ミスターシービー

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ミスターシービー
Mrcb19831113.jpg
菊花賞出走時(1983年11月13日)
英字表記 Mr.C.B.
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1980年4月7日
死没 2000年12月15日
(20歳没・旧21歳)
トウショウボーイ
シービークイン
母の父 トピオ
生国 日本の旗 日本北海道浦河町
生産 千明牧場
馬主 (株)丸沼温泉ホテル
調教師 松山康久美浦
厩務員 佐藤忠雄
競走成績
生涯成績 15戦8勝
獲得賞金 4億959万8100円
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ミスターシービー日本競走馬の馬名であり、日本競馬史において同名の競走馬が2頭存在する[注 1]

本項では後者について記述する。

概要[編集]

1982年11月に競走馬としてデビュー。翌1983年に皐月賞東京優駿(日本ダービー)菊花賞を制し、1964年のシンザン以来19年振り・史上3頭目の中央競馬クラシック三冠を達成。翌1984年には天皇賞(秋)も制して四冠馬となったが、以降は一世代下に現れた三冠馬・シンボリルドルフとの対戦にことごとく敗れ、勝利のないまま1985年秋に故障で競走生活を退いた。その後は種牡馬となったが、期待されたほどの成績が上がらず、1999年に種牡馬も引退。翌2000年12月15日に蹄葉炎で死亡した。

競走馬時代は吉永正人主戦騎手とし、天衣無縫、常識破りと言われた追い込み戦法や、端正な容貌などから大きな人気を博した。中央競馬において1980年代を代表するアイドルホースとされる。

デビューから引退まで終始同じ騎手が手綱を握った最初の三冠馬である(後にシンボリルドルフディープインパクトも終始同じ騎手が手綱を取っている。)

出生[編集]

1980年4月、母シービークインの預託先であった北海道浦河町の岡本牧場で生まれる[1]。父トウショウボーイは競走馬時代に「天馬」と称され一時代を築いた快速馬、母も重賞3勝を挙げた実力馬であり、両馬は競走馬時代に同じ新馬戦でデビューしている[注 2]。出生後の幼名は特になく、競走名を付けられるまでは暫定的に「シービークインの1」とされた[1]

トウショウボーイの産駒は総じて後躯の重心が安定せず、「腰が甘い」馬が多いと言われていたが、本馬の腰はしっかりとしており、「トウショウボーイの良いところだけを全てもらったような馬」と評判となった[2]。その後岡本牧場で離乳を終え、翌1981年3月、シービークインの所有者・本馬の公の生産者である群馬県片品村の千明牧場に移動、育成調教が積まれた[3]

競走年齢の3歳に達した1982年春、競走名「ミスターシービー」と名付けられ、茨城県美浦トレーニングセンター松山康久厩舎に入る。馬名には前述の初代・本馬ともに、生産者である千明牧場 (Chigira Bokujou) を代表する馬という意味が込められていた[4]。所属は初め、シービークインを管理していた松山吉三郎厩舎が予定されていたが、吉三郎の都合により息子の康久へと変更になったものである[3]

戦績[編集]

3歳時(1982年)[編集]

11月16日、東京開催の新馬戦でデビューを迎える。鞍上は母の主戦騎手でもあった吉永正人が務め、以後引退まで一貫して吉永が騎乗した。この初戦は先行策から2着に5馬身差を付けて快勝し、初戦勝利を挙げる。しかし2戦目の黒松賞(400万下条件戦)では、スタートの出遅れから先行勢に追い付いていく展開となり、直線での先行馬との競り合いを制してのクビ差辛勝となる[5]。そして年末に出走したひいらぎ賞(800万下条件戦)では、発走時に発馬機内で激しく暴れた末に、スタートで再び大きく出遅れた[6]。前走では先行集団に追い付くまでに体力を消耗していたため、吉永は無理に前を追い掛けず、そのまま後方待機策を取った[6]。結果、先行したウメノシンオーにクビ差届かず、ミスターシービーは初の敗戦を喫した。しかし最後の直線で鋭い追い込みを見せたことで「あいつのことが分かった気がするんだ」と吉永はご機嫌で妻に語ったという。以降ミスターシービーは追い込み馬となる。

4歳時(1983年)[編集]

春 - クラシック二冠[編集]

翌1983年は、2月13日の共同通信杯4歳ステークスから始動。後方待機から第3コーナーで位置を上げていくと、前走で敗れたウメノシンオーとの競り合いをアタマ差制して優勝、重賞初制覇を果たした。続く弥生賞では、レース後半に内埒沿いのコースから馬群の間を縫うように上がっていき[7]、この時点で自己最速の上がり3ハロン35秒8を計時して快勝した。

4月17日、クラシック初戦・皐月賞を迎える。当日の競走は降雨の中で、追い込み馬には不利とされる不良馬場での施行となった。シービーは道中16-17番手を進むと、向正面から先行馬を捉えに上がっていき、最終コーナーでは先頭を行っていたカツラギエースの直後に付けた。最後の直線に入ると早々に先頭に立ち、直後に追い込んできたメジロモンスニーを半馬身抑えて優勝。クラシック最初の一冠を獲得した。これは吉永にとっても初めてのクラシック制覇であり、松山にとっては開業9年目での八大競走初制覇となった。

続く二冠目の東京優駿(日本ダービー)では、単勝オッズ1.9倍の圧倒的1番人気に支持された。競走前のパドックにおいて、シービーのトレードマークともなっていたハミ吊り[注 3]が切れ、新馬戦以来のハミ吊りなしでの臨戦となった[8]

20を優に越える頭数で行われていた当時のダービーには「10番手以内で第1コーナーを回らなければ勝てない」とされた「ダービーポジション」というジンクスがあった。しかしシービーはスタートで出遅れて最後方からの運びとなり、道中は先頭から20馬身程度離れた17番手を進んだ。その後、向正面出口から徐々に進出すると、第3コーナー出口の地点では先頭から6番手の位置まで押し上げた[9]。しかし最終コーナーに入った地点で、外に斜行してきたタケノヒエンを回避した際、さらに外を走っていたキクノフラッシュと衝突した上、後方から進出してきたニシノスキーの進路を横切る形となった。ミスターシービーはそこから体勢を立て直して先行勢を追走すると、内で粘るビンゴカンタを一気に交わし、そのままゴールまで駆け抜けて1位で入線した。皐月賞に続き、2着にも追い込んだメジロモンスニーが入った。

競走後、第4コーナーにおけるキクノフラッシュとの衝突、ニシノスキーへの進路妨害に対する審議が行われた。この結果、ミスターシービーの優勝に変更はなかったが、吉永には開催4日間の騎乗停止と、優勝トロフィーの剥奪という処分が下された[10][注 4]

秋 - 19年ぶりの三冠達成[編集]

競走後はクラシック最後の一冠・菊花賞に備え、夏場を休養に充てた。放牧には出されず、美浦に留まっての休養であったが、この最中に挫石[注 5]を起こしてを痛め、さらに夏の暑さと痛みのストレスから夏風邪に罹った[11]。これを受け、秋緒戦に予定されていたセントライト記念を断念[11]、前哨戦は関西に移動しての京都新聞杯に切り替えられた。

10月23日に迎えた復帰戦は単勝オッズ1.7倍の1番人気となるも、前走から12kg増と太め残りで、精気も乏しかった[注 6]。レースの流れも先行馬有利のスローペースで推移し、勝ったカツラギエースから7馬身以上離されての4着と、初めて連対(2着以内)を外す結果となった。しかし調整途上で一定の走りを見せたことで、松山は体調が良化したと判断し、クラシック最終戦へ向けて厳しい調教を課していった[12]

三冠が懸かった菊花賞では1番人気に支持されたが、スタミナ豊富とは言えず、本競走にも敗れていた父の印象から、3000mという長距離に対する不安説も出ていた[13]。スタートが切られると、道中は1000m通過59秒4という速めのペースの中、最後方を進んだ。しかし周回2周目の第3コーナー上り坂から先行馬を次々と交わしていくと、ゆっくり下ることがセオリーとされる最終コーナーの下り坂を、加速しながら先頭に立った。このレース運びに観客スタンドからは大きなどよめきが起こり、また関係者からも驚きの反応が出た[注 7][注 8]。しかしシービーは大きなリードを保ち続けて最後の直線を逃げ切り、1964年シンザン以来19年振りとなる、史上3頭目の中央競馬クラシック三冠を達成した。父内国産馬が三冠馬となったのは、日本競馬史上初めてのことである。また、デビュー戦から三冠達成まで全て一番人気に支持されており、こちらも史上初である[注 9]

ゴールの後、民放テレビの中継アナウンスを務めた杉本清は、「驚いた、もの凄い競馬をしました。ダービーに次いでもの凄い競馬をしました。坂の下りで先頭で立った9番のミスターシービー」と驚きを露わにした[14]。後に吉永はレース運びについて、「ぼつぼつ行くつもりだったんだけど、シービーが全速力で行っちゃった。僕はただ捕まってるだけでしたよ」と語っている[15]

競走後も好調を維持していたが、11月末の国際招待競走ジャパンカップは回避。さらに年末のグランプリ競走有馬記念も、千明牧場の意向により回避した。このローテーションには批判もあり、ジャパンカップの競走前に行われた記者会見では、英紙スポーティング・ライフ記者のジョン・マクリリックが「今年はミスターシービーという三冠馬が出たと聞いているが、出走していないのはなぜか。日本で一番強い馬が出ていないのはどういうことか」と、招待者である日本側の姿勢を問い質す場面もあった[16]。また、競馬評論家の石川ワタルは当時を回想し、休養を優先した陣営の心情に理解を示しつつも「正直なところ、失望した」と述べている[17]

5-6歳時(1984-1985年)[編集]

「四冠馬」となる[編集]

翌1984年初戦にはアメリカジョッキークラブカップ出走を予定していたが、施行馬場が降雪によりダートに変更される可能性が高くなり、出走を取りやめた[18]。この頃より蹄の状態が再び悪化し、次走予定の中山記念も回避し、春シーズンは全休となった[18]

10月初旬に毎日王冠で復帰したが、ほぼ一年ぶりの実戦、かつ追い切りで格下の馬に大いに遅れたためもあって、初めて1番人気を公営大井競馬から中央に移籍してきたサンオーイに譲った。しかし、レースでは後方待機からカツラギエースを捉えきれず2着に敗れたものの、当時としては破格の上がり3ハロン33秒7(推定)を計時した[19]。なお、この前日から東京競馬場に初めて「大型映像ディスプレイ(ターフビジョン)」が設置され、後方を進むシービーがスクリーンに映った瞬間には、スタンドから大きな歓声が上がった[20]

このレースで健在を印象付け、次走天皇賞(秋)(10月28日)では、単勝オッズは1.7倍という圧倒的な1番人気に支持された[21]。この回から3200mから2000mになった秋の天皇賞。レースは縦長となった隊列の最後方を進み、一時先頭から約20馬身の位置に置かれる形となる。しかし第3コーナーからスパートを掛け始めると、直線では最後方大外から全馬を抜き去って優勝し、四冠馬となった。走破タイム1分59秒3はコースレコード。また、この勝利によりシンザン以降続いていた天皇賞(秋)の1番人気連敗記録を19で止めた。

シンボリルドルフとの対戦 - 引退[編集]

この翌週に行われた菊花賞で、一世代下のシンボリルドルフがシービーに続くクラシック三冠を達成。シービーが次走に選択したジャパンカップに同馬も出走を表明したため、日本競馬史上初めてとなる三冠馬同士の対戦が実現した。ルドルフは菊花賞より中一週という強行軍、かつ初の古馬との対戦ということもあって、当日はシービーが1番人気、ルドルフは4番人気という順となったが、現在の評価に反して、純粋にシービーのほうが強い(と思う)という評価も多かった。しかしシービーは終始後方のまま10着と大敗。ルドルフも3着に終わった。レースは10番人気という低評価を受けていたカツラギエースが優勝し、日本勢として初めてのジャパンカップ制覇を果たした。この競走でシービーは闘争心を発揮しなかったといい[22]、また「シービーは、バテて下がってくる先行馬を見たら行く気を出したのだが、さすがにジャパンカップではバテる馬がいなかった」とも述べ、後に「先行策を採るべきだった」と、自身の騎乗ミスを口にしている[23]

年末に迎えた有馬記念では、出走馬選定のファン投票で第1位に選出されたが、当日の単勝人気はシンボリルドルフに次ぐ2番人気となった。松山の「馬群に入って戦え」という指示もあってか、珍しくスタート直後から手綱がしごかれたが、やっと2頭をかわしただけで、スタンド前では逃げるカツラギエースからは15馬身後方の位置取りとなった。残り1000mで早めにスパートするも、インコースに突っ込んで前がふさがったため、早めに抜け出したシンボリルドルフ、さらに逃げ粘ったカツラギエースも捉えきれず、3着に終わった。

競走生活最後の年となった1985年は、3月31日の大阪杯から始動。当日1番人気に支持されるも、格下と見られたステートジャガーに競り負け、2着に敗れた。迎えた天皇賞(春)で三度シンボリルドルフと対戦。この競走では松山の指示により新馬戦以来となる先行策を採る作戦だったが[24]、実際は菊花賞と同じ二週目の坂で後方から一気にまくって出た。スズカコバンと並んで最終コーナーは先頭で回ったものの、そこで力つきたところを、ルドルフに楽々とかわされ、同馬から10馬身以上離された5着に終わった。これは作戦ではなく暴走だといわれているが、実は「後半から暴走させる」というのがシービーの戦法だったことが露呈したレースだった。

その後脚部不安を生じて休養、夏に函館競馬場に入って調教を再開したものの、直後に骨膜炎を発症して復帰を断念し、引退[25]。同年10月6日に東京競馬場で引退式が雨の中で執り行われた。

翌1986年、四冠が評価される形で顕彰馬に選出。1984年に父トウショウボーイも選出されていたため、史上初の父子顕彰馬となった。

競走成績[編集]

年月日 競馬場 競走名 オッズ 着順 距離 タイム(3F 着差 騎手 勝馬/(2着馬)
1982 11. 6 東京 3歳新馬 2.0(1人) 1着 芝1600m(稍) 1:38.5 (38.7) 5身 吉永正人 (ヒラタカエイコー)
12. 4 中山 黒松賞 1.9(1人) 1着 芝1600m(良) 1:36.3 (36.0) クビ 吉永正人 (ユウフブキ)
12. 25 中山 ひいらぎ賞 2.2(1人) 2着 芝1800m(良) 1:50.4 (36.2) クビ 吉永正人 ウメノシンオー
1983 2. 13 東京 共同通信杯4歳S 2.6(1人) 1着 芝1800m(良) 1:49.5 (37.4) アタマ 吉永正人 (ウメノシンオー)
3. 6 中山 弥生賞 2.7(1人) 1着 芝1800m(良) 1:50.2 (35.8) 1 1/2身 吉永正人 (スピードトライ)
4. 17 中山 皐月賞 2.4(1人) 1着 芝2000m(不) 2:08.3 (39.8) 1/2身 吉永正人 (メジロモンスニー)
5. 29 東京 東京優駿 1.9(1人) 1着 芝2400m(良) 2:29.5 (37.9) 1 3/4身 吉永正人 (メジロモンスニー)
10. 23 京都 京都新聞杯 1.7(1人) 4着 芝2000m(良) 2:03.2 (36.8) -1.2秒 吉永正人 カツラギエース
11. 13 京都 菊花賞 2.1(1人) 1着 芝3000m(良) 3:08.1 (38.2) 3身 吉永正人 (ビンゴカンタ)
1984 10. 7 東京 毎日王冠 GII 2.9(2人) 2着 芝1800m(良) 1:47.5 (33.7) アタマ 吉永正人 カツラギエース
10. 28 東京 天皇賞(秋) GI 1.7(1人) 1着 芝2000m(良) 1:59.3 (34.8) 1/2身 吉永正人 (テュデナムキング)
11. 25 東京 ジャパンC GI 3.3(1人) 10着 芝2400m(良) 2:28.2 (35.3) -1.9秒 吉永正人 カツラギエース
12. 23 中山 有馬記念 GI 3.0(2人) 3着 芝2500m(良) 2:33.3 (35.2) -0.5秒 吉永正人 シンボリルドルフ
1985 3. 31 阪神 大阪杯 GII 1.7(1人) 2着 芝2000m(良) 2:01.4 (35.5) ハナ 吉永正人 ステートジャガー
4. 29 京都 天皇賞(春) GI 3.7(2人) 5着 芝3200m(良) 3:22.3 (39.2) -1.9秒 吉永正人 シンボリルドルフ

※1984年、グレード制導入

種牡馬時代[編集]

引退後は種牡馬となり、内国産種牡馬として初めて社台スタリオンステーションに繋養された。名種牡馬トウショウボーイの後継、またトウショウボーイと交配できない生産者に対する代用的な存在として期待を集めると[26]、初年度産駒からヤマニングローバル、スイートミトゥーナ、メイショウビトリアと3頭の重賞勝利馬を輩出。1989年度の新種牡馬ランキングで1位を獲得した。2年目にもシャコーグレイドがクラシック戦線で活躍すると、シービーの種牡馬としての人気は改めて高まり、日本バブル景気だったこともあり、種付け権利の市場取引価格に2001万円という当時の史上最高額が付けられた[26]。しかしその後は成績が振るわず、1994年にレックススタッドに移動。1999年には種牡馬生活からも退いた。種牡馬総合ランキングの最高位は、1996年の12位だった。

種牡馬としては失敗という評価が定着している。社台スタリオンステーションの徳武英介は、ランキング成績などから鑑みて、本来はもっと評価を受けるべき種牡馬とした上で、「初年度にわあっと産駒が走ったことが、結果的にシービーを苦しめ」、これが招いた種付け料の高騰が「普通に走っていても走らないと思われて」しまった要因とし、「シービーは可哀想だった」と述べている[26]。また、ライターの村本浩平も、やはり2000万円という交配権の取引価格が「種牡馬ミスターシービーの名誉であり、躓きだったという気がする」と評している[27]

後継種牡馬として、ヤマニングローバルが種牡馬となるも、配合相手に恵まれず、ミスターシービーの直系は絶えている。

種牡馬引退後[編集]

以降は千明牧場三里塚分場で功労馬として余生を過ごした。放牧地は同じく功労馬として繋養されていた母シービークインの隣に設けられ、通常、離乳以降は二度と再会することがない母仔が、互いの姿が見える空間で過ごすという珍しい光景となった[注 10]

2000年12月15日、父トウショウボーイと同じく蹄葉炎により死亡。三里塚分場内に墓が建てられている。

死亡から4年後の2004年、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」の一環として、「ミスターシービーメモリアル」がダービー施行日の東京競馬場の最終レースに施行された。なおこの年の1月、母・シービークインが亡くなっている。

主な産駒[編集]

*印は地方競馬限定の重賞競走。

主なブルードメアサイアー産駒[編集]

※母の父としての産駒。括弧内太字はGI級競走。

特徴・評価[編集]

競走における特徴・評価[編集]

その競走能力に対しては、三冠馬の中では比較的地味な評価が下されており、「史上最強馬」とも評された一年下の三冠馬シンボリルドルフとは対照的なものとなっている[注 11][注 12]。有馬記念での敗戦以降は「周り(同期馬)が弱かったから三冠を獲れた」という評価もあった[28]スポーツニッポンのルドルフ番記者であった清水理義は、「シービーが嫌い」とことわった上で、「同齢馬に好敵手がいなかったことが幸運と同時に不幸」であり、晩熟の先行馬カツラギエースの台頭で後方強襲の作戦が通用しなくなったこと、さらに自在にレースが運べるルドルフの登場で「シービーの悲劇がここに極まった」と評している[29]。ただし清水はルドルフとの比較で「馬のもともとの素質で言えば、互いに譲らないスーパーホース」であり、その差は「人間による作られ方、騎手の乗り方」にあったとしている[30]

吉永は、最も調子が良かったダービーの時で、距離が2000mまでならシンボリルドルフを負かす自信があるとしている[31]。また、生産者・馬主の千明大作はピーク時を菊花賞としており[32]、5歳時に天皇賞に勝っているが、全盛期は4歳時というのが関係者に共通した認識であった。

距離適性については、吉永、千明が「2000mまでの馬」としており、競馬評論家の大川慶次郎は「本来マイラー[33][注 13]」、吉永と親しかった中島啓之は「あの馬の能力は本来スプリンター[34]」、前述の清水は「短い距離で瞬発力があるのはスプリンターの証拠。マイラー型までの馬」と評している[35]

しかし一番の弱点は極端な最後方からの追い込み戦法一辺倒だったことにある。強い逃げ馬をつぶすのにハイペースの逃げ争いでつぶす方法があるのと同じように、極端な追い込みしかできない(強い)馬はスローペースに持ち込んで追い込みを不発にさせるという方法がある。シービーの三冠レースには追込馬に不利なスローペースのレースはなく、ルドルフとの三戦には追込馬に有利なハイペースのレースはなかった。

レーススタイル[編集]

父母が配合された意図は、本来スピード豊かな「逃げ馬」を生産することであった[36]。狙い通りシービーは豊かなスピードは受け継いだが、前述の通りスタートを苦手とし、また吉永の教育を受けて史上屈指の追い込み馬として認知された。最後方の位置から、レース後半で先行馬をごぼう抜きにするスタイルは「シービー戦法」とも呼ばれ[37]、その人気の大きな要因となった。

吉永の騎乗への批判と擁護[編集]

後方待機一辺倒の吉永の騎乗には、当時から批判があった。松山は菊花賞の後から、「こういう競馬を続けているとツケが回るぞ、と言っていた」といい[38]、千明は「吉永の騎乗で四冠を獲ったのは間違いない」とした上で、「前に行く競馬もできたのではないか」と回想している[39]。また、シンボリルドルフの主戦騎手・岡部幸雄は、「あれでは近代競馬は勝てない」と批判していた[40][注 14]。武豊は「過去の馬で乗って見たい馬は」という問いにミスターシービーと答え、「ああいうふうにしか乗れなかった馬なのかなあ」と疑問を呈している。またその父の武邦彦も「危ない乗り方ですねえ」とテレビで批判的なコメントをしている。吉永はシービーの特長を「一瞬の脚の凄さ、3コーナーからゴールにかけての瞬発力」とし[41]、後方一気に拘ったのは、その特徴を生かせると思ったからだとしていた[42]。しかし吉永自身も「三冠を獲るまでに2敗させたのは自分で、騎手が自分でなければ無敗で三冠を獲っただろうし、六冠も七冠もいったと思う」と反省の弁も述べている[43]

その一方、ミスターシービーをスプリンターとした中島啓之は、「その馬をもってして、前半を遊ばせて、だましだまし走らせて、後半一気に追って菊花賞を獲らせた。これはマーちゃん(吉永)の腕があったればこそだと思います。マーちゃんが乗ったから四冠も獲れた。僕ら他の騎手が乗ったら、こんな真似はできなかったはず」と語り、吉永を「天才」と評している[34]。また競馬評論家の大川慶次郎も「ミスターシービーの三冠というのは、吉永さんが獲ったんじゃないか」と評価しており[44]、カツラギエースを管理した土門一美は、「シービーはセオリーから外れてる馬だった。もしセオリー通りの競馬をしていたら、あれほどの成績は上がらなかったんじゃないか」と述べている[38]。騎手たちの証言によれば、ミスターシービーは一旦カッとなると前へ前へと暴走する馬だったという。そのため吉永も後方一気待機策を覚えさせたのだと思われる。実際ミスターシービーは前がつまったときは別として一旦スパートすると止まらない馬であった。

ちなみにシービー産駒でシービーによく似ていたシャコーグレイドは、出遅れのため最後方待機からの一気駆けという父と同じ走りになった皐月賞でトウカイテイオーの2着となったのがベストレースとなった。

身体面の特徴・評価[編集]

父トウショウボーイは馬体重500kgを越える大型馬であったが、シービーは450kgから460kg半ばまでの比較的小柄な馬であった。また、体躯の様子も華奢なもので、トウショウボーイの担当獣医師であった猪木淑郎は、シービーを初めて見たときの印象を「ちっちゃくて牝馬かと思ったよ」と語っている[45]。その身体は非常に柔軟性が高く、吉永は「全身がバネのようで、全身を使って走るから凄く乗りやすい。スピードがぐんと伸び出すと、自然に身体が沈み込んでいく。理想的な走り方」と評している[46]。また競走とは直接関係しないが、立ったまま後脚で耳を掻くことができたともいう[47]

弱点・蹄[編集]

調教師の松山、担当厩務員の佐藤忠雄は、シービーの最大の弱点としての弱さを指摘している。シービーは他馬より蹄が薄かったために、蹄鉄を留める釘を打てる場所が少なく、打ち換えを続ける内に蹄が傷付くようになっていった[48]。佐藤によれば、ジャパンカップ以降は常に蹄底に血豆ができるようになり、豆が出来ては対処を施すという事の繰り返しであった[49]。従来、日本の競走馬は調教では重い鉄製の蹄鉄を打ち、レースでは軽いアルミニウム製の蹄鉄を打っていたが、シービーは蹄鉄の打ち換えの度に蹄に炎症を起こしたため、負担を減らすために常時アルミ製の蹄鉄を履いていた[50]。これはシービーが初めての例である[50][注 15]

シービーが履く蹄鉄は、アルミ製蹄鉄特有の留め具である「鉄唇」が外された特殊なものであった。しかし通常の蹄鉄と変わらず5、6本の釘で留め付けていたため、蹄からずれ易く、却って炎症などの原因ともなった[50]

容貌に対する評価[編集]

シービーはその容姿に対する評価が高い。松山は初見の印象でまず皮膚の美しさに感動したと言い、「出の良い馬、ノーブル(高貴)でハイセンスの馬」「実に美貌」と評している[51]。また、吉永は瞳が最大の魅力であるとし、「人間みたいな目で、あんな目をした馬には一度も会ったことがなかった」と語っている。吉永、厩務員の佐藤ともに、目元はシービークインに似たものとしている[52]。瞳の美しさは産駒にも受け継がれており、社台スタリオンステーションの中尾義信は、シービー産駒の特徴として「目が大きくて澄んでいる」ことを挙げた[53]

競馬評論家の井崎脩五郎は、その容姿を「一度遭ってしまったら人間でもゾクゾクするぐらい」と評し[54]、ノンフィクション作家の宇都宮直子は、その容貌が「(日本競馬に)それまで少なかった女性ファンの獲得にも大きな影響を及ぼしている」と述べている[55]。引退後の1986年には、競走馬としてテンポイント以来となる写真集も刊行された。なお、父トウショウボーイも、競走馬時代は「日本一の美男」と呼ばれていた[56]。顔が小さく目が大きく、皮膚が薄いといったところは両親とも共通である。シービー産駒でシービーに非常に外見が似ていたシャコーグレイドがダービーに出たとき吉永はテレビ解説で「この中では一番美男子ですね」とコメントしている。

競走馬としての人気[編集]

日本中央競馬会の広報誌『優駿』は「1980年代を代表するアイドルホース」としている[57]。アナウンサーの鈴木淑子福原直英ライター須田鷹雄など「ミスターシービーから競馬にのめり込んだ」という者を総称して「シービー世代」とも呼ばれる。このように人気が出た背景として井崎脩五郎は5つの要点を挙げ、「後方強襲型の馬で過去に強い馬がいなかったこと」、「容貌が美しかったこと」、「内国産同士の一流血統であること」、「名門牧場出身であること」、「父母の背景など、日本人好みの情緒を備えていたこと」と分析している[58]。須田鷹雄は「ハイセイコー以来、潜在的にあった競馬ブームの扉を開けた馬」と評し[59]、競馬漫画家よしだみほは「まさにファンに愛されるために生まれてきたサラブレッドであり、1990年代の競馬ブームの下地を作った馬」としている[60]

エピソード[編集]

両親の交配の経緯[編集]

前述の通り、両親は4歳時に同じ新馬戦でデビューを迎えており、ミスターシービーの活躍後には「同級生の結婚」とも呼ばれた。当初シービークインの相手にはトウショウボーイではなく、その父のテスコボーイが予定されていたが、同馬の種付け権を確保できず、その代用としてトウショウボーイが選ばれたものであった[61]。また、本来トウショウボーイは日高軽種馬農協の組合員以外からの交配申し込みは受け付けていなかったが、是非にトウショウボーイと交配させたい千明牧場と、当時まだ人気が低く、一流の牝馬を望んでいたトウショウボーイ側との利害が一致し、特別に交配が行われた。しかしこの許可は当時の種馬場場長・徳永春美の独断で出されたため、交配の発覚後に徳永は上司から厳しい叱責を受け、シービーが三冠を達成するまで、非常に肩身の狭い思いが続いたという[62]

シービークインは第2子(父ハードツービート)出産時のアクシデント(結果死産)の影響で、以降は種付けしても不受胎が続き、ミスターシービー以外には1頭の産駒も残さなかった。この事から「初恋の人(トウショウボーイ)に操を立てた」と擬人化して語られることもある。7頭いる三冠馬のうち、兄弟がいないのはミスターシービーのみである。

千明家三代のダービー制覇[編集]

シービーが日本ダービーを制したことによって、生産者・馬主の千明牧場は、サラブレッド生産を始めた2代目の千明賢治(1938年スゲヌマ)から、千明康(1963年メイズイ)、千明大作と、三代に渡るダービー優勝を果たした。これは日本競馬史上唯一の記録である。スゲヌマとシービーに血縁関係は存在しないが、メイズイはシービーの三代母・メイワの全弟である。同馬はクラシック二冠を制した後、菊花賞で83.2%という競走史上率最高支持率を記録しながら6着に敗れており、牧場にとってシービーの三冠はこの時の雪辱でもあった。

第50回日本ダービー馬[編集]

当該年度の馬は第50回日本ダービーに出走する年に当たるため、「優駿」1982年11月号「第50代ダービー馬探し」という企画が誌上で開催され、井崎脩五郎は未出走であった同馬をダービー馬に推している。 また、1983年1月号から始まった藤野広一郎の現場取材による連載「けいば宝島ものがたり」では最初に松山康久厩舎を取材していた。

当初、寺山修司が審査委員長を務める予定であった「優駿」誌上の日本ダービー50周年企画で募集されたエッセイコンテスト「優駿エッセイ賞」最優秀作は只野文代作「私の競馬、二転、三転」が受賞した。只野文代はペンネームであり、吉永正人の当時の妻の吉永みち子であった。これは『気がつけば騎手の女房』のベースとなる作品であった。次点である優秀作2篇のうち1篇は南海放送のアナウンサー田中和彦が受賞した。

当日は第50回を記念して3頭のダービー馬が展示された。そのうちの1頭は父トウショウボーイが敗れたクライムカイザーであった。(残る2頭はタケホープヒカルイマイ)当日のプレゼンターはMIEが努めた。

血統[編集]

血統背景[編集]

父についての詳細は同馬の項を参照のこと。母系は、1959年に日本軽種馬協会イギリスアイルランドから一括輸入し、生産者に頒布された牝馬の一頭・チルウインドに遡る。メイズイはチルウインドの産駒であり、ほかの産駒にもスプリングステークスの優勝馬メイタイなどがいる。

父系は明確なスピードタイプでありながらシービーが長距離競走の菊花賞に優勝した要因は、スタミナ豊富な血統である凱旋門賞勝ちの母の父トピオの影響が強いとされる。著書『競馬の血統学』でJRA賞馬事文化賞を受賞している血統評論家の吉沢譲治は、こうした見解を友人から聞かされたことで血統に興味を抱くようになったという[63]

血統表[編集]

ミスターシービー血統テスコボーイ系 / Nearco5×4=9.38%、Hyperion4×5=9.38%(父内))

トウショウボーイ
1973 鹿毛
*テスコボーイ
Tesco Boy
1963 黒鹿毛
Princely Gift Nasrullah
Blue Gem
Suncourt Hyperion
Inquisition
*ソシアルバターフライ
Social Butterfly
1957 鹿毛
Your Host Alibhai
Boudoir
Wisteria Easton
Blue Cyprus

シービークイン
1973 鹿毛
*トピオ
Topyo
1964 鹿毛
Fine Top Fine Art
Toupie
Deleriosa Delirium
Fougueuse
メイドウ
1965 鹿毛
*アドミラルバード
Admiral Byrd
Nearco
Woodlark
メイワ *ゲイタイム
*チルウインド F-No.9-h

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 日本競馬においては、顕著な活躍(GⅠ・JpnⅠ級の競走優勝、あるいは主要国際競走優勝馬と同じ馬名)や種牡馬登録などによって保護された馬名以外は、登録抹消後に一定期間を経れば再利用することができる。競走馬#馬名登録のルールも参照のこと。
  2. ^ このレースには、後にトウショウボーイ・テンポイントと共に「TTG」と呼ばれたグリーングラスが出走していた事でも知られている。
  3. ^ 馬が舌をハミの上に出さないようにするための補助装具。冒頭写真顔面部にある三つ叉の装具。
  4. ^ 吉永は後に「(タケノヒエンを避けなかったら)自分が落馬がしていた」と競馬評論家の大川慶次郎に語っている。(『名馬列伝ミスターシービー』p.93)
  5. ^ 固い物を踏みつけ蹄を傷めること。
  6. ^ 後に松山は、この時のシービーを「牛のような感じ」と表現している。(『優駿』1996年11月号 p.91)
  7. ^ この時、松山は「何をするんだ」と言ってその場で立ち上がったという。(『夢はターフを駆けめぐるIV』p.170)
  8. ^ ビンゴカンタを管理した鈴木清は、「坂の下りから行って勝った馬はいなかったでしょう。これはしめたぞ、と思ったんです」と回想している。(『優駿』1996年 11月号 p.91)
  9. ^ 2011年の時点でこの記録を達成しているのは、同馬とディープインパクトのみである。変則三冠まで含めれば、クリフジも達成している。
  10. ^ 繁殖牝馬として生まれた牧場に戻ることの多い牝馬においてはよく見られる。
  11. ^ 日本中央競馬会の機関誌『優駿』が1985年9月号で行った「史上最強馬アンケート」では、ルドルフが4033票を集めて1位となったのに対し、シービーはシンザン、マルゼンスキーテンポイントに続く5位であり、得票もルドルフの20分の1以下となる188票に留まっている。
  12. ^ 競馬評論家の大川慶次郎は、「馬の能力自体は、凄い馬だったという印象がどうしても湧かない」と述べている。(『名馬列伝ミスターシービー』p.103)
  13. ^ 1600m前後を得意とする馬。現在の距離区分では1600m-1900m。
  14. ^ 岡部は後に、1987年のスプリングステークスマティリアルに騎乗し、後方から一気の追い込みを決めて勝利した際には、この発言のことが念頭にあったらしく、インタビューでは当時の岡部にしては珍しく照れ笑いを浮かべながら「ミスターシービーしちゃった」という発言を残している。(『サラブレッド怪物伝説』p.99)
  15. ^ 現在は「兼用鉄」というアルミ製の蹄鉄が存在している。

出典[編集]

  1. ^ a b 木村 p.70
  2. ^ 木村 pp.70-71
  3. ^ a b 木村 p.71
  4. ^ 瀬戸 p.138
  5. ^ 『名馬列伝ミスターシービー』p.19
  6. ^ a b 『名馬列伝ミスターシービー』p.82
  7. ^ 『名馬列伝 ミスターシービー』p.25
  8. ^ 『優駿』2001年2月号 p.41
  9. ^ 『名馬列伝ミスターシービー』p.29
  10. ^ 『名馬列伝ミスターシービー』p.85
  11. ^ a b 『優駿』1996年11月号 p.89
  12. ^ 『優駿』1996年11月号 p.90
  13. ^ 瀬戸 p.121
  14. ^ 杉本 p.205
  15. ^ 『優駿』1996年11月号 pp.90-91
  16. ^ 『優駿』1994年12月号 p.91。
  17. ^ 『名馬列伝ミスターシービー』p.110
  18. ^ a b 瀬戸 p.124
  19. ^ 瀬戸 p.127
  20. ^ 『優駿』2001年2月号 p.42
  21. ^ 瀬戸 pp.127-128
  22. ^ 木村 p.79
  23. ^ 『日本名馬物語』 p.51
  24. ^ 『名馬列伝ミスターシービー』 p.86
  25. ^ 瀬戸 p.134
  26. ^ a b c 『優駿』1998年9月号 p.113
  27. ^ 『優駿』2001年2月号 p.46
  28. ^ 瀬戸 p.132
  29. ^ 木村 pp.66-67
  30. ^ 木村 p.68
  31. ^ 『名馬列伝ミスターシービー』p.87
  32. ^ 木村 p.75
  33. ^ 『名馬列伝 ミスターシービー』p.102
  34. ^ a b 木村 p.85
  35. ^ 木村 p.66
  36. ^ 『菊花賞十番勝負』p.297
  37. ^ 瀬戸 p.113
  38. ^ a b 『優駿』1996年11月号 p.91
  39. ^ 木村 p.83。
  40. ^ 『サラブレッド怪物伝説』p.99
  41. ^ 木村 p.77
  42. ^ 『Sports Graphic Number PLUS』p.22
  43. ^ 木村 p.78。
  44. ^ 『名馬列伝ミスターシービー』p.103
  45. ^ 『優駿』1989年 p.69
  46. ^ 『名馬列伝ミスターシービー』 p.83
  47. ^ よしだ p.201
  48. ^ 『優駿』2001年2月号 p.42
  49. ^ 『忘れられない名馬100』p.203
  50. ^ a b c 『優駿』1996年10月号 p.90
  51. ^ 木村 p.72
  52. ^ 『日本名馬物語』 pp.43-44
  53. ^ 『優駿』1989年3月号 p.72
  54. ^ 木村 p.61
  55. ^ 『優駿』1998年9月号 p.112
  56. ^ 『優駿』2001年2月号 p.39
  57. ^ 『優駿』 2001年2月号 p.36
  58. ^ 木村 pp.61-62
  59. ^ 『名馬列伝ミスターシービー』p.107
  60. ^ よしだ p.201
  61. ^ 『菊花賞十番勝負』 p.296
  62. ^ 『優駿』1992年12月号 p.51
  63. ^ 『優駿』2003年10月号 p.107

参考文献[編集]

  • 瀬戸慎一郎『悲劇のサラブレッド』(講談社、1993年)ISBN 978-4062062572
  • 木村幸治『馬の王、騎手の詩』(宝島社、1994年)ISBN 978-4796608725
  • 市丸博司『サラブレッド怪物伝説 - スーパーホース激走カタログ100』(廣済堂出版、1994年)ISBN 978-4331652022
  • 光栄出版部編『名馬列伝 ミスターシービー』(光栄、1995年)ISBN 978-4877191863
  • よしだみほ『私設現代名馬館』(ぶんか社、1996年)ISBN 978-4821105199
  • 『忘れられない名馬100』(学研、1996年)ISBN 978-4056013924
  • 杉本清『あなたのそして私の夢が走っています(文庫版)』(双葉社、1997年)ISBN 978-4575711035
  • 寺山修司志摩直人ほか『「優駿」観戦記で甦る菊花賞十番勝負』(小学館文庫、1998年)ISBN 978-4094024821
  • サラブレ編集部編『日本名馬物語 - 甦る80年代の熱き伝説』(講談社、2007年)ISBN 978-4062810968
  • 井口民樹「ミスターシービーの三冠 - 19年ぶりの夢」上/下(『優駿』1996年10-11月号〈日本中央競馬会〉所収)
  • 宇都宮直子「彼らの午後 - ハイセイコー、ミスターシービー、オグリキャップ物語」(『優駿』1998年9月号〈日本中央競馬会〉所収)
  • 江面弘也、村本浩平「常識破りの追い込みでファンを魅了した三冠馬 ミスターシービー死す」(『優駿』2001年2月号〈日本中央競馬会〉所収)

外部リンク[編集]