高橋一三

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高橋 一三
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県府中市
生年月日 1946年6月9日(68歳)
身長
体重
178 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1965年
初出場 1965年4月15日
最終出場 1983年10月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1984 - 1989、1995 - 1996、2002 - 2005)
  • 日本ハムファイターズ (1990 - 1994)
  • 山梨学院大学 (2009 - )

高橋 一三(たかはし かずみ、1946年6月9日 - )は、広島県府中市出身の元プロ野球選手投手)。2009年からは、山梨学院大学硬式野球部監督。

経歴[編集]

広島県の私立高校である北川工業高校(現:府中東高校)から1965年読売ジャイアンツに入団。この入団は中国地区担当スカウトの木戸美摸の尽力による。木戸は当初、センバツ優勝投手である下関商業池永正明の獲得を目指していた。しかし、高橋の評判を聞きつけ、池永にはない魅力を感じて面会した。この際、同席した教師が「先にこれを見て下さい」と横綱柏戸手形が押された色紙を持参し、高橋が手を手形に合わせると指がはみ出した。木戸が「こんな大きな手を見たことがない」と驚くと「どうです。ヤツデみたいにでかいでしょう」と教師は答え、木戸はこの瞬間、第一ターゲットを池永から高橋に変えたという[1]。高橋は巨人と同時に近鉄バファローズとも入団交渉を進めたため、二重契約とマスコミに騒ぎ立てられ、北川工業は一年間の対外試合禁止処分を受けた[1]

新人の年には4月15日に早くも一軍公式戦に起用されたが、5月11日の対広島戦で3番・興津達雄、6番・藤井弘に2打席連続アベック本塁打を浴び、即二軍落ち。再び一軍に上げられたのは1年後だった。後に「若い時、毎日地獄を見たおかげで、現役で19年も飯を食えました」と話している[2]

高橋が一軍に復帰した年に入団した堀内恒夫と共に、V9時代の巨人投手陣の主力として活躍。エースである堀内と遜色ない成績を残していたため、“第二のエース”という意味で『左のエース』という呼び名で呼ばれた。今日、当たり前の野球用語として定着しているこの呼称は高橋から使われるようになったものである[3]

1969年に22勝を挙げて最多勝沢村賞のタイトルを獲得。1973年にも23勝を記録し、2度目の沢村賞を獲得。

1976年張本勲との交換トレードで富田勝と共に日本ハムファイターズに移籍。1978年に腰を痛め、「朝起きて1時間は動けない」程悪化した症状に一度は引退を覚悟するが、監督の大沢啓二の意向により現役を続行。落ちた球速を補うために制球力とスクリューボールを習得し、1981年にはチーム2番目の勝ち星となる14勝を記録、チーム19年ぶりのパ・リーグ優勝に大きく貢献。古巣の巨人と対戦した同年の日本シリーズでは第1戦と第5戦に先発したが、0勝1敗に終わっている。

1983年に現役引退。通算2000奪三振を目標にしていたが、あと3つ届かなかった。

現役時代は、その名前とカウント1ストライク3ボールからでも打者を打ち取るその粘り強さから「ワンスリー」と呼ばれ、また極端な怒り肩であったことから「えもんかけ(ハンガー)」いう渾名でも呼ばれていた。

引退後は巨人・日本ハムの投手コーチを歴任。日本ハムの投手コーチとしては1990年にはBクラスながら、2桁勝利を挙げた投手を5人出す(西崎幸広柴田保光松浦宏明酒井光次郎武田一浩)など評価は高く、翌1991年限りで近藤貞雄が監督を辞任した際には次期監督の有力候補に挙がり[4]、一部では「内定」の報道もされたが、本社サイドが高橋の監督就任に難色示し、同年は土橋正幸が監督に就任、翌年には大沢啓二が就任し、監督への就任はならなかった。1995年からは古巣巨人のコーチ・二軍監督として長く指導者生活を続けた。

アール・エフ・ラジオ日本野球解説者を経て、2002年に巨人の投手コーチに就任(巨人の指導者としては三度目)。2005年、堀内恒夫監督が成績不振により辞任したのを受けて退団。2009年4月から山梨学院大学硬式野球部監督に就任。

プレースタイル[編集]

巨人時代は真上から投げ下ろす速球、落差の大きなカーブと右打者の外角へ逃げるシュートが武器であった。1970年代前半、指に特殊な装置をつけて球速を測定した際に156.46km/hを記録した[5]。これは、スピードガン出現以前に実際の球速が直接測定された貴重なデータでもあった。堀内恒夫は「当時はスピードガンなんて便利な機械はなかったけど、150km/hをオーバーしたのはぼくとカズミさん(高橋)だけだったはずです」と述べている[6]

現役後半の日本ハム時代には極端に球速が落ち、スコアボードでのスピードガンの球速表示が始まった頃、阪急西宮球場で高橋が全力で投げたストレートが、阪急のピッチャーのカーブの球速と同じ表示で、チームメイトだった江夏豊に腹を抱えて笑われたことがあるという[7]

もっとも、ファイターズ時代に腰を痛めていた時期に敗戦処理やワンポイントリリーフでの登板を通じて、球速に頼らず、制球力と緩い変化球で巧みにバッターを打ち取る新しい投球スタイルを確立していた。これについて高橋は後年、「もしジャイアンツの選手のままだったら、結果を出すことだけを求められ続けるため、腰を痛めた時に引退していただろう」と、巨人というチームの体質について触れながら、放出されたことが結果的に自分の野球人生にはプラスになったと語っている。

巨人時代は対阪神戦に非常に強かった。巨人時代の通算110勝のうち34勝を阪神から挙げており、特に1969年は7勝0敗という非常に高い勝率を記録している。

胴上げ投手を9度経験という日本記録を持っている(レギュラーシーズン5度、日本シリーズ4度)。特に1973年は、阪神とのセ・リーグ優勝をかけたシーズン最終戦を完封勝利で飾る劇的な胴上げとなった。ただし、このときは試合終了直後に、阪神が惨敗で優勝を逃したことに激高した観衆がグラウンドに乱入して巨人の選手に暴行する騒ぎとなり、実際の胴上げは宿舎で行われている。

満塁での場面で四球で押し出しによるサヨナラ負けを3度記録している。このうち、1969年と1971年にはヤクルトの大塚徹を押し出しサヨナラ四球を与えている[8][9][10]

家族・人間関係[編集]

妻は元女優の橘和子。妻の姉で同じく女優だった姿美千子の夫である巨人時代の同僚・倉田誠とは、義理の兄弟にあたる。

巨人時代の同僚であった堀内恒夫とは、その当時からの親友同士として知られている。巨人時代には毎日のように一緒に夜遊びに出かけていたが、『悪太郎』のイメージの強い堀内が内外から激しく叩かれていたのに対し、堀内と同じだけ遊んでいたはずの高橋は、自身の優等生的なイメージもあって、事実上何の非難も浴びせられなかったという。

伊原春樹は高校の2年後輩にあたる。

影響[編集]

アニメ版の『巨人の星』において、主人公・星飛雄馬の巨人に入団してからのピッチングフォームは、当時の左のエースだった高橋をモデルとした。当アニメの制作を手がけた読売テレビ・プロデューサー・佐野寿七は「巨人に入団してからの飛雄馬のピッチングフォームは、当時の左のエースだった高橋一三をモデルにしました。多摩川グラウンドで投げてるところをカメラで撮影して、それを参考にアニメしました。当時まだ売り出し中だった新浦壽夫をモデルに、という声もありましたが、結局は高橋一三になりました」と話している[11]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1965 巨人 3 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 31 6.0 8 4 5 0 0 5 0 0 6 6 9.00 2.17
1966 19 10 2 0 0 6 5 -- -- .545 308 74.2 56 7 34 1 2 53 1 0 18 18 2.17 1.21
1967 28 15 2 0 0 6 7 -- -- .462 426 104.1 87 11 31 1 3 89 1 0 45 36 3.11 1.13
1968 48 10 4 0 0 7 3 -- -- .700 520 126.1 107 14 44 4 2 94 0 0 48 35 2.49 1.20
1969 45 27 19 3 2 22 5 -- -- .815 1018 256.0 180 25 83 2 9 221 3 0 67 63 2.21 1.03
1970 35 32 10 5 1 12 10 -- -- .545 890 215.0 167 23 89 3 6 180 2 0 77 71 2.97 1.19
1971 41 27 13 1 0 14 7 -- -- .667 904 226.2 164 28 72 4 6 151 4 1 80 74 2.94 1.04
1972 43 30 11 0 0 12 11 -- -- .522 895 214.1 172 22 113 6 3 170 3 0 81 71 2.98 1.33
1973 45 37 24 7 2 23 13 -- -- .639 1247 306.1 215 32 139 12 9 238 5 0 82 75 2.20 1.16
1974 37 22 2 1 0 2 11 0 -- .154 547 121.1 136 13 51 10 8 75 1 0 74 69 5.12 1.54
1975 39 18 2 1 0 6 6 0 -- .500 519 115.2 124 9 54 8 5 88 3 0 50 46 3.58 1.54
1976 日本ハム 38 25 8 2 0 10 12 3 -- .455 786 188.2 169 20 70 3 18 140 1 0 81 71 3.39 1.27
1977 34 19 7 3 1 6 10 4 -- .375 597 140.1 133 15 39 3 12 108 3 1 73 57 3.66 1.23
1978 13 7 3 0 0 2 2 0 -- .500 195 48.0 36 4 17 0 3 34 0 0 20 20 3.75 1.10
1979 18 8 0 0 0 3 4 0 -- .429 196 43.2 49 9 11 0 3 26 1 1 27 25 5.15 1.37
1980 33 21 6 2 1 9 7 4 -- .563 733 177.1 170 26 49 0 5 112 2 0 78 70 3.55 1.23
1981 26 25 12 1 2 14 6 0 -- .700 826 198.2 185 12 41 0 9 110 1 1 78 65 2.94 1.14
1982 26 19 2 0 1 7 8 0 -- .467 496 113.2 126 23 42 1 3 53 0 0 71 66 5.23 1.48
1983 24 15 1 0 0 6 5 1 -- .545 436 101.0 114 11 23 0 4 50 2 0 51 45 4.01 1.36
通算:19年 595 367 128 26 10 167 132 12 -- .559 11570 2778.0 2398 308 1007 58 110 1997 33 4 1107 983 3.18 1.23
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

  • 最高勝率:1回 (1969年)
  • 最多勝:1回 (1969年)
  • 最多奪三振(当時連盟表彰なし):1回 (1973年) ※セントラル・リーグでは、1991年より表彰

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000奪三振:1973年5月6日、対中日ドラゴンズ6回戦(後楽園球場)、7回表に井上弘昭から ※史上46人目
  • 100勝:1973年9月29日、対大洋ホエールズ24回戦(後楽園球場)、先発登板で6回4失点 ※史上59人目
  • 1500奪三振:1976年9月23日、対近鉄バファローズ後期13回戦(後楽園球場)、8回表に伊勢孝夫から ※史上24人目
  • 500試合登板:1980年7月4日、対ロッテオリオンズ後期1回戦(川崎球場)、9回裏に3番手で救援登板・完了、2回無失点 ※史上43人目
  • 150勝:1981年8月1日、対近鉄バファローズ後期5回戦(札幌市円山球場)、先発登板で7回0/3を4失点 ※史上34人目

背番号[編集]

  • 46 (1965年 - 1966年)
  • 21 (1967年 - 1975年)
  • 18 (1976年 - 1983年)
  • 80 (1984年 - 1989年)
  • 83 (1990年 - 1994年)
  • 86 (1995年 - 1996年)
  • 74 (2002年 - 2005年)

出演番組[編集]

脚注・出典[編集]

  1. ^ a b 木戸美摸『巨人軍の息子たちへ―ジャイアンツ組織論・指導論』 TOKYO FM出版、1998年、153―158頁。
  2. ^ 近藤唯之『勝負師語録』 ぎょうせい、1988年、164―166頁。
  3. ^ 『プロ野球60 years「剛球&魔球」投手の怪物伝説』 笠倉出版社、2009年、41頁。
  4. ^ 【復刻】日本ハム次期監督、土橋正幸氏 日刊スポーツ 2013年8月26日
  5. ^ 玉木正之『プロ野球大辞典』新潮文庫、1990年、301頁。
  6. ^ 新宮正春『私のベストナイン プロ野球超人列伝』 講談社、2000年、26頁。
  7. ^ 江夏豊 岡田彰布『なぜ阪神は勝てないのか? ――タイガース再建への提言』 角川書店、2009年、136頁。
  8. ^ 他に1973年の中日の江藤慎一
  9. ^ 大塚は南海移籍以降と合わせて、通算4度の押し出しサヨナラ四球の日本プロ野球記録を作った
  10. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」624ページ
  11. ^ 日刊スポーツ 2009年4月22日 16面。原作については作画を担当した川崎のぼるが、2009年に日刊スポーツ連載コラム「伝説『スポ根アニメの原点 巨人の星』」の中で、「(花形満のモデルにした)村山実は『巨人の星』のキャラクターの中で唯一存在したモデル」と語っているため、特定のモデルはいないとみられる。

関連項目[編集]