梵英心

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梵 英心
広島東洋カープ #6
梵英心2012-09-09.jpg
2012年9月9日(マツダスタジアム)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県三次市
生年月日 1980年10月11日(33歳)
身長
体重
173 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手三塁手二塁手
プロ入り 2005年 大学生・社会人ドラフト3巡目
初出場 2006年3月31日
年俸 1億円(2014年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

梵 英心(そよぎ えいしん、1980年10月11日 - )は、広島東洋カープに所属するプロ野球選手内野手)。広島県三次市出身。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

永川勝浩とは三次市の同じ少年野球チームに所属した幼なじみ。高校時代も1度だけ公式戦で対戦があり、この時は3打数3安打だった。しかし大学野球時代は永川から1本もヒットを打てなかった。三次高校時代は、2年夏のベスト16が最高、3年夏は2回戦敗退。東都駒澤大学に進学し、2年秋からレギュラー。卒業後は、社会人野球日産自動車に入社。第76回都市対抗野球大会ではチームの準優勝に大きく貢献。首位打者を獲得し、久慈賞を受賞した。その年オランダで行われたIBAFワールドカップでは日本代表に選ばれ、2005年社会人野球ベストナインを受賞した。2005年大学生・社会人ドラフト3巡目で広島に入団。

プロ入り後[編集]

2006年、オープン戦の活躍で開幕一軍を勝ち取り、ナゴヤドーム中日ドラゴンズとの開幕戦に6番・二塁手スターティングメンバーに抜擢される。カープでの新人開幕スタメンは1969年山本浩司以来37年ぶり。更に1961年山本一義以来45年ぶりのヒットも放った。9月7日の横浜戦(下関球場)でエンタイトル二塁打を放ち、1958年小坂佳隆が記録した新人安打数球団記録(112本)を48年ぶりに更新した。

本来は遊撃手だが、プロ入団後は二塁手の守備に就くようにもなった。土のホームグラウンドの影響もあってか失策が多かった。強肩と俊足を生かし、守備範囲が広いが、遊撃手の見せ場の一つである間一髪のダブルプレーが捕球→送球の動作が俊敏でないためアウトにできなかった。開幕直後攻守にミスが目立ったが、マーティ・ブラウン監督が辛抱強く起用し続けた結果、開幕当初1割にも満たなかった打率を3割近くに上げ、好守も見せるようになるなど短期間で攻守ともに急成長。また得点圏打率は3割5分を超え、三塁打は狭い広島市民球場を本拠地とし、右打者ながら8本を放ち、両リーグ通じて単独トップ。盗塁もチームトップの13個。東出輝裕と二遊間を守り、広島打線の1、2番コンビとして定着した。しかし、9月26日の試合前の練習中、コーチのノックがイレギュラーして右目を直撃、検査の結果「右眼窩部打撲」と診断され登録抹消。横浜・吉村裕基中日佐藤充と争ってきた新人王争いにはまだまだアピールが必要であり、また、新人でありながらチームの攻守の要であるため梵本人は勿論、チームにとっても非常に痛い戦線離脱であった。その日はベンチ裏で人目もはばからず号泣。そして10月14日の阪神戦で復帰し、8回に代打出場。そのまま守備に就き、打球も無難に処理しファンを安堵させる(守備時には未だ赤い目に防御用ゴーグルを着用であった)。最終的には打率.289、安打数130という結果でルーキーシーズンを終えた。その結果、横浜の吉村裕基に倍以上の票差をつけて入団会見での公言通り、2006年度新人王獲得。広島の新人王は1997年澤崎俊和以来9年ぶり、野手では1984年小早川毅彦以来2人目である。同学年(松坂世代)で二遊間を組む東出と2人でゴールデングラブを受賞することを目標にしている。そのため、秋季キャンプでは東出と常に行動を共にするなど、息を合わせている。7月13日の阪神タイガース戦(甲子園球場)で先制ソロにタイムリーを含む2二塁打を放ち、守備ではファインプレーも飛び出し、その日のお立ち台に立った。そのヒーローインタビューで、試合中マウンドへ寄った(投手・黒田博樹)時のことを聞かれて「黒田さんがワンパターンなリズムで投げてたので間を置きたかった」と新人にもかかわらず大胆な発言をした。

オフに背番号を6に変更。また、実家であるお寺を、ブラウン監督が直々に訪れている。12月16日に男児が誕生する。梵の新人王受賞を記念して、地元三次市の白蘭酒造が清酒『英心』を発売した。720mlの本醸造酒で、梵英心のサイン入りポストカードが1枚付いている。2006-2007のオフにローカルラジオ番組DO THE CARPにてDJの一人を務める。その際リスナーからDJ名が公募され、「DJ-Ashin」と名付けられた。

2007年はバットを前年よりも長く持ち、長打も狙って行くスタイルに切り替えを図ったのが功を奏してか、18本塁打を記録。しかしポップフライや三振が増える等、1番打者としては淡白な打撃になった。シーズン後半には6番として出場するなど、長打力を活かした配置転換を試され、前年に比べて大きく打撃スタイルが変化した。ただし打率こそ大きく落ちたものの安打数は前年に比べて増えており(打席数が増えた事も要因ではあるが)、四球数も前年27個に対し、51個選んだ。これは長打力の向上や1年目の活躍により相手投手から警戒され、コーナーをつく球が増えたこと、それを見極める力が向上したことによる。 守備面も向上を見せ、ショートとしては両リーグ唯一の100併殺を達成。失策はショートではセリーグ最多だったが、RF(レンジファクター)(守備率を参照)は両リーグでも1位だった。

2008年 、開幕を2番打者として迎えるが、開幕から昨年以上の低打率に陥り、また長打もほとんど出なくなる。4月19日の巨人2回戦(広島)ではヘルメットを叩きつけて懲罰交代を受けたり、4月25日の横浜4回戦(横浜)では守備において指示を無視した独断行動を取ったことが決定打となり、4月末にプロ入り初の不調が原因による二軍落ちを経験。一軍復帰後は打順を7番・8番などの下位に下げて起用されたものの、夏場には打率2割を切るまでに至り、再び二軍落ちを余儀なくされる。調整を経てすぐに一軍に復帰したものの、新人の小窪哲也に正遊撃手のポジションを奪われ出場機会は大きく減少した。最終的に97試合の出場で打率.223、1本塁打、17打点、8盗塁と、あらゆる部門で自己最低の成績に終わった。 守備面ではエラーこそ多かったものの、RFを発展させたRRFでは鳥谷敬をわずかにしのぎセ・リーグ1位であった(ただし、鳥谷より出場試合は40試合以上少ない。また両リーグ合わせると金子誠がトップ)。

2009年、横浜から石井琢朗が加入し、遊撃手争いが激化するが、首脳陣からの期待は大きく、開幕戦で3番に抜擢される。すぐに下位を打ったり、石井と併用されたりもしたが、交流戦から1番を打つ機会が増えるとパ・リーグ球団の研究不足も手伝って調子を取り戻し、チームも交流戦の優勝争いを演じる。しかし、交流戦が終わりセ・リーグ相手になると再び打てなくなり下位を打つ機会が増え、結局8月上旬の試合直前に「チーム事情」による突然の二軍落ち。再び小窪に正遊撃手を奪われた。二軍でも昇格を大きくアピールするだけの成績は残せずこの年一軍復帰は無かった。出場試合数は前年を更に下回る73試合に終わり、打撃成績も長打の数や盗塁を除けば前年とほとんど変わらない成績に終わる。

野村謙二郎を新監督に迎えた2010年、小窪とのポジション争いが注目される中、オープン戦では打率.227と振るわなかったものの、両リーグ1位の8盗塁を記録し、開幕を2番・遊撃手で迎える。シーズンに入ると3割前後の打率を維持し、1番東出輝裕と共に不動のリードオフマンとして低迷するチームの中で気を吐いた。東出の故障による離脱後は1番に座り、チーム唯一の全試合出場を果たすなど、シーズン終了まで安定した活躍を見せた。3年ぶりの規定打席に到達するとともに初の打率3割を達成。また13本塁打を打ち長打力が戻り、3年ぶりの二桁本塁打となった。横浜ベイスターズ石川雄洋に競り勝ち、自己最高の43盗塁を記録し、盗塁王(チームでは1997年緒方孝市以来13年ぶり)を獲得した。更にリーグ4位の36犠打、自身初となるゴールデングラブ賞も受賞するなど、過去2年の不振からの完全復活を果たしたシーズンとなった。

2011年も開幕から遊撃手のレギュラーとして起用されるが、6月29日の試合中に自打球が左膝に直撃し、膝蓋骨骨挫傷で長期離脱となった。8月23日には二軍の試合に復帰したがすぐに痛みが再発し、本格的な練習を再開できないままシーズンを終えた[1]

2012年は膝の怪我から復帰して再び遊撃手のレギュラーに定着し、この年のチーム内では2番目に多い137試合に出場した。

2013年は膝の状態に配慮して安部らと併用されたため、遊撃手としての先発出場は105試合にとどまり規定打席にはわずかに届かなかったが、安定した守備、得点圏打率.317を残すなど勝負強い打撃を見せた。12月2日、東出輝裕に代わり新たにチームの選手会長に就任した。[2]

人物[編集]

実家は江戸時代初期から続く浄土真宗本願寺派専法寺である。そのため2006年の春季キャンプの紅白戦で初本塁打を放った時には、嶋重宣福井敬治から合掌で出迎えを受けていた。

姓は仏教用語に由来し、真宗僧侶が明治期になって名字を公称する際に命名した奇姓の一つである(ほかに「禿(かむろ、かぶろ)」姓など)。読み方のそよぎは梵の父親によると、「祖先がなぜ“そよぎ”と読んだかは分からない。ただ“凡”を“風”にとらえ、“林”に“風”が吹いて“そよぐ”としたのでは。頓知が効いた人だったかも」との事である。ただ「梵」を「そよぎ」となかなか読んで貰えず、本人曰く「(梵語〔ぼんご〕の読みから)ボンちゃんと呼ばれてもしょうがないスよね」とのこと。なお、チーム内ではブラウン前監督発祥の「ヨギ」という呼称が広まっているという。本人は、親戚以外で同姓の人には会った事が無いという(プロ野球ai・2006年5月号より)。

プロでの目標は2000本安打。

将来的に背番号7(大学の先輩である野村謙二郎が現役時代につけていた)を付けることを目標にしており、2007年から変更かと思われていたが、結局6に変更された。

趣味は料理、好きな言葉は「ポジティブ」・「前向き」。小柄ながらリストが強く、2007年には18本塁打を記録したパンチ力ある打撃が持ち味。好きな食べ物は焼肉

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
2006 広島 123 494 450 78 130 20 8 8 190 36 13 5 12 2 27 0 3 62 8 .289 .332 .422 .754
2007 136 588 519 69 135 20 4 18 217 56 20 6 8 4 51 2 5 95 7 .260 .330 .418 .748
2008 97 318 287 23 65 11 0 1 79 17 8 5 3 2 23 2 3 50 7 .226 .289 .275 .564
2009 73 264 241 28 54 9 4 2 77 19 14 3 3 1 18 1 1 37 4 .224 .280 .320 .599
2010 144 659 562 82 172 34 3 13 251 56 43 14 36 4 53 0 4 80 4 .306 .368 .447 .815
2011 52 232 192 34 41 7 2 2 58 11 8 4 14 1 23 0 2 34 2 .214 .303 .302 .605
2012 137 575 499 52 122 21 3 10 179 52 14 8 19 6 50 4 1 70 7 .244 .311 .359 .670
2013 117 427 359 53 109 27 0 6 154 42 6 5 23 4 38 0 3 58 7 .304 .371 .429 .800
通算:8年 879 3557 3109 419 828 149 24 60 1205 289 126 50 118 24 283 9 22 486 46 .266 .330 .388 .718
  • 2013年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]

年度 二塁 遊撃
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2006 27 47 94 3 16 .979 99 138 333 12 62 .975
2007 - 135 231 439 13 103 .981
2008 - 92 127 281 11 48 .974
2009 3 4 15 1 3 .950 67 101 185 8 35 .973
2010 - 144 230 462 7 90 .990
2011 - 52 80 127 3 23 .986
2012 - 137 200 386 22 80 .964
2013 - 107 173 311 10 84 .980
通算 30 51 109 4 19 .976 833 1280 2524 86 525 .978
  • 2013年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 32 (2006年)
  • 6 (2007年 - )

登場曲[編集]

出演[編集]

テレビドラマ[編集]

CM[編集]

  • 創建ホーム株式会社(広島県竹原市に本社を置く、注文住宅販売会社)2008年の開幕時に大竹寛、梵英心、栗原健太とエキストラの子供たちと共演。

脚注[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]