山崎武司

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山崎 武司
東北楽天ゴールデンイーグルス #7
基本情報
国籍 日本
出身地 愛知県知多市
生年月日 1968年11月7日(40歳)
身長
体重
181cm
100kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 指名打者一塁手
プロ入り 1986年 ドラフト2位
初出場 1989年9月7日
年俸 1億8,000万円(2009年)
経歴(括弧内は在籍年)

山崎 武司(やまさき たけし、1968年11月7日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手内野手)。

1999年5月21日より、登録名を『山崎 武司』から『山 武司』へ改めた(後述)。 愛称は「キン肉マン」「ジャーマン」など。

目次

[編集] 球歴

[編集] プロ入り前

愛知工業大学名電高等学校1983年に名古屋電気高等学校から改称)では甲子園出場経験はなかったものの、通算56本塁打を放つ。1986年のプロ野球ドラフト会議中日ドラゴンズから2位指名を受け、捕手として入団する。

[編集] 中日時代前半(ナゴヤ球場時代)

1987年の入団直後ロサンゼルス・ドジャース傘下のチームへ野球留学し、三塁手としてプレーしていたが帰国後捕手に戻る。この年と翌1988年は一軍出場なし。

1989年9月7日の対広島東洋カープ19回戦(広島市民球場)において、9回表代打として一軍初出場。9月10日の対ヤクルトスワローズ19回戦(ナゴヤ球場)9回裏、内藤尚行からプロ初安打となるレフト前ヒットを放つ。10月15日の対広島26回戦(広島)で先発捕手として出場するが、盗塁王を狙う正田耕三に5連続盗塁を許す。試合途中で2年先輩の正捕手中村武志と交代、この後外野手に転向する。この年と翌1990年、二軍でウエスタン・リーグ本塁打王打点王を獲得する。

1991年5月9日の対横浜大洋ホエールズ5回戦(横浜スタジアム)において、5回表に田辺学よりプロ入り初本塁打を放つ。1994年、落合博満FA読売ジャイアンツへ移籍する。大豊泰昭一塁手へ転向したことで外野ポジションに空きができたが、彦野利勝の復活などもあって前年より出場数を減らす。1995年、先発左翼手としての出場が増え16本塁打を放つ。

1996年6月19日の対巨人10回戦(ナゴヤ)において、8回裏に槙原寛己から5番・音重鎮、6番・山崎、7番・大豊泰昭が3者連続本塁打を放つ。6月に打率.403、13本塁打、33打点を記録し、月間MVPに選ばれる。シーズン前半は打率、本塁打、打点の三部門でトップとなり、オールスターゲームにも監督推薦で出場する。 松井秀喜(当時・巨人/現・ニューヨーク・ヤンキース)、大豊とタイトルを争った本塁打部門では、39本の山崎が38本の松井と大豊を抑え本塁打王を獲得した。なお中日・巨人ともに最終戦となった10月8日の対巨人26回戦(東京ドーム)において、中日投手陣は松井に全打席四球を与えている。 この年は最高長打率(.625)を記録しベストナインにも選ばれた。また三部門において松井を上回っていたが、巨人が優勝したためシーズン最優秀選手には松井が選ばれている。

[編集] 中日時代後半(ナゴヤドーム時代)

1997年は中日の本拠地がナゴヤ球場から外野が広いナゴヤドームへ移り、守備の負担が増えたことなどから打撃成績を大幅に落とす。 1998年、トレードで阪神タイガースへ移籍した大豊に代わり、主に一塁手としてプレーする。8月18日の対ヤクルト18回戦(神宮)において、2回表にマーク・エーカーから史上198人目となる通算100号本塁打を放つ。27本塁打は巨人の松井、広島の江藤智(現・埼玉西武ライオンズ)に次ぐセ・リーグ3位。最多勝利打点(16)で表彰され最優秀JCB・MEP賞を受賞する。11月1日のセ・リーグ東西対抗戦(宮崎市営球場)において3ラン本塁打を放ち、最優秀選手賞を受賞する。

1999年5月9日の対広島9回戦(広島)において、5回、6回、8回に3打席連続本塁打を放つ。9月30日、11年ぶりのセ・リーグ優勝を決めた対ヤクルト26回戦(神宮)で一塁守備中、打者走者の真中満と交錯して左手首を骨折。このため福岡ダイエーホークスとの日本シリーズに出場することができず、チームも1勝4敗で日本一を逃した。 2000年7月12日の対阪神15回戦(ナゴヤドーム)において、7回裏に史上114人目となる通算150号本塁打を吉田豊彦より放つ。7月23日、監督推薦で出場したオールスターゲーム第2戦(グリーンスタジアム神戸)において4打数3安打2打点と活躍しMVPを受賞する。シーズンでは1996年の.322に次ぐ打率.311を記録するが、契約更改で18本塁打が少な過ぎると指摘される。 2001年10月6日の対広島28回戦(広島)において、史上376人目となる通算1000試合出場を記録する。この年、チーム最多の25本塁打を放ったが、契約更改で今度は打率.238、51打点が低過ぎると指摘される。この評価に納得がいかずFA宣言し、一時は金銭面で好条件を提示した横浜ベイスターズ移籍へ傾くが、最終的には中日と3年契約を結び残留。

2002年、ヘッドコーチの山田久志が監督に就任する。オープン戦から不調で、4月末に二軍へ降格させられる。二軍戦でも不調が続いたが、レオ・ゴメスの故障により7月初旬から一軍復帰。7月26日の対阪神15回戦(甲子園)において、同点で迎えた9回表一死満塁のチャンスで空振り三振。チームもその裏に蔵本英智のエラーでサヨナラ負けする。試合後、山田は「どこかでブツっと切ってしまう。なんかお通夜みたいなもんだ。さらにアイツを使うオレが悪いんだけど。チームを奈落の底につき落としてしまう選手がいる。何とかしてくれたらいいんだけど」と発言する。この発言が山崎を指したものか不明であったが、山崎は「(悪いのは)蔵本じゃない。今日はオレだ。オレが打っていれば、ミスもなかった」と話した。この後はほとんど出場機会がなく、シーズン終了後平井正史との交換トレードでオリックスに移籍する。

[編集] オリックス時代

2003年8月19日の対ダイエー22回戦(福岡ドーム)において、2回表に史上77人目となる通算200号本塁打を倉野信次から放つ。8月25日の対日本ハムファイターズ22回戦(ヤフーBBスタジアム)において、2回裏に関根裕之の投球を球審・白井一行がストライク・見逃し三振と判定した際、白井に侮辱的な態度を取ったとして退場処分を受ける。この年、規定打席不足ながらチームの日本人選手の中では最多の22本塁打を放つ。

2004年4月27日からの西武との3連戦(ナゴヤドーム)、新監督の伊原はご当地選手として先発出場を公約。初日は指名打者として先発出場し3打数2安打と活躍したが、この試合中に負傷した谷佳知が翌28日に指名打者として先発出場する。山崎は関係者も多数招待していた試合での先発落ちにショックを受け試合開始前に帰宅。これが「職場放棄」と見なされ、翌日に懲罰的な意味で二軍へ降格させられる(この「ボイコット事件」について山崎本人は、試合に出られる心理状態ではないという伊原監督の判断の下、許可があったために帰宅したと述べている[1])。これ以降二軍落ちを何度も経験し9月には球団から戦力外通告を受けたため引退も考えたが、高校の先輩である工藤公康巨人=当時)の説得などもあり現役続行を決意。12月11日、新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスと契約する。

[編集] 東北楽天時代

2005年3月26日、球団史上初の公式戦である千葉ロッテマリーンズとの開幕戦(千葉マリンスタジアム)では「5番・指名打者」で先発出場。開幕直後に右手に死球を受けて二軍で治療に専念するなどシーズン当初はあまり活躍できなかったが、この年から始まったセ・パ交流戦に入ると調子を上げ、5月7日の対巨人2回戦(フルキャストスタジアム宮城)では9回裏に前田幸長から球団史上初の代打本塁打を、6月初めには4試合連続の5本塁打を放つ。交流戦後は「4番・指名打者」として定着する。7月2日の対日本ハム6回戦(フルスタ宮城)において、3回裏に江尻慎太郎より史上234人目、通算1000本安打となるレフト前ヒットを放つ。プロ19年目での達成は稀有のスロー記録。[要出典]この年の25本塁打はチーム最多。

2006年、新監督・野村克也からチームの主軸として、またチームリーダーとして期待される。6月17日の対巨人戦(東京ドーム)において工藤から2打席連続本塁打を、7月29日には楽天初となる逆転満塁ホームランを放つ。8月5日には史上49人目となる通算250本塁打を達成。「開幕から1つの小さな目標としてきたので、達成できて嬉しいです」と喜びを語った。しかし最終成績は前年を下回った。

2007年 開幕から不調が続いたが5月から一気に調子が上がる。チーム初であり、1996年6月以来10年11か月ぶりとなる月間MVPを獲得。この期間は史上最長でもある。6月14日、史上152人目となる通算1,500試合出場を達成する。指名打者として選出されたガリバーオールスターゲームの第1戦(東京ドーム)では代打で出場し、マーク・クルーンから天井直撃のサードファウルフライを打ち上げた。第2戦(フルスタ宮城)では第1打席に先制の2ランホームラン、第2打席でも二塁打を放ち、優秀選手賞とガリバー賞に選ばれ、賞品としてポルシェ・カイエンを獲得した。8月27日にはこの日誕生日を迎えた娘の前で39号・40号を放つ。9月15日には11年ぶりとなる100打点を記録。最終的に43本108打点の自己最高記録でタフィ・ローズを上回りタイトルを獲得、ベストナイン指名打者部門にも選出された。打点王は初、本塁打王・ベストナインは11年ぶりとなる。この年、前半戦の本塁打量産時はフェルナンデスの不振もあって4番に座ることが多かった。

21年目での40本塁打・100打点・本塁打王・打点王は史上初。なお山崎は一軍の試合に出場していない年が2年あり、実働19年目での40本塁打・本塁打王は王貞治門田博光に並び、100打点・打点王は王、衣笠祥雄の20年目に次ぐ記録である。またジョージ・アルトマン岩本義行、王が持っていた38歳での年齢別最多本塁打記録38を塗り替えた。なお、両リーグでの本塁打王の獲得は落合博満、タフィ・ローズに次ぐ3人目。

2008年4月3日の千葉ロッテ戦において久保康友から史上32人目となる通算300号本塁打を放つ。4月の終わり頃までは打率4割前後を維持し、月間MVPに選出される。その後調子を落としたものの、オールスターゲームには同年より導入された選手間投票の指名打者部門で選出される。7月31日の第1戦(京セラドーム大阪)において、9回裏久保田智之からサヨナラヒットを放ちMVPに選ばれた。なお、セ・パ両リーグでのオールスターMVPは史上4人目である。同年限りでの福岡ソフトバンクホークス監督退任を発表した王貞治のラストゲームとなった10月7日のシーズン最終戦(クリネックススタジアム宮城)では、延長12回にサヨナラヒットを放った。最終成績は打率.276、26本塁打、80打点で本塁打数はチームトップであった。

2009年6月14日の横浜戦で三浦大輔から本塁打を放ち、プロ入り23年目の本塁打数を二桁に乗せると同試合で松家卓弘からも本塁打を放ち、史上5人目となるセ・パ両リーグ150号本塁打を達成。同年7月8日には荻野忠寛から通算1500本安打となるホームランを放った。

[編集] 背番号

  • 22(1987年 - 2002年)
  • 5(2003年 - 2004年)
  • 7(2005年 - )

[編集] 年度別打撃成績
































O
P
S

1989 中日 20 35 29 2 5 1 0 0 6 2 0 0 0 1 5 0 11 0 .172 .286 .207 .493 3
1990 5 8 7 1 3 1 0 0 4 0 0 0 0 0 1 0 1 0 .429 .500 .571 1.071 0
1991 26 51 43 2 6 2 0 1 11 2 0 1 1 0 7 0 18 2 .140 .260 .256 .516 1
1992 40 117 106 6 25 5 0 4 42 10 0 0 0 0 10 1 26 6 .236 .308 .396 .704 0
1993 77 187 163 14 44 12 0 3 65 17 0 0 1 2 20 1 43 6 .270 .349 .399 .748 11
1994 38 50 42 7 11 3 0 3 23 13 0 1 0 0 8 0 13 0 .262 .380 .548 .928 0
1995 66 233 203 28 59 10 0 16 117 39 2 0 1 3 21 5 56 5 .291 .366 .576 .943 0
1996 127 502 453 83 146 20 0 39 283 107 1 1 0 3 42 4 95 11 .322 .382 .625 1.007 4
1997 130 483 421 45 108 19 2 19 188 54 0 1 0 1 55 6 66 14 .257 .350 .447 .796 2
1998 131 516 439 52 112 17 1 27 212 86 0 3 0 6 63 8 95 14 .255 .355 .483 .838 4
1999 113 410 354 59 87 16 0 28 187 75 1 0 1 1 50 4 99 11 .246 .345 .528 .873 7
2000 118 473 427 55 133 29 3 18 222 68 3 2 0 3 39 4 74 15 .311 .372 .520 .892 4
2001 111 398 365 46 87 16 0 25 178 51 0 1 1 1 24 7 95 13 .238 .297 .488 .785 2
2002 26 83 78 2 15 2 0 2 23 5 0 0 0 0 5 0 26 1 .192 .241 .295 .536 1
2003 オリックス 110 401 358 42 83 21 1 22 172 68 0 0 0 4 36 3 95 11 .232 .304 .480 .785 1
2004 62 166 151 18 37 8 0 4 57 20 0 0 0 0 13 2 41 5 .245 .313 .377 .691 0
2005 楽天 118 430 383 51 102 22 1 25 201 65 0 1 0 2 38 2 7 80 8 .266 .342 .525 .867 4
2006 122 479 419 40 101 21 1 19 181 67 0 2 0 2 51 1 7 116 6 .241 .332 .432 .764 0
2007 141 594 506 86 132 27 2 43 292 108 1 1 0 7 71 6 10 142 28 .261 .359 .577 .936 1
2008 142 589 510 63 141 21 0 26 240 80 1 1 0 1 73 5 5 118 21 .276 .372 .471 .843 2
通算:20年 1723 6205 5457 702 1437 273 11 324 2704 937 9 15 5 37 632 74 1310 171 .263 .346 .496 .842 47
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 記録

  • オールスターゲーム出場:4回(1996年と2000年にいずれも監督推薦での出場、2007年にファン投票で出場、2008年に選手間投票の指名打者部門で出場)

[編集] タイトル・表彰

[編集] エピソード

[編集] 評価・性格

  • 評論家などに「終わった選手」と評されていたことについて楽天監督の野村克也は「あんなに天才的なバッティングを持っているのに(このまま引退するのは)もったいなかった」と山崎を高く評価した。2006年春先には「山崎は一生懸命やってても一生懸命やってるように見えない(損な奴やな)」とコメントし、また楽天のルーキー山崎隆広が、内角のさばき方の手本として阪神の今岡を挙げた際には「天才の真似はできないからするな。苦労してつくった人の真似をせい」と山崎の名を挙げた。山崎武司が変化球で打ち取られると「もっとうぬぼれろ!お前にストレートが来るわけないだろ!」と激励し、山崎も「この年になって毎日が新たな発見」とコメントしている。
  • 山田久志伊原春樹とは両名が中日、オリックスの監督の時には考え方が合わず、暴言を吐き干された経緯があるため不仲であったが、伊原とはその後和解し現在は会ったらある程度会話はするという。一方山田に対しては一方的に拒絶しており、2007年のセ・リーグのクライマックスシリーズで両者がテレビ番組のゲストとして呼ばれた際、「一緒は嫌だ」という理由で山田とは別のブースに移してもらった。また、山田から声をかけられた時も無視し、目すら合わせようとしなかったという。
  • 入団以来連敗が続いていた松崎伸吾に対し「オレはお前みたいなピッチャーを見たことがある。何の変哲もなかったけど、努力して球界を代表する投手になった」と、同じ左腕投手である野口茂樹(元・読売ジャイアンツ)を引き合いに出して激励している。
  • やや激昂しやすい性格で、投手に詰めよったり審判に対する暴言や侮辱行為によって退場を宣告されることが度々あり通算5回退場処分を受けている。他に退場処分5回受けているのは大島康徳星野仙一アレックス・カブレラがいる。
    • 1996年5月1日の対巨人5回戦(ナゴヤ)において、5回裏にバルビーノ・ガルベスの投球が頭付近を通過したことに激怒しマウンドへ詰め寄ったため、両軍総出の乱闘に発展した。この後両者共に退場処分を受けた。
    • 2005年・2006年、ジェレミー・パウエルによる死球で負傷しており、2006年の死球の際はこれが2回目という意味で指を2本立てながら絶叫しマウンドに詰め寄った。2008年4月22日、2アウト走者なしでの初球が死球となる。普段より10〜15センチ下がって打席に立ち、捕手の的山にも忠告していたことや、前日にパウエルが内角攻めを公言していたことにより乱闘寸前の騒ぎとなった。
    • 2007年4月25日のオリックス戦でランス・カーターから死球を受けた際、それまでの経緯(楽天の投手2人がグレッグ・ラロッカに2度死球を与え、オリックス投手の吉井理人ケビン・ウィットの頭部付近へ投球した)から報復と思いマウンドに詰め寄ろうとし、それを止めようとした日高剛のマスクをはたき落としたため両軍入り乱れる乱闘となった。その中でオリックスのタフィ・ローズが山崎を小突いたとして退場が宣告されたが、日高のマスクをはたき落とした山崎については審判が見ていなかったということで何ら処罰を受けなかった。仮に目撃していたら退場にしていたと永見武司球審は語っている。
    • 2009年5月14日の日本ハム戦(Kスタ宮城)の4回裏、際どいコースをストライクと判定され見逃し三振。この判定を不服とし、球審栄村孝康を侮辱する発言をして退場を命ぜられた。現役日本人選手としては最多となる5度目の退場処分。試合後「下手くそに下手くそって言って何が悪い。栄村には全球団のやつがやられてる。代表して言っただけだ」と語った。楽天の野村監督からは「反省ないな。オレは退場は50年で1度、現役時代はなしや。気持ちは分かるが審判は敵に回さん方がいい」と苦言を呈された。翌15日、日本プロ野球組織の加藤良三コミッショナーから厳重注意と制裁金5万円を科された[2]

[編集] 野球関係

  • 中学野球では本塁打を1本も打っていない。
  • 中日監督時代の山田久志、オリックス監督時代の石毛宏典にキャンプで三塁手の練習をさせられたが、いずれも短期間で断念している。
  • ドラフトの際、実は読売ジャイアンツに入りたかったと語っている。
  • アメリカで教育リーグに参加していた際、3打席連続本塁打を放ち、相手チームの監督からメジャーリーグを目指してアメリカでプレーするよう誘われた。
  • 1995年開幕前の自主トレでは同い年で現役のWBC世界バンタム級チャンピオン薬師寺保栄に師事しボクシングの練習を取り入れた。山崎と中日同期入団である近藤真一が薬師寺と享栄高校の同級生で、その縁で交友があった。1994年12月4日、名古屋市総合体育館で薬師寺が暫定王者辰吉丈一郎破り3度目の防衛=王座統一した世紀の一戦をリングサイドで観戦している。
  • 2005年7月27日の対日本ハム戦の試合前に仙台市内の小学校を訪問。子供達に「ホームランを打つ」と約束して臨んだこの日の試合で満塁ホームランを放った。
  • 「狭い球場が好き」と公言している。特にヤクルトの本拠地である明治神宮野球場が好きである。しかし2007年オフに明治神宮野球場は改修工事が行われ、楽天本拠地のKスタ宮城並の広さになった。
  • 2007年前半の好調は、配球を読むようになった事と構える手の遊びを大きくしたことを本人は挙げている。配球を読むようになったきっかけは、野村監督が試合中にベンチで若いピッチャー、キャッチャーに打者心理の指示をしているのを傍らで聞き、それを打撃に応用したということである。手の遊びを大きくしたきっかけは2007年5月2日のヤフードームでの試合であった(下記詳細)。これにより、この年のセ・パ交流戦終了時点で27本塁打、シーズン55本塁打という日本記録ペースで本塁打を量産した。しかし8月頃からから本塁打の数が伸び悩み、更に8月過ぎから足の付け根を痛めたことでスイングや走塁の支障となり、更なるブレーキとなった。
    • 2007年開幕戦と3月31日の2度4番を務めるものの結果を残せず、4月1日のオリックス戦では8番に降格。3回に得意とする吉井理人投手からヒットで出塁、4番フェルナンデスの満塁ホームランで得点する。さらに満塁となった場面でホームランを打った。1イニング2満塁本塁打は史上3度目。パ・リーグでは2度目(2本とも柵越え本塁打はパ・リーグ初)。同一投手から2本は史上初。
    • 2007年、開幕後1か月間程は安打の半分が本塁打という「ホームランか三振か」状態で、打率は規定打席到達者内で最低ながら本塁打数は1位という時もあった。
    • 2007年5月2日の対ソフトバンク戦(ヤフードーム)、先発は苦手な和田毅だったが「どうせ打てないならダラダラ打ってやろう」と体の力を抜いて(手の遊びを大きくして)打ったところ和田相手に2打席連続本塁打という結果に繋がった(加えて和田の配球の傾向を野村監督から指摘されたことも本塁打に繋がった)。この力を抜いて打つ打法を山崎自身はこんにゃく打法と呼んでいた(梨田昌孝のこんにゃく打法との繋がりは不明)。翌2008年は7打数6安打3本塁打と苦手にしなくなった。2009年にも初対戦となる試合で本塁打を放ち、「アイツ(和田)の考えてる事が何となく読めるんだよね」と完全にカモにしている。
    • 2007年5月27日の横浜戦(横浜スタジアム)で両リーグ最速で20号に到達。那須野巧から放った場外本塁打は露天の商品(Yes! プリキュア5のキュアアクアのお面)に命中。その後、主にビジター球場の外野スタンドでは当てたお面と同じ物を持って応援するファンの姿が見受けられるようになった。この店主は「長いことやってきたけど、場外ホームランが飛んできたのは初めて。私は運が良いよ」と喜んでいたという。
  • 2008年の楽天応援歌「越えろ!楽天イーグルス(歌:℃-ute)」のPVに出演しているが、中日時代には、中日応援歌「燃えよドラゴンズ!」(作:山本正之 87年〜2002年バージョン)の歌詞にも登場している。
  • 東北楽天での山崎の応援歌は中日時代のものを引き継いだ。
  • 知多市立八幡中学校出身。先輩に伊藤敦規投手、後輩に浅尾拓也投手がいる。また愛工大名電高では工藤公康が5年先輩、イチローは5年後輩に当たり、イチローが大リーグ入団した年のオフにこの3人で写真を撮っている。
  • 中日時代の背番号22は、監督に就任した星野仙一の親友でもある田淵幸一に因んだもの。また東北楽天の背番号7は娘の名前(なな)よりとったもの。この際、オリックスから分配ドラフトで移籍した竜太郎も心機一転を期して7番を希望したが、結局球団は山崎に与え、竜太郎には「実力で奪い取れ」と奮起を促した。

[編集] 相撲関係

  • 八幡中時代は野球部のほか相撲部でも活躍した。野球では地方大会止まりだったが、3年次の大会終了後、数日の練習で相撲の愛知大会で優勝、全国大会にも出場し藤島部屋ほか数か所の部屋からスカウトされた。
  • 1997年のシーズンオフ、正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で優勝。翌1998年にも出場し2年連続優勝するが、取組相手の片岡篤史が右肩脱臼の重傷を負い、これ以降プロ野球選手の相撲競技は行われなくなった。
  • 前頭筆頭・朝乃若(現・若松親方)は愛工大名電高校の1年後輩。元十両2枚目・須佐の湖は八幡中学校の後輩で幼なじみでもある。

[編集] その他

  • その風貌と性格、「たけし」という名前から、アニメ『ドラえもん』のキャラクターである「ジャイアン」と呼ばれる。これは中日・楽天でチームメイトであった中村武志と区別する意味合いもある。中村は中日時代から監督やファンに「たけし」と呼ばれていて、山崎は普通に「山崎」と呼ばれていた。
  • 1990年12月19日、実家近くで火事の現場に遭遇した際知人らと協力して子供を助け出し、地元消防署から表彰され、セ・リーグからも特別表彰を受けた。
  • 愛車はフェラーリメルセデス・ベンツ。2007年にこのうちのフェラーリ・F512M楽天オークションに出展。1450万999円で落札されたが、落札者が直後にオークション会員を退会したため不成立となった。
  • 趣味はミニカー収集で自宅には3000台ものミニカーがあるという。ミニカーメーカーの京商と専門誌がタイアップしたドイツツアーに特別ゲストとして参加した。自宅のコレクションとインタビューは季刊専門誌「ミニカーファン」に掲載された。ラジコンカーも大好きで、中日の山本昌とラジコンカーレース大会『山山杯』を毎年開催している。
  • 2007年のタイトル獲得を記念し、愛車ランボルギーニ・ムルシエラゴがドイツのミニチャンプス社によって特別にミニカー化され、「ミニカーファン」にて抽選販売が行われた。パッケージには楽天のコーポレートカラーのラインとチームロゴと自身のサインのプリントが入った特別仕様である。
  • 2008年の球宴にてMVPを受賞、賞金100万円の使い道について「(球宴スポンサーである)マツダの特注ミニカーでも作るかぁ」と冗談交じりに話した。
  • 好物はエビフライ。山崎がプロデュースして2006年8月5日に発売された「どえりゃー山崎弁当」には、山崎のとにかく大きなエビフライが目立つ豪快な弁当にという強い希望に応えて、大海老を頭から丸ごと使った大きなエビフライが入っていた。関係者によると「1,000円で売り出しているけど、実際は1,500円ぐらいかかっている」「間違いなく売り上げはNo.1」という。2007年8月27日には約18cmの巨大エビフライ入り「山崎でらうまカレー」、2008年4月19日には地元の名産手羽先をおつまみとした「テバサキタケシ」をプロデュースし、販売初日には30分で完売した。
  • 中日在籍時から名古屋の地元ラジオ局・東海ラジオ放送の番組にゲストとして出演することが多い。中日が日本シリーズ進出した際にはほとんどゲストとして出演する。中日が日本一を決めた2007年の日本シリーズも第5戦の中継にゲスト解説として参加した。
  • 普段は右利きだが、食事だけは左利き。

[編集] 脚注

  1. ^ 山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、127-132頁
  2. ^ 「楽天・山崎武に制裁金=プロ野球」スポーツナビ、2009年5月15日

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
-
ガリバーオールスターゲーム
ガリバー賞
2007年
次代:
内川聖一
(2008年、マツダ・ビアンテ賞)
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