緒方孝市

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緒方 孝市
広島東洋カープ コーチ #79
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 佐賀県鳥栖市
生年月日 1968年12月25日(43歳)
身長
体重
181cm
80kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手内野手
プロ入り 1986年 ドラフト3位
初出場 1988年9月17日
最終出場 2009年10月10日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴
  • 広島東洋カープ (2008 - )

緒方 孝市(おがた こういち、1968年12月25日 - )は、元プロ野球選手外野手)。現在は広島東洋カープ守備・走塁コーチ。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

佐賀県立鳥栖高等学校では3年春の九州大会でベスト8、夏は全国高等学校野球選手権佐賀大会でベスト4。

高校1年生で身長167cmと小柄な二塁手だったが、2年生で170cmを超え、3年には180cm台に成長していた。3年時に放った右翼への強烈なファウルによってスカウトが獲得を決めたという[要出典]

1986年のドラフト会議で、広島東洋カープに内野手として3巡目に指名され、入団[1]

[編集] 若手時代

プロ入り直後に外野手へ転向し、走・攻・守揃った選手としてチームを牽引している。1988年に一軍出場を果たし、1989年オフにペニンシュラ・パイロッツへ野球留学した。1991年には100試合以上に出場。1991年の日本シリーズでも先発メンバーとして出場するなど、早くから期待を集めるが、毎年のように怪我に泣かされていた。

1995年には母が死去する不幸に見舞われたが、悲しみを乗り越えてアキレス腱断裂によって離脱した前田智徳の穴を埋める形でレギュラーに定着。監督の三村敏之は「緒方の母は緒方を二度生んだ」と発言、話題となった。規定打席不足ながらリーグ8年ぶりとなる40盗塁以上を記録し、47盗塁で盗塁王を獲得した。

1996年にはリーグ11年ぶりとなる50盗塁を記録し、オフに中條かな子と結婚。その後、1997年までリーグタイ記録(当時)となる3年連続盗塁王を獲得。この3年間で計146盗塁を記録したが、その間の盗塁失敗は僅か26だった(成功率.849)。

1998年は右方向への打撃を習得し、開幕から高打率を記録。6番という打順の関係もあったが盗塁数も順調に伸び、当時のリーグ新記録となる4年連続盗塁王に加え、首位打者打点王も視野に入る程の好調だった。本塁打も量産したことでトリプルスリーへの期待も高まったが、6月12日の阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)の9回裏に、八木裕が放った飛球を追って柵によじ登ろうとして跳び蹴りを加えた際に右足首を捻挫して離脱。1ヶ月半後に復帰し、復帰後も高打率は維持したものの、本塁打・打点・盗塁に関しては数字が伸びなかった。

1999年は開幕から本塁打を量産。打率も3割を越えて自身初の3割30本塁打を記録。また、この年だけで初回先頭打者本塁打を8本放ち、日本タイ記録を作った[2]が、前年の捻挫の影響から盗塁数は伸びなかった[3]。2年連続となる打率3割に加え、自己最多の36本塁打、4割を超える出塁率、さらに5年連続のゴールデングラブ賞を獲得したものの、「自分らしさがなく最悪のシーズンだった。打撃が良かったのがせめてもの救い」と、走塁への意識の高さが伺える発言をしている。

同年オフ、FA権を獲得した。読売ジャイアンツ福岡ダイエーホークスを筆頭に、多くの球団が「宣言すれば獲得に乗り出す」意思を表明した。長嶋茂雄も「一番欲しい選手」と熱烈なラブコールを送り、巨人入りが既定路線のように報道されたが、1996年に結婚した中條かな子が広島出身で、彼女の希望もあって残留した。残留に際し、「広島という土地柄にもファンにも愛着があるし、熱いものを感じる」と語った[4]

[編集] レギュラーに

2000年から選手会長に就任し、チームの顔となった。しかし2001年にかけて大きな故障に苦しみ、出場試合数が激減した。故障箇所の多くが下半身だったこともあり、この2年間を境に盗塁数が激減する。2002年には中堅手のレギュラーとして復活した。怪我や年齢的な衰えが懸念された打撃は、開幕から安定した数字を残し、打率.300と自身3度目の3割を記録。本塁打も25本放った。カムバック賞こそ、同じく復活を果たした前田に譲ったものの、成績的には緒方が受賞してもおかしくない位の数字を残している。

2003年は開幕から極度の不振に落ち込むも、4月末に放ったサヨナラ本塁打を機に急上昇し、2年連続の3割(.300)、29本塁打を放ち、自身最多となる82打点を記録した。最終戦となった10月12日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)では、試合前時点での成績は打率.297、29本塁打で、3割には最低でも4打数3安打以上の成績が必要だった。2打席目から3打席連続安打を放って3割を達成、3本目の安打は柵最上部に直撃する二塁打で、あと少し飛距離が伸びていたら30本塁打も同時に達成していた。

2004年以降も打撃面では安定した成績を残した。同年オフに椎間板ヘルニア手術を行なったため、2005年の開幕戦出場が危ぶまれたが、オープン戦で復帰。開幕直前の試合で、中堅への大飛球を好捕した際に肩を打撲したことで出場が絶望視されたが出場を果たし、9回表にダン・ミセリから決勝本塁打を放った。

この年からセ・パ交流戦が開始されたが、5月21日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で戸叶尚から顔面に死球を受け、左眼窩を骨折した。しかし、翌日から通常通り練習に参加、その次の試合では代打で復帰するなど鉄人ぶりも見せている[5]

2006年は4月だけで2本の初回先頭打者本塁打を放つが、5月4日の対東京ヤクルトスワローズ戦で五十嵐亮太から死球を受けて負傷退場。検査の結果、右手薬指開放骨折で全治4週間の診断を受け、登録を抹消された。同年7月16日の対横浜ベイスターズ戦でプロ初の抗議[6]を行なったが、マーティ・レオ・ブラウンが制して退場は免れた。

2007年は開幕から先発出場するものの、調子が上がらずに控えに回ることも多かった。復調し始めた矢先に右肘を痛めて登録を抹消されるなど、苦難のシーズンとなった。そのため契約更改では、球団側に引退を考えていることを告げたが引き止められ、翌年からコーチ兼任ながら現役を続行することとなった。

2008年5月25日の対千葉ロッテマリーンズ戦(広島市民球場)で8回に代打として出場し、ウィンストン・アブレイユから逆転本塁打を放った。この本塁打は、セントラル・リーグ通算代打本塁打1500号となった。

2009年には加齢と積年の怪我による足腰の衰えや、新たな右肘の故障による不振によって活躍できず、同年10月1日に現役引退を表明[7]。翌年から野手総合コーチ就任を打診された。引退試合となった10月10日の対読売ジャイアンツ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で8回表より守備に就き、木村拓也が放った中堅飛球を捕球した。その裏の現役最終打席では三塁打を放ち、有終の美を飾った[8][9]

緒方の引退によって、1991年の優勝を経験した生え抜き選手は前田1人だけになる。広島在籍23年は衣笠祥雄と並び最長で、20年以上広島に在籍した選手は緒方を含めて大野豊(22年)・衣笠祥雄(23年)・前田智徳(2012年シーズンで23年目)の4人である。

[編集] 引退後

2010年は野手総合コーチとして一塁コーチを担当したが、守備走塁コーチとなった2011年からは、三塁コーチだった高信二がベンチ担当になるため、三塁コーチを担当することになった。[10]

[編集] プレースタイル

三振は多いが例年出塁率は高い。盗塁数が減少し、俊足好打といったタイプでなくてもチームで最も1番を打つ機会が多かったのは、単にチーム事情によるものだけではなく、出塁率の高さも関係している。盗塁数こそ全盛期と比べると大きく落ち込んだが、脚の速さ自体は水準以上を保ち、走塁技術や守備はチーム内でも屈指の上手さを誇っていた[要出典]

速やかに打撃姿勢をとるきびきびした動きに対し、2003年には「スピードアップ賞」も受賞した。その若さ溢れるプレースタイルと童顔から、実年齢よりもかなり若く見られる時も多い。

怪我に弱い印象を持たれがちで、実際に故障もあるが、全力プレーから来る故障もまた多い。故障を抱えつつプレイをするというタフネスぶりも発揮している。

[編集] 盗塁技術

特にスタートダッシュの素晴らしさと、スピードが全く落ちないスライディング(一般的にはスライディングをするとスピードが落ちるが、緒方の場合は減速しないので「加速しているように見える」という選手もいる)は相手チームや、二盗を刺す立場にある捕手にとって脅威であった。古田敦也ヤクルト)をして「投げた瞬間に『刺せる!』と思って、唯一刺せなかった選手」と言わしめ、また走攻守のスケールの大きさから「自分が監督になったら一番欲しい選手」とまで言われたことがある。

1998年に放送された『スポーツマンNo.1決定戦』では、その身体能力の高さを遺憾なく発揮し、総合No.1に輝いた。なお、同番組の「ショットガン・タッチ」では当時の世界記録である「13m20cm」を樹立した(1999年に飯田哲也が「13m30cm」を記録)。ちなみにモンスターボックス(跳び箱)でも活躍し、当時のプロスポーツマンタイ記録である18段を成功させ、この種目でもNo.1となっている。

故障や加齢で全盛期のスピードが失われてからも俊足であることに変わりはなく、2008年春季キャンプでの短距離走では東出らを上回る4位となり、俊足選手の多いチーム事情から見ても屈指の脚力を誇っていた。2009年7月16日には40歳ながら代走で起用され、好判断と衰えぬスピードを駆使し、タッチアップで三塁へ進塁すると、直後のスクイズで見事生還した。

2008年の秋季キャンプではコーチとして積極的に若手に盗塁・走塁技術を指導する機会が多かった。一方で走塁練習以外では若手と同等のハードな練習をこなして周囲を驚かせた。

上記などのことから、元からの身体能力もかなり高いと思われがちだが、入団当初は知名度の低さからか、評価そのものがほとんど無く不明である。しかし、プロ入り後は身体能力の爆発的な高さと共に盗塁のスタート、スライディング、ベースランニングのコーナリングなどの技術はかなり高いものを持っている選手として認識されている。

[編集] 守備技術

ゴールデングラブ賞を5回取得していることからも伺えるように、全盛期の守備能力は優れており、技術が高かったため、肩と脚力が衰え始めてからも長らくセンターの定位置を守り続けた。

[編集] 記録

前述した年間先頭打者本塁打8本に加え、通算28本の初回先頭打者本塁打も歴代5位の記録である。初回表の先頭打者本塁打は22本で、福本豊真弓明信の24本に次ぐ両リーグ歴代3位、セ・リーグでは歴代1位である。その他、1988年にプロ初出場で初安打が初本塁打、1997年9月11日の阪神戦で9回裏2死満塁の状況で3点差をひっくり返す逆転サヨナラ満塁本塁打を放つなど、しばしば本塁打の関係の記録を達成している。

打率3割5回、30本塁打以上1回、20本塁打以上6回、盗塁王3回、ゴールデングラブ賞5回を受賞しており、走攻守揃った好選手であることは、記録からも読み取ることが出来る。

1990年代における通算盗塁239は歴代1位である。

[編集] 人物・エピソード

  • 2007年オフに新井貴浩が「カープのことが好きだから辛いです」と言い残してFA宣言、阪神タイガースへ移籍した。これに対し緒方は「『愛着』という言葉はチームを出て行く人間は口にしてはいけない。チームに残る選択をしたやつが初めて口にできるもの。確かにウチの球団は他球団に比べたらお金がないのかもしれないけれど、それを分かったうえで自分の評価も上げたいし、優勝したいと思った。」とコメントしている。
  • 2009年6月8日に通算1500安打を達成したが、23年目での達成は史上最も遅い到達だった(同年7月に同じく23年目の山崎武司も通算1500安打を達成している)。[11]
  • 若い頃、チームメイトから「メグ」と呼ばれていた。由来はアニメ『魔女っ子メグちゃん』からで、睫毛がとても長かった事から。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1988 広島 1 5 5 1 1 0 0 1 4 1 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .200 .200 .800 1.000
1989 2 0 0 1 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1990 32 15 14 9 5 0 1 2 13 4 2 0 0 0 1 0 0 3 0 .357 .400 .929 1.329
1991 102 240 200 26 37 3 0 5 55 11 12 6 8 0 30 0 2 37 2 .185 .297 .275 .572
1992 86 127 115 25 26 3 0 3 38 10 18 1 3 0 8 0 1 21 2 .226 .282 .330 .613
1993 93 180 150 25 36 7 3 4 61 21 14 3 8 1 20 1 1 36 4 .240 .331 .407 .738
1994 57 141 126 16 35 2 2 5 56 14 12 5 2 1 10 0 2 25 3 .278 .338 .444 .783
1995 101 335 272 56 86 11 2 10 131 43 47 7 4 3 50 2 6 45 3 .316 .429 .482 .911
1996 129 597 516 95 144 25 6 23 250 71 50 10 9 1 61 1 10 129 7 .279 .366 .484 .850
1997 135 615 528 103 143 26 5 17 230 57 49 9 9 2 70 1 6 93 9 .271 .361 .436 .797
1998 107 442 380 67 124 24 3 15 199 59 17 12 5 6 47 0 4 61 6 .326 .400 .524 .924
1999 132 592 495 111 151 23 3 36 288 69 18 12 2 2 86 7 7 76 6 .305 .414 .582 .995
2000 21 76 66 11 12 3 0 3 24 10 1 1 1 1 8 0 0 15 2 .182 .267 .364 .630
2001 64 192 159 17 39 7 0 8 70 29 1 0 5 4 21 1 3 26 3 .245 .337 .440 .777
2002 130 539 476 77 143 24 0 25 242 73 4 2 5 2 46 0 10 95 8 .300 .373 .508 .881
2003 136 599 530 75 159 35 0 29 281 82 8 4 13 3 42 2 11 100 8 .300 .362 .530 .892
2004 122 512 456 91 133 20 2 26 235 64 4 3 3 3 41 0 9 87 11 .292 .360 .515 .875
2005 122 490 431 60 132 22 2 21 221 57 3 5 2 3 46 6 8 65 2 .306 .381 .513 .894
2006 81 242 215 28 61 13 0 6 92 29 2 4 1 3 17 1 6 33 6 .284 .349 .428 .776
2007 33 91 83 5 15 5 0 0 20 4 1 1 1 1 6 0 0 19 5 .181 .233 .241 .474
2008 69 88 76 5 15 3 0 2 24 10 2 1 0 1 11 0 0 10 2 .197 .295 .316 .611
2009 53 60 49 2 9 1 1 0 12 7 2 0 0 1 9 0 1 2 0 .184 .317 .245 .562
通算:22年 1808 6178 5342 906 1506 257 30 241 2546 725 268 86 82 38 630 22 87 980 89 .282 .365 .477 .841
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 年度別守備成績


一塁 二塁 三塁 外野
















































1988 - 1 1 2 0 0 1.000 - -
1990 - - 3 2 4 0 0 1.000 22 5 0 0 0 1.000
1991 - 8 11 14 0 2 1.000 - 84 99 4 2 0 .981
1992 - 1 1 0 0 0 1.000 3 1 2 1 1 .750 78 59 3 2 0 .969
1993 - - - 75 90 3 0 1 1.000
1994 - 6 5 10 1 1 .938 - 42 55 0 0 0 1.000
1995 - 3 4 3 0 1 1.000 - 97 181 6 3 1 .984
1996 - 1 0 0 0 0 - - 128 260 15 3 1 .989
1997 - - - 134 317 10 5 1 .985
1998 - - - 103 201 8 3 1 .986
1999 - 2 0 0 0 0 - - 132 277 3 2 2 .993
2000 - - - 18 25 0 0 0 1.000
2001 - - - 43 7 1 1 1 .986
2002 - - - 126 194 6 3 0 .985
2003 - - - 136 259 8 2 1 .993
2004 - - - 109 194 8 3 2 .985
2005 - - - 113 203 4 2 3 .990
2006 2 11 0 1 0 .917 - - 54 104 1 1 0 .991
2007 - - - 22 33 1 0 0 1.000
2008 - - - 4 1 0 0 0 1.000
2009 - - - 4 3 0 0 0 1.000
通算 2 11 0 1 0 .917 22 22 29 1 4 .981 6 3 6 1 1 .900 1524 2567 81 32 14 .988

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 記録

初記録
節目の記録
その他の記録
  • 通算初回先頭打者本塁打:28本(表22本、裏6本) ※歴代5位、表22本はセ・リーグ記録
  • シーズン初回先頭打者本塁打:8本(1999年) ※歴代2位タイ
  • 10試合連続盗塁(1995年) ※セ・リーグ記録
  • オールスターゲーム出場:1回(1999年)

[編集] 背番号

  • 37 (1987年 - 1995年)
  • 9 (1996年 - 2009年)
  • 79 (2010年 - )

[編集] 脚注

  1. ^ 当時日本ハムファイターズの常務だった大沢啓二も緒方を獲得しようとしていたが、緒方から「大学に行く」という理由で指名を断られたという(2009年10月11日放送「サンデーモーニング」週刊御意見番より
  2. ^ 2007年に高橋由伸読売ジャイアンツ)が9本を放って新記録を達成した。しかし右打者としては緒方が石毛宏典デイヴ・ヒルトンと並んで歴代最高である。
  3. ^ 3割30本達成が確定的になると、30盗塁を目指して積極的に企図を試みるも、相手バッテリーも盗塁を警戒していたため失敗が目立った。結局30回盗塁を試みて成功は18回で、この年の盗塁成功率は.600だった。1997年までの通算成功率が.833と、200盗塁以上を記録した選手の中では史上最高の数字を誇っていた緒方にとって、この数字はかなり低いものであった。
  4. ^ 決断前の当時の心境を振り返って、「残留が1で、移籍が9だった。」と回顧している。
  5. ^ ちなみにこのシーズンを振り返って緒方は、「大きな怪我もなくやれた」と振り返っている。
  6. ^ 緒方はこの時まで審判に抗議したことは一度もない。本人曰く「(判定の有利不利は)お互い様であるため、抗議はしない」とのこと。
  7. ^ 広島:緒方孝市選手が引退発表毎日新聞、2009年10月1日閲覧、コイ一筋、駆け抜けた 緒方引退中国新聞、2009年10月2日閲覧
  8. ^ http://www.daily.co.jp/baseball/carp/ogata_retire/2009/10/11/0002435743.shtml
  9. ^ http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cs200910100331.html
  10. ^ 友岡真彦 (2010年11月6日). “緒方コーチ、判断力磨く 一塁から三塁担当へ” (日本語). 中国新聞. http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cw201011060096.html 
  11. ^ http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cs200906080292.html

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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