田原成貴

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田原成貴とファイトガリバー(1996年4月7日・第56回桜花賞 阪神競馬場

田原 成貴(たばら せいき、1959年1月15日 - )は日本中央競馬会の元騎手、元調教師である。島根県鹿足郡柿木村(現在の吉賀町)出身。デビュー当時は谷八郎厩舎に所属。叔父に競艇選手がおり、また競艇選手の西島義則とは従兄弟の関係に当たる。そのため、競艇選手になることも一時は考えていた。「競馬界の玉三郎」「天才」などと称された。

目次

[編集] 騎手時代

自身の回想によると、1973年日本ダービーにおいて嶋田功タケホープに騎乗しハイセイコーを破ったことから騎手を志した、としている。

1974年馬事公苑長期騎手課程第25期生として入苑、当時の身長は155cm。1年学んだのち谷八郎厩舎に所属、この時には165cmと騎手としてはすでに長身になっていた。ここで兄弟子・田島良保に出会う。その後騎手試験に臨んだが落ち、3年間谷厩舎において修行の日々を送る。

1978年3月4日谷厩舎所属騎手としてデビュー。テンシンニシキで初騎乗、初勝利を挙げる。この年28勝を挙げ新人賞を獲得。翌1979年は63勝を挙げ、全国リーディングジョッキーは1勝差で逃すも関西リーディングジョッキーとなった。現在のGI競走に該当するレースの初勝利は、ダイゼンキングで制した1982年阪神3歳ステークス。同年には87勝を挙げて2度目の関西リーディングを獲得。

1983年にはリードホーユー有馬記念を制するとともに、103勝を挙げ、初の全国リーディングジョッキーに輝く。またこの1983年には、2回中京開催において20勝を挙げ1開催20勝の日本記録(当時)を達成した。

1984年に中央競馬にグレード制が施行された後、最初のGI桜花賞ダイアナソロンで制した。この年100勝を挙げ2年連続の全国リーディングジョッキーとなった。 1986年6月21日中京競馬の競走中に落馬。左腎臓の摘出手術を行なう。 1987年にはマックスビューティで桜花賞、優駿牝馬を制覇。 1990年3月4日阪神競馬場で行なわれたペガサスステークスアーリントンカップの前身競走、コガネタイフウに騎乗)で落馬し第2・3腰椎および骨盤骨折。これを機にレース数を絞って騎乗することとなる。

1993年の第38回有馬記念でトウカイテイオーに騎乗。1年振りのレースとなる同馬を勝利へと導き、表彰式では涙を見せる。 1994年9月に通算1000勝を達成。以後、マヤノトップガン菊花賞、有馬記念、宝塚記念天皇賞(春))、フラワーパーク高松宮杯スプリンターズステークス)などでGIレースを制する。 上記、フラワーパーク騎乗の1996年スプリンターズステークスにおいては、写真判定の結果わずか1cmの着差を制して勝利している。

1998年2月21日2回京都競馬第9競走でメガラに騎乗(2着)、これを最後に騎手引退。最終年度における身長は169cm体重は51kgであった。通算成績8648戦1112勝。JRA重賞65勝。

[編集] GI(級)競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別)

  • 1982年
    • 阪神3歳ステークス - ダイゼンキング
  • 1983年
    • 有馬記念 - リードホーユー
  • 1984年
  • 1987年
    • 桜花賞 - マックスビューティ
    • 優駿牝馬(オークス) - マックスビューティ
  • 1989年
    • 阪神3歳ステークス - コガネタイフウ
  • 1993年
    • 有馬記念 - トウカイテイオー
  • 1995年
  • 1996年
    • 桜花賞 - ファイトガリバー
    • 高松宮杯 - フラワーパーク
    • 宝塚記念 - マヤノトップガン
    • スプリンターズS - フラワーパーク
  • 1997年
    • 天皇賞(春) - マヤノトップガン

以上JRA・GI(級)16勝。有馬記念3勝は岡部幸雄オリビエ・ペリエに並ぶ最多タイ記録。

[編集] 年度別成績

勝利数 勝率 連対率 備考
1978年 28勝 .112 .205 関西放送記者クラブ賞(最多勝利新人騎手)
1979年 63勝 .142 .257 関西リーディング1位、全国2位
1980年 52勝 .118 .210 通算100勝
1981年 58勝 .131 .243
1982年 87勝 .165 .249 関西リーディング1位、全国2位
1983年 104勝 .152 .302 全国リーディング1位
1984年 100勝 .175 .295 全国リーディング1位
1985年 47勝 .152 .249
1986年 51勝 .180 .313
1987年 58勝 .154 .288
1988年 60勝 .126 .245
1989年 66勝 .127 .238
1990年 38勝 .091 .195
1991年 33勝 .091 .160
1992年 48勝 .110 .204
1993年 61勝 .113 .229
1994年 62勝 .110 .206 通算1000勝
1995年 47勝 .104 .219
1996年 40勝 .103 .191
1997年 8勝 .053 .120
1998年 1勝 .100 .200

以上通算8648戦1112勝、うち障害競走は1978年2戦0勝。重賞65勝。

[編集] 引き起こしたトラブル

騎手として華々しい活躍をする一方、数多くのトラブルも引き起こした。以下、主なトラブルについて記述する。

サルノキング事件
サルノキングの騎乗法について八百長の疑惑がかけられた事件。詳細についてはサルノキング事件を参照。
マックスビューティ降板事件
1987年に田原の騎乗で二冠を制したものの、翌年はスランプに陥り田原が責任を取らされるかたちで降ろされてしまった。田原はそれを不服として伊藤雄二厩舎と絶縁状態となり、同厩舎の競走馬には引退するまで一切騎乗しなくなった。
サンエイサンキュー事件
サンエイサンキューの体調に関する発言を巡り、サンケイスポーツと対立した事件。詳細についてはサンエイサンキューの項目を参照。
スポーツニッポン記者殴打事件
京都競馬場の検量室内において、田原が振るった鞭がスポーツニッポンの記者・橋本全弘の顔面に当たり、重傷を負わせた事件。

[編集] 調教師時代

1999年に厩舎を開業。厩舎に「黒の軍団チーム田原」というニックネームを付けてお揃いのTシャツなどをユニフォームとして活動した。また、厩舎の軽トラックのニックネームを公募したり、公式ファンクラブ(「サテライト」と呼んでいた)を結成したり、オリジナルグッズを販売したりするなどユニークな運営で注目された。開業翌年の2000年フサイチゼノン弥生賞を制し重賞初制覇。しかし皐月賞へ向けての馬の状態を巡り馬主関口房朗と対立。同レースの回避を独断で行なったことに関口が激怒し、同馬は森秀行厩舎へ移籍。管理馬の耳に小型発信装置を取り付けて調教するなど奇怪な行動が目立つようになった。

以前は中央競馬の騎手として1000勝以上の勝利を挙げると調教師試験の一次試験を免除となるシステムがあり、田原もその制度を利用して調教師免許を取得したが、上記の田原の奇怪な行動などにより「時代の変化により、騎手としての実績のある者が必ずしも調教師として適切な資質があるとは限らなくなった」との理由で調教師一次試験免除のシステムが2003年の試験をもって廃止されるきっかけとなった。これにより当時すでに2000勝をあげていたベテラン騎手河内洋が騎手としての余力が十分残っているにもかかわらず引退することとなった。

[編集] 逮捕・調教師免許剥奪

2001年10月8日9・11事件直後で厳戒な警備体制の敷かれる中、羽田空港で機内にナイフを持ち込もうとして身柄を拘束される。手荷物検査でナイフの所持が発覚したため、銃刀法違反の現行犯で逮捕。身柄拘束後に覚醒剤を所持していることが判明し覚醒剤取締法違反で再逮捕された。12月21日に調教師免許を剥奪。12月27日に、東京地裁で懲役2年執行猶予3年の判決を受け、控訴せず刑が確定。2002年1月18日、日本中央競馬会は2017年1月18日までの15年間の競馬への関与を停止(トレーニングセンターなどへの立入禁止など)する処分を発表。

その後は2002年5月には自身の覚醒剤の経験を記した『いかれポンチ』を出版。一方で有料制の競馬予想ホームページを開設。

[編集] 主な管理馬

フサイチの馬以外には、現役時代から懇意にしていた「ヤマニン」の土井肇西山牧場の馬を主に管理していた。

[編集] エピソード

  • 競馬に限らず音楽活動、漫画家本宮ひろ志の元で漫画原作などの執筆活動などマルチに活躍した。
  • 競艇を好み(親族に競艇関係者がいる影響と思われる)、ファン側の勝負観を学ぶという理由で後輩騎手を連れ出してはびわこ競艇場へよく繰り出していた。
  • セガの競馬メダルゲームである『STARHORSE2』に実名で登場している。

[編集] テレビ出演

[編集] 主な著書および漫画原作

[編集] CD・レコード

  • 自由にさせてほしいのさ(B面:ひとりぼっちのセンチメンタル)(1984年)
  • The Rocks(1996年)

[編集] 外部リンク

先代:
河内洋
山田泰誠
南井克巳
有馬記念優勝騎手
1983年
1993年
1995年
次代:
岡部幸雄
南井克巳
横山典弘