グレン・デービス (野球)

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グレン・デービス
Glenn Earle Davis
生年月日 1961年3月28日(53歳)
出生地 アメリカ合衆国の旗 フロリダ州ジャクソンビル
出身校 マナティー短期大学
前職 プロ野球選手
現職 ホテル経営
児童養護施設経営
所属政党 無所属
配偶者 テレサ・デービス

コロンバス市議会議員
選挙区 第2区
当選回数 3回
任期 2002年 - 現職
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グレン・デービス
Glenn Davis
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 フロリダ州ジャクソンビル
生年月日 1961年3月28日(53歳)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
210 lb =約95.3 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手
プロ入り 1981年 MLB二次ドラフト1巡目
初出場 MLB / 1984年9月2日
NPB / 1995年4月7日
最終出場 MLB / 1993年5月23日
NPB / 1996年6月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

グレン・アール・デービスGlenn Earle Davis, 1961年3月28日 - )は、アメリカ合衆国フロリダ州出身の元プロ野球選手内野手)。現在はジョージア州コロンバスの市議会議員を務めている。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

1961年3月28日フロリダ州ジャクソンビルに生まれる。父親のジーン・デービスはマイナーリーグで10年間プレーした元プロ野球選手だったが、短気な性格と酒癖の悪さが災いして大成することはなかった[1]。またこれが原因となって夫婦仲は悪化、グレンが6歳の時に両親は離婚し、2人の姉と共に母親の下で育てられることになった[2]

厳格なキリスト教徒だった母親は息子を伝道師にしようと考え、父親と会うことを禁じ、野球からも引き離そうとした。また、しつけと称して毎日のように息子を殴打した。荒んだ環境で育ったグレンはやがて不良少年となり、誰彼構わず喧嘩を仕掛けて周囲から恐れられる一方で、絶えず湧き上がる自殺願望に苦しめられるという暗い少年時代を過ごした[1]

地元のユニバーシティ・クリスチャン高校 (enに進学後、野球部のチームメイトであるストーム・デービス英語版(姓は同じだが血縁関係はない)の友人となったことで転機を迎える。ストームの父親で野球部のコーチを務めていたジョージとその妻ノーマは、グレンの置かれた環境を知って彼のことを気にかけるようになり、しばしば自宅に招いて実の両親であるかのように優しく接し、またグレンの実母が野球を取り上げようとするのを阻止した。グレンも彼らに心を開くようになり、法律上の正式な養子縁組は結ばなかったものの、実質的にはジョージ一家の一員となった[1][2]

クリスチャン高校は州大会を2連覇し[3]1979年ドラフトでストームは7巡目、グレンは31巡目で、いずれも投手としてボルチモア・オリオールズの指名を受けた。ストームはそのままプロ入りしたが、グレンは投手ではなく野手としての指名を望んでおり、ジョージの勧めもあってジョージア大学に進学した。早期のドラフト指名を得るため、翌年にはマナティー短期大学 (enに編入し、1981年の2次ドラフト1巡目(全体の5番目)で野手としてヒューストン・アストロズの指名を受け、プロ入りを果たした[2]

アストロズ時代[編集]

マイナー時代から強打者として活躍し、1982年にはフロリダ・ステートリーグ(A+級)で、翌1983年にはサザンリーグ(AA級)で、いずれもリーグ本塁打王となった[4][5]。同時期に再び自殺願望に取り付かれ、飲酒や女遊びにふけるなど荒んだ生活に戻りかけたが、養母ノーマらの支えもあって克服し、1984年にテレサ夫人と結婚してからは生活も落ち着いた[1]

同年にテリー・プールの怪我に伴いメジャー初昇格を果たすと、翌1985年からは一塁手のレギュラーとなる。この年は100試合の出場で、打者不利のアストロドームを本拠地としながら20本塁打を放った。

1986年は31本塁打を放ち、ナショナルリーグ西地区優勝に貢献した。シルバースラッガー賞を受賞し、MVP投票でもマイク・シュミットに次ぐ2位に入った。ニューヨーク・メッツとのリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦ではドワイト・グッデンから本塁打を打ち、マイク・スコットの1対0での完封勝利を助けたが、最終的にチームは2勝4敗でメッツに敗れた。

その後もアストロズの中軸打者として活躍し、1989年にはアストロズ史上初の5年連続20本塁打以上を記録した。この記録は、手首の故障で93試合の出場に留まった翌1990年まで続いた[6]。また、1986年と1990年には日米野球のMLB選抜として来日し、アストロズ傘下マイナーで一時期チームメイトだった西武ライオンズ秋山幸二と旧交を温めた。

またこの頃、テレサ夫人の協力を得てジョージア州コロンバス児童養護施設"The Carpenter's Way"を設立し、かつての自分のように虐待育児放棄に苦しんでいる子供たちを引き取って育てる試みを始めた。こうした社会活動も評価され、1990年にはルー・ゲーリッグ賞を受賞している。

オリオールズ・ロイヤルズ時代[編集]

1991年1月カート・シリングスティーブ・フィンリーピート・ハーニッシュ英語版との3対1の交換トレードボルチモア・オリオールズに移籍したが、度重なる怪我に見舞われ、在籍3年間で出場185試合・24本塁打という期待外れの成績に終わった。交換要員の3人がいずれも移籍後に活躍を見せたため、現在ではオリオールズ史上最悪のトレードと評されている[7]。なお、1992年の1シーズンだけ義兄弟のストームとチームメイトになった。

1994年ニューヨーク・メッツスプリングトレーニングに参加したがロースター入りは果たせなかった。その後カンザスシティ・ロイヤルズ傘下の3Aオマハでプレーし、いずれもリーグ2位となる27本塁打・97打点を記録したが[8]メジャー昇格の機会は与えられなかった。

NPB・独立リーグ時代[編集]

同年オフに日本プロ野球阪神タイガースに入団した。「デービス」という姓には近鉄バファローズで中軸を務め、1988年大麻取締法違反で逮捕され球界を追われたリチャード・デービスのイメージがあったため、名前のグレン登録名とされた。

1995年オープン戦から好調を維持し、開幕戦で中日ドラゴンズのエース今中慎二から来日初本塁打を記録するなど、上々の滑り出しを見せる。その後も4番打者として活躍を続けたものの、夏場以降は古傷の脇腹痛の影響から徐々に成績が落ち込み、シーズン終盤は同期入団のスコット・クールボーに4番を譲って、5番や6番で出場する場面も見られた。それでも打率.256、チームトップの23本塁打、クールボーと並んでチームトップタイの77打点を記録したことが評価され、翌年も残留することになった。

しかし翌1996年シーズンは、藤田平監督ら首脳陣との確執から開幕メンバーを外されてしまう。その後スタメンに復帰するも、調子は上がらず、5月1日横浜ベイスターズ戦で代打サヨナラ満塁本塁打を放つなど意地を見せたものの、結局同年6月中にクールボーと共に途中解雇され、そのまま帰国した。

帰国後、シーズンの残りをアメリカの独立リーグであるノーザンリーグセントポール・セインツでプレーし、同年限りで現役を引退した。

引退後[編集]

引退後は児童養護施設"The Carpenter's Way"の運営を続ける傍ら、ホテル経営などを業とするカスケード・グループのCEOを務めるなど、実業家としても活動している。また2002年から地元コロンバスの市議会議員を務めている[3]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1984 HOU 18 68 61 6 13 5 0 2 24 8 0 0 2 1 4 0 0 12 0 .213 .258 .393 .651
1985 100 390 350 51 95 11 0 20 166 64 0 0 2 4 27 6 7 68 12 .271 .332 .474 .807
1986 158 654 574 91 152 32 3 31 283 101 3 1 0 7 64 6 9 72 11 .265 .344 .493 .837
1987 151 635 578 70 145 35 2 27 265 93 4 1 0 5 47 10 5 84 16 .251 .310 .458 .769
1988 152 634 561 78 152 26 0 30 268 99 4 3 0 9 53 20 11 77 11 .271 .341 .478 .818
1989 158 663 581 87 156 26 1 34 286 89 4 2 0 6 69 17 7 123 9 .269 .350 .492 .842
1990 93 381 327 44 82 15 4 22 171 64 8 3 0 0 46 17 8 54 5 .251 .357 .523 .880
1991 BAL 49 199 176 29 40 9 1 10 81 28 4 0 0 2 16 0 5 29 2 .227 .307 .460 .767
1992 106 442 398 46 110 15 2 13 168 48 1 0 1 4 37 2 2 65 12 .276 .338 .422 .760
1993 30 123 113 8 20 3 0 1 26 9 0 1 1 1 7 0 1 29 2 .177 .230 .230 .460
1995 阪神 120 501 453 47 116 25 1 23 212 77 1 1 0 6 40 3 2 79 15 .256 .315 .468 .783
1996 33 128 114 10 27 7 0 5 49 18 1 1 0 0 13 0 1 24 6 .237 .320 .430 .750
MLB:10年 1015 4189 3719 510 965 177 13 190 1738 603 28 11 6 39 370 78 55 613 80 .259 .332 .467 .800
NPB:2年 153 629 567 57 143 32 1 28 261 95 2 2 0 6 53 3 3 103 21 .252 .316 .460 .777
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

MLB
NPB

記録[編集]

MLB
NPB

背番号[編集]

  • 27 (1984年 - 1990年、1993年)
  • 37 (1991年 - 1992年)
  • 28 (1995年 - 1996年途中)

参考資料[編集]

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外部リンク[編集]