ハクチカラ

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ハクチカラ
英字表記 Hakuchikara
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 1953年4月20日
死没 1979年8月6日(27歳没・旧表記)[1]
トビサクラ
昇城
母の父 ダイオライト
生国 日本の旗 日本北海道浦河町
生産 ヤシマ牧場
馬主 西博
調教師 尾形藤吉東京
競走成績
生涯成績 49戦21勝
獲得賞金 1656万8070円
+約8万ドル
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ハクチカラ (Hakuchikara) とは、日本競走馬種牡馬である。日本の調教馬として初めて日本国外の重賞制覇[2]を達成したほか、日本国内でも東京優駿(日本ダービー)を勝利するなど活躍した。のちにインドに寄贈され、当地で生涯を閉じた。1957年啓衆社賞年度代表馬、1984年顕彰馬に選出。半弟に重賞を4勝したヤシマフアーストがいる。

目次

[編集] 戦績

馬齢2000年以前は旧表記を用いる。

日本国内(中央競馬)ではキタノオーヘキラクといったライバルを相手に東京優駿、目黒記念(春・秋)天皇賞(秋)有馬記念などで優勝。本格化した旧5歳秋以前は強力なライバルたちがいたことも相まって取りこぼした競走も少なくないが、本格化してからの秋の天皇賞・有馬記念(1957年)ではいずれも単勝支持率が8割を超えるという圧倒的な支持に応えての優勝で、名実ともに日本競馬の現役最強馬となった。しかし、古馬の最高格の競走である天皇賞と有馬記念を制したということは、すなわちハクチカラの名声を高めるために日本で出走するべき競走がもはや存在しないということを、同時に意味することでもあった(しかも、当時の天皇賞は勝ち抜け制で、優勝経験馬にはそれ以降の天皇賞への出走権がなかった)[3]。日本での成績は32戦20勝。

1958年、関係者はアメリカ遠征を決行し、1958年5月にハクチカラを渡させた。これは日本の競馬関係者が育成してきた競走馬が、史上初めて日本国外の競馬先進国と呼ばれる地域に挑戦したものとなった[4]

ハクチカラが渡米した当時は、まだ日本人にとっては飛行機に乗ること自体が高嶺の花であり、増してやデリケートなサラブレッド太平洋横断させるという、このようなスケールの長距離国際航空輸送についてのノウハウは、当時すでに航空先進国であったアメリカですらほとんど有していない状態であった。このことから、日本からの輸送の際は、安全のために客席をすべて取り払った旅客機チャーター便として用意された。しかも、これは現在のジェット機と比べれば遥かに所要時間を要するプロペラ機による太平洋横断であった(※下記参照)。

日本の空港には馬を出し入れできるスロープがなかったため、機内に馬を入れる際にはハクチカラを入れたゴンドラを飛行機の乗り入れ口部分までクレーンで吊り上げた。風で煽られたゴンドラの位置はなかなか安定せず、ハクチカラを無事に機内に入れるまで実に3時間を要したという。またこの輸送に際しては、機長の拳銃の携帯が許可され、万一馬が暴れて馬体のみならず航空機の安全航行に危険が及ぶと判断した場合には、機長の判断による職務権限として馬を射殺してもよいとされた。ハクチカラの航空機への搭乗は関係者がこれに同意することを条件とされたため、輸送中の関係者は緊張の連続であったという。また、中央競馬の関係者も祈るような思いでハクチカラ無事到着の報を待ったといわれる。もっとも、当のハクチカラは輸送中まったく落ち着いており、懸念は杞憂に終わった。

ちなみにアメリカにおいても飛行機による輸送を経験したが、現地には競走馬用のスロープが用意されていたため、輸送は実にスムーズに行われた。ハクチカラに同行していた騎手保田隆芳は競馬を取り巻く文化の違いを実感したという。

ハクチカラがアメリカ競馬に姿を現したのは7月2日のアローワンス競走。しかしこの初戦は最下位9着、2戦目も最下位9着に敗れた。ようやく3戦目のサンセットハンデキャップで6頭立ての4着(このときの1着はギャラントマンである)になるも4戦目、5戦目と着外[5]に敗れ最初の2か月間はまったくの不振であった。しばらくの休養後12月に復帰。それまで騎乗していた保田が帰国し、騎手がエディ・アーキャロに変わった6戦目、トーナメントオブロージズ賞から好走するようになり、3着、2着、5着、4着と入着[6]を続けた。そして11戦目、レイモンド・ヨーク騎手(Raymond York)が騎乗したワシントンバースデイハンデキャップ(現在のサンルイスオビスポハンデキャップ、San Luis Obispo Handicap)で歴史的瞬間を迎えた。このとき11.5キログラムもの斤量差や、相手に故障のアクシデントがあったとはいえ、当時の世界賞金記録を持っていたラウンドテーブルを破ってのものであり、日本の新聞社は写真入りの記事でハクチカラの勝利を伝えた。このときアルゼンチンのアニサド以下14頭も同時に破っている。その後は不振が続きそのまま引退。海外での成績は17戦1勝。このあと、日本生産馬としては2002年サンデーブレイク、日本調教馬としては2005年シーザリオまで[7]、アメリカの重賞を勝つことはなかった[8]

なお、アメリカでの騎乗ではよいところのなかった保田であるが、このハクチカラ遠征によるアメリカ滞在中に日本競馬史に残る、保田自身にとっても大きな転機を迎えることになった。それは当地の最新の騎乗技術、すなわちモンキー乗りを習得したことであり、帰国後はその革新的な騎乗スタイルで、当時は天神乗りが主流であった中央競馬のリーディングジョッキー争いをたちまち席巻した。

競走生活を引退後のハクチカラは、日本に帰国して種牡馬になったが活躍馬には恵まれず、1968年インドに寄贈され、再度海を越えることになる。インドでは国立クニガル牧場に繋養され、トーカイドーエクスプレス(カルカッタゴールドカップ、マドラスゴールドカップ、カルカッタセントレジャー)など数頭のインドのクラシック優勝馬を出したあと、1979年老衰のため26歳で死亡した。ハクチカラの血を引く馬は現在は日本のサラブレッドには残っておらず、岩手競馬で活躍したダンディキングの母ミスハクギン(アングロアラブ)くらいしか現存していない。また、インドでもその後導入された欧米の繁殖馬に圧されてしまい、現在ではほとんど残っていない。

[編集] (参考)ハクチカラ渡米当時の航空機事情

ハクチカラがアメリカ遠征を敢行した1958年5月当時は、太平洋横断線を往来する航空機はまだDC-7を主力とするプロペラ機のみで、現在のようなジェット機はアメリカの航空会社のものも含めて未就航の段階であった。

当時、日本に飛来したことのある中長距離国際線用のジェット機としては、世界初の実用ジェット旅客機であったイギリス製のコメットが存在したが、当時は連続して発生したコメット連続墜落事故の対策作業のために飛行停止中。アメリカ製のボーイング707DC-8はいずれも、日本はもとよりアメリカでも営業路線への就航開始前の段階である。したがって、ハクチカラの渡米当時はそもそもプロペラ機のほかに選択肢が存在していなかった。

なお、このほかの中長距離ジェット旅客機としては、ソ連Tu-104が就航していたが、当時の日本へは飛来していない。

[編集] 年度別成績

[編集] おもな対戦馬

[編集] 血統表

ハクチカラ血統 ブランドフォード系/Orby5×5=6.25%)

トビサクラ
1942 栗毛
*プリメロ
Primero
1931 鹿毛
Blandford Swynford
Blanche
Athasi Farasi
Athgreany
*フライアースメードン
Friar's Maiden
1931 鹿毛
Friar Marcus Cicero
Prim Nun
Tetrarch Girl The Tetrarch
Affinity

昇城
1944 栗毛
*ダイオライト
Diolite
1927 黒鹿毛
Diophon Grand Parade
Donnetta
Needle Rock Rock Sand
Needlepoint
月城
1932 栗毛
Campfire Olambala
Nightfall
*星旗
Fairy Maiden
Gnome
Tuscan Maiden F-No.16-h

[編集] 脚注

  1. ^ 優駿』1979年10月号、p.72
  2. ^ 日本ではハクチカラの勝利したワシントンバースデイハンデキャップを重賞として一般的に扱っているが、当時はグレード制も導入されていなかったので、重賞として扱わないこともある。
  3. ^ ちなみに、後年同様の理由で日本国外への遠征を陣営が計画した馬としてはテンポイントがいる。
  4. ^ ハクチカラ以前の海外遠征については日本調教馬の日本国外への遠征を参照。
  5. ^ 日本では6着以下、日本国外では4着以下などを指すが、この項では前者で扱う。
  6. ^ 着外の対義語で、この項では5着以上で扱う。
  7. ^ 日本で調教を受けたことがある馬としては、フェスティバルが2004年のG3ダリアハンデキャップを制している。
  8. ^ ステークス競走では1983年にマウイズシルシャークがフェアディレクターズカップステークスを、1986年にマウイリィフォージェイがリッチモンドハンデキャップを優勝している。この2頭は兄弟でともに日本で生まれ、アメリカで調教を受けていた。
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