山崎武司

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山崎 武司
中日ドラゴンズ #7
E-Yamasaki.jpg
楽天時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県知多市
生年月日 1968年11月7日(43歳)
身長
体重
182cm
100kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 指名打者一塁手
プロ入り 1986年 ドラフト2位
初出場 1989年9月7日
年俸 3,000万円+出来高(2012年)
経歴(括弧内は在籍年)

山崎 武司(やまさき たけし、1968年11月7日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手内野手)。名字の読みは「やまき」で、「さ」の音は濁らない。愛知県知多市出身。

1999年5月21日より、登録名を「山崎」から「山」へ改めた。愛称は「ジャーマン」「ジャイアン」「キン肉マン」など。

目次

[編集] 来歴

[編集] プロ入り前

愛知工業大学名電高等学校では甲子園出場経験はなかったものの、通算56本塁打を放つ。1986年のドラフト会議中日ドラゴンズから2位指名を受け、捕手として入団する。

[編集] 中日時代前半(ナゴヤ球場時代)

1987年の入団直後ロサンゼルス・ドジャース傘下のチームへ野球留学し、三塁手としてプレーしていたが帰国後捕手に戻る。この年と翌1988年は一軍出場なし。1989年9月7日の対広島東洋カープ19回戦(広島市民球場)において、9回表に代打として一軍初出場。9月10日の対ヤクルトスワローズ19回戦(ナゴヤ球場)9回裏、内藤尚行からプロ初安打となるレフト前ヒットを放つ。10月15日の対広島26回戦(広島)で捕手として先発出場するが、盗塁王を狙う正田耕三に5盗塁を許す。正田はこの試合さらに中村武志から1つ盗塁を決めて1試合6盗塁のプロ野球タイ記録を樹立。この試合をきっかけとして、外野手に転向する。この年と翌1990年、二軍でウエスタン・リーグ本塁打王打点王を獲得する。12月19日、実家近くで火事の現場に遭遇した際知人らと協力して子どもを助け出し、地元消防署から表彰され、セ・リーグからも特別表彰を受けた。

1991年5月9日の対横浜大洋ホエールズ5回戦(横浜スタジアム)において、田辺学よりプロ入り初本塁打を放つ。

1994年落合博満FA読売ジャイアンツへ移籍する。大豊泰昭一塁手へ転向したことで外野のポジションに空きができたが、彦野利勝の復活などもあって前年より出場数を減らす。10.8決戦では出場機会がなかった。12月4日、名古屋市総合体育館(現:日本ガイシホール)で薬師寺保栄暫定王者辰吉丈一郎を破り3度目の防衛=王座統一した「世紀の一戦」をリングサイドで観戦、直後の山崎の結婚式には薬師寺が出席している。

1995年、開幕前の自主トレではWBC世界バンタム級チャンピオン(当時)で同い年の薬師寺保栄に師事し、ボクシングの練習を取り入れた。山崎と中日同期入団である近藤真一が薬師寺と享栄高校の同級生で、その縁で交友があった。シーズンでは左翼手としての出場が増え16本塁打を放つ。外野の定位置をつかみ始める。

1996年、キャンプの際に新シーズン用のバットを使用していたが、バットが重く長く感じており、調子が悪いのではないかと思っていた。ところが実際は用具メーカーが間違えて1インチ長い35インチのバットを製作していたということにキャンプの終盤に気づいたという[1]6月19日の対巨人10回戦(ナゴヤ)において、8回裏に槙原寛己から5番・音重鎮、6番・山崎、7番・大豊泰昭が3者連続本塁打を放つ。6月に打率.403、13本塁打、33打点を記録し、月間MVPに選ばれる。シーズン前半は打率、本塁打、打点の三部門でトップとなり、オールスターゲームにも監督推薦で出場する。松井秀喜、大豊とタイトルを争った本塁打部門では、39本の山崎が38本の松井と大豊を抑え本塁打王を獲得した。なお、この年は打率はリーグ4位の.322、打点もルイス・ロペスに次ぐ107と、三冠王クラスの成績だった。また、最高長打率(.625)を記録しベストナインに選ばれる。また打撃三部門において松井を上回っていたが、巨人が優勝したことでシーズン最優秀選手には松井が選ばれている。

[編集] 中日時代後半(ナゴヤドーム時代)

1997年は中日の本拠地がナゴヤ球場から外野が広いナゴヤドームへ移り、守備の負担が増えたことなどから打撃成績を大幅に落とす。チームも最下位に沈む。

1998年、トレードで阪神タイガースへ移籍した大豊に代わり、主に一塁手としてプレーする。8月18日の対ヤクルト18回戦(明治神宮野球場)において、2回表にマーク・エーカーから史上198人目となる通算100号本塁打を放つ。27本塁打は松井、江藤智に次ぐセ・リーグ3位。最多勝利打点(16)で表彰され最優秀JCB・MEP賞を受賞する。11月1日のセ・リーグ東西対抗戦(宮崎市営)において3ラン本塁打を放ち、最優秀選手賞を受賞する。

1999年5月9日の対広島9回戦(広島)において、5回、6回、8回に3打席連続本塁打を放つ。9月26日、対阪神26回戦(ナゴヤドーム)で福原忍から劇的な逆転サヨナラ3点本塁打を放つ。打った直後には号泣し、この本塁打を放った後に出たガッツポーズを模ったワッペンを作成しており、中日時代には本塁打を打つごとにヘルメットに貼っていた。9月26日の対阪神26回戦(ナゴヤドーム)ではサヨナラ3ランを放ったが、チームが優勝を争う中、この前日には山崎はスタメンを外れており、この日も本塁打を放つまではノーヒットだった。前日までの起用のされ方に不満を持っていた山崎は本塁打を放った後、一塁へ走る際にベンチの星野仙一監督に向って「ほれ見ろ!俺を出しとけばちゃんと打つんじゃ!」と言い放った。9月30日、11年ぶりのセ・リーグ優勝を決めた対ヤクルト26回戦(神宮)で一塁守備中、打者走者の真中満と交錯して左手首を骨折。このためビールかけも見守ることしかできなかった。当然福岡ダイエーホークスとの日本シリーズに出場することができなかった。これについて、当時のダイエーのエース・工藤公康は「タケシが出ていたら、ホークス投手陣はもっと苦労したと思う。あいつが打線にいなかった分だけ楽をさせてもらった。」と語った。[要出典]

2000年、オープン戦でスパイクを忘れたが、当時の星野監督には忘れたとは言えないということで、「今年はこれ(スパイクを履かないスタイル)でいく」ということにした。そのためこの年はスパイクを履かないで打席に立った[1]7月12日の対阪神15回戦(ナゴヤドーム)にて、7回裏に史上114人目となる通算150号本塁打を吉田豊彦より放つ。同年のオールスターゲームに監督推薦で出場する。グリーンスタジアム神戸において松坂大輔から2点タイムリーを打つなど4打数3安打2打点と活躍しMVPを受賞する。この年は前年の手首の骨折を切っ掛けに打撃のスタイルを変え、最終的に打率.311という高打率を記録するが契約更改で18本塁打が少な過ぎると指摘される。

2001年10月6日の対広島28回戦(広島)において、史上376人目となる通算1000試合出場を記録する。この年、チーム最多の25本塁打を放ったが、契約更改で今度は打率.238、51打点が低過ぎると指摘される。この評価に納得がいかずFA宣言し、一時は金銭面で好条件を提示した横浜ベイスターズ移籍へ傾くが、最終的には中日と3年契約を結び残留。

2002年山田久志が監督に就任する。オープン戦から不調で、4月末に二軍へ降格となる。二軍戦でも不調が続いたが、レオ・ゴメスの故障により7月初旬から一軍復帰。7月26日の対阪神15回戦(甲子園)において、同点で迎えた9回表一死満塁のチャンスで空振り三振。チームもその裏に蔵本英智のエラーでサヨナラ負けする。試合後、山田は「どこかでブツっと切ってしまう。なんかお通夜みたいなもんだ。さらに使ったオレが悪いんだけど、チームを奈落の底につき落としてしまう選手がいる。何とかしてくれたらいいんだけど」と発言する。正確にはこの発言が山崎を指したものか不明であったが、山崎は「蔵本じゃない。今日はオレだ。オレが打っていれば、ミスもなかった」と話した。しかし後に自身の著書で「山崎って名指しで言えよ!」と不信感を露わにしていた。[要出典]

この後はほとんど出場機会がなく、シーズン終了後平井正史とのトレードオリックス・ブルーウェーブに移籍する。

[編集] オリックス時代

2003年8月19日の対ダイエー22回戦(福岡ドーム)において、2回表に史上77人目となる通算200号本塁打を倉野信次から放つ。この年、規定打席不足ながらチームの日本人選手の中では最多の22本塁打を放つが、オリックスは2年連続パ・リーグ最下位に終わった。

2004年4月27日からの西武ライオンズとの3連戦(ナゴヤドーム)で監督の伊原春樹は地元出身選手として先発出場を約束。初日は指名打者として先発出場し3打数2安打と活躍したが、この試合中に負傷した谷佳知が翌28日に指名打者として先発出場する。山崎は関係者も多数招待していた試合での先発落ちにショックを受け試合開始前に帰宅。これが「職場放棄」と見なされ、翌日に懲罰的な意味で二軍へ降格させられる(この「ボイコット事件」について山崎本人は、試合に出られる心理状態ではないという伊原監督の判断の下、許可があったために帰宅したと述べている[2])。これ以降二軍落ちを何度も経験し、9月には球団から戦力外通告を受けたため引退も考えたが、高校の先輩である工藤公康の説得と息子からの応援により現役続行を決意。12月11日、新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスと契約する。

[編集] 楽天時代

2005年3月26日、球団史上初の公式戦である千葉ロッテマリーンズとの開幕戦(千葉マリンスタジアム)では「5番・指名打者」で先発出場。開幕直後に右手に死球を受けて二軍で治療に専念するなどシーズン当初はあまり活躍できなかったが、この年から始まったセ・パ交流戦に入ると調子を上げ、5月7日の対巨人2回戦(フルキャストスタジアム宮城)では9回裏に前田幸長から球団史上初の代打本塁打を、6月初めには4試合連続の5本塁打を放つ。交流戦後は「4番・指名打者」として定着する。7月2日の対日本ハム6回戦(フルスタ宮城)において、3回裏に江尻慎太郎より史上234人目、通算1000本安打となるレフト前ヒットを放つ。プロ19年目での達成であった。7月27日の対日本ハム戦の試合前に仙台市内の小学校を訪問。子供達に「ホームランを打つ」と約束して臨んだこの日の試合で満塁本塁打を放った。事実上、楽天の初代4番としてのシーズンとなった(実際は第5代にあたる)。この年の25本塁打はチーム最多。

2006年、新監督の野村克也からチームの主軸として、またチームリーダーとして期待される。6月17日の対巨人戦(東京ドーム)において高校の先輩である工藤から2打席連続本塁打を、7月29日には楽天初となる逆転満塁本塁打を涌井秀章から放つ。なお、この一打はパリーグ通算900本目の満塁本塁打である。8月5日には史上49人目となる通算250本塁打を達成。「開幕から1つの小さな目標としてきたので、達成できて嬉しいです」と喜びを語った。しかし最終成績は前年を下回った。

2007年、開幕当初こそ不調が続いたが、5月は打率.342、12本塁打、27打点と復調。チーム初の月間MVPを獲得。自身にとっては中日に在籍していた1996年6月以来10年11か月ぶりで、この期間は史上最長でもある。また、両リーグでの月間MVP受賞は史上13人目。5月27日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で両リーグ最速で20号に到達。那須野巧から放った場外本塁打は露天の商品(Yes! プリキュア5のキュアアクアのお面)に命中。その後、主にビジター球場の外野スタンドでは当てたお面と同じ物を持って応援するファンの姿が見受けられるようになった。この店主は「長いことやってきたけど、場外ホームランが飛んできたのは初めて。私は運が良いよ」と喜んでいたという。6月14日、史上152人目となる通算1,500試合出場を達成する。この本塁打量産時はホセ・フェルナンデスの不振もあって4番に座ることが多かった。指名打者として選出されたオールスターゲーム第1戦(東京ドーム)に代打で出場し、続く第2戦(フルスタ宮城)では第1打席に先制の2ラン本塁打、第2打席でも二塁打を放ち、優秀選手賞とガリバー賞に選ばれ、賞品としてポルシェ・カイエンを獲得した。前半の好調は、配球を読むようになった事と構える手の遊びを大きくしたことを本人は挙げている。配球を読むようになったきっかけは、野村監督が試合中にベンチで若いピッチャー、キャッチャーに打者心理の指示をしているのを傍らで聞き、それを打撃に応用したということである。手の遊びを大きくしたきっかけは5月2日のヤフードームでの試合であった。これにより、この年のセ・パ交流戦終了時点で27本塁打、シーズン55本塁打という日本記録ペースで本塁打を量産した。4月1日のオリックス戦で3回に吉井理人からヒットで出塁、4番フェルナンデスの満塁本塁打で得点する。更に満塁となった場面で本塁打を打った。1イニング2満塁本塁打は史上3度目。パ・リーグでは2度目(2本とも柵越え本塁打はパ・リーグ初)。同一投手から2本は史上初。開幕後1か月間程は安打の半分が本塁打という「ホームランか三振か」状態で、打率は規定打席到達者内で最低ながら本塁打数は1位という時もあった。5月2日の対ソフトバンク戦(ヤフードーム)、先発は苦手な和田毅だったが「どうせ打てないならダラダラ打ってやろう」と体の力を抜いて(手の遊びを大きくして)打ったところ和田相手に2打席連続本塁打という結果に繋がった(加えて和田の配球の傾向を野村監督から指摘されたことも本塁打に繋がった)。この力を抜いて打つ打法を山崎自身はこんにゃく打法と呼んでいた(梨田昌孝のこんにゃく打法との繋がりは不明)8月27日にはこの日誕生日を迎えた娘の前で39号・40号を放つ。9月15日には11年ぶりとなる100打点を記録。最終的に43本108打点の自己最高記録でタフィ・ローズを上回りタイトルを獲得、ベストナイン指名打者部門にも選出された。打点王は初、本塁打王・ベストナインは11年ぶりとなる。21年目での40本塁打・100打点・本塁打王・打点王は史上初。なお山崎は一軍の試合に出場していない年が2年あり、実働19年目での40本塁打・本塁打王は王貞治門田博光に並び、100打点・打点王は王、衣笠祥雄の20年目に次ぐ記録である。なお、両リーグでの本塁打王の獲得は落合博満、タフィ・ローズに次ぐ3人目。また39歳での本塁打王、打点王の獲得は40歳で両タイトルを獲得した門田に次ぐ歴代2位の記録である。この年、フェラーリ・F512M楽天オークションに出展。1450万999円で落札されたが、落札者が直後にオークション会員を退会したため不成立となった。この年のタイトル獲得を記念し、愛車ランボルギーニ・ムルシエラゴがドイツのミニチャンプス社によって特別にミニカー化され、「ミニカーファン」にて抽選販売が行われた。パッケージには楽天のコーポレートカラーのラインとチームロゴと自身のサインのプリントが入った特別仕様である。

2008年は楽天応援歌「越えろ!楽天イーグルス(歌:℃-ute)」のPVに出演。この年に発生した岩手・宮城内陸地震には復興支援金としてこのシーズンに打った本塁打1本に付き10万、総額280万を宮城県栗原市に寄付し、その寄付の感謝の意味を込め同市は翌年に栗原市栗駒球場の愛称を「山崎武司球場」とした。シーズンでは4月3日のロッテ戦(クリネックススタジアム宮城)において久保康友から史上32人目となる通算300号本塁打を放つ。3・4月は打率.374、7本塁打21打点で月間MVPに選出される。その後調子を落としたものの、オールスターゲームには同年より導入された選手間投票の指名打者部門で選出される。7月31日の第1戦(京セラドーム大阪)において、9回裏久保田智之からサヨナラヒットを放ちMVPに選ばれた。なお、セ・パ両リーグでのオールスターMVPは史上4人目である。賞金300万円の使い道について「(球宴スポンサーである)マツダの特注ミニカーでも作るかぁ」と冗談交じりに話した。最終成績は打率.276、26本塁打、80打点で本塁打数はチームトップであった。

2009年6月14日の横浜戦(Kスタ宮城)で松家卓弘から本塁打を放ち、史上5人目となるセ・パ両リーグ150号本塁打を達成。7月8日のロッテ戦(Kスタ宮城)では史上102人目の通算1500安打を達成したものの、前半戦はチャンスで打てない事が多かった。しかしオールスター明けからは大事な場面で打つ事が増え、特に8月16日のロッテ戦(Kスタ宮城)で8回までチームは無得点、6点ビハインドの状況で唐川侑己から史上23人目の通算350号3ラン本塁打を放つと、9回裏二死の2点ビハインドの場面ではブライアン・シコースキーから同点2ラン本塁打を放った。この試合は結局延長12回裏に小坂誠がサヨナラヒットを放った事で6点差をひっくり返した劇的な勝利を収め、この試合以降チームは29勝16敗という飛躍的な成績を挙げた。最終的に打率は.246と低かったものの39本塁打107打点と両部門パ2位という成績で打線を牽引し、チーム史上初の2位とCS出場に貢献した。40代での本塁打30本到達は王貞治、門田博光、タフィ・ローズに次いで4人目。打点は前述の王貞治、衣笠祥雄の記録を更新する実動21年目での100打点到達となった。また41歳を迎えるシーズンでの100打点到達は門田博光、タフィ・ローズ、金本知憲の40歳を超える史上初の記録。更に本塁打は楽天移籍後の150本塁打到達となり、中日時代に記録した本塁打と合わせて史上7人目となる2球団での150本塁打も記録。CSでは40代以上では初となるポストシーズン2本の本塁打、7打点を挙げたがチームは第2ステージで日本ハムに敗れた。同年、指名打者部門のベストナインに2年ぶりに選出された。

2010年5月14日の広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島‎)ではエリック・スタルツから自身初となる代打満塁本塁打を放ち、5月23日の中日戦(ナゴヤドーム)にて山内壮馬から本塁打を放ち、史上19人目となる12球団から本塁打を達成(全球団から本塁打ではない。山崎の場合、楽天を除き近鉄を含む12球団だが、プロ野球リーグに加盟する全ての球団から本塁打を打つ事が条件であり、達成するには他チームに移籍し、楽天から本塁打を打たなければならない)。オールスターゲームでは、一戦目では中日時代の元同僚の岩瀬仁紀から本塁打。ベストプレー賞を獲得。二戦目では東野峻から本塁打と、40代での現役選手ではプロ野球史上初の2本の本塁打で存在感を示した。しかしこの年、前半戦は大不振に陥り、交流戦で12球団トップとなる11本塁打を放って一時は復調したものの交流戦後に再び不振に陥った。後半戦では復調し、チームトップの28本塁打93打点を挙げたが打率は.239と前半の不調が響いた形となり、チームも4年ぶりの最下位に沈んだ。

2011年8月30日、こまちスタジアムにて

2011年には中日時代を共にした星野仙一が監督に就任。前年に加入したランディ・ルイーズの守備に不安がある事に伴い、守備力重視を掲げる星野の構想から山崎とルイーズのポジションが実質入れ替えとなった。6月11日の中日戦(Kスタ宮城)では史上2人目となる40代での100号本塁打を中田賢一から放つ。しかし同試合の最終打席で空振り三振をした際に、右手薬指を剥離骨折し戦線離脱を余儀なくされる。一ヶ月後の7月19日に戦線復帰し、8月18日の西武戦(西武ドーム)にて菊池雄星から史上17人目となる通算400号本塁打を放った。8月31日の西武戦(岩手県営野球場)においても菊池雄星から第10号3ラン本塁打を放ち、7年連続二桁本塁打を達成した。この年は東北地方太平洋沖地震を受けて楽天イーグルスナインらと被災地を訪問して地元の小学生らを激励した。そうした過去のボランティア活動などが評価され、2011年度ゴールデンスピリット賞を受賞した[3]

10月10日に退団が発表される[4]。山崎本人は「まだやれる自信はある」と発言し、現役続行を希望している。この年は打率こそ.229にとどまったものの怪我がありながら11本塁打、48打点は貧打に喘いだチーム内ではトップ(打点は松井稼頭央とトップタイ)だった。

[編集] 中日復帰

12月8日、中日への入団が決定。10年ぶりの古巣復帰を果たすことになった[5]。背番号は楽天時代と同じ7に決定。また、楽天から中日へ移籍した初の選手となった。年俸3,000万円と大幅ダウンになったものの、出来高は最大1億円という、中日では異例の契約となった。

[編集] 人物

知多市立八幡中学校出身。先輩に伊藤敦規投手、後輩に浅尾拓也投手がいる。また愛工大名電高では工藤公康が5年先輩、イチローは5年後輩に当たり、イチローが大リーグに渡った年のオフにこの3人で写真を撮っている[要出典]

その風貌と性格、「たけし」という名前から、アニメ『ドラえもん』のキャラクターである「ジャイアン」と呼ばれる(山崎は「武司」ジャイアンの本名は「(剛田)武」。)。これは中日・楽天でチームメイトであった中村武志と区別する意味合いもある。中村は中日時代から監督やファンに「たけし」と呼ばれていて、山崎は普通に「山崎」と呼ばれていた。なお2011年に山崎が出した著書にも「リアルジャイアン」の言葉が使われている。楽天時代では星野監督やその他のコーチからも「たけし」と呼ばれていた。

趣味はミニカー収集で、2011年現在自宅には5000台ものミニカーがある[6]。ミニカーメーカーの京商と専門誌がタイアップしたドイツツアーに特別ゲストとして参加した。自宅のコレクションとインタビューは季刊専門誌「ミニカーファン」に掲載された。ラジコンカーも大好きで、2005年まで中日の山本昌とラジコンカーレース大会『山山杯』を毎年開催していた。自宅にはセグウェイがある。また趣味のミニカーは飾ってあるが、野球関係のものは飾らずに箱に入れたままになっている。2008年末に「SPORTS STADIUM」で自宅が紹介された際、その年のオールスターMVPのトロフィーや、2007年二冠王のトロフィーなどを「もらって以来初めて箱から出した」と語っていた。

愛車はフェラーリメルセデス・ベンツ。2011年にはランボルギーニ・アヴェンタドールを「日本輸入第1号車」という条件付で契約している。また、「引退したらランボルギーニ・カウンタックを『観賞用』として購入する」とも公言している。

好物はエビフライ山崎がプロデュースして2006年8月5日に発売された「どえりゃー山崎弁当」には、山崎のとにかく大きなエビフライが目立つ豪快な弁当にという強い希望に応えて、大海老を頭から丸ごと使った大きなエビフライが入っていた。「間違いなく売り上げはNo.1」という。2007年8月27日には約18cmの巨大エビフライ入り「山崎でらうまカレー」、2008年4月19日には地元の名産手羽先をおつまみとした「テバサキタケシ」をプロデュースし、販売初日には30分で完売した。[要出典]

酒が全く飲めない[1]。その分食事が楽しみであるらしく、体調管理にも気を配っている。(自著本「奇跡の超弾道」より)

中日ドラゴンズ時代にある児童施設を慰問したことがきっかけでボランティア活動を行うようになり、毎年シーズンオフになればサンタクロースの扮装で施設慰問をするのが恒例になっている。

[編集] 相撲関係

八幡中時代は野球部のほか相撲部でも活躍した。野球では地方大会止まりだったが、3年次の大会終了後、数日の練習で相撲の愛知大会で優勝、全国大会にも出場し藤島部屋ほか数か所の部屋からスカウトされた。元前頭筆頭・朝乃若(現・若松親方)は愛工大名電高校の1年後輩。元十両2枚目・須佐の湖は八幡中学校の後輩で幼なじみでもある。

1997年のシーズンオフ、正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で優勝。翌1998年にも出場し2年連続優勝するが、取組相手の片岡篤史が右肩脱臼の重傷を負い、これ以降プロ野球選手の相撲競技は行われなくなった[7]

[編集] 退場処分

試合を離れれば穏やかで笑顔を絶やさない性格であるが、一方で投手や捕手に詰めよったり審判に対する暴言や侮辱行為によって退場を宣告されることが多く現役の日本人選手としては最多の通算6回の退場処分を受けている。外国人選手を含めてもアレックス・カブレラの7回(西武5回、オリックス2回)に次いで2番目に退場数が多い。選手として在籍して3球団で退場処分を受けたのは、日本プロ野球でタフィ・ローズと山崎の2名だけである。

  • (1回目)1996年5月1日の対巨人5回戦(ナゴヤ)において、5回裏にバルビーノ・ガルベスの投球が頭付近を通過したことに激怒しマウンドへ詰め寄り、ガルベスのパンチに対してヘッドロックをかけ応戦、その後両軍総出の乱闘に発展した。この後両者共に退場処分を受けた。
  • (2回目)1999年のヤクルト戦でボール球を自信を持って見送ったにも拘らず西本欣司球審にストライクをコールされたことに激昂、ベンチに引き上げた後、暴言を吐き、退場処分を受けた。グラウンドに肘当て・ヘルメット・バットを投げつけた。
  • 同年の阪神戦で藪恵壹から死球を受け激怒し捕手の北川博敏に詰め寄りマスクをはじく。このとき北川がなぜか半笑い(北川はもともと普通にしていても笑顔のような顔ではある)だったためその後両軍が集まる騒動に。
  • (3回目)2003年8月25日のオリックス・ブルーウェーブvs日本ハムファイターズ戦(ヤフーBB)の2回裏の打席で、投球の判定に対し白井球審に暴言を吐いたとして退場処分となる。
  • 2005年・2006年、ジェレミー・パウエルによる死球で負傷しており、2006年の死球の際はこれが2回目という意味で指を2本立てながら絶叫しマウンドに詰め寄った。2008年4月22日、2アウト走者なしでの初球が死球となる。普段より10〜15センチ下がって打席に立ち、捕手の的山にも忠告していたことや、前日にパウエルが内角攻めを公言していたことにより乱闘寸前の騒ぎとなった。
  • (4回目)2007年4月25日のオリックス戦でランス・カーターから死球を受けた。この試合、楽天先発の田中将大が1回裏に、2番手松崎伸吾が8回裏に、いずれもグレッグ・ラロッカに死球を与えていて、オリックス先発の吉井理人が2回表にケビン・ウィットの頭部付近へビーンボールを投げ、5回表には当の山崎にソロ本塁打を打たれた後に、高須に死球を与えていた。この経緯より報復死球と捉えた山崎はマウンドに詰め寄ろうとしたが、それを止めようとした日高剛のマスクをはたき落としたため、両軍入り乱れる乱闘となった。その中でオリックスのタフィ・ローズが山崎を小突いたとして退場が宣告されたが、日高のマスクをはたき落とした山崎については審判が見ていなかったということで何ら処罰を受けなかった。仮に目撃していたら退場にしていたと永見武司球審は語っている。
  • (5回目)2009年5月14日の日本ハム戦(仙台)の4回裏、際どいコースをストライクと判定され見逃し三振。この判定を不服とし、球審栄村孝康を侮辱する発言をして退場を命ぜられた。現役日本人選手としては最多となる5度目の退場処分。試合後「下手くそに下手くそって言って何が悪い。栄村には全球団のやつがやられている。代表して言っただけだ」と語った。楽天の野村監督からは「反省ないな。オレは退場は50年で1度、現役時代はなしや。気持ちは分かるが審判は敵に回さん方がいいだろう」と苦言を呈された。翌15日、日本プロ野球組織加藤良三コミッショナーから厳重注意と制裁金5万円を科された[8]
  • (6回目)2010年7月27日のソフトバンク戦、熊本藤崎台球場で4同点の5回1死、カウント1-1から外角の変化球をストライクと判定され抗議。続く内角球で見逃し三振となって激高し、白井球審に詰め寄った。ブラウン監督が仲裁に入ったが、侮辱行為で自身通算6度目の退場となった。山崎自身はストライク3球すべてをボールと判断。試合後も「あれがストライクなら、俺は2軍に行った方がいい。(球審は)感情で手を上げている」、「俺は暴言を吐いたことは反省しているし、制裁金も払う。でも、あっちは処分もないだろう」と締めくくった。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1989 中日 20 35 29 2 5 1 0 0 6 2 0 0 0 1 5 1 0 11 0 .172 .286 .207 .493
1990 5 8 7 1 3 1 0 0 4 0 0 0 0 0 1 0 0 1 0 .429 .500 .571 1.071
1991 26 51 43 2 6 2 0 1 11 2 0 1 1 0 7 0 0 18 2 .140 .260 .256 .516
1992 40 117 106 6 25 5 0 4 42 10 0 0 0 0 10 0 1 26 6 .236 .308 .396 .704
1993 77 187 163 14 44 12 0 3 65 17 0 0 1 2 20 0 1 43 6 .270 .349 .399 .748
1994 38 50 42 7 11 3 0 3 23 13 0 1 0 0 8 0 0 13 0 .262 .380 .548 .928
1995 66 233 203 28 59 10 0 16 117 39 2 0 1 3 21 2 5 56 5 .291 .366 .576 .943
1996 127 502 453 83 146 20 0 39 283 107 1 1 0 3 42 2 4 95 11 .322 .382 .625 1.007
1997 130 483 421 45 108 19 2 19 188 54 0 1 0 1 55 4 6 66 14 .257 .350 .447 .797
1998 131 516 439 52 112 17 1 27 212 86 0 3 0 6 63 0 8 95 14 .255 .355 .483 .838
1999 113 410 354 59 87 16 0 28 187 75 1 0 1 1 50 1 4 99 11 .246 .345 .528 .873
2000 118 473 427 55 133 29 3 18 222 68 3 2 0 3 39 4 4 74 15 .311 .372 .520 .892
2001 111 398 365 46 87 16 0 25 178 51 0 1 1 1 24 2 7 95 13 .238 .297 .488 .785
2002 26 83 78 2 15 2 0 2 23 5 0 0 0 0 5 0 0 26 1 .192 .241 .295 .536
2003 オリックス 110 401 358 42 83 21 1 22 172 68 0 0 0 4 36 0 3 95 11 .232 .304 .480 .784
2004 62 166 151 18 37 8 0 4 57 20 0 0 0 0 13 1 2 41 5 .245 .313 .377 .690
2005 楽天 118 430 383 51 102 22 1 25 201 65 0 1 0 2 38 2 7 80 8 .266 .342 .525 .867
2006 122 479 419 40 101 21 1 19 181 67 0 2 0 2 51 1 7 116 6 .241 .332 .432 .764
2007 141 594 506 86 132 27 2 43 292 108 1 1 0 7 71 6 10 142 28 .261 .359 .577 .936
2008 142 589 510 63 141 21 0 26 240 80 1 1 0 1 73 5 5 118 21 .276 .372 .471 .842
2009 142 611 536 73 132 27 0 39 276 107 3 0 0 4 67 4 4 114 23 .246 .332 .515 .847
2010 141 598 540 58 129 26 1 28 241 93 1 0 0 6 45 1 7 147 10 .239 .303 .446 .749
2011 102 402 362 26 83 15 1 11 133 48 0 1 0 8 28 0 4 89 10 .229 .286 .367 .653
通算:23年 2108 7816 6895 859 1781 341 13 402 3354 1185 13 16 5 55 772 36 89 1660 220 .258 .338 .486 .824
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 記録

初記録
節目の記録
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:6回 (1996年と2000年にいずれも監督推薦での出場、2007年にファン投票で出場、2008年と2010年に選手間投票の指名打者部門で出場、2011年にファン投票の一塁手部門で出場)
  • 年齢別最多本塁打:39歳で43本塁打、41歳で39本塁打
  • シーズン100打点到達の最年長記録(41歳)
  • オールスターゲーム(2010年度)で40代での最多2本塁打
  • 代打満塁本塁打:2010年5月14日、対広島東洋カープ2回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、6回表にエリック・スタルツから

[編集] 背番号

  • 22 (1987年 - 2002年)
  • 5 (2003年 - 2004年)
  • 7 (2005年 - )

[編集] 脚注

  1. ^ a b cガンバレ日本プロ野球!?』(J SPORTS)2009 - 2010シーズンに出演した際に発言。そのときのダイジェスト動画
  2. ^ 山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、127-132頁
  3. ^ 山崎、心優しきジャイアン ホームラン基金&被災地支援に力…ゴールデンスピリット賞 スポーツ報知 2011年11月15日閲覧
  4. ^ 山崎、涙の退団発表 コーチ打診断り現役続行希望”. 中日スポーツ (2011年10月10日). 2011年12月8日閲覧。
  5. ^ 山崎、中日と3000万円+出来高で契約”. デイリースポーツ (2011年12月8日). 2011年12月8日閲覧。
  6. ^ 『ガンバレ日本プロ野球!?』2011 - 2012シーズン・第2回
  7. ^ 出典は、ネットでは#外部リンクの「後援会」くらいしか信頼性を否定しきれないものが見当たらず。
  8. ^ 「楽天・山崎武に制裁金=プロ野球」スポーツナビ、2009年5月15日

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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