デーブ・ロバーツ (1933年生の内野手)

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デーブ・ロバーツ
Dave Roberts
基本情報
国籍 パナマの旗 パナマ
出身地 パナマ市
生年月日 (1933-06-30) 1933年6月30日
没年月日 (2021-10-02) 2021年10月2日(88歳没)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
183 lb =約83 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1952年
初出場 MLB / 1962年9月5日
NPB / 1967年4月8日
最終出場 MLB / 1966年5月11日
NPB / 1973年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

デビッド・レオナルド・ロバーツDavid Leonard Roberts, 1933年6月30日 - 2021年10月2日[1]は、パナマ共和国パナマ市出身のプロ野球選手内野手)。

経歴[編集]

1952年にプロ入り。1962年にAAAのオクラホマシティ89ersで打率.322、96打点の好成績を挙げて、ヒューストン・コルト45'sに昇格しメジャー初出場を果たす。1964年は一塁手や代打で61試合に出場するが、打率.184、1本塁打と成績を残せず、1965年はメジャー昇格はならなかった。1966年にピッツバーグ・パイレーツに移籍するも、主に代打で14試合の出場で打率.125に終わった。

1967年NPBサンケイアトムズへ入団。シーズン開始前、同僚の豊田泰光とのバット談義でこれまで使っていた「重く長いバット」を「軽く短い日本製のバット」に変えてみたところオープン戦で結果を残すようになる[2]。NPBでの初本塁打は4月22日、後楽園球場での対読売ジャイアンツ1回戦で記録している。同年は開幕から打の主軸として起用され、当時の同僚であったルー・ジャクソンとともに弱小だったアトムズ打線を支え、王貞治に次ぐリーグ2位の89打点を記録した。

1969年は8月半ばまで打撃3部門でトップに立ち三冠王も期待されていたが、8月20日の巨人戦でベースカバーに入ろうとした投手と塁上で衝突し負傷、復帰に3週間を要した。この影響もあってタイトルは一つも取れなかったが、打率.318、37本塁打(いずれも王貞治に次ぐ2位)、95打点(長嶋茂雄、王貞治に次ぐ3位)の好成績を記録。同年9月18日の阪神戦では1試合3本塁打を放ち、外国人選手としてはNPB最速の通算100号本塁打を記録している[3]

1960年代の助っ人外国人選手の中での成績はトップクラスである。特に長打力はリーグ全体でもトップクラスで、セントラル・リーグの本塁打王争いでは独擅場であった王貞治の牙城を度々脅かすも、タイトル奪取は叶わなかった。アトムズには計6年半在籍したが、ヤクルト(前身の国鉄、サンケイも含む)に入団した外国人の在籍期間としては、アレックス・ラミレス2007年に並ぶまで最長。なお、同球団での本塁打数「181」もラミレスに破られるまでは外国人記録であった。

1973年6月にヤクルトがジョー・ペピトーンを獲得したことに伴い、ロバーツはコーチ就任要請を受けるが給料の低さゆえにこれを拒絶する[4]。これに目を付けた近鉄バファローズの誘いを受けて移籍[5]。しかし、近鉄ではわずか2本塁打しか打てず、同年オフに引退・帰国。

引退後は、マイナーリーグのチームで打撃コーチを歴任。その後、カリフォルニア州ノースリッジ英語版でゴルフ用品販売業を営んだ[6]

人物[編集]

日本文化に積極的に溶け込もうと努力し、NPB在籍中は大きなトラブルも起こさずチームメイト・首脳陣からの信頼も厚く「日本人以上の日本人」と言われていた。シーズンオフには帰国せずに上智大学の聴講生として英文学数学の授業を受講していた。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1962 HOU 16 63 53 3 13 3 0 1 19 10 0 0 0 1 8 1 0 8 0 .245 .339 .358 .698
1964 61 143 125 9 23 4 1 1 32 7 0 1 2 1 14 1 1 28 2 .184 .270 .256 .526
1966 PIT 14 16 16 3 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 7 1 .125 .125 .188 .313
1967 サンケイ
アトムズ
ヤクルト
126 527 459 72 124 26 2 28 238 89 2 2 1 7 55 2 5 67 4 .270 .350 .519 .868
1968 128 537 456 82 135 12 2 40 271 94 4 2 4 7 68 14 2 77 11 .296 .385 .594 .979
1969 116 487 424 72 135 18 0 37 264 95 5 1 0 4 49 5 9 48 6 .318 .397 .623 1.020
1970 124 474 420 43 100 22 0 19 179 52 1 2 1 2 44 8 7 71 9 .238 .319 .426 .743
1971 128 518 452 63 121 20 1 33 242 76 8 2 2 6 49 12 9 65 6 .268 .347 .535 .882
1972 120 455 383 55 106 21 1 22 195 63 2 4 0 3 63 16 6 64 11 .277 .385 .509 .894
1973 36 132 115 13 29 5 2 2 44 16 0 1 0 0 16 1 1 19 1 .252 .348 .383 .731
近鉄 36 75 65 3 14 0 0 2 20 7 0 0 0 0 10 0 0 10 0 .215 .320 .308 .628
'73計 72 207 180 16 43 5 2 4 64 23 0 1 0 0 26 1 1 29 1 .239 .338 .356 .694
MLB:3年 91 222 194 15 38 8 1 2 54 17 0 1 2 2 22 2 1 43 3 .196 .279 .278 .557
NPB:7年 814 3205 2774 403 764 124 8 183 1453 492 22 14 8 29 354 58 39 421 48 .275 .362 .524 .886
  • サンケイ(サンケイアトムズ)は、1969年にアトムズに、1970年にヤクルト(ヤクルトアトムズ)に球団名を変更
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 100本塁打:1969年9月18日、対阪神タイガース23回戦(阪神甲子園球場)、3回表に若生智男から右越ソロ ※史上53人目(外国人選手3人目)
  • 150本塁打:1971年7月18日、対中日ドラゴンズ13回戦(明治神宮野球場)、9回裏に川内八洲男からソロ ※史上29人目(外国人選手史上初)
NPBその他の記録
  • 同一シーズン2球団で本塁打:1973年 ※史上2人目
  • オールスターゲーム出場:4回 (1968年、1969年、1971年、1972年)

背番号[編集]

  • 24 (1962年、1964年)
  • 45 (1965年)
  • 4 (1967年)
  • 5 (1968年 - 1973年途中)
  • 44 (1973年途中 - 同年終了)

脚注[編集]

  1. ^ https://www.mlb.com/player/dave-roberts-121277
  2. ^ 【3月24日】1967年(昭42) 日本製バットで本領発揮 苦労人ロバーツ、来日初アーチ - スポーツニッポン、2009年3月配信
  3. ^ ベースボール・マガジン社『東京ヤクルトスワローズ40年史』43ページ
  4. ^ 二刀流だけではない。ショートスターターの元祖も三原脩監督だった/週べ回顧1973年編”. 週刊ベースボールONLINE (2021年10月28日). 2023年1月11日閲覧。
  5. ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』100頁
  6. ^ 『プロ野球助っ人三国志』356頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]