高津臣吾

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高津 臣吾
新潟アルビレックスBC 選手兼任監督 #22
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県広島市南区
生年月日 1968年11月25日(43歳)
身長
体重
180cm
75kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1990年 ドラフト3位
初出場 NPB / 1991年4月24日
MLB / 2004年4月9日
KBO / 2008年6月24日
CPBL / 2010年3月23日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督歴
  • 新潟アルビレックスBC (2012 - )

高津 臣吾(たかつ しんご、1968年11月25日 - )はプロ野球選手投手)、野球指導者。広島県広島市南区出身。抑え投手としてNPBMLB双方で活躍し、NPB歴代2位の通算286セーブ[1]、史上2人目となる日米通算300セーブを記録している。現在は、新潟アルビレックス・ベースボール・クラブで選手(投手)兼任監督を務めている。

目次

[編集] 来歴

[編集] プロ入り前

張本勲福富邦夫は中学の先輩となる。幼少の頃から広島東洋カープのファンで、ミスター赤ヘルこと山本浩二の大ファンであった。また、ドラフト会議のあった1990年はその山本浩二が監督を務めていたため広島入りを熱望していた。

広島県立広島工業高等学校3年の時、春夏通じて甲子園に出場したが、控え投手だったため登板機会はなく野手として出場した。亜細亜大学では、当時の大学野球を代表する左腕、小池秀郎に次ぐ2番手の投手であった。東都大学リーグ通算40試合登板し11勝15敗、防御率2.34、140奪三振。

1990年のドラフトヤクルトスワローズから3位指名を受けて入団。

[編集] 第一次ヤクルト時代

入団当時は先発投手として活躍を期待されていた。特に目立った特徴の無い投手だったが、プロ入り後、長い年月をかけてシンカーを熟成させ頭角を現す。

1993年5月2日にプロ入り初セーブを達成。この年抑え投手に転向し、20セーブを挙げてヤクルトのリーグ優勝、日本一に貢献。1994年には、プロ入り初のタイトルとなる最優秀救援投手を獲得。

1997年はシーズン序盤の不調、伊藤智仁の復活と抑え転向によって中継ぎ投手として起用されるが、チームの日本一に貢献。1998年はシーズンを通じて不調で抑え投手の座を失う。1999年は監督の若松勉の就任とともに抑え投手に復帰し、最優秀救援投手のタイトルを獲得。

2001年、最優秀救援投手を獲得、チームのリーグ優勝および日本一に大きく貢献。日本シリーズでは連続無失点。

2003年佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新。最優秀救援投手を獲得。オフにはFA権を行使。ジョー・アーボンを代理人とし、11月にシカゴ・ホワイトソックスと年俸75万ドルの1年契約(2年目は球団オプション)を結ぶ。

[編集] メジャー時代

2004年4月9日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たし、最初の打者として松井秀喜と対戦。その後はビリー・コッチに代わりクローザーを務める。開幕から無失点を続け、6月3日のミネソタ・ツインズ戦まで24試合連続無失点を記録し、監督のオジー・ギーエンは「マリアノ・リベラでも連れてこない限り、シンゴは我々にとって最高のクローザーだ」とコメント[2]。9月にはESPNの選出した「お買い得だったFA選手ベスト10」では大塚晶則に次いで7位にランクイン。最終的にリリーフ投手中リーグ3位のWHIP0.98と同8位の防御率3.31を記録する投球で19セーブを記録した。10月28日には球団がオプションを行使し年俸250万ドルの1年契約を結んだ。

2005年も開幕からクローザーとして起用されるも、4月7日のクリーブランド・インディアンス戦で1イニング3本塁打を浴びるなど序盤から救援失敗が続いた。特に5月までの14.1回で7被本塁打を喫し、6月は防御率0.96、WHIP0.75と復調したものの、7月には防御率12.60、WHIP2.20と再び打ち込まれ、18日にDFAとなり、8月1日に解雇された。12日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結び、9月1日にメジャー昇格を果たすが、オフにFAとなり退団。このシーズンのホワイトソックスはワールドシリーズを制したため、チャンピオンリングを入手した。

[編集] 第二次ヤクルト時代

2006年、盟友古田敦也が監督に就任したこともあり、入団テストを経て3年ぶりにヤクルトに復帰。シーズン当初は中継ぎを任されたが、石井弘寿五十嵐亮太が故障離脱した後は主に抑えを務めた。10月7日の対広島戦(神宮)で日米通算300セーブを達成。このシーズン、チーム最多の13セーブを挙げた。日米合計で通算300セーブを達成した日本人選手は佐々木主浩に次いで史上2人目。

2007年は前年同様、抑え投手を任された。しかし、6月30日の対中日戦(秋田)に登板したその夜、宿舎のホテルで入浴中に足を滑らせて転倒。左足親指を剥離骨折(全治3週間)し戦線離脱。夏場には救援失敗を繰り返し、8月半ばから再び二軍に降格。約1か月後に一軍へ復帰し抑えに復帰。シーズン終盤以降「フロントから、来季契約の話が無い」と不安を口にしていたが、最終戦翌日の10月10日、戦力外通告を受けた。また球団側がこの通告を発表した際、東京ヤクルトスワローズ球団社長の鈴木正が「(実績のある選手だけに、お別れ登板などの配慮を行うべきだったのでは、という報道陣の問いに)それが配慮だとは思わない。現役を続けたければ、トライアウトを受ければいい」と発言した事がファンやメディアの間で物議を醸し、球団には約600件もの苦情が寄せられたことから、球団は鈴木名義で謝罪文を公開するなど事態収拾に追われた。なお、高津はこの一連の経緯について後日「“ひょっとしたら解雇かもしれない”という覚悟は少しだけですけど、していました」と語っている。また、高津自身は現役続行の意向を表明していたものの、12球団合同トライアウト(同年オフに2回実施)については「自分にもプライドがあるし、考えていない」と否定し、結局2回とも参加せず獲得の連絡を待ったが獲得する球団は現れず、11月30日に自由契約公示された。

[編集] ヤクルト退団後

2008年1月18日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加。しかし、オープン戦で登板した5試合で4回1/3を投げて防御率9.64と結果を残せなかった。3月11日に戦力外通告を受けたが、現役続行を表明。16日に古巣のシカゴ・ホワイトソックス監督のオジー・ギーエンから勧められて入団テストを受けるも不合格となった。

6月に韓国プロ野球のウリ・ヒーローズと契約金6万ドル、年俸12万ドルで契約。韓国プロ野球では4人目の日本人選手となった。6月24日に初登板、6月29日には1回2/3を無失点に抑え初セーブを挙げた。最終的に18試合に登板し1勝0敗8セーブ、防御率0.86、WHIP1.00と好成績だったが、12月17日に外国人野手を獲得する球団方針のため退団。

2009年5月、ロサンゼルス郊外でメジャー球団のスカウトが見守る中でトライアウトを受験し、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結んだ。40歳7か月は日本人最高齢での契約となり、7月にAAA級フレズノに合流したが、メジャーに昇格することはなかった。

2010年1月、台湾の興農ブルズと契約。NPBMLBKBOCPBLと4つのプロリーグを経験した初の日本人選手となった。背番号もヤクルト時代と同じ226月12日に球界トップの13セーブ目を挙げ、所属の興農ブルズが前期優勝を決め、胴上げ投手になる。11月26日、興農ブルズから契約打ち切りを告げられたことを発表[3]

2011年1月24日に新潟アルビレックスBCへの入団が発表される[4]。名球会会員が独立リーグでプレーするのは史上初[5]。また、4月より並行してフジテレビすぽると!』の毎週火曜のレギュラー野球解説者も務めることとなった(シーズン開幕後は試合日程に差支えがない範囲での出演)。BCリーグ一年目となる2011年のシーズンは27試合に登板し、0勝2敗16セーブ防御率2.16でセーブ数はリーグトップであった。

2012年より新潟の選手兼任監督に就任[6]

[編集] プレースタイル

サイドスローから投げる時速140km/h前後のストレートと130km/h台、110km/h台、100km/h台の3種類のシンカーが武器。自身最大の武器である100km/h台のシンカーは、当時ヤクルトの監督を務めていた野村克也から「お前のストレートはプロでは通用しない。野球で飯を食いたければ西武潮崎哲也のシンカーを盗め」と言われて完成させたもの。ヤクルトは日本シリーズで潮崎のシンカーに苦しめられていた。シンカーの速度がアメリカの他の選手の投げるものより数段遅いため、解説者からはチェンジアップと呼ばれていた。日本では投球のほとんどがストレートとシンカーのみであったが、メジャーではカーブも投げるようになった。

登板時、得点圏までランナーをためるが後続をしっかり抑える投球スタイルは「高津劇場」と呼ばれた。

日本シリーズでの通算8セーブ、10セーブポイントは日本記録である。また、日本シリーズでは通算11試合に登板して無失点である。ホワイトソックス移籍後も24試合連続無失点を記録したこともあり、Mr. Zeroと呼ばれた。このような投球スタイルから、ホワイトソックス時代には、USセルラーフィールドに「イッツ・シンゴタイム!」の表示が灯った。

[編集] 人物

1990年代以降の日本プロ野球を代表する抑え投手である。ヤクルト公式の愛称は「フィニッシャー」(石井弘寿五十嵐亮太の「ロケットボーイズ」とともにファンから公募されたもの)。

プロ野球選手をタレント的に扱った最初の雑誌『プロ野球ai』(1991年 - )創刊時に一番人気があった選手だった。人柄の良さと喋りの上手さ、面白キャラが受けて人気投票では大抵1位だった。

アメリカでの代理人はオクタゴン社のジョー・アーボン、日本国内は弁護士の水戸重之が担当。また、日本でのマネジメントは吉本興業スポーツ部が請け負っている。

カラオケの十八番はクリスタルキングの「大都会」。オフのプロ野球選手が登場する番組でも、クリスタルキングのムッシュ吉崎のパートをものまねで歌っている。野球界では岩本勉佐伯貴弘と並ぶ「芸達者」として知られる。

選手名鑑の「趣味・特技」欄には、「マッチを使った手品はプロ級、将棋は初心者」と10年以上変わらずに掲載されている。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績





















































W
H
I
P
1991 ヤクルト 13 2 1 0 0 1 1 0 -- .500 120 27.2 34 4 6 0 2 25 1 0 15 13 4.23 1.45
1992 23 11 3 0 0 5 3 0 -- .625 362 82.2 84 10 36 2 3 63 1 1 48 43 4.68 1.45
1993 56 1 0 0 0 6 4 20 -- .600 324 78.1 69 3 24 5 5 72 1 0 28 20 2.30 1.19
1994 47 0 0 0 0 8 4 19 -- .667 298 72.1 63 7 30 7 1 54 1 0 25 23 2.86 1.29
1995 39 0 0 0 0 1 3 28 -- .250 197 48.1 42 2 14 1 3 36 0 0 14 14 2.61 1.16
1996 39 0 0 0 0 2 6 21 -- .250 215 50.0 56 7 16 4 1 35 1 0 18 18 3.24 1.44
1997 51 3 0 0 0 7 4 7 -- .636 313 79.1 55 9 20 4 5 68 0 0 20 18 2.04 0.95
1998 42 0 0 0 0 2 3 3 -- .400 212 45.1 54 6 26 3 2 32 1 0 29 28 5.56 1.76
1999 40 0 0 0 0 1 1 30 -- .500 164 41.1 32 6 8 3 0 38 1 0 11 10 2.18 0.97
2000 35 0 0 0 0 0 1 29 -- .000 139 34.2 32 4 8 0 1 29 0 0 8 8 2.08 1.15
2001 52 0 0 0 0 0 4 37 -- .000 212 51.2 49 3 13 3 0 39 1 0 17 15 2.61 1.20
2002 44 0 0 0 0 0 2 32 -- .000 174 41.2 37 6 11 1 3 28 1 0 19 18 3.89 1.15
2003 44 0 0 0 0 2 3 34 -- .400 185 42.0 42 7 21 7 0 26 2 0 18 14 3.00 1.50
2004 CWS 59 0 0 0 0 6 4 19 4 .600 245 62.1 40 6 21 3 2 50 1 0 17 16 2.31 0.98
2005 31 0 0 0 0 1 2 8 3 .333 130 28.2 30 9 16 1 0 32 1 0 19 19 5.97 1.61
NYM 9 0 0 0 0 1 0 0 1 1.000 38 7.2 11 2 3 1 0 6 0 0 2 2 2.35 1.83
'05計 40 0 0 0 0 2 2 8 4 .500 168 36.1 41 11 19 2 0 38 1 0 21 21 5.20 1.65
2006 ヤクルト 48 0 0 0 0 1 2 13 8 .333 173 42.2 33 3 15 1 1 31 0 1 15 13 2.74 1.13
2007 25 0 0 0 0 0 5 13 0 .000 110 23.1 32 4 7 2 0 15 0 0 17 16 6.17 1.67
2008 ヒーローズ 18 0 0 0 0 1 0 8 0 1.000 85 21.0 16 1 5 0 4 18 0 0 2 2 0.86 1.00
2010 興農 40 0 0 0 0 1 2 26 2 .333 168 43.0 29 0 8 0 2 32 1 1 13 9 1.88 0.86
NPB:15年 598 17 4 0 0 36 46 286 8 .439 3198 761.1 714 81 255 43 27 591 11 2 302 271 3.20 1.27
MLB:2年 99 0 0 0 0 8 6 27 8 .571 413 98.2 81 17 40 5 2 88 2 0 38 37 3.38 1.23
KBO:1年 18 0 0 0 0 1 0 8 0 1.000 85 21.0 16 1 5 0 4 18 0 0 2 2 0.86 1.00
CPBL:1年 40 0 0 0 0 1 2 26 2 .333 168 43.0 29 0 8 0 2 32 1 1 13 9 1.88 0.86
  • 2010年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル

NPB

[編集] 表彰

NPB

[編集] 記録

  • 2002年4月28日:通算200セーブ(史上2人目)達成
  • 2003年6月20日:270セーブポイント(日本プロ野球記録)達成
  • 2003年12月:日本プロ野球名球会入り
  • 2006年10月7日:日米通算300セーブ(史上2人目)達成(1人目は佐々木主浩
  • 2006年10月7日:通算273セーブ(日本プロ野球記録)達成(現在は岩瀬仁紀に抜かれ2位)
  • オールスターゲーム出場:6回 (1994年、1996年、1999年 - 2000年、2003年、2007年)

[編集] 背番号

  • 22 (1990年 - 2003年、2007年、2010年 - )
  • 10 (2004年 - 2005年)
  • 11 (2006年)
  • 33 (2008年)

[編集] 関連情報

[編集] 著書

[編集] 脚注

  1. ^ 歴代最高記録 セーブ 【通算記録】”. 2011年6月29日閲覧。
  2. ^ 『月刊スラッガー』2004年9月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-9、52頁。
  3. ^ 残念...”. 高津臣吾Official Blog (2010年11月26日). 2011年12月16日閲覧。
  4. ^ 高津臣吾投手入団決定のお知らせ”. 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ (2011年1月24日). 2011年12月16日閲覧。
  5. ^ 旅は終わらず 高津 BC新潟入り“名球会”選手で初!”. スポーツニッポン (2011年1月24日). 2011年2月2日閲覧。
  6. ^ 新監督決定のお知らせ”. 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ (2011年12月16日). 2011年12月16日閲覧。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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