村山実

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村山 実
px
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県尼崎市
生年月日 1936年12月10日
没年月日 1998年8月22日(満61歳没)
身長
体重
175 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1959年
初出場 1959年4月14日
最終出場 1972年10月7日
1973年3月21日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 阪神タイガース (1970 - 1972, 1988 - 1989)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1993年
選出方法 競技者表彰

村山 実(むらやま みのる、1936年12月10日 - 1998年8月22日)は、日本プロ野球選手投手)・監督野球解説者兵庫県神戸市北区生まれ、尼崎市出身。1963年の一時期「村山 昌史(むらやま まさし)」に改名。

闘志むき出しで全身を使った「ザトペック投法」で知られ[1]、2代目「ミスタータイガース」と呼ばれる。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

住友工業高校(後の尼崎市立尼崎産業高等学校[2])から大学野球を目指し、立教大学のセレクションを受けるが、身長が低いことを理由に落とされる。結局、1955年関西大学二部商学部商学科に進学。後に阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブス日本ハムファイターズ監督となる上田利治とバッテリーを組んだ。他の大学同期に難波昭二郎がいる。関西六大学リーグでは4回優勝。リーグ通算42試合に登板し20勝10敗、防御率0.91、222奪三振。1956年、2年生の時には全日本大学野球選手権大会に出場、決勝で江崎照雄黒木基康らのいた日大を降し、全試合完投で優勝に貢献する。この優勝は西日本の大学としては初の快挙であった。だが、翌年の大会では肝炎を発症してマウンドに立つことができなかった上、チームが村山をセレクションで落とした立大に敗れた。立大に対する雪辱の思いは、後に立大出身のスター選手で1学年上の長嶋茂雄への闘志むき出しのピッチングとなって現われることになる。

1958年阪神電鉄に入社し、出向の形で大阪タイガース(以下、阪神)[3] に入団した。入団を担当したスカウトは、佐川直行[4]読売ジャイアンツ(以下、巨人)からは阪神の4倍の契約金(2000万円)を提示された[1]。しかし、大学時代に肩を故障していたこともあり、いつ壊れるかわからない肩を不安に思ったままマウンドでの全力投球ができないと考えていた村山は、契約条件に電鉄からの出向社員にする辞令をつけた阪神を選ぶこととなった[1][5]

ちなみに、首席入学の上田と違って大学での成績は芳しくなかったようである。卒業試験の時、問題がちんぷんかんぷんで答案用紙には何も書こうとせず、だまって腕組みをしているだけだった。

既に阪神と契約を済ませており、教授からは名前を書くだけでいいからそれで卒業にしてやる、といわれて名前だけ書いてなんとか1959年3月、関西大学二部商学部を卒業することができたという。

プロ時代[編集]

プロ初登板は1959年3月2日阪神甲子園球場での巨人戦(オープン戦)。初代ミスタータイガース・藤村富美男の引退試合の日でもあった。当初は前日の予定も雨天中止のため月曜日の試合となったにもかかわらず、3万人の観衆を集め行われた。このとき村山は2回を投げ打者7人と対し、被安打1、無失点に抑えた。

公式戦初登板は同年4月14日国鉄スワローズ戦。初先発でもあった。ただ、この日は火曜日ながらデーゲームであり、観客は34人しかいなかったというが、公式記録では3千人。ちなみに、国鉄の先発は金田正一。結果は村山が6回までノーヒットに抑える好投で、2安打完封のデビューであった。この年18勝10敗、防御率1.19の活躍で、最優秀防御率のタイトルを獲得、新人ながら沢村賞も受賞した。しかし、新人王のタイトルは新人新記録となる31本塁打を放ち、新人ながら本塁打王のタイトルを獲得した桑田武に譲った。新人で沢村賞を受賞しながら新人王に選ばれなかった投手は現在も村山ひとりだけである。

新人シーズンの1959年6月25日天覧試合では小山正明をリリーフし、巨人の長嶋茂雄に左翼ポール際へのサヨナラ本塁打を打たれた。微妙な判定であったため、村山は生涯「あれはファウルだった」と言っている (村山本人、捕手山本、打者長島が司会徳光和夫と伴に同席した参考動画)。以来、村山vs長嶋のライバル関係ができあがった[6][7]。村山は1500奪三振(1966年6月8日)、2000奪三振(1969年8月1日)をいずれも長嶋から狙って奪っている。村山対長嶋の対戦成績は302打数85安打、打率.281、21本塁打、39三振であった。長嶋へのこだわりは私生活にも現れ、初めて購入した自宅の電話番号が「3279」、つまり「3(長嶋)に泣く」と読める語呂合わせになっており、強く変更を望んだエピソードがある。当時は電話を引くだけでも大変だった時代のため、しばらくはやむなくこの電話番号を使っていた。長嶋とは現役時代は口も利かなかったが、引退後意気投合し、お互いに「チョーさん」、「ムラさん」と呼び合う仲になった。

現役時代、キャッチボール中に隣から飛んできたボールを反射的に右手で払いのけてしまい、右手首を傷める。この時に手首に負担がかからないフォークボールの投げ方を新たに開発したと述懐している。三宅秀史は同じようなケースで目を負傷し、連続試合出場が途切れている。

1962年1964年のリーグ優勝に貢献。1962年にはMVPを獲得した。しかし、日本シリーズではそれぞれ東映フライヤーズ南海ホークスに敗れ、日本一の栄冠には届かなかった。村山は1962年第2戦で8回一死まで一人の走者を出さずあわや完全試合の快投[8]、シリーズタイ記録となる6試合登板など大車輪の活躍をしたが打線の援護に恵まれなかった。5連敗(1962年第6戦から1964年第7戦)、シリーズ3敗(1964年)という不名誉なシリーズ記録(いずれもタイ記録あり)も持っている。

また、日米野球でも活躍。1962年11月17日デトロイト・タイガース戦(後楽園球場)で8回2死までノーヒット・ノーランに抑える快投を披露。終盤に2安打を喫し、快挙は逃したが、無四球・9奪三振の完封勝利を収めた。日米野球で日本人投手が完封勝利を収めたのは史上初であった。この試合後、デトロイト・タイガースの監督が村山と握手し、興奮気味に「来年はうちに来ないか? 君と契約したい」とまくし立てたが、英語が分からない村山は「サンキュー、サー」としか答えられず、後から何と言われたか通訳に教えられ、苦笑したという(文春ビジュアル文庫「魔球伝説」)。

1967年頃より右腕の血行障害に悩まされ、エースの座を江夏豊に譲る。1969年は兼任投手コーチ。1970年選手兼任監督に就任。同年200勝達成。また、この年記録したシーズン防御率0.98は規定投球回数以上での戦後唯一の0点台記録

1972年シーズン限りで現役引退、監督退任(この年は4月21日から金田正泰ヘッドコーチに監督を委ねた)。1973年3月の引退試合(巨人とのオープン戦)では、王貞治高田繁らをフォークボールで三振に切って取る(長嶋は発熱のため大阪入りせず)。村山登板の際には江夏の音頭で投手陣が作った騎馬に乗ってラッキーゾーン(当時ブルペンはラッキーゾーンにあった)から登場、満場の拍手に迎えられた。捕手の田淵幸一に「今日は涙で見えないから全部フォークでいく」と言い、その通り実行した。「ムラさんまだまだイケルよ!今日のフォークは最高だった」と告げるとまた涙でむせ返った。この試合では女優の浪花千栄子があいさつし、「村山はん、ほんまにあんた、ようおきばりやしたなぁ。おおきに、おおきに」とねぎらいの言葉を贈った。

背番号11は阪神の永久欠番となった。実は村山の入団まで阪神の背番号11は着用した選手が故障を含め、何らかの形で不幸が襲っていたために「不吉な番号」と言われていた(詳細はこちらを参照)。このため、自身も阪神で背番号11を背負ったことがあり、かつ関西大学の先輩でもあった御園生崇男は「自分がつけていた背番号15を譲るから、絶対に11はつけるな」と説得したが、村山は「自分は昭和11年生まれなので、あくまでも11にこだわりたいんです」と頑としてはねつけている。そうした経緯もあってか、村山自身は永久欠番の栄誉を終生誇りにしていた。サインを求められ応じた際は必ず「阪神タイガース永久欠番」と添えていた。阪神・淡路大震災で被災した時、世話になった人たちに腕時計を贈ったが、その時計の裏にも「阪神タイガース11 村山実」と刻まれていたという。本人は「あんなもの」と言っていたが、贈られた人はいたく感激して大切にしているという[要出典]

通算222勝は大卒の投手としてはチームの大先輩・若林忠志以降、最多勝記録である(阪神の投手勝利数の記録でも若林に次ぐ2位)。通算防御率2.09はセ・リーグ記録でもある。

引退後[編集]

1973年から1987年日本テレビ(系列局・よみうりテレビ広島テレビ(後者は1979年頃から)も兼任)の野球解説者となる。1978年7月24日金田正一により発足した日本プロ野球名球会へ入会。大卒選手で200勝以上した名球会会員は村山(通算222勝)だけである(明治・大正生まれのために名球会資格がない大卒200勝投手は3人[9]いる)。1988年から1989年に再び阪神監督になり、自身の永久欠番の11をつける。

大野久和田豊中野佐資の若手選手3人を「少年隊」と命名して売り出し、話題を作るが成績は6位・5位と低迷した。この3人を相手にキャンプで打撃投手を自ら買って出たが、この無茶がたたって股関節を痛め、人工関節手術を受けることになった。

在任中、ドラフト会議で立命館大学古田敦也捕手(後のヤクルトスワローズ捕手)の獲得を球団に進言したが、眼鏡をかけているという理由で拒否されたことを、のちにテレビ番組で話している。また、主力選手であった真弓明信は故郷の福岡ダイエーホークスへのトレードが決まりかけていたが、自身の首を賭けて全力で阻止した。

1989年6月25日に甲子園で行われた阪神対巨人戦で、岡田彰布ビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放って阪神が勝つが、天覧試合からちょうど30年目の日で、同じ左翼ポール際への一発でスコアも5-4と裏返しとなり、しかもこの時の巨人監督が天覧試合完投勝利した藤田元司だったことから、岡田が村山監督の仇討ちを果たした形となった。試合後「今日は岡田に尽きるが、若いの(八木亀山、和田)がよくつないだ。天覧試合と同じ日? そりぁうれしい、気分が全然違うよ。」とコメントした。1989年オフに退任。

1990年からは朝日放送の野球解説者となる。1993年野球殿堂入り。現役時代から実業家の資質に長けており、村山自身、芦屋市のマンションを購入して自分自身の会社の本社にしたというエピソードは有名である。その自宅マンションは、阪神・淡路大震災で被災し、しばらく自家用車で寝泊りをする生活をしていた。1998年8月22日、直腸ガンのため死去。61歳没。葬儀の際に村山の棺を乗せた霊柩車は、参列した大勢のファンの「六甲おろし」の大合唱に送られて斎場を後にした。

2004年8月に出身校の尼崎産業高校にピッチングフォームの銅像(モニュメント)が建てられた。このモニュメントは卒業生らが「後輩の励みになるように」と寄付金約1000万円を募って、校門近くに建立された。高さは台座も含めて2.65m。像はほぼ等身大に近い造型。1959年の後楽園球場で行われた天覧試合で巨人の長嶋茂雄選手相手に投げている瞬間がモチーフになっている。尼崎産業高校は翌2005年に尼崎市立尼崎東高等学校との統合が決まり、2011年春に尼崎市立尼崎双星高等学校として新発足し、学校は移転した。移転後も銅像は敷地に残され、県は県立病院(尼崎総合医療センター(仮称)、2015年5月開院予定)を学校の跡地に建設することを決定、処遇が問題となったが、2012年になって病院完成後に敷地内に銅像を設置することが決定した[10]

プレースタイル[編集]

  • 闘志むき出しで全身を使ったピッチングは「人間機関車」と呼ばれた陸上競技選手のエミール・ザトペックに例えられ、村山のピッチングは「ザトペック投法」と呼ばれた。勝負球はフォークボールで、多い時には1試合で30~40球は投げたと言われており、オーバースロースリークォーターサイドスローで投げ分けられるフォークは長年敵チーム打者を悩ませた。村山は小柄であったが、手は大きく手首から中指の先端まで約22センチあった。一方でフォークを多用する投手は概して多いと言われる暴投が3000イニング以上投げたにもかかわらず、わずか16個しかなく、シーズンで見ても1961年に4個記録したのを除けば全て2個以下。1959年には295回1/3、1965年には307回2/3を投げて暴投0だった。
  • そのフォークについて江夏は「最盛期だと、フッと浮いて止まったような感じで、そこからストーンと落ちる。それが2、3年経ってくると浮く感じが無くなったんで、シュート回転とスライダー回転のフォークを投げ分けてきた」と岡田彰布との対談で語っている[11]
  • ほぼ同時期に同チームで活躍した小山正明は「10-0」でも「10-9」でも勝ちは勝ちというドライな性格だったのに対し、村山の場合は「10-0」で9回2死ランナー無しでも、全力投球するスタイルを貫いた。大量点でリードしていても鬼の形相で投げ続ける村山に、小山は「適当に力抜かないとパンクしてしまうぞ」と声をかけた[12]
    また、小山は、自身が解説をつとめていたゲームで、阪神の井川慶が味方の打線によって大量リードの援護を受けた直後に連打を浴びて失点した場面で、実況のアナウンサーの「どんな投手でも大量リードのときに手を抜いてしまうようなことはあるんですか?」という問いに「それはあります。一人を除いて」と話し、「誰ですか」と聞かれた小山はただ一言「村山」と答えたことがある。
  • 吉田義男によると、時折捕手の山本哲也のサインとは逆の投球をしたという。サインを見て打球の方向を予測していた吉田が「なんでや」と聞くと「打者が山を張っているのがわかったので」と村山は答えた[13]
  • プロとしての意識が非常に高く、「勝てば官軍。そのためには少々卑怯なことをしたっていい」とインタビューで答えたこともある。しかし実際には卑怯な真似は大嫌いで、終生のライバルであった長嶋茂雄は「彼(村山)は一球たりともアンフェアな球は投げて来なかった」と回想している。
  • 杉浦忠近鉄バファローズの投手コーチ時代、太田幸司が「村山さんを見習ってスピードをつけたい」とフォーム改造に取り組もうとすると「村山のフォームは上半身の使い方が強引で、ある意味邪道、それでも見事に剛球を投げ分けた、形だけ真似してもぶっ壊れるだけだ」として中止させている[14]

1962年度セ・リーグ最優秀選手をめぐって[編集]

村山は1962年度セ・リーグ最優秀選手に記者投票で選出された時、同僚の小山正明に悪いと思い、セ・リーグ連盟に小山に対して何か表彰して報いをさせてあげたいと直訴した。結果は小山正明には「セ・リーグ特別功労賞」が授与されることになった。

この特別功労賞について小山は、約10年後の村山引退時に刊行された書籍のインタビューで以下のように答えている。

あの年、村山は25勝14敗、防御率1.20という成績で、こっちはそれを上回る27勝11敗、防御率1.66を挙げた。しかし、シーズンオフに最優秀選手に選ばれたのは村山の方やった。これは記者投票やから仕方ないことやけど、腹が立ったのは、僕に「特別功労賞」てな訳のわからんものを連盟がくれたことや。奥井さん(成一=当時球団総務課長)からそれを聞かされたとき、もう頭に来てなあ。「毎シーズンこんな賞があったんでっか?毎年あるんであれば喜んでいただきますよ。でも今年だけでっしゃろ?それなら辞退しますわ!!」。そう言うたら奥井さん、困ってしもて…。完全に取って付けたような賞やったからね。頑として受け取らん‐という気持ちやった。最終的には「村山のMVPにミソを付けてしまうのも大人げない」と考え直し、受けることにしたんやが…。

小山正明、村山実『背番号11への訣別』恒文社、1973年

記録上のトピック[編集]

1959年5月21日の巨人戦で、相手をノーヒットに抑え完投しながら味方の失策などで失点を許す“ノーヒットありラン”を記録している。試合は3-2で勝ち、完投して勝利投手となった[15]

1963年8月11日の巨人戦で、7回にリリーフに登板したがカウント2-2から自信をもって投げた球を球審(国友正一)に「ボール」と判定され、「どこ見てるんや! わしは一球一球、命かけて投げてるんや」と涙を浮かべて激しく抗議し、暴言を吐いたとして退場処分になった。このとき村山は最初の打者(池沢義行)との対戦中であり、「1人の打者との対戦が終わるまで投手は交代できない」という野球規則の例外記録となった。なお、村山は前日の同一カードでは7回までノーヒットというピッチングをしており、それを破られたのはこの日対戦していたのと同じ池沢だった。

影響[編集]

野球漫画「巨人の星」に登場する花形満は、村山実がモデルである[16]。「巨人の星」には村山もキャラクターとして登場している。

関西大学の後輩でもある山口高志阪急ブレーブス)には「村山二世」の異名が付けられた [2]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1959 大阪
阪神
54 26 19 7 2 18 10 -- -- .643 1079 295.1 165 15 56 2 5 294 0 1 45 39 1.19 0.75
1960 36 18 7 1 0 8 15 -- -- .348 665 167.2 116 12 48 7 3 153 2 0 62 47 2.52 0.98
1961 48 31 18 3 1 24 13 -- -- .649 1148 293.0 238 16 62 9 7 221 4 1 81 74 2.27 1.02
1962 57 38 23 6 7 25 14 -- -- .641 1386 366.1 261 17 55 8 5 265 1 0 62 49 1.20 0.86
1963 28 16 10 2 0 11 10 -- -- .524 640 158.1 126 16 48 1 1 121 1 1 59 49 2.79 1.10
1964 46 33 17 5 2 22 18 -- -- .550 1043 255.0 227 27 80 7 5 159 2 0 102 94 3.32 1.20
1965 39 37 26 11 4 25 13 -- -- .658 1165 307.2 221 17 52 5 4 205 0 0 72 67 1.96 0.89
1966 38 32 24 8 9 24 9 -- -- .727 1102 290.1 194 16 52 3 4 207 1 0 58 50 1.55 0.85
1967 30 25 9 3 2 13 9 -- -- .591 709 180.1 141 20 42 3 1 126 2 0 62 56 2.79 1.01
1968 32 24 14 1 0 15 8 -- -- .652 784 198.0 169 13 39 3 7 152 2 0 66 60 2.73 1.05
1969 35 26 11 1 2 12 14 -- -- .462 842 214.2 180 19 38 2 7 160 0 0 58 48 2.01 1.02
1970 25 19 7 5 1 14 3 -- -- .824 573 156.0 85 7 34 6 3 118 0 0 18 17 0.98 0.76
1971 19 10 4 2 1 7 5 -- -- .583 325 83.0 70 6 15 1 3 45 0 0 26 25 2.71 1.02
1972 22 13 3 0 1 4 6 -- -- .400 340 84.2 78 8 18 3 2 45 1 0 36 34 3.61 1.13
通算:14年 509 348 192 55 32 222 147 -- -- .602 11801 3050.1 2271 209 639 60 57 2271 16 3 807 709 2.09 0.95
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 大阪(大阪タイガース)は、1961年に阪神(阪神タイガース)に球団名を変更

年度別監督成績[編集]

年度 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 本塁打 打率 防御率 年齢 球団
1970年 2位 130 77 49 4 .611 2 110 .245 2.36 34歳 阪神
1971年 5位 130 57 64 9 .471 12.5 101 .220 2.76 35歳
1972年 2位 130 71 56 3 .559 3.5 125 .239 3.00 36歳
1988年 6位 130 51 77 2 .398 29.5 82 .248 3.82 52歳
1989年 5位 130 54 75 1 .419 30.5 135 .257 4.15 53歳
通算:5年 528 241 271 16 .471  

※1 1970年から1996年までは130試合制

※2 1972年、選手(投手)専念のため4月21日より指揮権返上(8試合2勝6敗 勝率.250)。監督代行は金田正泰

※3 通算成績は、実際に指揮した試合

タイトル[編集]

  • 最多勝:2回 (1965年、1966年)
  • 最優秀防御率:3回 (1959年、1962年、1970年)
  • 最多奪三振(当時連盟表彰なし):2回 (1965年、1966年) ※セントラル・リーグでは、1991年より表彰
  • 最高勝率:1回 (1970年)

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000投球回数:1962年8月11日、対読売ジャイアンツ15回戦(後楽園球場) ※史上95人目
  • 1000奪三振:1963年8月28日、対中日ドラゴンズ18回戦(阪神甲子園球場)、6回表にジム・マーシャルから ※史上26人目
  • 100勝:1964年6月13日、対国鉄スワローズ12回戦(阪神甲子園球場)、12回表1死に6番手で救援登板・完了、2/3回無失点
  • 1500投球回数:1964年8月16日、対読売ジャイアンツ24回戦(後楽園球場) ※史上54人目
  • 1500奪三振:1966年6月8日、対読売ジャイアンツ7回戦(阪神甲子園球場)、6回表に長嶋茂雄から ※史上15人目
  • 2000投球回数:1966年7月5日、対読売ジャイアンツ13回戦(阪神甲子園球場) ※史上31人目
  • 150勝:1966年7月17日、対大洋ホエールズ17回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点完投勝利 ※史上21人目
  • 2500投球回数:1968年10月6日、対大洋ホエールズ27回戦(阪神甲子園球場) ※史上20人目
  • 2000奪三振:1969年8月1日、対読売ジャイアンツ14回戦(阪神甲子園球場)、1回表に長嶋茂雄から ※史上7人目
  • 200勝:1970年7月7日、対大洋ホエールズ11回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点(自責点0)完投勝利 ※史上14人目
  • 3000投球回数:1972年5月18日、対広島東洋カープ7回戦(阪神甲子園球場) ※史上13人目
  • 500試合登板:1972年6月24日、対大洋ホエールズ12回戦(川崎球場)、先発登板で4回1/3を5失点 ※史上27人目
その他の記録
  • シーズン最優秀防御率 0.98 (1970年、セ・リーグ記録。1950年の2リーグ制以後の最高記録でもある[17]
  • オールスターゲーム出場:8回(1959年 - 1961年、1964年 - 1967年、1969年)

背番号[編集]

  • 11 (1959年 - 1972年、1988年 - 1989年)

登録名[編集]

  • 村山 実 (むらやま みのる、1959年 - 1963年5月21日、1964年 - )
  • 村山 昌史 (むらやま まさし、1963年5月22日 - 1963年閉幕)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

日本テレビ・よみうりテレビ・広島テレビ時代
朝日放送時代

著書[編集]

  • 『背番号11への訣別』、 村山 実、 恒文社、 昭和48年発行

脚注[編集]

  1. ^ a b c 【11月11日】1958年(昭33) 昭和11年生まれの背番号11、村山実が阪神と契約”. スポーツニッポン (2007年11月11日). 2013年8月31日閲覧。
  2. ^ 2011年度に尼崎市立尼崎東高等学校との統合及び移転により尼崎市立尼崎双星高等学校となった
  3. ^ 1961年より阪神タイガース。阪神は大阪タイガース当時からの略称。
  4. ^ “猛虎人国記(15)~北海道~ 王の本塁打記録止めた平山”. スポーツニッポン. (2012年3月27日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002919110.html 2013年3月31日閲覧。 
  5. ^ 村山実『炎のエース ザトペック投法の栄光』ベースボール・マガジン社、1993年。なお後年江夏豊も入団時にこの契約を提示されたが断り、オプションとして示されていた「1勝ごとのボーナス」を選択している(波多野勝・江夏豊『左腕の誇り』草思社、2001年)。
  6. ^ 巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.32~35
  7. ^ その後、2011年5月日本テレビ放送網系で放送された「Going! Sports&News」の特集で、映像を鮮明化する技術を使った検証が行われ、長嶋の打球は左翼ポールの右側に入っていたことが解析から判明されている
  8. ^ 1962年日本シリーズ第2戦における7回1/3のパーフェクトピッチングは長らく日本シリーズ記録であったが、2007年日本シリーズ第5戦の山井大介(中日)の8回で更新された。
  9. ^ 若林忠志の237勝、杉下茂の215勝、藤本英雄の200勝。
  10. ^ ミスタータイガース村山さん銅像 安住の地、ようやく決まる 産経新聞2012年7月17日
  11. ^ 『なぜ阪神は勝てないのか? ~タイガース再建への提言』(江夏と岡田の共著)角川ONEテーマ21 (角川書店、2009年)p139-140
  12. ^ 『デイリースポーツ電子版』小山正明「猛虎豪傑列伝 村山実編 その一 『不仲説』の真相は…
  13. ^ 吉田義男『牛若丸の履歴書』日経ビジネス人文庫、2009年、P150
  14. ^ ベースボールマガジン2011年11月号56ページ
  15. ^ 名球会の公式HPの村山の記録欄にノーヒットノーラン達成者と記載されているが、これは誤りである(NPBの公式サイトのノーヒットノーラン達成者の一覧には村山の記載は無い [1] l)。
  16. ^ 川崎のぼる日刊スポーツ連載コラム・伝説『スポ根アニメの原点 巨人の星』(2009年4月21日5月2日)の中で、「村山実は『巨人の星』のキャラクターの中で唯一存在したモデル」と語っている。
  17. ^ 1リーグ時代も含めると1943年の藤本英雄の0.73

関連項目[編集]

外部リンク[編集]