落合英二

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落合 英二
基本情報
国籍 日本
出身地 栃木県下野市
生年月日 1969年7月25日(39歳)
身長
体重
178cm
86kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1991年 ドラフト1位
初出場 1993年7月28日横浜戦(ナゴヤ)
最終出場 2006年8月2日横浜戦(横浜)
経歴(括弧内は在籍年)

落合 英二(おちあい えいじ、1969年7月25日 - )は、元プロ野球選手投手)である。優れたコントロールと投球術で長らく中日ドラゴンズの中継ぎエースとして君臨し続けた右腕投手。

目次

[編集] 来歴・人物

高校3年の夏は石井忠徳横浜大洋ホエールズに入団)率いる足利工業高校に敗れ、県予選ベスト4に終わった。石井から三塁打を放つも、牽制で刺されてしまい、今でも石井にはにやにやされている。当時の栃木県にはその後、プロ野球に進んだ選手が多く、同期には法政大学から近鉄バファローズに進み、新人王を獲得した宇都宮南高村祐などがいる。

日本大学在籍時は150km超のストレートを武器にドラフトの目玉候補とされていたが、大学4年の時に投球時に右肘を骨折する重傷を負う(骨の折れた音が打者まで届いたといわれる)。その為一時は選手生命も危惧されたが、回復すると判断した中日が1991年ドラフト会議東北福祉大学のエース斎藤隆の外れ1位で指名をし、入団。1年後輩渡邉博幸の協力を得て単位修得を果たし日大経済学部を卒業した。

1年目の1992年にはサファイアを埋め込む大手術を行った。2年目の1993年以降に主に先発として一軍の登板機会を得るが、先発としては良い成績を残せない時期が続いた。

しかし、1998年に就任した宮田征典コーチの意向もあって、星野仙一監督により勝ち試合(もしくは接戦時)の中継ぎとして固定されたことが転機となる。当時クローザーを務めていた宣銅烈に繋ぐ仕事をこなして信頼を勝ち取った。この年55試合に登板して、防御率2.82、4勝5敗5セーブの成績を挙げ最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得する。翌1999年には、同じようなポジションを与えられたサムソン・リーやルーキー 岩瀬仁紀らと強力な中継ぎ投手陣を形成し、リーグ優勝に大きく貢献した。

以降も活躍を続け、2002年山田久志監督となったあとも結果を残す。しかし、一時期山田との確執が噂されたこともあった。

2004年より落合博満が監督となったあとも、中日リリーフ陣の柱として活躍を続ける。また、この年は不調の岩瀬に代わり一時的に抑えを勤める時期があった。9月26日には久々の先発登板、5回無失点で勝利に貢献。2005年、落合監督の意向で先発に転向したものの結果が残せず、リリーフに再転向した。2006年はピッチングフォーム等の問題から開幕は2軍で迎え、その後1軍に上がっても結果は出せず、戦力外通告を受けた。球団は2軍投手コーチのポストを用意していたが、本人は現役続行を希望し保留。結局10月28日、現役引退を表明した。

その後は評論家に転向。2007年から中部日本放送の解説者を務めているほか、草野球チーム・ガッツナイターズに所属している。

当初の活躍当時は、日本球界ではまだいわゆる「セットアッパー」という概念はなじみが薄かった(それに近い役割をこなした投手はいたことはいたが)。折りしも最優秀中継ぎ投手賞が制定されて間もない時期の落合の成功は、その後の日本球界における継投のあり方に大きな影響を与え、中継ぎ投手の地位向上にも貢献した。

投手陣のリーダーとしてチーム内からの信頼が厚かった。特に若手投手陣の面倒見がよくブルペンの雰囲気作りにも長けていた。

[編集] 年度別投手成績

年度 球団 背番号
















l




















1993 中日 19 10 0 0 2 0 0 1 1 0 36 9.1 5 1 5 0 7 2 2 1.93
1994 71 27 0 10 0 0 0 2 1 1 146 34 35 2 14 1 23 13 12 3.18
1995 25 30 0 7 14 0 0 3 9 2 404 96.1 119 11 16 3 47 54 51 4.76
1996 26 24 3 1 11 2 1 4 6 1 411 96.1 98 6 29 2 61 49 40 3.66
1997 19 2 1 7 0 1 4 7 0 271 66.1 66 3 7 2 52 33 27 3.66
1998 55 0 12 0 0 0 4 6 5 308 73.1 81 3 12 0 36 29 23 2.82
1999 56 0 15 0 0 0 5 4 2 207 51.2 43 8 9 2 27 17 16 2.79
2000 21 0 2 0 0 0 0 2 0 83 19.2 20 0 6 1 18 7 6 2.75
2001 45 0 7 0 0 0 0 3 2 177 41.2 41 1 11 1 19 14 8 1.73
2002 37 0 4 0 0 0 1 2 0 138 34.1 27 1 7 3 21 12 10 2.62
2003 61 0 8 0 0 0 7 0 1 215 56 53 4 5 0 35 11 11 1.77
2004 42 0 15 1 0 0 4 3 10 186 44 46 3 10 2 17 12 12 2.45
2005 31 0 7 6 0 0 2 1 0 210 47.2 64 6 10 1 27 26 25 4.72
2006 5 0 2 0 0 0 0 0 0 20 4.1 6 1 1 1 3 4 4 8.31
通算成績 463 5 93 39 2 2 37 45 24 2812 675 704 50 142 19 393 283 247 3.29

[編集] タイトル・記録

  • 初登板 1993年7月28日横浜戦(ナゴヤ)7-1 9回より登板、1回無失点
  • 初勝利 1993年9月28日巨人戦(ナゴヤ)10-3 7回より登板、1回無失点
  • 初セーブ 1994年年7月2日横浜戦(横浜)8-2 8回1死より登板
  • 初完投 1996年4月24日ヤクルト戦(神宮)3-0 被安打4 奪三振6 無四球
  • 1球勝利投手 1999年7月11日阪神戦(ナゴヤD)2x-1 9回1死から登板、今岡を併殺に打ち取る
  • 1球敗戦投手 1995年4月27日阪神戦(甲子園)4-5x 10回より登板、グレンに本塁打を喫す

[編集] エピソード

  • 1球勝利投手、1球セーブ投手、1球ホールド、1球敗戦投手、0球登板(交代を告げられてマウンドに上がってから雨天中断、その後降板 ※投球練習中に右脇腹に違和感で降板したと言われていたが、本人がCBCラジオのドラゴンズワールド内で否定)という珍記録を持っている。一人でこれら全てを記録したのは落合英二が史上初である。
  • 星野仙一監督に投球などで注意されるとき、殴られたことがあったと言う。ただ結婚すると、俺は既婚者の奴は殴らないから安心しろと言われたという。
  • 2006年にチームがリーグ優勝する際に1軍にはいなかったが、落合をずっと支えてきた永田トレーナーが監督胴上げの瞬間、落合英二の背番号『26』のプレートを掲げ万歳するシーンが見られた。永田トレーナー以外にも、落合を慕っていた荒木雅博朝倉健太も帽子の裏に『26』と書いてプレーしていたという。
  • 2007年に中日に入団した堂上直倫とは、父である堂上照が球団寮の寮長ということもあって以前から付き合いがあり、2006年のファン感謝デーで行われた引退セレモニーでは「成し遂げられなかった日本一の夢をここにいる選手・コーチ、それにこのナゴヤドームのどこかで見ている堂上直倫君に託します」とあいさつ、場内をどよめかせた。ちなみにその時堂上は愛工大名電の野球部の仲間とともに変装して来場していた。また、2007年の沖縄キャンプの休日で堂上が報道陣の写真撮影に応じた際、落合からのもらい物と思われる「EIJI 26」とネームの入った短パンを履いていた。その後堂上直倫が入団した2007年に中日は日本一に輝いた。
  • 韓国プロ野球・三星ライオンズ(当時の監督が宣銅烈)に、自費で短期コーチ留学を行なったことがある。
  • 解説初年度は「ネット裏解説」という奇妙なポジションでの解説を務めることが多かったが、その後は普通に実況席で解説をしている。
  • 霊感に優れているらしく、選手が怪我をする場所が見えたり、テレビ番組等でたまによく分からない予言をしている。そして当たる。
    • 試合中に大豊泰昭に1本のバットを差し出して「このバットを使ったら打てる」と予言したところ、大豊が本塁打を打った。
    • 1996年、山﨑武司(現・楽天)にもバットを差し出したところ、その年に山崎はホームラン王になった。
    • 1999年には、ズームイン!!朝!のプロ野球イレコミ情報で、どこの球場で優勝を決めるかと質問されると、「ブルペンが外にある球場で星野監督が胴上げされるのが見える」と予言。実際にプルペンが外にある神宮球場で優勝を決めている。
    • 2009年6月30日の対阪神戦の6回裏、一死満塁で藤井淳志が打席に立った際、ホームランバッターというわけでもなく、さらにそれまでのシーズンで藤井は満塁の場面の打率が7打席1安打と良くなかったにもかかわらず「藤井が颯爽とベースを回る姿が見える」と予言。そしてその打席、藤井は逆転のプロ初となる満塁本塁打を放った。[1]

他にも、霊感の強い様は中日スポーツ連載の4コマ漫画おれたちゃドラゴンズくらはしかん作)でも度々ネタにされていた。

[編集] 背番号

ただし、1994年のキャンプ初日の写真撮影の際に「12」、キャンプ中は「70」をつけていた。現役選手として同一チームに所属したまま、6つもの背番号を経験したのはプロ野球史上落合ひとりである。「12」から「70」への変更は高橋三千丈コーチの(『12』を付けていた現役時代、終盤は血行障害に苦しみ、縁起が悪いと考えていたという)、「70」から「71」への変更は高木守道監督の意向だという(出典:『月刊Dragons』)

[編集] 脚注

  1. ^ "下柳攻略…伏線は足攻". 中日スポーツ. 2009年7月2日 閲覧。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク