ネヴァーセイダイ

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ネヴァーセイダイ
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 1951年
死没 1976年
Nasrullah
Singing Grass
母の父 War Admiral
生国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
馬主 Robert Sterling Clark
調教師 Joe Lawson
競走成績
生涯成績 12戦3勝
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ネヴァーセイダイ (Never Say Die) は、アメリカ出身の競走馬種牡馬イギリスクラシック二冠馬。

概要[編集]

ネヴァーセイダイは1954年にイギリスのダービーセントレジャーの二冠を制し、父ナスルーラのヨーロッパにおける最良の産駒となった[1]。しかしネヴァーセイダイは父ナスルーラに似てムラのある競走馬で、ダービーを勝ったのも大穴の評価だった[2]

ネヴァーセイダイは、記録上はアメリカ人がアメリカで生産したサラブレッドだが、その血統にはヨーロッパの影響が色濃く反映されている。馬主はアメリカの競馬界と折り合いが悪かったので、引退後もネヴァーセイダイをイギリスに留めて種牡馬にし、そのうちイギリス国立牧場に寄贈してしまった。ネヴァーセイダイは種牡馬としてもムラがあったが、1962年に偶然も幸いしてイギリスの種牡馬チャンピオンとなった。種牡馬ランキングは産駒の獲得賞金の合計で決まるのだが、偶然というのは、この年の賞金総額の半分以上はラークスパーがダービーに優勝して獲得したものだが、このダービーでは本命馬を含めて8頭が落馬するアクシデントがあったからである。

ネヴァーセイダイの産駒のうち、早い時期にダイハードシプリアニネヴァービートが日本に輸入されると大成功した。その結果、産駒が次々と日本に輸入されるようになった。その中からもさらに成功した種牡馬が出ると、世界中からネヴァーセイダイの産駒が種牡馬として日本に買い集められるようになり、1960年代から1970年代には有力な産駒のほとんどが日本に集まる結果となった。これらのうちネヴァービートは何度も日本の種牡馬チャンピオンとなるほどの成功を収め、ネヴァーセイダイの系統は1960年代から1970年代の日本競馬界を席巻したが、やがて流行が廃れ、1980年代には父系としては活躍の舞台からほとんど消えてしまった。

出自と血統[編集]

ネヴァーセイダイは、現代のアメリカを代表するサラブレッド生産者であるクレイボーンファームと、富豪のロバート・クラークによって育て上げられた血統から出た。その血統は第一次世界大戦と第二次世界大戦の影響が反映されており、イギリス、アメリカ、フランスの競走馬の血が入り混じっている。

ネヴァーセイダイ血統ナスルーラ系 / Chaucer 5×5=6.25%)

Nasrullah
1940 鹿毛
Nearco
1935 黒鹿毛
Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Harvesac
Catnip
Mumtaz Begum
1932 鹿毛
Blenheim Blandford
Malva
Mumtaz Mahal The Tetrarch
Lady Josephine

Singing Grass
1944 栗毛
War Admiral
1934 黒鹿毛
Man o'War Fair Play
Mahubah
Brushup Sweep
Annette K.
Boreale
1938 栗毛
Vatout Prince Chimay
Vashti
Galaday Sir Gallahad III
Sunstep
ネヴァーセイダイの生産者・馬主のロバート・クラーク

ネヴァーセイダイの母方の系統は、ヨーロッパとアメリカを行ったり来たりしながら繁栄してきた[3]

ネヴァーセイダイからみて4代前のサンステップSunstep)は、生まれたばかりの1916年の秋にイギリスのニューマーケットで行われるディセンバーセールという競り市に出された[3]。これを510ギニーで落札したのがアメリカ人のアーサー・ハンコックである[3]。ハンコックは現代のアメリカ・ケンタッキー州の代表的なサラブレッド生産牧場の一つ、クレイボーンファームの創業者である。クレイボーンファームは1910年に興されたばかりで、サンステップを購入した1916年には、クレイボーンファームはまだ取り立てて成功した牧場というわけではなかった。サンステップはアメリカへ連れて行かれて競馬に出たが、未勝利に終わった[3]。しかしサンステップは繁殖牝馬としては良績を残した[3]

ハンコックは、第一次世界大戦で荒廃したフランスで、1923年にテディ (競走馬)の産駒でサーギャラハッドという種牡馬を購入した。サーギャラハッドはクレイボーンファームで種牡馬になると、1927年の産駒にアメリカ三冠馬ギャラントフォックスが登場し、以後も次々と活躍馬を送り出して北米の種牡馬チャンピオンに4回輝いた。クレイボーンファームの発展は、このサーギャラハッドの成功によるものである。

サンステップの娘であるガラディ[注 1]Galaday)もサーギャラハッドを父にもち、ギャラントフォックスと同じ1927年生まれである[3][4]。このガラディを購入したのがロバート・クラークである。クラークは、ニューヨークのミシン製造会社シンガー社の創業者の孫で[6]、その資産を相続して上流階級の一員となっていた[7][3]。クラークは父の影響で絵画の蒐集家となり、イェール大学を卒業するとフランスへ渡り、パリで女優と結婚した[7]。クラークは、ハンコックの生産したカレント(Current)という牝馬を購入し、カレントは1928年にブリーダーズフューチュリティステークスセリマステークスの勝利によって全米2歳牝馬チャンピオンの名誉を獲得した[8]。カレントは3歳になってケンタッキーオークスで3着になっている。

ガラディはカレントの1つ下の世代で、2歳のときにクラークが購入し、セリマステークス2着、ピムリコフューチュリティステークスでも3着に入り、3歳になるとカレントと同様、ケンタッキーオークスで3着になった。ガラディはアメリカで7勝をあげ、1931年にカレントと一緒にイギリスへ連れて行かれた[3]。ガラディはイギリスでは5勝をあげ、そのままイギリスで繁殖牝馬となった[3]。クラークは優れた種牡馬を求めてイギリスやフランスを頻繁に往復した。1936年にフランスの種牡馬ダークレジェンドを父として産まれたのがガラテア[注 2]Galatea)で、ガラテアは1939年に1000ギニーイギリスオークスの二冠に勝った[4]。この年、牡馬ではブルーピーター2000ギニーダービーの二冠を制しており、三冠目となる秋のセントレジャーではブルーピーターとガラテアの対決に加え、フランスの二冠馬ファリスも参戦を表明し、この秋のヨーロッパで最大の注目レースとなった。ところがセントレジャーの前の週にドイツ軍ポーランドへ侵攻して第二次世界大戦が始まり、セントレジャーは中止となった。

このガラテアの2歳下の半妹が、ネヴァーセイダイの祖母ボレアーレ[注 3]Boreale)で、ボレアーレの父もまたフランス種牡馬ヴァトー(Vatout)だった[3]。クラークは1940年に、戦火を逃れてボレアーレ、ガラディやガラテアをアメリカへ引き揚げた[3]。ボレアーレはアメリカで出走し、20戦1勝の戦績を残した。

ボレアーレが1944年に産んだのがネヴァーセイダイの母シンギンググラス[注 4]Singing Grass)で、その父はアメリカの三冠馬ウォーアドミラルである[3]。シンギンググラスは1944年のアメリカ生まれだが、1945年にヨーロッパでの世界大戦が終わったので、クラークはシンギンググラスをイギリスへ連れて行った[3]。シンギンググラスはニューマーケットのジョセフ・ローソン調教師に預けられた[3]。ローソン調教師は、前述の二冠牝馬ガラテアをはじめ、クラークの所有馬を引き受けており、シンギンググラス、そして後にネヴァーセイダイも預かって、ネヴァーセイダイで初のイギリスダービー制覇を遂げることになる[3]

シンギンググラスは7勝をあげ、中距離が得意な二流馬との評価を得た[3]。シンギンググラスはそのままイギリスで繁殖牝馬になると、1950年にアイルランドの種牡馬ナスルーラを種付けされた[3]。シンギンググラスが妊娠すると、クラークはシンギンググラスをアメリカへ連れ戻した[3]。その結果、ネヴァーセイダイは1951年にアメリカで生まれたが、1歳になるとイギリスへ送り込まれてローソン調教師に預けられることになった[1][3]

たまたま、クラークがシンギンググラスをアメリカに戻したのと同じ1950年に、ハンコックはナスルーラを購入し、アメリカへ輸入して種牡馬とした[3]。こうした事情で、ネヴァーセイダイはアメリカ生まれで、父のナスルーラもその時アメリカにいたが、ナスルーラにとってはイギリス時代の最後の世代の産駒、ということになる。のちにネヴァーセイダイが活躍すると、クラークはシンギンググラスにもう一度ナスルーラを種付けしたいと考えたが、どうしても種付け権が入手できなかった[3]

競走馬時代[編集]

デビュー前[編集]

2歳時(1953年)[編集]

1953年4月に競走馬としてデビュー。初戦と2戦目でともに7着に敗れた後、3戦目で初勝利を挙げた。その後3戦したが未勝利に終わり、6戦1勝という成績で1953年のシーズンを終えた。

この年にネヴァーセイダイが与えられた評価は中級馬というもので、フリーハンデでは首位の馬から1ストーン4ポンド(=15ポンド=約8.16キログラム)下位に置かれた[1]

3歳時(1954年)[編集]

ダービー制覇[編集]

1954年のシーズンは3戦して勝利を挙げることができなかったが、陣営は3戦目のレース出走後、ネヴァーセイダイの体調が急激に向上したと判断し、ダービーステークスへの出走を決定。この時ブックメーカーが提示したオッズは出走馬22頭中10番目に低い33:1であったが、優勝した。オッズ33:1での勝利は、当時としては1908年シニョリネッタ1913年のアボイユールの100:1に次ぐ史上3番目の高配当での勝利であった。また、この時ネヴァーセイダイに騎乗していたレスター・ピゴットは史上最年少でのダービーステークス優勝を達成した。

ダービーステークスの2週間後、キングエドワード7世ステークスに出走したが直線で他の出走馬の尻に噛みつく行動に出た挙句、4着に敗れた[注 5]

セントレジャー制覇[編集]

7、8月を休養にあてたネヴァーセイダイは9月に入りセントレジャーステークスに出走、ブックメーカーのオッズは出走馬中最も低い100:30であった。レースでは2着馬に12馬身差をつけて優勝。この時ネヴァーセイダイ騎乗したチャーリー・スマーク英語版が「スマークほど楽にクラシックを勝った騎手はいない」と言われるほどの大勝であった。

ネヴァーセイダイはセントレジャーのあと、特に怪我もなく、そのまま種牡馬となった[1]

種牡馬時代[編集]

種牡馬デビュー[編集]

ネヴァーセイダイはセントレジャーを最後に競走馬を引退して種牡馬となった。馬主であるクラークの強い意志によって、ネヴァーセイダイは生まれ故郷であるアメリカではなく、イギリスのニューマーケットに繋養された[1]。クラークは最低4年間は、ネヴァーセイダイをイギリスに留め置くこととし、その後の取り扱いは4年後に検討すると公表した[1]

1955年に種付けされた最初の世代が1956年に誕生した。その中には不出走ながら血統の良さをかわれて種牡馬になり、クラシックホースを出したインモータリティ(Immortality、後述)がいる。2年目の世代(1957年生まれ)からは、二冠牝馬のネヴァートゥーレイト(Never Too Late、後述)が登場した。

ラークスパーのダービー制覇とリーディング獲得[編集]

1962年に、ラークスパーイギリスダービー優勝などにより、イギリスのリーディングサイアーとなった[9][10]

国立牧場への寄贈[編集]

馬主のクラークは、ネヴァーセイダイをイギリスの国立牧場(ナショナル・スタッド)へ寄贈した[9][1]。その際、全体の種付け権の25%はアイルランドの生産者に与えるよう、条件が付与された[1]。このときのネヴァーセイダイの価値は10万ポンド以上と見積もられている[3]。かつて1914年に国立牧場が創設された時の、牧場、施設、家具調度品、美術品、競走馬約50頭、牛600頭などの総額が約7万4000ポンドとされており、ネヴァーセイダイは1頭でそれを上回る資産となることから、クラークによる寄贈はイギリスの生産界から大変な歓迎と謝意をもって評価された[3][1]。ネヴァーセイダイは25歳で寿命を迎えるまで国立牧場で過ごした[9][10]

ネヴァーセイダイ系のブームとその終焉[編集]

ネヴァーセイダイ自身は種牡馬として大成功をおさめたが、ラークスパーを筆頭に、優れた産駒のなかなら良績をあげる種牡馬が現れなかった。一方、ネヴァーセイダイの子で競走馬としては中級・下級クラスだったものは諸外国へ売られていったが、これらの中からは売却先で成功するものが出た[2]。なかでも日本では、1960年代にネヴァービートが種牡馬として成功を収めたのをきっかけに「ネヴァーセイダイ系」のブームが起こり、多くの産駒が種牡馬として輸入され、1980年代には日本で最も人気のある系統になった[10][11]。この間、日本へ輸入されたネヴァーセイダイの子は16頭に及ぶ[11]。こうして、ネヴァーセイダイの系統はイギリスでは1980年代には滅亡寸前まで衰えたが、日本ではしばらく繁栄した[2]。だが日本でも、この系統から出た最良の競走馬だったテンポイントが競走中の怪我がもとで死亡してしまい、1980年代の後半にはネヴァーセイダイ直仔の種牡馬の成績は峠を越え、孫の代からこれといって有力な後継種牡馬が出なかった。2000年代には、牝系に残ってはいるものの父系としての本馬の系統はほぼ途絶えた状態となっている。

主要系統図[編集]

  • 太字は特に優秀な戦績をあげたもの[注 6]
  • ※馬名のあとの数字は生年を表す。
  • ※馬名の前の「*」印は日本輸入馬を示す。
  • 赤字は牝馬。
Nearco 1935   ---→ネアルコ系
Nasrullah 1940   ---→ナスルーラ系
||Never Say Die 1951 ダービーセントレジャー
|||Immortality 1956
||||Fleet 1964 イギリス2歳牝馬チャンピオン1000ギニーチェヴァリーパークステークス
||||Dimbokro 1969 亜ジョッキークラブ大賞
|||Never Too Late 1957 フランス2歳牝馬チャンピオンサラマンドル賞1000ギニーオークス
|||*ダイハード Die Hard 1957 イボアハンデ、セントレジャー2着
||||キタノダイオー 1965 北海道3歳ステークス
|||||ハードラーク 1972 愛知杯
||||タマホープ 1967 菊花賞2着
||||クラウンピラード 1973 天皇賞2着2回
|||*シプリアニ Cipriani 1958
||||ヒカルイマイ 1968
|||Sostenuto 1958
|||*ラークスパー Larkspur 1959 イギリスダービー
|||*ネヴァービート Never Beat 1960
||||マーチス 1965 阪神3歳ステークス皐月賞
||||ルピナス 1965 最優秀3歳牝馬 優駿牝馬
||||リキエイカン 1966 天皇賞
||||クニノハナ 1967 ビクトリアカップ
||||グランドマーチス 1969 最優秀障害馬2回
||||インターグロリア 1974 最優秀3歳古牝馬 桜花賞エリザベス女王杯
||||ミサキネバアー 1979 東京王冠賞大井記念、天皇賞2着
|||*ライオンハーテッド Lionhearted 1961
||||アズマキング 1977
|||*コントライト Contrite 1968
||||テンポイント 1973 日本年度代表馬最優秀2歳古牡馬 天皇賞有馬記念
|||*マンオブビィジョン Man of Vision 1976
||||ハーディービジョン 1981 朝日杯3歳ステークス

イモータリティ[編集]

種牡馬ネヴァーセイダイにとって初年度産駒となる、1956年生まれの牡馬イモータリティImmortality)は未出走馬である[9]

Immortality 血統 ネヴァーセイダイ系
ネヴァーセイダイ
1951 栗毛 イギリス
Nasrullah Nearco
毛色 鹿毛 Mumtaz Begum
生年 1956 Singing Grass War Admiral
生産地 イギリス Boreale
生産者 Belle of Troy
1947 鹿毛 アメリカ
Blue Larkspur Black Servant
馬主 Blossom Time
調教師 La Troienne Teddy
成績等 未出走 Helene de Troie F-No.1-x

イモータリティの祖母は、現代でも世界屈指の名牝系の一つに数えられるラトロワンヌである。その娘であるベルオブトロイ(Belle of Troy)は、アメリカでブルックリンハンデなど13勝をあげたコーホーズ(Cohoes)を産んだ。イモータリティはこのコーホーズの2歳下の半弟で、ベルオブトロイをイギリスへ連れて行って種牡馬入りしたばかりのネヴァーセイダイを交配し、イギリスで生まれた馬である。イモータリティが競走年齢に達する頃には、既にコーホーズがアメリカで優秀な成績を収めていたので、イモータリティは未出走のまま種牡馬になった。

インモータリティは初期の産駒からフリート(Fleet)、デモクラティー(Democratie)の全姉妹が活躍した。1967年に種牡馬としてアルゼンチンへ輸出された。

イモータリティの主な産駒[編集]

  • 太字は節を設けた馬。赤字は牝馬。
  • 亜・ARGはアルゼンチン、愛・IREはアイルランド、英・GBはイギリス、仏・FRAはフランス。
Never Say Die
|Immortality 牡
||Fleet 牝 1966生 IRE産 英2歳チャンピオン。1000ギニー、チェヴァリーパークS3、コロネーションS
||Democratie 牝 1969生 GB産 仏チャンピオンスプリンター。ラフォレ賞。
||Dimbokro 牡 1969 ARG産 亜ジョッキークラブ大賞、亜サンイシドロ大賞
||Ecuanime 牡 1970 ARG産 亜最優秀2歳馬。モンテビデオ大賞G1(Gran Premio Montevideo)[12]

フリート[編集]

フリートFleet)は1964年にアイルランドで生産された牝馬である。母馬はレヴュー(Review)というが、その産駒(フリートの半姉)のディスプレイ(Display)は1961年にチェヴァリーパークステークス、1962年にコロネーションステークスに勝っている。さらに、フリートが生まれた1964年には、半姉のプールパルレ(Pourparler)が1000ギニーに優勝している[9]

フリートは2歳の時(1966年)にチェヴァリーパークステークスに勝ってイギリスの2歳牝馬チャンピオンになった。翌1967年には1000ギニーコロネーションステークスに勝ち、この年のイギリスのマイル部門のチャンピオンとなった[9][2]

デモクラティー[編集]

牝馬のデモクラティーDemocratie)はフリートと父母を同じくする全妹である。1969年にフランスでラフォレ賞を勝ち、ポルトマイヨ賞セーネワーズ賞にも勝って、フランスのスプリント部門のチャンピオンになった[2]

ディムボクロ[編集]

ディムボクロDimbokro)は、アルゼンチンへ渡ったイモータルが出した産駒である。1969年にラスオルミガス牧場で生産され、アルゼンチンでジョッキークラブ大賞(Gran Premio Jocky Club)、サンイシドロ大賞(Gran Premio San Isidro)に勝った[2][13][14]

ネヴァートゥーレイト[編集]

ネヴァートゥーレイトNever Too Late)はネヴァーセイダイの2世代目の産駒で、1000ギニー、オークスに勝った。

Never Too Late 血統 ネヴァーセイダイ系
ネヴァーセイダイ
1951 栗毛 イギリス
Nasrullah Nearco
毛色 栗毛 Mumtaz Begum
生年 1957 Singing Grass War Admiral
生産地 アメリカ Boreale
生産者 ハウエル・ジャクスン夫人 Gloria Nicky
1952 栗毛 イギリス
Alycidon Donatello
馬主 ハウエル・ジャクスン夫人 Aurora
調教師 エチエンヌ・ポレ Weighbridge Portlaw
成績等 9戦5勝 Golden Way F-No.4-c

ネヴァートゥーレイトはアメリカで生まれ、フランス人調教師に預けられた。2歳の時はフランスでサラマンドル賞に勝ち、タイムフォーム誌によるフリーハンデで全欧2歳牝馬チャンピオンになった。3歳になるとイギリスへ渡り、1000ギニーとオークスに勝った。

ネヴァートゥーレイトは小柄な栗毛馬で、ハウエル・E・ジャクソン夫人(ドロシー・ジャクソン)がブルラン牧場(Bull Run Stud)で生産した。母馬のグロリアニッキー(Gloria Nicky)は1954年にイギリスでチェヴァリーパークステークスに勝って2歳牝馬チャンピオンになっている。近親にはセントレジャーステークス優勝の*リボッコと*リブロがいる。ネヴァートゥーレイトはグロリアニッキーの初仔で、まだ妊娠中の1956年に3万ポンドでジャクソン夫人がグロリアニッキーを買ってきたのだった。

ネヴァートゥーレイトはフランスへ送られたが、同名馬が既にいたので、ネヴァートゥーレイト2(Never Too Late II)として扱われた。エチエンヌ・ポレ調教師のもとで1959年8月にデビューし、9月にサラマンドル賞で*ファラモンド(Pharamond[注 7])を破って優勝した。続くグランクリテリウムではアンガース(Angers)にクビ差敗れて2着になった。タイムフォーム誌によるフリーハンデで、ネヴァートゥーレイトは130ポイントの評価を得て全欧2歳牝馬の首位になった。

3歳になると、アンプルダンス賞を4馬身差で勝ち、1000ギニーを目指して渡英した。ネヴァートゥーレイトは13頭中約1.7倍の本命になり、ゴール前200メートルのあたりで先頭に立つと、あとは2馬身差をつけて楽勝した。翌月のオークスでも2.2倍の本命になったが、ゴール前の混戦で物議を醸す結果になった。ネヴァートゥーレイトは後方から進み、最後の直線でスパートしようと外へなんとか持ちだし、先頭のペンポン(Paimpont)に追いすがった。並んだところで、ネヴァートゥーレイトは左へモタれてしまい、後ろから来たアンベルリン(Imberline)の進路を塞ぐ形になった。立て直したネヴァートゥーレイトはなんとかペンポンをアタマ差捉えて優勝した。ペンポンが2着、アンベルリンは3着だった。レース後、ネヴァートゥーレイトの騎手は、レース中に何度もイギリス人騎手が故意に進路を妨害してきたと申し立て、ポレ調教師も進路妨害がなければ6馬身差で勝っていたはずだと述べた。

秋はフランスでヴェルメイユ賞に出たが、柔らかい馬場が合わずに着外に終わり、イギリスのチャンピオンステークスで2着[注 8]になったのを最後に引退した。この年のタイムフォームによるネヴァートゥーレイトの評価は128ポイントである。

ネヴァートゥーレイトはアメリカに戻って繁殖牝馬になった。産駒のなかで最良のものはウィズアウトフィアー(Without Fear、父*ボールドリック)で、ヘロド賞に勝ち、オーストラリアでチャンピオンサイアーになった。ほかにも、ネヴァートゥーレイトの子孫からはオーストラリアのVRCオークスの優勝馬が出ている。

ダイハード[編集]

ダイハードDie Hard)は3歳時(1960年)にセントレジャーで2着に入り、古馬になって1961年にイボアハンデキャップに勝った[15][16]

1962年に日本へ輸入されると[15]、種牡馬デビュー初年度に新種牡馬ランキングで3位となった[11]。初期の産駒からキタノダイオーが北海道の2歳戦でレコード勝ち2回を含めて3連勝、そのうち重賞が2つという活躍をした[17]。キタノダイオーはその後怪我で長期休養を余儀なくされ、クラシックシーズンを棒に振ったが、7歳までで7戦無敗の成績を残して引退した[17]。キタノダイオーは種牡馬としても成功した[17]

このほか、ダイハードは多くの重賞勝ち馬を出した[15]

ダイハードの主な産駒[編集]

Never Say Die 1951   
|*ダイハード Die Hard 1957
||Datus 1963
||ダイパレード 1964
||ムオー 1964
||キタノダイオー 1965
||タイセフト 1967
||スモールキング 1968
||ダイイチテンホウ 1968
||ハクセイコー 1968
||マウントキング 1968
||スカイリーダ 1970
||インターグッド 1971
||クラウンピラード 1973
||フラッシュハート 1973

シプリアニ[編集]

シプリアニCipriani)は1958年にイタリアで生産された[18]。コロネーションステークス、ファルマスステークスなど4勝をあげ、1962年に種牡馬として日本へ輸入された[18]

日本ではヒカルイマイ皐月賞日本ダービー)、トウメイ(天皇賞有馬記念)、アチーブスター(桜花賞ビクトリアカップ)などを出し、大成功した[18]

詳細はシプリアニ参照。

シプリアニの主な産駒[編集]

Never Say Die 1951   
|*シプリアニ Cipriani 1958 → トウメイ 1966、アチーブスター 1969
||ダイサンタカサゴオ 1964
||ナンポウザン 1966
||ヒカルイマイ 1968
||ミルフオードオー 1969
||トドロキムサシ 1971
||シプリハナ 1972
||ファインポート 1973

ラークスパー[編集]

ラークスパーLarkspur)は1959年にアイルランドで生産された[19]。イギリスダービーに勝ち、1967年に種牡馬として日本へ輸入された 。

ラークスパーの主な産駒[編集]

Never Say Die 1951   
|*ラークスパー Larkspur 1959
||Crazy Rhythm 1968

ネヴァービート[編集]

ネヴァービート参照。


ネヴァービートの主な産駒[編集]

Never Say Die 1951   
|*ネヴァービート Never Beat 1960 → ミスマルミチ 1965、インターグロリア 1974
||ダイイチオー 1965
||フシミヒカリ 1965
||マーチス 1965
||ヤマトシ 1966
||リキエイカン 1966
||スリービート 1967
||グランドマーチス 1969
||ボージェスト 1970
||メイジヤマト 1970
||メイジヒダカ 1971
||タイホク 1973
||ハシクランツ 1976
||ミサキセイバー 1976
||ミサキネバアー 1979

ライオンハーテッド[編集]

ライオンハーテッド(Lion Hearted)は1961年生まれのイギリス産馬で、イギリスダービー優勝馬のパーシアやセントレジャーステークス優勝馬のアルサイドの近親である[20][21]

ライオンハーテッドには重賞勝鞍はないが、1964年のアイルランドダービーで、単勝1.5倍の大本命サンタクロースに次いで2着になった[22]

ライオンハーテッドははじめニュージーランドで種牡馬になったが、日本でネヴァーセイダイのブームが起きると、日本に購買されて北海道・新冠町で供用された。産駒からは南関東の名馬アズマキングが出た[21][23]

Never Say Die 1951   
|*ライオンハーテッド Lionhearted 1961
||アズマキング 1977 東京大賞典東京王冠賞帝王賞大井金杯報知オールスターカップ

コントライト[編集]

コントライト参照。

コントライトの主な産駒[編集]

Never Say Die 1951   
|*コントライト Contrite 1968
||ライバライト 1974
||ウエストポイント 1975
||サムソンシチー 1978
||ニットウオーカン 1979
|Brave Sun 1968

マンオブビィジョン[編集]

Never Say Die 1951   
|*マンオブビィジョン Man of Vision 1976
||ハーディービジョン 1981

その他の日本輸入種牡馬[編集]

  • ナイトアンドデイザセカンド Night and Day II 1960
  • ネヴァードゥエル Never Dwell 1960
  • フィルモン Philemon 1960
|Whip It Quick 1972
  • エンドレスハネー Endless Honey 1961
  • ニアルカス Nearchus 1961
  • ネヴァービーシュア Never be Sure 1961
  • アングロアメリカン Anglo American 1965
  • ダッパー Dapper 1965
|カツボーイ 1974
  • フィニックスバード Phoenix Bird 1965

その他の産駒[編集]

Never Say Die 1951   
|Lustrous Hope 1957
|Undefeated 1957
|Allenby 1958
|Bold Lover 1958
|Crash Helmet 1958
|Cross King 1958
|Sostenuto 1958
||Imagele 1970
||Andynuto 1976
|Napoleon 1959
|Never Give Up 1959
|Saidam 1959
||Rio Bravo 1966
||Dream of Kings 1967
|Casabianca 1961
|Light Brigade 1961
|Mellay 1961
||Trelay 1966
|Straight Die 1961
|Battle-Waggon 1962
||Battle Lomond 1978
|Nentego 1962
|Lead the Way 1964
|Super Slip 1964
|Capricorno 1965
|My Horace 1965
|Kazakstaan 1967
|Old Soldier 1967
|O Say Dan 1967
|Brave Sun 1968
|Charisma 1968

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ Galadayは同名の競走馬がアメリカにいたので、GaladayIIと表記されることもある[4][5]。なおGaladayのカタカナ転記には、「ガラディー」[5]、「ガラティー」のような表記も見られる[4](「d」を「テ」と転記している)。『世界の名馬』に従い「ガラディ」[3]とした。ほかには「ギャラディー」[3]など。(『世界の名馬』では、血統表では「ギャラディー」、本文では「ガラディ」となっている。)
  2. ^ Galateaは同名の競走馬がアメリカにいたので、GalateaIIと表記されることもある[5][4]。なおGalateaのカタカナ転記には、「ガラティー」[5]、「ガラティ」[4]などの表記も見られるが、ここでは母馬のガラディとも区別も考慮し「ガラテア」とした。
  3. ^ Borealeのカタカナ転記については、ほかに「ボリアール」[1]など。
  4. ^ Singing Grassのカタカナ転記につyいては、ほかに「シンギング・グラース」[1](同書ではSinging Glassというスペルミスがある)など。
  5. ^ レスター・ピゴットは制御を怠ったとして年内の騎乗停止処分を言い渡された。
  6. ^ 『サラブレッド血統大系★★★★★』および『Family Tables of Racinghorses Vol.IV』より作成
  7. ^ この*ファラモンドは、サラマンドル賞の前にモルニ賞を勝っている。*ファラモンドは3歳になるとダリュー賞を勝ち、仏ダービーでは5着になった。のちに日本に種牡馬として輸入され、カブラヤオーミスカブラヤゴールデンリボーゴールドスペンサーなどを輩出し大成功した。
  8. ^ 優勝馬はイタリアの牝馬Marguerite Vernaut。

参考文献[編集]

  • 『世界の名馬』,原田俊治,サラブレッド血統センター,1970年
  • 『サラブレッドの世界』サー・チャールズ・レスター著、佐藤正人訳、サラブレッド血統センター刊、1971
  • 『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』デニス・クレイグ著、マイルズ・ネーピア改訂、佐藤正人訳、中央競馬ピーアールセンター刊、1986
  • 『サラブレッド血統事典』山野浩一・吉沢譲治、二見書房、1992、1996
  • 『最新名馬の血統 種牡馬系統のすべて』山野浩一著、明文社刊、1970、1982、p169、p197-202

血統に関する出典[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『サラブレッドの世界』p582-594「1954年 ネヴァーセイダイ」
  2. ^ a b c d e f 『最新名馬の血統 種牡馬系統のすべて』山野浩一著、明文社刊、1970、1982、p169、p197-202
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 『世界の名馬』p295-310「英国で気を吐く米国生まれ ネヴァーセイダイ」
  4. ^ a b c d e f 『サラブレッドの世界』p432「プラッキー・リエージュとサーガラハッドIII」
  5. ^ a b c d 『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』p186-188「パラフィン」
  6. ^ シンガー社史2014年6月17日閲覧。
  7. ^ a b ザ・デイリー・ガゼット紙 1995年6月18日付 Clark Institute will celebrate 40th year with major face lift2014年6月17日閲覧。
  8. ^ サラブレッド・ヘリテイジ 全米2歳牝馬チャンピオン2014年6月17日閲覧。
  9. ^ a b c d e f 『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』p131-132「ナスルーラ」
  10. ^ a b c 『サラブレッド血統事典』1992年版,p821-822「Never Say Die」
  11. ^ a b c 『優駿』昭和56年7月号、日本中央競馬会,1981,p29-33「三歳種牡馬この10年間の動向」石崎欣一
  12. ^ リオデラプラタ牧場名簿#182014年8月7日閲覧。
  13. ^ CaballosDelMundo(世界の馬) 亜ジョッキークラブ大賞の歴史2014年8月7日閲覧。
  14. ^ タタソールズ・セリ名簿248(Lady Dulcineaの2001の血統)2014年8月7日閲覧。
  15. ^ a b c 『サラブレッド血統事典』1992年版,p349「ダイハード」
  16. ^ Galopp-Sieger ダイハードの主な成績2014年6月22日閲覧。
  17. ^ a b c 『サラブレッド血統事典』1992年版,p152「キタノダイオー」
  18. ^ a b c 『サラブレッド血統事典』1992年版,p253「シプリアニ」
  19. ^ 『サラブレッド血統事典』1992年版,p705「ラークスパー」
  20. ^ 『日本の種牡馬録3』p570-571 ライオンハーテッド
  21. ^ a b 『サラブレッド種牡馬銘鑑』第2巻,p231-232 ライオンハーテッド
  22. ^ トレドブレイド紙 1964年6月28日付 サンタクロースがアイルランドダービー優勝2014年6月8日閲覧。
  23. ^ 『サラブレッド血統事典』1996年版、p608 ライオンハーテッド

関連項目[編集]

外部リンク[編集]