メリーナイス

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メリーナイス
欧字表記 Merry Nice[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 栗毛[1][2]
生誕 1984年3月22日[1][2]
死没 2009年3月1日(25歳没)[3]
コリムスキー[1]
ツキメリー[1]
母の父 シャトーゲイ[1]
生国 日本の旗 日本北海道静内町[1]
生産者 前田徹[4][2]
生産牧場 前田徹[1]
馬主 浦房子[1]
調教師 橋本輝雄美浦[1]
競走成績
タイトル JRA賞最優秀3歳牡馬(1986年)[5]
生涯成績 14戦5勝[1][5]
獲得賞金 2億355万4900円[1]
勝ち鞍
GI 朝日杯3歳S 1986年
GI 東京優駿 1987年
GII セントライト記念 1987年
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メリーナイス(欧字名:Merry Nice1984年3月22日 - 2009年3月1日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1986年の朝日杯3歳ステークス(GI)、1987年の東京優駿(日本ダービー)(GI)優勝馬。1986年のJRA賞最優秀3歳牡馬である。他に1987年のセントライト記念(GII)を優勝した。

デビューまで[編集]

誕生までの経緯[編集]

浦志磨太郎・房子[編集]

浦志磨太郎、房子は、東京都大田区で不動産業経営の傍ら、馬主業も営んだ夫妻である[6]。1973年に志磨太郎が死去してからは、未亡人房子が、単独で馬主を続けていた[6]。夫妻が初めて所有した馬は1953年、東京競馬場所属の調教師・橋本輝雄に紹介された橋本の親戚、北海道静内町の橋本禎一牧場が生産したツキホマレ(父:月友)である。ツキホマレは、日本において、1903年輸入のチップトップから始まり、定着した牝系に属していた[7]。競走馬を終えたツキホマレは、繁殖牝馬として「ウラツキホマレ」と名を改め[8]、橋本牧場に戻る[9]。浦夫妻は、繁殖と幼駒の所有を継続した[8][10]

ウラツキホマレは1962年、フェリオール産駒の牝馬・タツヒロを生産する[9]。タツヒロは、中央競馬でデビューし、五稜郭ステークスや若水賞を制するなど7勝[9]。同じく橋本牧場に戻り「コンチネンタル」に改めて繁殖入り[9]。1968年には、浦が牧場から新種牡馬テスコボーイを紹介され、気に入ったために、コンチネンタルとテスコボーイの交配が実現している[8]。翌1969年、テスコボーイの初年度産駒である牝馬・メリーブラットを生産した。メリーブラットは、体つきは良かったものの、調教は走らなかった[8]。橋本は、浦に競走馬としてあきらめるよう助言するほどだったが、浦が粘って現役続行となり、新馬戦で後方に10馬身差をつけて勝利[8]。他にNST賞、ひまわり賞を制した13戦3勝だった[11]

ツキメリー[編集]

そして繁殖牝馬となったメリーブラットは、1977年シャトーゲイ産駒の牝馬・ツキメリーを産んでいる[9]地方競馬でデビューしたツキメリーは、能力試験を合格点54秒のところ、48秒で走破する能力の持ち主だった[8]。デビューすれば勝利を重ね、1979年の東京3歳優駿牝馬を優勝[9]。そのほか翌年の浦和桜花賞2着、クイーン賞3着、関東オークス3着などの成績を残した[12]

ツキメリーは、ある牧場で繁殖牝馬として繋養される。初年度は父アラナスの牡馬を産み、デビューできなかった[9]。2年目はアローエクスプレスと交配したが、不受胎だった[13][14]。そして3年目となる1983年は、浦が相手探しに三石スタリオンセンターを訪れたところ、たまたま真正面に来て「ポチャッとした感じのかわいい[8]」と感じたコリムスキーが交配相手となる。

コリムスキー[編集]

コリムスキーは、父は、ニジンスキーサドラーズウェルズヌレイエフノーザンテーストなどを産んだノーザンダンサー。母は、アメリカリーディングサイアーであるイクスクルーシヴネイティヴの妹リブロドロである[15]。おまけに両親は父父父、父父父父が同じネアルコであり、走る馬が生まれやすいと信じられるフィッツラックの18.75%理論「奇跡の血量」が成立していた[16]。そのような「超良血」(横尾一彦)のコリムスキーは、アメリカとアイルランドで競走馬として走ったが、2勝に留まり大成はしなかった。そして引退後の5歳、1979年に日本にもたらされて、三石で種牡馬として繋養されていた[16]

日本におけるノーザンダンサー系では、社台グループシンボリ牧場が導入したノーザンテースト、モガミが大活躍、両牧場はその恩恵を受けて大牧場に成長していた[17]。一方のコリムスキーは、競走成績が優れていないうえに、馬産地の評価が低く、種付け料が安く設定されても牝馬が集まらない状況だった[18]。浦の馬主業は、高額な馬や、種牡馬には手を出さず、安価な馬で細く長く営む方針だった[8]。浦は、ノーザンダンサー系種牡馬をツキメリーにあてがいたいと考えており、腹では最高の種牡馬ノーザンテーストが良いと考えていたが、予算から叶わなかった[8]。ゆえに偶然目にした安価なノーザンダンサー系種牡馬・コリムスキーを「これに決めちゃおうかと軽い気持ち[8]」(浦房子)で選び、ツキメリーと結び付けていた[9]

受胎したツキメリーが、出産を間近に控えた頃、浦とある牧場主が対立している[18]。やがて仲違いに至り、浦はその牧場から所有馬を引き揚げていた。ツキメリーは代わって、北海道静内町の前田徹牧場に繋養される[18]

前田徹牧場[編集]

前田徹牧場は、家族経営の小牧場である[19]。当初は、牛の飼育と稲作を行う兼業農家だったが、その兼業は負担がかかりすぎるとして、1968年に馬の生産と稲作の兼業に転向していた[20]。借金を作らない経営方針のもと、毎年数頭の生産を20数年間続けていた[21]。しかしその間、生産馬の中央競馬入厩はこれまでに5頭ほど、抽せん馬としてデビューしたサーティファイブの2勝が最高の成績で重賞は未勝利[21]、新馬戦で勝ち上がった馬はいなかった[19]。そんな牧場に、浦からツキメリーが託されていた[18]

1984年3月22日、前田牧場にてツキメリーの2番仔である栗毛の牡馬(後のメリーナイス)が誕生する[9]。見栄えのする栗毛な上に、脚の先4本すべて白く、おまけに顔の中央部分が上から下まで白い「四白流星」だった[16]

幼駒時代[編集]

ツキメリーの2番仔には「メリーファスト」という血統名が与えられる[21]。メリーファストは、シャトーゲイの傾向が強く出て気性の勝った馬だったが、メリーファストは落ち着きがあり、賢かった[21]。外見もサイズは小さいものの、バランスが良かったという。2歳秋に牧場を巣立っている[22]。これまで5代にわたって繋いできた牝系、ウラツキホマレ、コンチネンタル、メリーブラット、ツキメリーと同様に、浦の所有となり、ウラツキホマレなどと同様に橋本調教師に託された。

浦はメリーファストに「メリーナイス」という競走馬名を与えている。「メリー」は、浦が小学生の頃、白い服、白いボタンのメリーさん人形の写生をする際、見たまま描けという教えを破り、ボタンを赤く染めて提出[8]。勝手なことをして怒られると思いきや、学校内に掲示されて嬉しかったというエピソードがあった。それ以降「メリー」と赤色を好むようになり、馬の冠名となっていた[8]。「ナイス」を組み合わせたのは期限ぎりぎりだった[8]。浦によれば「ベリーナイスと語呂があっている[8]」という理由もあったという。

メリーナイスは3歳春、美浦トレーニングセンターの橋本厩舎に入厩する。元騎手の橋本は、1944年の第13回東京優駿競走カイソウに騎乗して、1950年の第17回東京優駿競走(日本ダービー)をクモノハナに騎乗して優勝、ダービー2勝を挙げていた[23]。引退後、調教師に転身した橋本だったが、開業して30年、70歳代に突入しても東京優駿を優勝することができずにいた[23]

競走馬時代[編集]

3歳(1986年)[編集]

朝日杯3歳ステークス[編集]

3歳夏、1986年8月3日の函館競馬場新馬戦でデビュー、1番人気だった。直線で抜け出し、ホクトヘリオスを置き去りにしたほか、サイコーハートにハナ差だけ先着、初出走初勝利を果たした[16]。続いて9月20日、同じく函館のコスモス賞(OP)に臨んだが、スタートで出遅れて差し届かず、ゴールドシチーに敗れる4着[16]。そして本州に戻って10月4日、東京競馬場のりんどう賞(400万円以下)に臨んだが、サクラロータリーにハナ差だけ及ばず2着だった[16]。それから10月25日、いちょう特別(OP)に1番人気で参戦。直線で抜け出しに成功し、追い上げるセントナダラをアタマ差下し、2勝目を挙げた[16]

続いて12月14日、朝日杯3歳ステークス(GI)に臨む。9頭立てとなるなか、ホクトヘリオスとの一騎打ち、二強と目されていた[24]。新馬戦以来の再会となったホクトヘリオスは、新馬戦ではソエがあったうえに出遅れてメリーナイスに敗退していた[25]。その後立て直して2戦目の新馬戦、函館3歳ステークス京成杯3歳ステークスで3連勝、重賞2連勝で、唯一の単枠指定だった[26]。ホクトヘリオスが2倍の1番人気、メリーナイスが3.6倍の2番人気に推されていた[27]

映像外部リンク
1986年 朝日杯3歳ステークス(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

スタートから中団後方を確保[25]。ホクトヘリオスが最後方待機、ドウカンプレスが逃げる平均ペースを追走していた[25]。先行勢がおしなべて失速する最終コーナーにて、外から進出、抜け出して先頭を奪取した[25]。直線では、末脚を発揮して、内から応戦する3番人気スーパーファントムをかわして先頭を守り、最後方大外から追い上げるホクトヘリオスを突き放して、独走となる[24]。根本は「『エデリーばり』の回転ムチ[25]」(橋本邦治)、ヨーロピアンスタイルの騎乗フォームを披露しながら、先頭で決勝線を通過する[28]。ホクトヘリオスに1馬身半差をつけて、GI初勝利を果たした[26]。この年のJRA賞では、最優秀3歳牡馬を受賞している。ただし関西の3歳GI、阪神3歳ステークスを優勝したゴールドシチーと分け合う形となった[29]

4歳(1987年)[編集]

皐月賞[編集]

朝日杯3歳ステークスを制したことでクラシック戦線に乗り、まずはクラシック一冠目の皐月賞を目指した。年をまたいで3歳となったが、右後ろ肢の外傷を化膿させたり、左前肢に深管骨瘤をきたして十分に調教することができなかった。仕上がることのないまま3月29日、皐月賞のトライアル競走であるスプリングステークス(GII)に参戦する。関西のゴールドシチーとの対決が前哨戦で実現したが、人気を集めたのは、マティリアルだった[30]。田中和夫厩舎、岡部幸雄騎乗、シンボリ牧場のマティリアルは、サクラロータリーには敗れたものの、サクラスターオーには先着した3戦2勝、重賞初挑戦の身だった。対するメリーナイスは2番人気、ゴールドシチーは5番人気だった[30]

この日のメリーナイスは、いれ込みが激しかった。ゆえにスタートで出遅れて後方を追走、進出なく後方のまま9着敗退となる[31]。勝利したのは、マティリアルだった。最後方から追い込み、短い直線ですべてごぼう抜きする大胆なパフォーマンスだった[31]。おまけにミホシンザンを上回るスプリングステークス最速タイムで走破していた[31]。続いて4月19日、皐月賞(GI)に臨む。評価は下がり、8番人気だった。弥生賞優勝馬のサクラスターオーが優勝、ゴールドシチーが2着、マティリアルが3着。対してメリーナイスは7着[32]。橋本によれば、体調が万全でなかったことに加えて、相手をマークすることに重きを置いて正しく走れなかったことを敗因に挙げている[33]

東京優駿[編集]

5月31日、クラシック二冠目の東京優駿(日本ダービー)(GI)に臨む。参戦2週間前には、右前脚の爪に挫跖をきたして、発熱し運動できない時期があったが回復[23]。調教も十分に消化した。調教では、橋本の調教師人生34年で最も速いタイムを記録することができた[23]。24頭立てだったが、皐月賞優勝のサクラスターオー、トライアルNHK杯優勝のモガミヤシマは、ともに故障して回避。万全の有力馬不在の中、混戦と目されていた[34]。そんな中、皐月賞3着マティリアルが単枠指定制度の対象となる[35]。その通り、マティリアルが1番人気だった。続いて皐月賞2着のゴールドシチー、毎日杯優勝馬でありNHK杯4着のダイゴアルファと続き、4番人気がメリーナイスだった[36]。橋本と根本は、前回マークに執着したことを反省していた[37]。このことから何も相手にしない、メリーナイスの力を発揮させることを第一に考えて、参戦していた[37]

映像外部リンク
1987年 東京優駿(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

3枠8番からスタート、先手を主張したトチノルーラー、ダイゴアルファの背後、好位の5、6番手を確保[37]。逃げた2頭が作る平均ペースを追走した[38]。最終コーナーにかけて馬群が凝縮するなか、メリーナイスは逃げ馬の直後にまで迫っていた。進路を得て、末脚を発揮する[36]。前方では、一足先に最も内側を通って抜け出したサニースワローがいたが、直線に向いてすぐに差し切り、先頭を得ていた[34]。後方ではマティリアル、ゴールドシチーなどがいたが、揃って伸びあぐね、メリーナイスの独走となった[39][33]。ステッキを入れ、アメリカンスタイルの根本に追われると、さらに加速[39]。後続を引き離し続けた。リードを後方に6馬身まで広げたところで、決勝線を先頭で通過を果たした[35]

ダービー戴冠。1984年に産まれた7649頭の頂点となる[33]。GI2勝目だった。1961年ハクシヨウ以来続いた「3歳チャンピオンはダービーを勝てない」と呼ばれたジンクスを26年ぶりに打ち破っている[5]。また1961年ハクシヨウ、1965年キーストンに続いて史上3頭目となる、最優秀3歳牡馬のダービー戴冠だった[40]。後方との着差6馬身は、1955年メイズイ以来の7馬身以来、ダービー史上3番目の大差だった[41]

根本、浦、前田は、ダービー初勝利[40][41]。橋本は、調教師生活34年、16回17頭目、1957年ギンヨクの3着(優勝:ヒカルメイジ)、1981年ハシノエースの4着(優勝:カツトップエース)を乗り越えてダービー初優勝[42]。騎手として1944年カイソウ、1950年クモノハナで制した2勝を併せた、ダービー3勝を成し遂げた[40]。表彰式後の記念撮影では、根本と根本の3歳の息子がメリーナイスの背に乗っている[36]。東京優駿史上初めてとなる父子が優勝馬上に乗る記念写真となった[36]

有馬記念[編集]

東京優駿の後は、函館競馬場で夏休みを過ごした[43]。秋は菊花賞を目指し、その前哨戦である9月27日のセントライト記念(GII)に臨む。東京優駿1番人気18着のマティリアルとの再戦となった[44]。今度はメリーナイスが1番人気、マティリアルが2番人気となる[45]。稍重馬場だった。スタートから先行し好位を確保。平均ペースを追走した[46]。第3コーナーを5番手、前との距離を縮めて、最終コーナーを3番手で通過[45]。直線に向いて逃げ馬を捕らえて抜け出しに成功する[46]。後方勢では、マティリアルが伸びあぐねて再び敗退[44]。ただしセントナダラが詰め寄って来ていた[45]。それでもメリーナイスはリードを守り切り[45]、半馬身先着を果たした[13]。走破タイム2分13秒9は、良馬場で行われた1984年シンボリルドルフの2分13秒4に「匹敵[46]」(藤野広一郎)するほどの内容だった。

その後は「レース間隔を開けた方が走る[47]」という橋本の考えから、トライアル競走の京都新聞杯を使わず、直行となった[47]。11月8日、本番の菊花賞(GI)に臨む。唯一の単枠指定となり[48]、2.2倍の1番人気に推されたが、折り合いがつかず、終いで全く伸びなかった[47]。サクラスターオーが制して二冠を果たす一方で、9着に敗退した[48]

続いて12月27日、有馬記念(GI)に臨む。古馬勢との初対決となったが、筆頭はジャパンカップ3着となった牝馬ダイナアクトレスであり、人気を集めたのは4歳だった。メリーナイスの他に、二冠を果たしたサクラスターオー、二冠牝馬マックスビューティが推されており、1番人気サクラスターオー、2番人気ダイナアクトレス、3番人気メリーナイス、4番人気マックスビューティという順番だった[49]

映像外部リンク
1987年 有馬記念(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

菊花賞ではスタートがきっかけで折り合いを欠いたことから、根本はその反省を生かして、長手綱にするなど注意していた[50]。7枠14番からスタート、進み出て1完歩目を果たしたが、続く2完歩目の右前脚が進まなかった[51]。よって鼻面を地面にたたきつけて転倒した[51]。根本は落馬、スタート直後で競走中止となった。根本は落馬した際に脳震盪をきたしていた[51]。この後、1番人気もサクラスターオーが故障を発症により競走中止している[50]。1番人気3番人気総崩れとなり、売上251億円のうち、2頭絡みの約162億円の勝馬投票券が、決着を前にはずれ馬券と化している[51]。この年のJRA賞は、最優秀4歳牡馬にて票を得たが、全143票中3票に留まり、139票で受賞したサクラスターオーには及ばなかった[52]

5歳(1988年)[編集]

年をまたいで1988年、古馬となり2月21日の目黒記念(GII)で始動。トップハンデとなる59キログラムを背負って参戦、1番人気だった[53]。落馬競走中止からの復帰戦だったため、パドックでは根本を鼓舞する声援が溢れたという[53][54]。52キログラムのメジロフルマーが逃げるなか、内側の2番手を追走した[53]。最終コーナーにかけてメジロフルマーとの距離を縮め、直線でかわすべく追い上げたが、メジロフルマーの脚が衰えず、及ばなかった[53][54]。逃げ切りを許し、1馬身4分の1差の2着だった[55]。続いて4月29日、天皇賞(春)に臨み、4番人気に推されたが、後方追走のまま伸びず、タマモクロスに敗れる14着だった[56]

4か月の休養を経て8月21日、函館記念(GIII)に参戦。ローカルGIIIながら東京優駿優勝馬シリウスシンボリ、二冠のマックスビューティ、阪神3歳ステークス優勝馬サッカーボーイとの対決となった[57]。好位を進み、直線で抜け出しを図ったが、前を行くサッカーボーイには及ばなかった。サッカーボーイに独走、レコード走破を許した[57]。5馬身後れを取る2着だった[58]

この後は、函館競馬場で調教されていたが、9月15日の調教中に左第一指節種子骨骨折が判明する。全治6か月となり、10月初めに復帰を断念。競走馬引退が決定する。12月18日、中山競馬場にて引退式を実施[59]。朝日杯3歳ステークス優勝時のゼッケン「8」を着用した姿がお披露目された[60]

種牡馬時代[編集]

競走馬引退後は、種牡馬として北海道静内町のレックススタッドに繋養される[2][60]。シンジケートに加えて余勢株が出るほどの人気だった[60]。1989年の供用開始から7年目となる1995年まで50頭以上の繁殖牝馬を集め続けた[61]。さらに10年目の1998年まで40頭以上集めたが、11年目の1999年は7頭に留まり、同年9月30日付で用途変更、種牡馬引退となった[4][61]

引退後は功労馬として余生を過ごし、1999年からは長野県のスエトシ牧場で、2007年からは北海道浦河町の渡辺牧場で繋養された[62]。2009年2月下旬に疝痛をきたし、28日に手術されたが、3月1日に容態急変、午後7時5分に25歳で死亡する[62][63]

産駒は、1992年から2006年まで日本競馬で走っている[61]。中央競馬の重賞においては、初年度産駒のマイネルリマーク(母父:ホクトボーイ)は1993年の共同通信杯4歳ステークス(GIII)を、イイデライナーも(母父:ロイヤルスキー)1994年の京都4歳特別を制している[64][65]

競走成績[編集]

以下の内容は、『競馬名馬読本』[66]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離

(馬場)

オッズ

(人気)

着順 タイム 着差 騎手 斤量

[kg]

1着馬

(2着馬)

馬体重

[kg]

1986. 08. 03 函館 3歳新馬 芝1000m(良) 9 1 1 01.7(1人) 01着 0:58.7 根本康広 53 (サイコーハート) 468
09. 20 函館 コスモス賞 OP 芝1700m(良) 9 2 2 04.3(2人) 04着 1:46.1 0.5 根本康広 53 ゴールドシチー 466
10. 04 東京 りんどう賞 4下 芝1600m(良) 10 2 2 05.8(2人) 02着 1:35.5 0.0 根本康広 53 サクラロータリー 456
10. 25 東京 いちょう特別 OP 芝1600m(良) 7 7 7 01.3(1人) 01着 1:36.1 根本康広 53 (セントナダラ) 460
12. 14 中山 朝日杯3歳S GI 芝1600m(良) 9 8 8 03.6(2人) 01着 1:35.6 1身半 根本康広 54 ホクトヘリオス 468
1987. 03. 29 中山 スプリングS GII 芝1800m(良) 12 4 4 04.9(2人) 09着 1:50.3 1.0 根本康広 56 マティリアル 470
04. 19 中山 皐月賞 GI 芝2000m(良) 20 7 16 25.6(8人) 07着 2:02.5 0.6 根本康広 57 サクラスターオー 462
05. 31 東京 東京優駿 GI 芝2400m(良) 24 3 8 12.6(4人) 01着 2:27.8 6身 根本康広 57 (サニースワロー) 460
09. 27 中山 セントライト記念 GII 芝2200m(稍) 12 6 7 01.9(1人) 01着 2:13.9 半身 根本康広 56 (セントナダラ) 462
11. 08 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 18 8 18 02.2(1人) 09着 3:09.3 1.3 根本康広 57 サクラスターオー 462
12. 27 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 16 7 14 04.9(3人) 競走中止 根本康広 55 メジロデュレン 478
1988. 02. 21 東京 目黒記念 GII 芝2500m(良) 10 1 1 02.9(2人) 02着 2:32.9 0.2 根本康広 59 メジロフルマー 484
04. 29 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(稍) 18 7 13 07.3(4人) 14着 3:25.8 4.0 根本康広 58 タマモクロス 470
08. 21 函館 函館記念 GIII 芝2000m(良) 14 7 12 05.8(3人) 02着 1:58.6 0.8 根本康広 59 サッカーボーイ 494

種牡馬成績[編集]

年度別成績[編集]

以下の情報は、JBISサーチの情報に基づく[61]

種付年度 種付頭数 生産頭数 血統登録頭数 出走頭数 勝馬頭数 重賞勝馬頭数 AEI CPI
1989 56 44 43 36 23 1 0.82
1990 63 48 47 42 25 2 0.85
1991 72 50 49 33 24 0 1.04
1992 62 43 41 39 26 0 0.59
1993 62 51 48 40 30 1 0.59
1994 70 53 52 44 32 1 0.55
1995 51 35 33 30 21 0 0.34
1996 40 25 26 21 17 0 0.44
1997 44 37 33 30 19 0 0.29
1998 43 32 32 28 19 0 0.24
1999 7 6 6 4 3 0 0.15
合計 410 347 239 5 0.59 0.84

重賞優勝産駒[編集]

産駒一覧[編集]

ブルードメアサイアーとしての産駒[編集]

  • 1996年産

マイネルリマーク[編集]

マイネルリマーク(欧字名:Meiner Remark) 血統 
[64] メリーナイス
1984 栗毛
*コリムスキー Northern Dancer
毛色 鹿毛[64] Libro d Oro
生年 1990年[64] ツキメリー シャトーゲイ
生産地 日本の旗 日本北海道静内町[64] メリーブラット
生産者 ビッグレッドファーム[64] ミヤカツヒメ
1984 鹿毛
ホクトボーイ *テスコボーイ
馬主 (株)サラブレッドクラブ・ラフィアン[64] *フィリバスター
調教師 高橋裕美浦[64] ヤマファラ *ファラモンド
成績等 15戦2勝[64]
1993年共同通信杯4歳S(GIII)優勝[64]
チェスミンスタ

マイネルリマークは、北海道静内町ビッグレッドファームで生産された牡馬である。母ミヤカツヒメ(父:ホクトボーイ)は、北海道新冠町で生産されて、上山競馬南関東競馬で競走馬として走り、上山の3歳優駿を優勝するなど31戦10勝の活躍を果たしていた[71]。ビッグレッドファーム社長の岡田繁幸は、このミヤカツヒメを見て、繁殖牝馬としての将来性を感じて購入[72]。競走馬引退後は、ビッグレッドファームで繁殖牝馬として繋養されていた[72]。初年度はメリーナイスと交配し、1990年に初仔となる牡馬、後のマイネルリマークが誕生していた。ミヤカツヒメは翌年も、メリーナイスの仔を産み、続いてイブンベイと交配していたが、病気のために1991年12月に死亡[71][72]。遺した産駒は、初仔のマイネルリマークともう1頭の2頭に留まった[71]。そんなミヤカツヒメの遺児であるマイネルリマークは、牧場では期待されたほうではなかった[72]。初仔のために小柄で、素直な性格で手がかからず、目立つタイプではなかったという[72]。ビッグレッドファーム系列のクラブ法人であるサラブレッドクラブ・ラフィアンが所有し、厩舎を開業したばかりの新米高橋裕調教師が管理して、デビューを果たした[73][74]

3歳夏、新潟競馬場芝1200メートルの新馬戦を勝ち上がり、続いて同じ条件の新潟3歳ステークス(GIII)で4着[74]。この時点で騎乗した大塚栄三郎は、クラシックを狙える素質があると感じ取っていた[72]。高橋は、入厩した当初から長い距離に適性があると考えていたことから距離延長を決断[72]。9月末にはマイルの芙蓉ステークス(OP)に臨み、2着となった[72]。おおよその適性を掴んだ高橋は、中長距離のない時期の出走を見送って休養を選択[72]笹針を伴う休養して年をまたいで4歳、翌1993年1月に戦線復帰した[72]。3歳の頃はおとなしく、高橋によれば「デビュー前なら女のコや子供でも乗れた[74]」と話すほどだったが、年をまたいでからは一変し、パドック周回を一人ではできなくなるくらいに荒くなっていた[74]。そうして臨んだ初戦の若竹賞(500万円以下)、そしてジュニアカップ(OP)は共に2着だった[75]

続いて2月14日、連続2着で2回目の重賞挑戦となる共同通信杯4歳ステークス(GIII)に挑んでいた。9頭立てとなる中、うち4頭が関西馬であり、マイネルリマークは迎え撃つ立場となった[72]。人気の中心は、遠征してきた関西馬が占めていた。特に人気を集めたのはビワハヤヒデだった[76]。デビューから無敗の3連勝で重賞優勝を果たし、断然の人気で朝日杯3歳ステークス(GI)に臨むも、エルウェーウィンにハナ差すくわれ初黒星を喫していた[77]。そんなビワハヤヒデの仕切り直しの一戦は注目されて、単勝オッズは1倍台。対するマイネルリマークは、10.8倍の4番人気だった[78]

スタートから逃げ馬がハイペースを演出する中、マイネルリマークは先行し、中団に構えたビワハヤヒデの前方に位置した[72]。第3コーナーに差し掛かるところで、逃げ馬との距離を縮め、直線に入ってから進出して先頭を奪取し、後方にいるビワハヤヒデからの逃走を図った[72]。ビワハヤヒデは進路を探して右往左往しており、追い遅れていた[72][79]。終いになってマイネルリマークに迫ってきたが、粘って抵抗し先頭を守り切った[72][79]。ビワハヤヒデにアタマ差先着して重賞戴冠を成し遂げた[72]

この後はクラシックに参戦したが、初戦の皐月賞(GI)の競走中に骨折して13着[73]。秋に復帰して菊花賞(GI)に臨んだが下位敗退、ビワハヤヒデに優勝を許した[80]。クラシック終結後は重賞オープン競走に挑んだがいずれも敗退、1995年11月の出走を最後に競走馬を引退した。通算成績15戦2勝[64]

イイデライナー[編集]

イイデライナー(欧字名:Iide Liner) 血統 
[65] メリーナイス
1984 栗毛
*コリムスキー Northern Dancer
毛色 栗毛[65] Libro d Oro
生年 1991年[65] ツキメリー シャトーゲイ
生産地 日本の旗 日本北海道静内町[65] メリーブラット
生産者 グランド牧場[65] カリスタエスパー
1985 栗毛
*ロイヤルスキー Raja Baba
馬主 アールエスエーカントリ[65] Coz o'Nijinsky
調教師 大久保正陽栗東[65] シゲルジンデン *フロリパンダ英語版
成績等 28戦2勝[65]
1994年京都4歳特別(GIII)優勝[65]
グランドターキン
1995年12月10日 阪神競馬場

イイデライナーは、北海道静内町のグランド牧場で生産された牡馬である[81]。牧場が長く守ってきた短距離で活躍馬を輩出する牝系とメリーナイスを掛け合わせていた[81][82]。牧場は、母と兄が細身だったため、種牡馬で体格の良いメリーナイスで補おうと考えていた[82]。そうして1991年に誕生したイイデライナーは、それでも細身だったという[82]

イイデライナーは、誕生直後から目立つ馬で牧場からの期待も大きかった[83]。小柄であるものの、充実した後肢の持ち主で、さらに程良い気性を兼ね備えていた[83]。短距離を主戦場とする牝系だったが、おとなしい気性のイイデライナーは、長い距離もこなすことができた[82]。育成段階に入ってもイイデライナーの評価は変わらず高くあり続けた[83]。冠名「イイデ」で知られるアールエスエーカントリが所有し、栗東トレーニングセンター大久保正陽調教師に管理されて競走馬となった[81]。大久保厩舎の同期には、ナリタブライアンがおり、馬房が隣同士にされていたという[83]

3歳秋1993年11月にデビューし、3戦目で勝ち上がり、暮れのラジオたんぱ杯3歳ステークス(GIII)で重賞初挑戦となったが、ナムラコクオーに敗れる6着だった。年をまたいで4歳、1994年1月のシンザン記念(GIII)では、ナムラコクオーとの再戦となったが千切られ、再び敵わなかった[84]。それでも7馬身差の2着を確保した[85]。続いて2月のきさらぎ賞(GIII)では、3番人気で参戦した。逃げるサムソンビッグが、前半の1000メートルを65秒1で通過するスローペースを演出しており、中団につけたイイデライナーには、不利な展開となっていた[86]。直線に向いて外側から追い込んでサムソンビッグに接近して、ゴール寸前で並びかけた[86]。しかしアタマ差及ばず2着、重賞連続2着となった[86]

続いて皐月賞のトライアル競走である弥生賞(GII)では、逃げて千切ったサクラエイコウオーの後を追う2着争いをエアチャリオットとナムラコクオーなどと接戦を繰り広げ[82]、ほとんど同時に決勝線通過を果たしたが、エアチャリオットとナムラコクオーにハナ+クビ、クビ差及ばず4着となり、優先出走権を逃した[87]。この後は、毎日杯(GIII)と皐月賞(GI)に参戦したが、いずれも二桁敗退、気管支炎をきたしていたための不調、回復途上ゆえの敗戦だった[88][83]

全快初戦となったのは、東京優駿(日本ダービー)出走への「東上最終便」とされる京都4歳特別(GIII)に5番人気で参戦した。重賞2着2回で賞金は積んでいたが、敢えて参戦していた[83]。1番人気で中団後方にいるバンブーフェリーニの背後を確保し、ハイペースを追走した[83]。最終コーナーで外に膨れたバンブーフェリーニに対して、空いた馬場の中央を突いて進出し、バンブーフェリーニに並びかけて先頭を争った[83]。バンブーフェリーニには粘られたものの、半馬身先に決勝線到達を果たし、重賞初勝利を果たした[83]。その後の東京優駿は下位で敗退し、3歳馬ながら参戦した宝塚記念も同様だった[89]。以後、重賞やオープン競走を走り続け、終いには障害競走にも出走したが、勝利を挙げることができなかった。1997年6月の出走を最後に競走馬を引退した[89]。通算成績28戦2勝[65]

エピソード[編集]

ダービー当日[編集]

東京優駿当日、オーナーの浦房子は、三人姉弟の末の弟の長男、甥の結婚式に出席しており、東京競馬場には臨場していなかった[10]。代わりに、房子の上の弟、サカエリュウ電機株式会社社長の加藤隆明を競馬場に出席させていた[90]。房子は、メリーナイスが出走する頃は、全く意識しておらず、平然と結婚式に出席していたが、競馬場にいる方の弟の子供、房子の甥は、結婚式場にいて気が気でなかった[91]。その甥は結婚式場を飛び出し、廊下でラジオで結果を知ったという[10]。勝利を知ったその甥は、式場に戻り、房子に興奮気味に報告。やがて司会の耳に入り、大々的にダービー優勝の報告が、式場内に知れ渡っていた[91]。結婚式の主役である末の弟の長男と新婦は、ダービーと結婚式が被ったことを謝罪しに来たという[10]。末の弟には「ホントにすまない、ねえさん(房子)の馬がまさかダービーに出ると思わなかった[91]」と言われたという。また房子は、知り合いから「馬にとってダービーは一生に一度きりだけれど、人間はね、一生に二度も三度も結婚するひとがいるのよ[91]」と忠告されたという。

前田徹[編集]

前田徹牧場は、家族経営の小牧場、メリーナイス以前は中央競馬で勝利を挙げたのは1頭だけ、新馬戦を勝利したことはなかった[19]。メリーナイスのデビューする直前、橋本や浦から、新馬戦勝利のチャンスだと告げられていた[20]。そこで前田は、新馬戦が行われる函館競馬場に向かい、現地応援しようと決意する。静内町の牧場を出て、千歳空港から飛行機で函館空港に降り立ち、競馬場に向かう予定だった[20]。しかし飛行機が函館上空に着いた時、函館が濃霧に包まれて、千歳に引き返し。観戦を断念して静内に戻っている[20]。静内に戻る頃には、メリーナイスの新馬戦は終わっており、徹は、テレビ観戦していた息子から、メリーナイスの勝利を聞いていた[20]

続いて大一番、東京優駿(日本ダービー)に参戦するときは、徹はこの反省を生かして、前日移動を心掛けている[33]。無事東京競馬場入りを果たした徹は、人生で初めて競馬場での応援を行い、生産馬の勝利を、それもダービーの勝利を現地で見届けている[33][92]。前田は、席をとらず、競馬場内の人混みの中で観戦していた[92]。この勝利に前田は、興奮してネクタイできないほどの身震い、涙を流している[92]。勝利した際は、馬主代理の房子の弟と西階段で落ち合い、表彰式に出席する予定だったが、興奮のあまり、西階段に行くことができなくなり、弟が発見したという[92]。そうして初めて表彰式に出席、それもダービーの表彰台に上がっている[33]。表彰式でも涙が止まらなかった[91]

血統[編集]

メリーナイス血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ノーザンダンサー系
[§ 2]

*コリムスキー
1975 栗毛
父の父
Northern Dancer
1961 鹿毛
Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
父の母
Libro d'Oro
1968 栗毛
Francis S. Royal Charger
Blue Eyed Momo
Exclusive Shut Out
Good Example

ツキメリー
1977 栗毛
*シャトーゲイ
1960 栗毛
Swaps Khaled
Iron Reward
Banquet Bell Polynesian
Dinner Horn
母の母
メリーブラット
1969 黒鹿毛
*テスコボーイ Princely Gift
Suncourt
コンチネンタル *フェリオール
ウラツキホマレ
母系(F-No.) チップトップ系(FN:4-m) [§ 3]
5代内の近親交配 Polynesian 5×4、Hyperion 5×5・5、Nearco 4・5(父系) [§ 4]
出典
  1. ^ [93]
  2. ^ [94]
  3. ^ [95][93]
  4. ^ [93]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o メリーナイス|JBISサーチ”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年5月11日閲覧。
  2. ^ a b c d 『優駿』1993年5月号 111頁
  3. ^ メリーナイス死亡”. ラジオNIKKEI. 2022年10月25日閲覧。
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  18. ^ a b c d 『優駿』1987年8月号 68頁
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  20. ^ a b c d e 『優駿』1987年3月号 21頁
  21. ^ a b c d 『優駿』1987年3月号 22頁
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  24. ^ a b 『優駿』1987年1月号 10頁
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  95. ^ 『優駿』1987年2月号、日本中央競馬会、135頁

参考文献[編集]

  • 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 4896912926
    • 「高橋裕 我、『先生』に非ず」
  • 野田利樹「天下御免の引き立て役 メリーナイス」『競馬名馬読本』〈別冊宝島143号〉(宝島社、1996年)
  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1987年1月号
      • 「【第38回朝日杯3歳ステークス】すてきなゴールだ、メリーナイス」
    • 1987年2月号
      • 橋本邦治「【今月の記録室】第38回朝日杯3歳ステークス(GI)メリーナイス」
    • 1987年3月号
      • 藤野広一郎「【GI競走勝ち馬の故郷紀行】五月の府中に夢を馳せて 前田徹牧場」
    • 1987年4月号
      • 伊藤友康、阿部幸太郎、井上貴夫、柏木集保、松本憲二「【有力馬の全プロフィール】メリーナイス」
    • 1987年5月号
      • 「【第36回スプリングステークス】磨かれた逸材、マティリアル」
      • 大川和彦(フジテレビ)「【今月の記録室】第36回フジテレビ賞スプリングステークス(GII)マティリアル」
    • 1987年6月号
      • 有吉正徳(東京中日スポーツ)「【今月の記録室】第47回皐月賞(GI)サクラスターオー」
    • 1987年7月号
      • 「【第54回日本ダービー】3歳チャンピオンから4歳の王座に、会心のゴールは、メリーナイス」
      • 石川喬司「【馬屋先生のパカパカ問答(29)】浦房子さん」
      • 瀬上保男(読売新聞)「【今月の記録室】メリーナイスが54代ダービー馬に、2着は22番人気のサニースワロー」
      • 桜井裕夫(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第54回日本ダービー(GI)メリーナイス」
    • 1987年8月号
      • 鶴木遵「【ジョッキーズームアップ(23)】レトロ派ダービー・ジョッキー 根本康広」
      • 白井透(サラブレッド血統センター)「【生産からみた'87年春のGI競走】ノーザンダンサーの血の猛威と、日高の"伝統の復活"」
    • 1987年9月号
      • 福田喜久男「【渋谷竜が撮る日本のホースマン(50)】三度目の栄光 橋本輝雄調教師」
      • 「【今月のトピックス】函館競馬場発 ダービー馬メリーナイスの夏休み」
    • 1987年11月号
      • 藤野広一郎「【第48回菊花賞情報】ダービー馬メリーナイスはセントライト記念も圧勝して体調は万全。二冠は濃厚だ。」
      • 「【第41回セントライト記念】ダービー馬の貫録、メリーナイス」
      • 樋口忠正(ラジオ日本)「【今月の記録室】第41回ラジオ日本賞 セントライト記念(GII)メリーナイス」
    • 1988年1月号
      • 「【今月の記録室】第48回菊花賞(GI)サクラスターオー」
    • 1988年2月号
      • 「【第32回有馬記念】菊花賞馬の底力、メジロデュレン」
      • 「【JRA賞年度代表馬・各部門最優秀馬決定】87年度にサクラスターオー」
      • 鶴谷義雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第32回有馬記念(グランプリ)(GI)メジロデュレン」
    • 1988年4月号
      • 「【第102回目黒記念】また岡部だ、男を完封 メジロフルマー」
      • 三木和夫(東京スポーツ)「【今月の記録室】第102回農林水産省賞典目黒記念(GII)メジロフルマー」
    • 1988年6月号
      • 梶山隆平(日刊スポーツ)「【今月の記録室】第97回天皇賞(春)(GI)タマモクロス」
    • 1988年10月号
      • 渡辺久和(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第24回農林水産省賞典函館記念(GIII)サッカーボーイ」
    • 1989年2月号
      • 「【今月のトピックス】さよなら 優駿 12月18日メリーナイス引退式」
    • 1993年4月号
      • 石田敏徳「【第53回皐月賞有力馬のプロフィール】1戦1戦、確実に成長 マイネルリマーク」
      • 伊藤元彦「【今月の記録室】第27回共同通信杯4歳ステークス(GIII)マイネルリマーク」
    • 1993年5月号
      • 「【日本の種牡馬】メリーナイス」
    • 1993年8月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(87)】圧勝のダービー馬 メリーナイス」
    • 1994年3月号
      • 中村基也(日刊スポーツ)「【RACING DATA BASE】」第28回日刊スポーツ賞 シンザン記念(GIII)ナムラコクオー」
    • 1994年4月号
      • 吉沢譲治「【常識や既成概念を覆すノーザンダンサーの血】定評を得た確かな末脚 イイデライナー」
      • 福澤浩行(NHK)「【RACING DATA BASE】第34回きさらぎ賞(NHK賞)(GIII)サムソンビッグ」
    • 1994年5月号
      • 沢村祥之「【RACING DATA BASE】第31回報知杯弥生賞(GII)サクラエイコウオー」
    • 1994年6月号
      • 「【ナリタブライアンの二冠を阻止する馬はいるのか!?】あの実績馬は東京の2400メートルで再浮上するか? イイデライナー」
    • 2000年6月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編66〉】メリーナイスの日本ダービー(下)四白流星、独走」
    • 2002年11月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち(18)】ビワハヤヒデ マックから受け継いだ白の伝説」
  • 週刊新潮』(新潮社
    • 1987年6月18日号
      • 「【ワイド特集 勝者の生活】4.ダービー制覇『メリーナイス』の女馬主」

外部リンク[編集]