國學院大學硬式野球部

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國學院大學硬式野球部
2010年11月14日、初優勝時(神宮球場
加盟団体 東都大学野球連盟
本拠地 横浜市青葉区新石川
創部 1920年
監督 鳥山泰孝
公式サイト 公式ウェブサイト
リーグ戦成績
リーグ成績 1部優勝4回
全日本大学野球選手権大会
出場回数 1回
明治神宮野球大会
出場回数 3回
最高成績 準優勝
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國學院大學硬式野球部(こくがくいんだいがくこうしきやきゅうぶ、: Kokugakuin University Baseball Club)は、東都大学野球連盟に所属する大学野球チーム。國學院大學の学生によって構成され、國學院大學体育連合会に加盟している。毎年青葉ベースボールフェスタ(青葉大学定期戦)に参加している[1]

歴史[編集]

1920年(大正9年)、前身の運動部から正式に野球部として発足した。

1925年(大正14年)、専修大日本大東洋大東京商科大(現 一橋大学)、宗教大(現 大正大学)と共に「東京新大学野球連盟」を結成。國學院大が同リーグ初の優勝校となる[2]

五大学リーグの開会式(戸塚球場

1926年(大正15年)、新大学野球リーグで専修大、宗教大、東京商科大が脱退し、新たに東京農業大上智大東大農学部青山学院高千穂高等商業早大高等師範部東京高等工芸が加わり「東京新十大学野球連盟」に改組し、前年に引き続いて國學院大が優勝する[3]。その後、同リーグは加盟校間でのトラブルも多く自然消滅に近い形で解散してしまった。

1929年(昭和4年)、野球部約20名が、当時では珍しい満洲朝鮮への海外遠征を行う。そんな折、日大などと東京六大学野球連盟へ加盟申請を度々行っていたが、加盟は認められることはなく[4]やむなく新たに連盟を創設することとなった。そこで國學院大は専修大、日大と共に、六大学野球連盟校の東京帝国大と民法法典論争をしていた[要出典] 中央大と、農学に関する価値観から対立していた、同じ渋谷常磐松に校舎を構える東京農大とを誘い、1931年(昭和6年) 、「五大学野球連盟」(現 東都大学野球連盟)を創立した。

1931年(昭和6年)秋季リーグ戦において、國學院大と日大は6試合6勝0敗勝ち点3で並び、両校同率で優勝預かりとなる[5][6]1935年(昭和10年)、東京農大が脱退し東京商科大を迎え入れ、新たに東都大学野球連盟を創立(依然5校によるリーグ戦のまま)。1936年(昭和11年)秋、東京農大が再加盟し、リーグ戦は1部(4校)2部(2校)制に分かれた。國學院は1938年(昭和13年)秋に2部に降格したが、翌1939年(昭和14年)春から加盟校が増加したため、既存の1部2部を再統合し6校によるリーグ戦に改められ自動昇格[7]

終戦後再開された1946年(昭和21年)春季リーグ戦で國學院は最下位となり、秋季リーグ戦は欠場。同秋季に1部2部制になり、國學院は2部に自動降格。1949年(昭和24年)春季リーグ戦で1部に昇格したが最下位になり、新興駒澤大に敗れ2部に降格した。1950年(昭和25年)以降、加盟校が相次いだことも相まって[8]1951年(昭和26年)春秋リーグ戦と1952年(昭和27年)春季リーグ戦は1部で戦うものの、國學院は低迷期に入り2部リーグが主戦場となった。

1959年(昭和34年)秋季、中央大が春季リーグ戦を出場停止になり秋季は2部に自動降格すると、國學院が再び1部に復帰。翌1960年(昭和35年)春季、OBでプロ野球の在籍経験を持つ塩瀬盛道監督のもとで1部リーグ3位となる。同年秋季、やはり大学OBでプロ通算1439安打の記録を持つ大沢清が監督に就任するも最下位となり、入替戦で学習院大に敗れ2部降格。1962年(昭和37年)秋、東洋大との入替戦に勝利し1部昇格。大沢は1976年(昭和51年)秋季まで16年の長きにわたりチームを率いたが、1964年(昭和39年)春季の入替戦で亜細亜大に敗れ2部に降格したのを最後に1部から遠ざかり、監督晩年には同校史上初の3部降格を味わっている。

その後OBの餅田正美が監督に就任し、1988年(昭和63年)春秋リーグ戦で2部リーグ戦優勝を果たした。それぞれの入替戦は、春は中央大に敗れたものの秋は東洋大を下し、実に25年ぶりとなる50季ぶりの1部への復帰を果たした。以降、降格昇格を繰り返しては1部に定着できず、1993年(平成5年)春の入替戦で東京農大に敗れ2部に降格した。

1996年(平成8年)春、OBで東北高仙台育英高野球部を率いて幾度となく両校を甲子園に出場させた高校球界の名将竹田利秋が監督に就任。竹田の監督就任後もしばらくは2部リーグでも苦戦を強いられたが、竹田は当時の部員に欠けていた野球に取り組む姿勢や責任を持った行動を積極的に指導するなど、技術面以外での人間教育を徹底して行った。これら竹田の指導法が次第にチームに浸透し、部の団結力が高まり野球の成績も次第に上昇していった[9][10]2003年(平成15年)秋、念願の2部リーグ戦優勝を果たしたが亜細亜大との入替戦に敗れ1部復帰はならなかった。2006年(平成18年)春、再び2部で優勝。立正大との入替戦を制し、チームとしては1993年春以来、監督就任11年目にして初の1部昇格となった。竹田は2010年(平成22年)春季リーグを最後に退任し、修徳高前監督で2006年秋季まで國學院大のコーチを務めていた鳥山泰孝に監督を譲り総監督に就任した。

鳥山の就任直後の同2010年秋季リーグ戦で、3年高木京介投手を擁し創部80年目にして初の1部リーグ優勝を飾った[11]。初出場の明治神宮野球大会第41回大会)では初戦2回戦で九州産業大に2-4で敗退して終わった。

2012年(平成24年)7月、青葉ベースボールフェスタに参加した。参加大学は、國學院大、玉川大日本体育大桐蔭横浜大ハワイ選抜チームの5チーム(横浜市青葉区六大学連携協定による)。

2021年(令和3年)、3年楠茂将太、2年武内夏暉、1年坂口翔颯らの投手陣を擁して、春秋リーグ戦を連覇し2回目・3回目の優勝を飾る。続く初出場となる全日本大学野球選手権大会第70回大会)準々決勝で福岡大に1-2x(延長10回)で敗退。同年秋の第52回明治神宮野球大会準決勝で優勝した中央学院大に2-6で敗退。翌2022年(令和4年)、4年楠茂、3年武内、2年坂口らの投手陣を擁して、春季リーグ戦で亜細亜大にリーグ戦3連覇を阻まれたが、秋季リーグ戦で4回目の優勝。続く3度目の出場となる明治神宮野球大会(第53回大会)で初の決勝進出となるも明治大に0-1で惜敗し準優勝に終わった。

このように、戦争を挟んで戦後になると低迷していた期間が長かったが、2000年代前後から甲子園出場経験者が数多く入部するなど、チーム戦力が急激に上昇した。

本拠地[編集]

記録[編集]

チーム記録[編集]

東都大学野球リーグ

  • 1部リーグ 優勝4回(2010秋、2021春、2021秋、2022秋) 加えて、優勝預かり1回(1931秋)
  • 2部リーグ 優勝14回

全日本大学野球選手権大会

  • 出場1回(2021年)

明治神宮野球大会

  • 出場3回(2010年、2021年、2022年)
  • 準優勝1回(2022年)

個人記録[編集]

首位打者

  • 牧野驩一:1932春 .367
  • 木村頌一:1933春 .375
  • 田渕雄飛:2010秋 .389
  • 山﨑剛: 2015春 .400

最優秀選手

永久欠番

  • 38:三笠宮彬子女王:2016年9月21日、東都大学野球一部リーグ公式戦の始球式を務め、その際に着用したユニフォームの背番号「38」(宮(ミヤ)家にちなむ)が永久欠番となった。

主な出身者[編集]

Category:國學院大學硬式野球部の選手を参照。

プロ野球選手(括弧内は在籍年度)[編集]

アマチュア野球選手・監督[編集]

  • 山岡嘉次-中京商監督・1931年(第17回)、1932年(第18回)夏の甲子園優勝(選手権三連覇の礎を築く)。高校野球連盟理事
  • 榊原武司-愛知商監督・1936年(第13回)春の甲子園優勝
  • 渥美政雄-東邦商・滝川中・一宮中・豊橋時習館監督(異なる4校で9度の甲子園出場)
  • 木村頌一-元監督/中京商監督・1937年(第23回)夏の甲子園優勝。東都リーグ首位打者(1933年春季)
  • 竹田利秋-現総監督・前監督/東北高・仙台育英高監督
  • 持丸修一-竜ヶ崎一高・藤代高・常総学院高監督、現専大松戸監督
  • 藤光尚史-明治生命(内野手)・1982年(第53回)都市対抗優秀選手、元明治安田生命監督
  • 飯野勝利-富士重工(投手)・元富士重工監督
  • 藪宏明-日本通運(内野手)・1993年(第64回)都市対抗準優勝・都市対抗優秀選手、前日本通運監督
  • 宮田仁-日産自動車(投手)・1998年(第69回)都市対抗優勝・2001年(第72回)都市対抗優秀選手・2003年(第30回)日本選手権優勝。元日本代表
  • 鳥山泰孝-現監督/國學院大コーチ・修徳高監督

他のスポーツに転向[編集]

  • 安河内将(2008-2011。うち硬式野球部所属年度は2008のみ)-現競艇選手(内野手)・2007年(第79回)春の甲子園出場、後に準硬式野球部に転部

脚注[編集]

  1. ^ “青葉6大学 ハワイと野球交流 野球少年、日体大で観戦”. タウンニュース 青葉区版. (2014年7月24日). http://www.townnews.co.jp/0101/i/2014/07/24/245291.html 2015年10月5日閲覧。 
  2. ^ 東京六大学野球連盟は同年秋に結成。
  3. ^ 当時の関東の大学野球で、東京六大学各校に対抗あるいはそれに準じる実力を持っていた大学は國學院大と日本大の2校であった。
  4. ^ 赤尾好夫 『野球大観』 旺文社、1949年、61頁
  5. ^ 球場難のために、國學院と日大の直接対決が行えなかったため。
  6. ^ 連盟に加盟以降、このリーグ戦が戦前、國學院が優勝に絡んだ唯一のシーズンとなる。
  7. ^ 同時に加盟校増加により、新たな1部2部制が設置された
  8. ^ 学習院大などが加盟した。東京新大学野球連盟なども参照。
  9. ^ 創部80年の夢と名将 スポーツコラム 2010年11月9日
  10. ^ 2013年(平成25年)秋季には1部リーグ敢闘賞に史上初めて「國學院大學硬式野球部」がチームとして表彰された。これは試合におけるチームの団結力や、スタンドの控え部員による応援のマナーの良さが評価されたものであり、竹田の長年の指導の成果が表れたものと言える。
  11. ^ 国学院大学野球部、15年越しのブランド戦略”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社 (2014年8月29日). 2015年10月5日閲覧。
  12. ^ “【野球】引退・嶋の思いと“前を向く”理由 来季からヤクルト1軍バッテリーコーチ兼作戦補佐に”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2022年11月4日). https://www.daily.co.jp/opinion-d/2022/11/04/0015778404.shtml 2022年12月13日閲覧。 

外部リンク[編集]