二冠(ケンタッキーダービー、プリークネスステークス)、ブリーダーズカップ・クラシックなどG1を5勝する活躍を見せ、エクリプス賞年度代表馬に選ばれた。
翌1990年に右前脚の靭帯を痛めて競走馬を引退。引退後は日本で種牡馬となり、初年度産駒がデビューした翌年の1995年から13年連続で日本のリーディングサイアーを獲得するなど優れた成績を収めた。2002年8月19日に左前脚に発症した蹄葉炎を原因とする衰弱性心不全のため16歳で死亡した。
幼少期は見栄えのしない容貌をし、セリ市で売れ残り、生命にかかわる事態に見舞われながら競走馬、さらに種牡馬として成功した生涯は童話「みにくいアヒルの子」に例えられる[1]。
[編集] 経歴
[編集] 誕生に至る経緯
サンデーサイレンスは1985年に繁殖牝馬ウィッシングウェルと種牡馬ヘイローが交配された結果、翌1986年にアメリカ合衆国ケンタッキー州にあるストーンファームで誕生した。両者が交配された要因は、マームードのインブリード(4×5)が成立することにあった[2]。
[編集] 誕生からデビューまで
幼少期のサンデーサイレンスは後脚の飛節[3]が両後脚がくっつきそうなくらいに内側に湾曲[4]し、体格も貧相[5]であった。また、毛色はくすんだ鼠色をしており[6]、その容貌は、テッド・キーファー[7]がストーンファームを訪れた際に必ず「あんなひどい当歳(0歳)馬は見たことがない」「目にするのも不愉快」と言うほど見栄えがしなかった[8]。また気性も激しく、扱いの難しい馬であった[9]。
1987年にキーンランド・ジュライセール[10]に出品されたが、馬体の見栄えが悪かったサンデーサイレンスはセレクトセール(一定水準以上の血統および馬体をもつと判断された馬が出品される部門)への出品が許可されず、一般部門に出品された。一般部門で提示された落札希望額は1万ドルと低く[11]、ストーンファームの経営者であったアーサー・ハンコック3世が1万7000ドルで買い戻した。ハンコックはその旨をティザムに報告したがティザムはハンコックからサンデーサイレンスを購入することを拒否した[12]ため、そのままハンコックが所有することとなった[13]。翌1988年3月、サンデーサイレンスはカリフォルニア州で行われたトレーニングセールに出品されたが希望販売価格の5万ドルに届かず、3万2千ドルで再びハンコックに買い戻された[14]。
[編集] 幼少期の疾病
サンデーサイレンスは当歳時(1986年11月)に悪性のウイルスに感染し、数日にわたって液状の便を垂れして脱水症状になり生死の境をさまよったことがある[15]。またカリフォルニア州のセリからの帰り道にトラックの運転手が心臓発作を起こし馬運車が横転する事故に遭い、競走能力こそ失わなかったもののしばらくまっすぐに歩けなくなるほどの重傷を負った(なお、馬運車に同乗していた他の競走馬はすべて死亡した)[16]。
[編集] サンデーサイレンスの所有権
ハンコックはサンデーサイレンスをキーンランド・ジュライセールで買い戻した後、同馬を友人のポール・サリバンと半分ずつの持ち分で共有した[17]。その後サリバンはカリフォルニア州のトレーニングセールで買い戻された時期にサンデーサイレンスの調教費用と相殺する形で調教師のチャーリー・ウィッティンガムに持ち分を売却し[18]、ウィッティンガムはそのうちの半分を友人の医師アーネスト・ゲイラードに売却した。なお、サンデーサイレンスが活躍を見せ始めるとハンコックのもとには持ち分を購入したいという申し込みが相次いだが、ハンコックは売却しなかった[19]。
[編集] 競走馬時代
[編集] 1988年・1989年
[編集] 競走内容
サンデーサイレンスは同馬の所有権を4分の1所有していたチャーリー・ウィッティンガムが管理することとなった。1988年の10月に初めてレースに出走(結果は2着)し、翌11月に初勝利を挙げた。翌12月の一般競走で2着となった後、ウィッティンガムは余力を残した状態で休養をとらせることにした。
サンデーサイレンスは翌1989年の3月にサンタアニタパーク競馬場で行われた一般競走でレースに復帰し、さらに同月重賞のサンフェリペハンデキャップをスタートで出遅れながら優勝した。この段階で主戦騎手のパット・ヴァレンズエラは「今まで乗った中でも最高の2歳馬」と評し、ウィッティンガムは「ケンタッキーダービーでも5本の指には入るだろう」と述べた。またサンデーサイレンスはウィッティンガム厩舎のケンタッキーダービー候補として競馬ファンに認識され始めた[20]。
ウィッティンガムはサンデーサイレンスのケンタッキーダービー出走について「サンタアニタダービーが終わるまでは分からない」とも述べていた[21]が、サンタアニタダービーを11馬身差で大勝したことを受けてケンタッキーダービー出走を正式に表明し、4月半ばにはケンタッキーダービーに備え同レースが行われるチャーチルダウンズ競馬場へサンデーサイレンスを移送した[22]。ケンタッキーダービーはレース前大量の雨が降り、20年ぶりといわれるほど悪い馬場状態で行われた。サンデーサイレンスはスタートで体勢を崩し他馬と激しく接触したものの体勢を立て直し、直線では鞭に反応して左右によれる素振りを見せながらも優勝。レース後、ウィッティンガムは「この馬は三冠馬になる」と宣言した[23]。
二冠目のプリークネスステークスを1週間後に控えた5月13日、サンデーサイレンスの右前脚に問題が発生し(獣医師の診察結果は打撲または血腫によるハ行)、レースの4日前まで調教が行えなくなるアクシデントに見舞われた。また、サンデーサイレンスはレースまでの期間をピムリコ競馬場で過ごしたが、数百人にものぼる観光客やマスコミが殺到し、サンデーサイレンスは苛立ちを見せるようになった[24]。レースは直線でイージーゴアとのマッチレースとなり、15秒以上にわたる競り合いの末、数センチの差で同馬に先着し優勝した。このマッチレースは1980年代最高のレースとも称される[25]。
ベルモントステークスでは三冠達成の期待がかかり、サンデーサイレンスはイージーゴアと対戦したレースで初めて1番人気に支持された。しかしレースでは残り400mの地点でイージーゴアに交わされるとそのまま差を広げられ、8馬身の着差をつけられ2着に敗れた。
ベルモントステークス出走後、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシック優勝を目標とした。ウィッティンガムはじめ厩舎スタッフはサンデーサイレンスの体調の低下を感じ取っていたが、短い休養を取らせた後でスワップスステークスに出走した[26]。レースでは逃げの戦法をとったが残り400mの地点で突如失速し、プライズドに交わされ2着に敗れた。スワップスステークスの後サンデーサイレンスが主戦場としていた西海岸には3歳馬が出走するのに適当なレースがなく、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシックに向けた前哨戦としてルイジアナ州のルイジアナダウンズ競馬場で行われるスーパーダービーへの出走を決めた。この時期にはサンデーサイレンスの体調は回復しており、レースでは2着に6馬身の差をつけて優勝した。
ブリーダーズカップ・クラシックの1週間前、サンデーサイレンスの主戦騎手ヴァレンズエラに対して薬物(コカイン)検査で陽性反応が出たことを理由に60日間の騎乗停止処分が下され、急遽クリス・マッキャロンに騎手が変更されるアクシデントがあった。しかしサンデーサイレンス陣営はイージーゴアが抱えていた脚部不安が深刻化していたことを察知し、勝利に対する自信を深めていた[27]。レースではイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であったが、残り200mの地点で先頭に立つとイージーゴアの追い上げをクビ差交わし、優勝した。この年、サンデーサイレンスはこの年のエクリプス賞の年度代表馬、および最優秀3歳牡馬のタイトル獲得した。さらに北アメリカにおける1年間の獲得賞金記録(457万8454ドル)を樹立した。
[編集] イージーゴアとの対決
三冠競走では、イージーゴアがサンデーサイレンスのライバルとなった。血統背景が優れている点、馬体が美しい点、スタッフによって大切に育てられた点など、サンデーサイレンスとは対照的な馬とされる[28]。イージーゴアはケンタッキーダービーが行われる前から競馬マスコミによって「セクレタリアトの再来か?」、「今、その存在は伝説となりつつある」と評されるなど高い評価を集め、ケンタッキーダービー、さらには同レースでサンデーサイレンスに敗れた直後のプリークネスステークスでも1番人気に支持された[29]。三冠競走をサンデーサイレンスの2勝1敗で終えた後、イージーゴアがG1を4連勝し、サンデーサイレンスはG1のスーパーダービーを優勝して迎えたブリーダーズカップ・クラシックはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決となり、「10年に一度の大一番」といわれた[30]。2頭の関係はアファームドとアリダーの再来、競馬史上最高のライバル関係と評された[31]。
サンデーサイレンスとイージーゴアとの比較についてウィッティンガムは、サンデーサイレンスの得意距離は1600mから2000mで、イ-ジーゴアは一流のステイヤーと評した[32]。またレイ・ポーリックはサンデーサイレンスは敏捷な馬でコーナーを回りながら加速することができたためカーブがきつい競馬場を得意とし、一方イージーゴアは長い直線では圧倒的なパワーを発揮するがきついカーブを苦手としていたとしている[33]。
なお、サンデーサイレンスの馬主であったアーサー・ハンコック3世は、クレイボーンファームの経営者一族であったが父の死亡後弟のセス・ハンコックが後継の経営者に就任したことに不満を覚え、クレイボーンファームと袂を分かった。イージーゴアはクレイボーンファームで生まれた競走馬であったことから、同馬とサンデーサイレンスとの対決にはクレイボーンファームとストーンファームの対決という側面があった。さらにイージーゴアの生産者である馬主であったオグデン・フィプスは、クレイボーンファームの顧問としてセスを経営者に指名したという因縁もあった[34]。
[編集] 薬物疑惑
前述のようにサンデーサイレンスはプリークネスステークスの直前期に脚部に問題を抱え、短期間で回復した。サンデーサイレンスの治療に当たった獣医師のアレックス・ハートヒルによると、施された処置は脚部をエプソム塩に浸して血液の循環を促進した後で患部に湿布を貼るというものであった[35]が、同時期に厩舎サイドが観光客およびマスコミに苛立つサンデーサイレンスを隔離するために馬房の扉を閉める措置を講じたことから、馬房の中で違法な処置がとられているという疑惑が唱えられた[36]。これを受けて三冠の最終戦のベルモントステークスを前に、ニューヨーク州の競馬当局は同レースが行われるベルモントパーク競馬場の厩舎エリアへのハートヒルの立ち入りを禁止した[37]。
[編集] 1990年
ブリーダーズカップ・クラシックの後、サンデーサイレンスは脚部に複数の故障(膝の剥離骨折と軟骨の痛み)を発症し、骨片の摘出手術を行った後休養をとった。1990年の3月に調教が再開された際にウィッティンガムは「ここからきっかり3ヵ月でレースに出られるように仕上げてみせる」と宣言し[38]、宣言通り6月のカリフォルニアンステークスでレースに復帰させた。このレースをサンデーサイレンスは逃げ切って優勝した。
続いてサンデーサイレンスは中2週でハリウッドゴールドカップに出走した。レースでは直線に入りクリミナルタイプとのマッチレースとなったが交わせず、2着に敗れた。その後、サンデーサイレンスはアーリントンパーク競馬場がサンデーサイレンスとイージーゴアを対決させる意図で企画した特別招待レース(アーリントンチャレンジカップ、8月4日開催予定)を目標に調整された。7月に半ばにイージーゴアが脚部の骨折により競走馬を引退し対戦が不可能になってからも出走予定は変更されなかったが、レース直前に左前脚をかばう素振りを見せた。診察の結果左前脚の靱帯(XYZ靭帯)に小さな断裂が見つかり、獣医師のハートヒルは引退を勧告。陣営はそれに従い、引退を決定した[39]。
[編集] 競走成績
| 出走日 | 競馬場 | 競走名 | 格 | 着順 | 騎手 | 距離 | 着差 | 1着(2着)馬 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1988.10.30 | サンタアニタパーク | 未勝利 | 2着 | P.ヴァレンズエラ | D6.5f | クビ | Caro Lover | |
| 1988.11.13 | ハリウッドパーク | 未勝利 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D6f | 10馬身 | (Moment of Time) | |
| 1988.12.03 | ハリウッドパーク | 一般競走 | 2着 | A.グライダー | D6.5f | アタマ | Houston | |
| 1989.03.02 | サンタアニタパーク | 一般競走 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D6.5f | 4 1/2馬身 | (Heroic Type) | |
| 1989.03.19 | サンタアニタパーク | サンフェリペH | G2 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D8.5f | 1 3/4馬身 | (Flying Continental) |
| 1989.04.08 | サンタアニタパーク | サンタアニタダービー | G1 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D9f | 11馬身 | (Flying Continental) |
| 1989.05.06 | チャーチルダウンズ | ケンタッキーダービー | G1 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D10f | 2 1/2馬身 | (Easy Goer) |
| 1989.05.20 | ピムリコ | プリークネスS | G1 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D9.5f | ハナ | (Easy Goer) |
| 1989.06.10 | ベルモントパーク | ベルモントS | G1 | 2着 | P.ヴァレンズエラ | D12f | 8馬身 | Easy Goer |
| 1989.07.23 | ハリウッドパーク | スワップスS | G2 | 2着 | P.ヴァレンズエラ | D10f | 3/4馬身 | Prized |
| 1989.09.24 | ルイジアナダウンズ | スーパーダービー | G1 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D10f | 6馬身 | (Awe Inspiring) |
| 1989.11.04 | ガルフストリームパーク | BCクラシック | G1 | 1着 | C.マッキャロン | D10f | クビ | (Easy Goer) |
| 1990.06.03 | ハリウッドパーク | カリフォルニアンS | G1 | 1着 | P.ヴァレンズエラ | D9f | 3/4馬身 | (Stylish Winner) |
| 1990.06.24 | ハリウッドパーク | ハリウッドゴールドCHS | G1 | 2着 | P.ヴァレンズエラ | D10.0f | アタマ | Criminal Type |
- "S"はステークス、"C"はカップ、"H"はハンデキャップの略。
[編集] 種牡馬時代
引退したサンデーサイレンスには当初、総額1000万ドル(1株25万ドル×40株)のシンジケートが組まれる予定だった。しかしヘイローの産駒の種牡馬成績が優れなかったことやファミリーラインに対する評価の低さから種牡馬としてのサンデーサイレンスに対する評価は低く、株の購入希望者はわずか3人にとどまり、種付けの申込みを行った生産者はわずか2人であった[40]。一方、日本の競走馬生産者吉田善哉はサンデーサイレンスの購入に積極的な姿勢を見せ、1100万ドル(当時の為替レートで約16億5000万円)を費やし[41]サンデーサイレンスを購入した。この購入は当時、「日本人のブリーダーがとても成功しそうにない母系から生まれたヘイロー産駒を買っていった」とアメリカの生産者の笑いものになった[42]。
吉田がサンデーサイレンスを購入したのに伴い、サンデーサイレンスは日本へ輸入され、1991年から社台スタリオンステーションで種牡馬生活を開始した。当初サンデーサイレンスの評価はさほど高くなかった上に種付料が1100万円と高額であったため、交配の申し込みは多くなく、最も多く交配したのは吉田が経営する社台ファーム千歳に繋養されていた繁殖牝馬であったが、その結果誕生した馬に対する同牧場の関係者の評価も高くはなかった。1994年6月にデビューした初年度産駒は約半年の間に30勝(重賞4勝)を挙げたが、この活躍は関係者にとっても予想を上回ることであった[43]。
サンデーサイレンスはその後も活躍馬を次々と輩出し、初年度産駒がデビューした翌年の1995年にリーディングサイアーを獲得。以後2007年まで13年連続でリーディングサイアーに君臨した。また、産駒は日本の中央競馬のGI級競走のほとんどを優勝[44]した。サンデーサイレンスの種付け権の価格は1995年には2000万円、1998年には5000万円に上昇し、種付け数を増やしてほしいという生産者の要望に応える形で2000年と2001年は年間200頭を超える繁殖牝馬と交配された [45][46]。さらに1998年に始まったセレクトセールでは毎回産駒が高額で落札される[47]。
産駒は海外のレースでも活躍を見せ、日本調教馬は海外でG1を3勝[48]した。さらにオーストラリア生まれ[49]のサンデージョイ(Sunday Joy)がG1のオースラリアンオークスを優勝するなど、海外生産馬および海外調教馬からも複数の重賞優勝馬を輩出した。
日本国外で活躍する産駒が出現した影響から海外の有力馬主がセレクトセールでサンデーサイレンス産駒を購買し、さらに繁殖牝馬を日本へ移送して交配させるようになった。2001年に行われた第4回セールではロッタレースの2001を巡ってゴドルフィンとクールモアスタッドの代理人が激しい競り合いを演じた[50]。
普段は気性の荒いサンデーサイレンスが、メジロマックイーンがそばにいると大人しくなることが多かったという。サンデーサイレンスとメジロマックイーンの放牧地は隣同士に設えられていた。
[編集] 心不全で死亡
2002年5月、右前脚にフレグモーネを発症した。その際細菌が血管の少ない深屈腱[51]に入り込んだことから有効な抗生物質が効きにくい状態にあった。さらに通常フレグモーネは外傷から菌が侵入して発症するがサンデーサイレンスの脚に外傷が見当たらず、発症の詳しい経緯は不明であったことから治療に有効な抗生物質が見つけられなかった[52]。そこで患部を切開し洗浄する措置が施された。しかし3回の切開手術により右前脚の病状は改善したものの、8月に入りそれまでに右前脚をかばった負担が原因となって左前脚に蹄葉炎を発症、懸命な治療の甲斐なく8月19日に衰弱性心不全のため死亡した。遺体は火葬され、社台スタリオンステーションの小高い丘の上に埋葬された。その産駒は2003年生まれがラストクロップとなった。サンデーの最後の仔はハギノプリンセスである。
[編集] 競走馬としてのサンデーサイレンス
[編集] 特徴
- 精神面の特徴
- サンデーサイレンスは気性が非常に荒く、騎乗した人間の指示に従わず暴れる傾向があった。その荒さはウィッティンガム厩舎では当初サンデーサイレンスを担当する予定であった調教助手や調教のために騎乗した騎手のビル・シューメーカーが一度騎乗しただけでその後の騎乗を拒否するほどであった[53]。
- サンデーサイレンスは1986年11月に激しい下痢を発症して23リットルもの点滴を受けた。またその際、ストーンファームの獣医師に「どうせ助からないならどうしてもっと早くくたばらないんだ、くそったれが」などと罵倒された。この闘病についてハンコックは「よほどの精神力がなければ、とてもじゃないがあんな経験は乗り越えられない」と評した[54]。
- ウィッティンガムによると、サンデーサイレンスは鞭を打たれると癇癪を起すところがあった[55]。
- 身体的特徴
- テッド・キーファーは、「サンデーサイレンスの馬体の欠点は目をつぶってすむような軽いものじゃなかった」「同じような馬格の馬が1000頭いたとしたら、そのうち999頭はチャンピオンやリーディングサイアーになるどころか、競走馬としてまず使い物にならないだろう」とし、ティザムに購入を勧めなかったことを正当化するとともに「個人的には、サンデーサイレンスは一種の突然変異だったと思っている」と評した[56]。
- 競走馬名および愛称・呼称
サンデーサイレンスという競走馬名は、メリーランド州に住む夫妻が考案した。意味は「静寂なる日曜日(のミサ)」。夫妻は「自分たちが所有する競走馬がケンタッキーダービーに出走を果たすとしたら、どんな名前がいいだろう」という空想をもとに作成した競走馬名リストをストーンファームに送り、その中からハンコックが「サンデーサイレンス」を採用した[58]。
[編集] 評価
- ブリーダーズカップ・クラシックで騎乗したクリス・マッキャロンはサンデーサイレンスの走りを「ストライドに全感覚を集中させるか、それとも脚元を見下ろすかしない限り、いつ手前を変えたのか全くわからない。そのくらい脚運びが滑らか」と評し、かつて騎乗したジョンヘンリーの感覚を思い出させたと述べた[59]。
- ウィッティンガムは「この馬は、わしが調教した中で文句なしに最高の馬だ」と評した[60]。
- また1999年に競馬専門誌のブラッド・ホース誌が発表した20世紀のアメリカ名馬100選では第31位となった。
[編集] 種牡馬としてのサンデーサイレンス
[編集] 概要
初年度産駒がデビューした翌年の1995年に、種牡馬としての中央競馬獲得賞金記録を更新 [61]して日本リーディングサイアーを獲得した。2世代の産駒だけでリーディングサイアーを獲得というのは日本初の記録 [62][63]である。以後13年連続(1995年~2007年)でリーディングサイアーを保持した[64]。中央競馬では産駒が14年連続(1994年~2007年)でGI級競走を勝利した。
[編集] 記録
- 中央競馬における通算勝利数、通算重賞勝利数、年間最多勝利数[65]、年間最多重賞勝利数[66]、年間最多獲得賞金[67]、通算クラシック勝利数はいずれも最多記録を保持している。また、中央競馬・地方競馬をあわせた通算勝利数は3000勝を超え、世界最多記録を更新中である[68]。
- 初年度産駒の1992年生まれの世代以降、すべての世代でGI級競走優勝馬を輩出した。なお東京優駿に関しては6頭の優勝馬を輩出したが、これは戦前の大種牡馬であるトウルヌソルと並んで最多タイ記録である。また3年連続での優勝馬輩出もシアンモアと並んで最多タイ記録。ただしJRA賞年度代表馬は2004年にゼンノロブロイが選ばれるまで出ていなかった。
| 年度 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 順位(日本総合) | 44位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 |
| 順位(中央競馬) | 31位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 |
| AEI(中央競馬) | 1.77 | 3.23 | 2.97 | 2.50 | 2.39 | 2.40 | 2.18 | 2.33 | 2.15 | 2.78 | 2.64 | 2.96 | 3.24 | 2.31 |
| 総出走頭数(中央競馬) | 32 | 89 | 134 | 166 | 211 | 260 | 337 | 374 | 413 | 429 | 499 | 468 | 361 | 249 |
| 総勝ち頭数(中央競馬) | 20 | 62 | 66 | 83 | 105 | 121 | 167 | 180 | 161 | 195 | 217 | 199 | 159 | 73 |
[編集] ブルードメアサイアーとしての成績
サンデーサイレンスをブルードメアサイアーに持つ競走馬は1997年に初めて誕生した。当初は激しい気性がマイナスに作用するのではないかと懸念されていた[69]が、2世代目から重賞優勝馬が、6世代目からGI級競走優勝馬が現れるなど徐々に成績を伸ばし、2007年に初めてリーディングブルードメアサイアーの座を獲得した(中央競馬のみの集計では2006年に初めて獲得)。
競走馬エージェントの柴田英次は、サンデーサイレンスは後述する種牡馬としての特徴である柔らかくしなやかな筋肉と激しい気性をブルードメアサイアーとしても遺伝させるとしている[70]。
| 年度 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 順位(中央競馬) | 760位 | 144位 | 88位 | 27位 | 5位 | 4位 | 2位 | 1位 | 1位 |
| AEI(中央競馬) | 0.12 | 0.71 | 0.62 | 0.89 | 1.19 | 1.36 | 1.57 | 1.66 | 1.81 |
| 総出走頭数(中央競馬) | 3 | 18 | 39 | 69 | 130 | 196 | 271 | 356 | 448 |
| 総勝ち頭数(中央競馬) | 0 | 6 | 12 | 22 | 46 | 62 | 94 | 118 | 154 |
[編集] サンデーサイレンス系種牡馬の活躍
サンデーサイレンス直仔の種牡馬は日本のリーディングサイアー上位を占める活躍を見せ、その産駒はサンデーサイレンス産駒が優勝できなかったNHKマイルカップ、ジャパンカップダート、中山大障害を含め数々のGI級競走を優勝している。さらに海外でもシーザリオ(父スペシャルウィーク)がアメリカンオークスインビテーショナルステークスを、デルタブルース(父ダンスインザダーク)がメルボルンカップを勝っている他、フジキセキ、タヤスツヨシ、バブルガムフェローといったシャトル種牡馬の産駒が南半球やドバイのG1優勝馬を輩出。更に仏国に輸出されたディヴァインライトの子であるナタゴラが、チェヴァリーパークステークスを制してカルティエ賞最優秀2歳牝馬を受賞し、さらに本場英国のクラシック1000ギニーを制するなど、その血は世界的な広がりを見せ始めている。
[編集] 他種牡馬・馬産地・レース体系などに与えた影響
同時代にデビューを果たした種牡馬は総じてサンデーサイレンスの前に苦戦を強いられた。特に内国産種牡馬は大きな打撃を受け、サンデーサイレンス以降にデビューした内国産種牡馬はおろか、サンデーサイレンス以前にサイアーランキングトップ10に入っていた実績のある内国産種牡馬すらも、ほぼすべて10位圏外に駆逐される結果となった。
またレースのペース配分も、サンデーサイレンス産駒が得意とする「道中は脚を溜め、第4コーナー~直線で一気に爆発」させる「直線ヨーイドン」のレースが主流となり、「スローペース症候群」と呼ばれるようになった。またそのようなレース展開が主流となるうちに競走馬に純然なスタミナは要求されなくなり、今まで短距離・中距離が得意と言われていた種牡馬・血統の産駒でも、長距離レースを勝つことが珍しくなくなってきた。
一方で、大レース勝ち馬の父がサンデーサイレンス一色に染まり一種のブランド現象とまで化した馬産界では、大レースを勝った「非サンデーサイレンス系」の種牡馬より、たとえ目立った勝ち鞍が無くとも「サンデーサイレンス系」であることの方が重要視される傾向になり、またそのような種牡馬は総じて種付け料も低額なため人気を集め、地方競馬でリーディング上位になる種牡馬も出るようになった。 これまでサンデーサイレンス産駒はほぼ全頭が中央競馬入りを果たしていたため、地方競馬にサンデーサイレンスの血を引く競走馬は多くなかったが、その孫がデビューするようになると地方競馬界にもサンデーサイレンス旋風が吹き荒れた。
そうしたサンデーサイレンス系の躍進と共に
- 馬産技術の進歩により種牡馬が1シーズンにより多くの繁殖牝馬に種付けが可能になり、人気種牡馬1頭で200頭以上もの牝馬と交配するのも珍しくなくなったこと
- サンデーサイレンス以降も毎年海外から種牡馬を多数輸入し、また出走条件の緩和に伴い外国産競走馬の登録数も増加していること
- 日本国内のサラブレッド生産数が1992年をピークに以降縮小傾向にあること
などの影響もあいまって、これまで数少ないながらも三代、四代と世代を重ねてきた日本古来の種牡馬が、繁殖牝馬を集められず後継を残せないまま直系が絶えてしまう例が多い。
そしてサンデーサイレンスの産駒が続々と「内国産種牡馬」として種牡馬デビューを果たし、順調な成績をあげた結果愛知杯、カブトヤマ記念、中日新聞杯といった父内国産馬限定の重賞の出走馬は「サンデーサイレンスの孫」が大半を占めるようになり、2004年の番組改編で愛知杯は牝馬限定に出走条件が変更、カブトヤマ記念は廃止となり、中日新聞杯も2008年に混合競走に変更され2009年からは国際競走となった。この結果中央競馬から父内国産馬限定重賞は姿を消した。また父内国産馬奨励制度そのものも2006年に廃止された。
[編集] 特徴・評価
- 気性
サンデーサイレンスの産駒は気性が激しいことで知られた。競走馬エージェントの柴田英次は、産駒は激しい気性から生まれる「狂気をはらむほど激しい闘争心」ゆえに痛みに対して従順でなく、「肉体の限界を超えるほどのチカラを発揮できた」と分析し、「種牡馬として成功した要因として、激しい気性があったのは間違いない」としている[71]。また仕上がりが早く、初年度産駒がデビューした1994年から最終世代がデビューした2005年までの間、1996年を除く11回[72]2歳リーディングサイアーを獲得した。競走馬仲介業者の富岡眞治は、成功を収めたサンデーサイレンス産駒には細身の馬が多く、通常そのような馬が晩成型であることが多いがサンデーサイレンス産駒の場合は馬体が未完成な時期にもクラシックを戦い抜く基本性能を備えていた点を高く評価している[73]。
- 柔らかさ
筋肉や繋ぎの柔らかさも特徴の一つである。富岡眞治は、サンデーサイレンスは飛節[74]の角度がやや深い点が難点であったが筋肉と繋ぎが柔らかい点に特徴があり、産駒についても飛節の難点を筋肉と繋ぎの特徴がカバーしていたとしている[75]。また、産駒は柔らかい筋肉を活かした素早い収縮運動により日本の固い馬場でのスピード勝負に対応できたとしている。この柔らかさについて岡田繁幸は当初「馬体が柔らかすぎて、まるで力強さが感じられない。決して誉められた馬ではない」という印象を抱いていたが、その後の活躍を受けて「相馬眼を180度覆された」としている[76][77]。
- 遺伝力の強さ
サンデーサイレンスは遺伝力が非常に強く[78]、「ほとんどどんな牝馬でも結果を残す」、「長距離血統でも短距離血統でも、とにかく繁殖牝馬を選ばない万能の種牡馬」と[79]といわれた。ただしブルードメアサイアーによって産駒には一定の傾向があり、たとえばダンチヒをブルードメアサイアーとする産駒は短い距離を得意とし、ヌレイエフをブルードメアサイアーとする産駒はダートを得意とする傾向があるともされる[80]。ブルードメアサイアーとの相性という点では、ノーザンテーストとの組み合わせ[81]で4頭が、ニジンスキー[82]、ヌレイエフ、トニービンとの組み合わせでそれぞれ3頭がGI級競走を勝っている。
- レース体系への対応
日本のレース体系が変化したことによる時代の勢いに乗ったという評価もある。作家の藤野広一郎は「サンデーサイレンスの種牡馬としての素質には端倪すべからざるものがある」としつつ、日本のサラブレッド生産が「圧倒的なマイラー志向に傾」き、「早熟で、手がかからなくて、仕上がりの早い、しかもスピード適性をもった産駒を送り出せる早熟型の種牡馬しか成功できなくなってきた」中で「時代傾向にのっかった」「早熟タイプの、完成度の高い器用な軽量級種牡馬で、別にのけぞって驚嘆するほどの種牡馬でもなく」、「トップクラスの国際級種牡馬と表現するのをためらわせる」としている[83]。また、安福良直はサンデーサイレンス産駒が最も得意とする芝2000mの新馬戦、未勝利戦が初年度産駒がデビューした1994年から2005年にかけて2.5倍に増えたことを挙げ、時代がサンデーサイレンス産駒が勝つほうへ勝つほうへと変化していると評した[84]。
- 客観的評価
アーニングインデックスをコンパラブルインデックスで割った数値[85]は同時期の有力種牡馬であるノーザンテーストやブライアンズタイム、トニービンなどを上回っている[86][87]。
晩年にはサンデーサイレンスの種付け料と産駒の購買価格、獲得賞金、種牡馬シンジケートの額を合計すると、同馬が1年間に動かす金額は100億円を超えるといわれた[88]。また年間150頭の繁殖牝馬に5年間種付けを行った場合、産駒の獲得賞金と種付け料を合計して1500億円の経済効果があるといわれた[89]。
- その他の評価
- 社台ファーム繁殖主任の水越治三郎は産駒について、色よく映らない見た目とは反対に肉体面がしっかりとしていて、やんちゃな気性の割に物覚えが良いと評した[90]。
[編集] 主な産駒
[編集] 日本調教馬
[編集] GI級競走優勝馬
勝ち鞍はGI級競走のみ表記。なお、産出した12世代全てでGI級競走優勝馬を輩出している。
- 1992年産
- 1993年産
- 1994年産
- 1995年産
- 1996年産
- スティンガー(阪神3歳牝馬ステークス)
- アドマイヤベガ(東京優駿)
- トゥザヴィクトリー(エリザベス女王杯)
- 1997年産
- 1998年産
- 1999年産
- ゴールドアリュール(ジャパンダートダービー、ダービーグランプリ、東京大賞典、フェブラリーステークス)
- デュランダル(スプリンターズステークス、マイルチャンピオンシップ(2003,2004))
- アドマイヤマックス(高松宮記念)
- 2000年産
- 2001年産
- 2002年産
- 2003年産
[編集] 重賞優勝馬
- 1992年産
- 1993年産
- 1994年産
- 1995年産
- 1996年産
- 1997年産
- 1998年産
- ダイヤモンドビコー(阪神牝馬ステークスなど重賞4勝)
- サンライズペガサス(毎日王冠など重賞3勝)
- ウインラディウス(京王杯スプリングカップなど重賞3勝)
- ミレニアムバイオ(マイラーズカップなど重賞3勝)
- アグネスゴールド(スプリングステークス、きさらぎ賞)
- チアズブライトリー(京阪杯、七夕賞)
- ローズバド(フィリーズレビュー、マーメイドステークス)
- ハッピーパス(京都牝馬ステークス)
- ボーンキング(京成杯)
- トラストファイヤー(ラジオNIKKEI賞)
- タガノテイオー(東京スポーツ杯3歳ステークス)
- ダイワルージュ(新潟3歳ステークス)
- タイムトゥチェンジ(マーチカップ)
- インターレジェンダ(九州記念)
- ダンツプライズ(中島記念)
- 1999年産
- 2000年産
- 2001年産
- 2002年産
- 2003年産
[編集] 海外調教馬
勝ち鞍はG1を含む主要競走。
- 1996年産
- 1999年産
- サイレントオナー(Silent Honor):チェリーヒントンステークス(英G2)
- サンデージョイ(Sunday Joy):オースラリアンオークス(豪G1)、WHストックスステークス(豪G3)
- 2000年産
- 2001年産
- 2002年産
[編集] ブルードメアサイアーとしての主な産駒
[編集] 日本調教馬
[編集] GI級競走優勝馬
勝ち鞍はGI級競走のみ表記。
- 2002年産
- 2003年産
- 2004年産
- 2005年産
- トールポピー:阪神ジュベナイルフィリーズ、優駿牝馬(父ジャングルポケット・母アドマイヤサンデー)
- レジネッタ:桜花賞(父フレンチデピュティ・母アスペンリーフ)
- サクセスブロッケン:ジャパンダートダービー、フェブラリーステークス(父シンボリクリスエス・母サクセスビューティー)
- 2006年産
- セイウンワンダー:朝日杯フューチュリティステークス(父グラスワンダー・母セイウンクノイチ)
[編集] 重賞優勝馬
- 1998年産
- 1999年産
- 2000年産
- サカラート:ブリーダーズゴールドカップなど重賞4勝(父アフリート)
- アイポッパー:阪神大賞典、ステイヤーズステークス(父サッカーボーイ)
- スズノマーチ:エプソムカップ(父ティンバーカントリー)
- 2001年産
- 2002年産
- 2003年産
- 2004年産
- 2005年産
[編集] 海外調教馬
- 2005年産
- Tale of Ekati:ウッドメモリアルステークス、シガーマイルハンデキャップ(父Tale of the Cat・母Silence Beauty)
- Young Pretender:ラロシェット賞(父Oasis Dream・母Silent Heir)
[編集] 高額落札馬
2億円を超える落札額の産駒は以下の6頭いたが、獲得賞金が落札額を上回ったのは、アドマイヤグルーヴのみであった。
- トーセンダンス(3億3500万円)
- フサイチジャンク(3億3000万円)
- カーム(3億2000万円)
- アドマイヤグルーヴ(2億3000万円)
- ミステリアスアート(2億2000万円)
- アサクサキンメダル(2億500万円)
[編集] 未勝利のJRAGI級競走
[編集] 平地競走
- NHKマイルカップ
- デアリングハートの2着が最高
- ジャパンカップダート
- ゴールドアリュールの5着が最高
[編集] 障害競走
- 中山グランドジャンプ
- マキシマムプレイズの13着が最高
- 中山大障害
- ウインマーベラスの2着が最高
[編集] 血統表
| サンデーサイレンスの血統 (ヘイロー系/Mahmoud4×5=9.38%) | |||
|
父
Halo 1969 黒鹿毛 アメリカ |
Hail to Reason 1958 黒鹿毛 アメリカ |
Turn-to | Royal Charger |
| Source Sucree | |||
| Nothirdchance | Blue Swords | ||
| Galla Colors | |||
| Cosmah 1953 鹿毛 アメリカ |
Cosmic Bomb | Pharamond | |
| Banish Fear | |||
| Almahmoud | Mahmoud | ||
| Arbitrator | |||
|
母
Wishing Well 1975 鹿毛 アメリカ |
Understanding 1963 栗毛 アメリカ |
Promised Land | Palestinian |
| Mahmoudess | |||
| Pretty Ways | Stymie | ||
| Pretty Jo | |||
| Mountain Flower 1964 鹿毛 アメリカ |
Montparnasse | Gulf Stream | |
| Mignon | |||
| Edelweiss | Hillary | ||
| Dowager F-No.3-e | |||
[編集] 血統的背景
母のウィッシングウェルは12勝(うち重賞2勝)を挙げたが、その母系を遡るとマウンテンフラワー、エーデルワイス、ダウィジャー、マルセリーナはいずれも競走馬として優勝したことがない。前述のように母系が地味であることが種牡馬としてのサンデーサイレンスの評価を下げる一因となった。
サンデーサイレンスは非常に気性が荒かったが、父のヘイローも突然人を襲うなど気性の荒い馬として知られ[93]、母のウィッシングウェルも競走馬時代の管理調教師が「気が違っているんじゃないか」と思うほど気性が悪い馬であった[94]。
[編集] 参考文献
- レイ・ポーリック『運命に噛みついた馬 サンデーサイレンス物語』 産業経済新聞社、2002年 ISBN 4594034772
- 別冊宝島1290『サンデーサイレンス大全』 宝島社、2006年 ISBN 4796652000
- 柴田哲孝『サンデーサイレンスの奇跡』 KKベストセラーズ、2008年 ISBN 4584130841
- 合田直弘「サンデーサイレンス物語」 『TURFHERO 2002』、p161-169、中央競馬ピーアール・センター、2003年
- 村本浩平「サンデーサイレンスの実像」 『全部見せます中央競馬2002』、p136-137 エンターブレイン、2003年1月 ISBN 4757712758
- 藤野広一郎「サンデーサイレンスの約束の土地」 『プーサンvol.5』、p4-119 大村書店、1996年11月 ISBN 4756310125
- 『春競馬満開宣言!』 宝島社、1999年3月 ISBN 4796694358
- 「富岡眞治の血と馬体の相馬学」 『サラブレ』2002年11月号、p124-127 エンターブレイン
- 「金満血統王国」 『サラブレ』2002年11月号、p78-83 エンターブレイン
- 「母父サンデーサイレンスはなぜ走る?」 『サラブレ』2008年4月号、エンターブレイン
- 「母父サンデーサイレンスとは、ポン酢だ!」 『サラブレ』2008年4月号、p24-25 エンターブレイン
- 『サラブレ』2002年12月号、エンターブレイン
[編集] 脚注
- ^ 合田(2003)p.162
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.47
- ^ 脚の中ほどの関節
- ^ 下半身の推進力にかける体型とされる
- ^ ストーンファームの経営者アーサー・ハンコック3世は「脚がひょろ長くて、上体は華奢」と評した。(合田(2003)p.162)
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.8、合田(2003)p.162
- ^ 母のウィッシングウェルの実質的所有者であったトム・ティザムのアドバイザー
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.50-51
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.52
- ^ ケンタッキー州で行われる世界的に有名なセリ市
- ^ この年のキーンランド・ジュライセールに出品された1歳馬の平均落札価格は約14万3600ドル
- ^ テッド・キーファーのアドバイスによるものだった
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.54-56
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.57、合田(2003)p.163
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.7-9、合田(2003)p.163
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.58
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.56-57
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.57-58
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.93-94
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.95-96,102-103
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.103
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.107,110
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.125
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.127-132
- ^ 合田(2003)p.165
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.164-165
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.179-180,182
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.86-87
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.13-14
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.174,190
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.144,198
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.160
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.181-182
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.13-14
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.128
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.134-135
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.149
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.199
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.208-209
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.210-211、合田(2003)p.166
- ^ 吉田が支払った対価は正確には1990年初頭にアーサー・ハンコック3世に支払った250万ドル(持ち分の半分(全体の4分の1)の対価)と、その後3人の所有者に支払った750万ドル(残りの4分の3の対価)、さらにウィッティンガムに対する補償(4頭分の生涯種付け権とシンジケート株の4分の3)
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.211-212
- ^ 『サンデーサイレンスの実像』
- ^ NHKマイルカップとジャパンカップダート、中山グランドジャンプ、中山大障害が未勝利
- ^ 種牡馬時代の厩務員を務めた佐古田直樹は、最大で年間224頭の繁殖牝馬と交配したことについて「まるで種付けマシーンのようです。あれだけ多くの牝馬に種付けを行っていながら、仕事を嫌がるような様子は全然見えません」と評した
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.218-220
- ^ 最高価格は2002年の第5回セールで落札されたトーセンダンス(ダンシングキイの2002)の約3億5000万円。高額落札馬および活躍馬の詳細についてはセレクトセールを参照。
- ^ ステイゴールド、ハットトリック、ハーツクライが各1勝
- ^ 南半球における繁殖シーズンである秋に日本で交配した
- ^ 「サンデーサイレンス物語」(『TURFHERO 2002』p168)
- ^ 上腕骨と中節骨をつなぐ腱の外側
- ^ 柴田(2008)p.11
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.67,74-75
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.7-9
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.204
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.226
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.181
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.62-63、柴田(2008)p.7
- ^ レイ・ポーリック(2002)pp.180-181
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.194
- ^ 25億120万7000円。従来の記録はノーザンテーストが1991年に記録した21億4451万5000円。
- ^ なお、中央競馬における従来の記録としてはライジングフレーム、ヒンドスタン、トニービンが3世代の産駒でリーディングサイアーを獲得していた。
- ^ 日本国外をみるとイギリスにおいてビーマイゲスト、クリス、カーリアンなどが2世代の産駒でリーディングサイアーを獲得している。
- ^ なお地方競馬のリーディングサイアーランキングでは2002年に6位となったのが最高記録
- ^ 2004年に328勝
- ^ 2003年に38勝
- ^ 2005年に92億2004万4000円を獲得
- ^ 従来の世界最多記録はオーストラリアの種牡馬スモーキーアイズが1956年から1980にかけて記録した2796勝
- ^ 「母父サンデーサイレンスはなぜ走る?」(『サラブレ』2008年4月号 p10)
- ^ 「母父サンデーサイレンスとは、ポン酢だ!」
- ^ 「母父サンデーサイレンスとは、ポン酢だ!」
- ^ 中央競馬のみの集計
- ^ 「富岡眞治の血と馬体の相馬学」
- ^ 後脚の膝にあたる部分
- ^ 「富岡眞治の血と馬体の相馬学」
- ^ 岡田はサンデーサイレンスに対する評価を改めた後、所有する繁殖牝馬とサンデーサイレンスを交配させるようになった。また、2000年のセレクトセールにおいて3億2000千万円で当歳馬(後のカーム)を購入した
- ^ 『サンデーサイレンスの実像』
- ^ 伊藤雄二による評価(『春競馬満開宣言!』 p102)
- ^ 社台ファーム代表の吉田照哉による評価(レイ・ポーリック(2002)p.220)
- ^ 「金満血統王国」
- ^ この組み合わせは重賞勝ち馬は複数出すものの長らくGI級競走馬を輩出できず、相性が良くないとされている時期もあった。
- ^ なお、母父ニジンスキーの3頭のGI馬は、全てダンシングキイの産駒である。
- ^ 「サンデーサイレンスの約束の土地」(『プーサンvol.5』p20-24)
- ^ 別冊宝島1290(2006)p.36
- ^ 産駒の収得賞金に加え繁殖牝馬の質の高さを考慮するため、種牡馬の本当の実力が分かるとされる。
- ^ 2005年末の試算で2.02。ちなみにノーザンテーストは1.83、ブライアンズタイムは1.58、トニービンは1.32。
- ^ 別冊宝島1290(2006)p.33
- ^ 『サンデーサイレンスの実像』
- ^ 柴田(2008)p.9
- ^ 『サンデーサイレンスの実像』
- ^ 『春競馬満開宣言!』 p102
- ^ 2000年に日本へ移籍
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.8
- ^ レイ・ポーリック(2002)p.42
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